第44話「戯ればむ」
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先程の犬養さんの言葉を思い出しながら荷解きをしてみるも、一向に進む気配はない。透徹には溜息の質量が増えるばかりで、先ほど食べたバニラアイスの香りが幾許か漂っている気がするだけだった。
窓の外に目をやれば、先ほどの青空が鈍色に変わっている。どうやら二度目の入浴時に絶景は見れなさそうだ、なんて考えていると扉の開錠音が聞こえた。
乱暴な音を立てているあたり、少し雑なところが目立つ犬養さんらしい。私が、そのまま襖に視線を送っていると、扉が開いた後すぐさま襖が開け放たれた。
「陽正、大丈夫か!?」
何がだ、と目を丸くする。暫し瞬きを繰り返していると、息を荒げた犬養さんが安堵したように深い呼気を吐き出していた。彼女の背後からは狼谷君の姿も伺える。オートロックの扉が施錠しないよう支えている様に、何が起きたのか、てんで理解出来なかった。
「あの、なにかあったんですか?」
「さっき突然首を絞められてな」
「えぇ!?」
「そのまま背負い投げしてやったんだが……」
「えぇ!?」
「逃げられてな」
「逃げられちゃったんですか!?」
三重の意味で吃驚だ。声を張っていると、犬養さんに『ボリュームを下げて』と言われた。
「湯上りにアイス食べながらスマホ弄ってたら、明日香の力む声が聞こえてさ。そしたら犯人を背負い投げしてた」
「なにそれ!?」
「でも犯人、受け身とっててすぐ逃げてってさ。明日香も浴衣だから逃したってわけ」
「刑事の名折れだ。それで、もしかしたら陽正も襲われてるんじゃないかと思ってね。慌てて来たんだ」
「そうだったんですか。私は何もないです。犯人は浴衣だったんですか?」
「ああ。なんで分かった?」
「狼谷君が『明日香も』って言ってたので。もしかしたら犯人も浴衣なんじゃないかと。狼谷君が見てたなら体格から……」
「おい、何をしている? ドアを開けっぱなしにするな」
肩が撥ね上がる。姿は見えないものの、扉の死角に猿島警部がいることが分かった。
「明日香が首を絞められたんだよ」
「なに!? 無事なのか!?」
狼谷君を突き飛ばすようにして猿島警部が入室してくる。襖の前に佇む犬養さんと鉢合わせた彼は一瞬動きを止めると安堵したように頭を掻いていた。
「なんだ? 死んでいなくてガッカリしたか?」
「違う。身内で殺されたとなれば大掛かりな捜査になるから面倒だと思っただけだ」
「そうか、そうか。それは心配を掛けて悪かったな」
「犯人の特徴は? 心当たりはないのか?」
「浴衣の男だ。投げ飛ばしたが受け身を取っていたあたり相当な手練れだろう」
「エモノは?」
「恐らく素手だ」
「素手? 受け身を取れるような奴が、そんな杜撰な方法で殺しに……」
「これだから一課のお偉いさんは嫌だね! 素手で首を絞めるなんて殺す気がないんだよ。脅しか、忠告か、突発的な衝動か何かだ。まったく……一課はすぐ〝殺し〟に直結する」
「……心当たりがあるのか?」
「無いから焦って日辻の無事を確認しに来たんだよ! アタシが一番初めってことは危ないのは真空か陽正だろ!?」
「えーっと、ご会談中失礼しまーす。何があったんすか?」
扉の陰から顔だけ出した蟹江君がヘラヘラとした笑みを浮かべている。それに冷静さを取り戻したらしい二人は、一度溜息を吐くと蟹江君に状況を説明していた。




