第55話「戯け口」
「狼谷君」
声を張らずとも届くだろう。一m先の背に言葉を投げ掛ければ、此方を振り仰ぐ彼がいた。
「なんであんなことを?」
「事実だから」
「狼谷君じゃないでしょ!」
「なぜ?」
「狼谷君は嘘吐きだから。狼谷君がやったって言ったことは、やってないってことになる」
我ながら暴論であることは分かっている。それでもアリバイとか動機とかを語るより、彼には此方の方が届くような気がした。
あなたの嘘を私は信じている。私は、あなたを疑わない。
矛盾していることなど理解している。けれども私は彼と向き合いたいと思った。
「アンタ本当に馬鹿だよね」
「あはは、ひどいなぁ」
「こういう時は、アリバイとか、動機がどうのとか、刑事らしいことを並べるべきでしょ」
「そっちで良かったの!?」
「陽正は俺のこと何だと思ってるの」
「嘘吐き?」
「アンタの、そういうところが敵を呼ぶんだよ。馬鹿」
〝なに〟私は彼を何だと思っているのだろう。逡巡した答えを小首を傾げなら提示するも、狼谷君が笑ってくれることは無かった。
「冗談よ!」
「この状況で冗談言ってどうするわけ。励ましてるつもり?」
「そうよ! 励ましてるのよ! 下手くそで悪かったわね」
「いや、俺、落ち込んでないけど」
「それも分かってるよ! だから何て声を掛けていいか分かんなかったんだもん!」
「なにそれ」
「私は〝大人〟だから分からないの! 狼谷君のことが分からない。分かりたいけど、何を考えているのか、とか。何を思っているのか、とか。そういう……クシュンッ!」
いいところで嚏が出る。気まずい空気に緘黙していれば、朝の静寂が私達を包んだ。
「アンタって本当に馬鹿だよね。ほら、これ」
自らが身に付けていた茶羽織を私へ差し出す。先程まで在った距離は腕一本ほど、彼の仕草で心の距離も近付いたような気がした。
「でも、そしたら狼谷君が」
「寒いに決まってんでしょ。要らないなら俺が着るけど」
「着る! 着ます! ありがとうございます!」
ひったくった茶羽織に腕を通す。そこには確かに彼の温もりが在った。
人なのだ、と実感する。嘘吐きでも、可愛げがなくとも、彼はやっぱり紛れもない人なのだ、と。狼谷君は人のことを馬鹿にして、それでも寒そうにしている私を助けてくれる優しい青年だ。
「『俺が着るけど』か」
「なに?」
「狼谷君が言ったら、それは嘘になる。ってことは『俺は着ないからアンタが着なよ』ってことでしょ?」
「おめでたい頭」
「なんとでも言うがいいわ。私は嬉しかったから」
「陽正は愛されて育ったんだね」
「どういう意味?」
「親に愛されて育ったから真っ直ぐなんだよ。俺の言うこと全部信じちゃって馬鹿みたい」
「そうだね。愛されて育ったとは思う」
「知ってる。アンタの爺さんに聞いたから。でも陽正を見れば分かるよ。馬鹿正直はアンタの長所だ」
「えーっと……褒められてる? 馬鹿にされてる?」
「好きに取ったらいいんじゃない。愛されてるってのはいいことだと思うよ。だから明日香にも蟹江にも愛されてるんだし」
「猿島警部には嫌われちゃってるけどね」
「あの人は昔から、ああなんだよ」
「でも、さっきのはさすがに……」
「恨んでたのは本当だよ。でも明日香のキャリアを奪ったのは俺だ」
「どういうこと?」




