第40話「悪巫山戯」
「そうじゃない。いや、間違いではないが、アタシにとって陽正は仲間であり、可愛い後輩であり、守らなければいけない市民でもある、ということだ。つまり、お前の尊厳が傷付けられていると言うのなら、アタシは仲間として、上司として、一刑事として、人として、どうにかしてやりたいと思う。だけどアタシの目の届く範囲には限界があるんだ。それは人としてもそうだし、刑事としてもそうだ。この手で守れるものには、どうやっても限界がある。そんな時は自衛して貰うしかない。だから陽正、戦うことを覚えろ」
「たたか、う」
「職場は戦場だ。今迄も、これからも、アタシ達は戦っていかないといけない。〝我慢〟は身を滅ぼすぞ、って言っても、立場というものがあるしな……生きていくのは難しい。でも自分だけ耐えればいいというのは間違いだ。それだけは分かって欲しい」
「はい!」
「いい返事だ。じゃあ早速、温泉に行かないか?」
「もうですか?」
「長いこと車に乗っていて疲れただろ? 身体をほぐしに行こう」
妖艶な笑みが私を誘う。荷物片手に襖を開け廊下に出ると、狼谷君が待っていた。手ぶらだが浴衣を身に付けているあたり、温泉に向かうところなのだろう。
「さすが分かっているな」
「アンタいつもそうじゃん。昔からババア趣味」
「付き合う真空もジジイ趣味だな」
「温泉に来て温泉に入らない方が無粋でしょ。あと、それくらいしかすることないし」
肩を並べて歩む二人の後を付いて行く。仲良さそうに言葉を交わす様に、自分は邪魔なのではないだろうか、と思えてきた。会話の内容から察するに、この旅館には良く訪れているようだし、いつもは二人部屋なのだ。どうにも親子団欒の場を邪魔してしまったようで居心地が悪い。
藍色の暖簾を狼谷君が潜ったのを見届けてから、私達も紅色の暖簾を潜る。なんでもない言葉を交わしながら体を軽く流し、犬養さんの誘いで露天風呂に向かった。
身を突き刺すような寒さを堪えながら湯船に爪先を浸す。思いの外熱かったが、彼女の手前騒ぎ出すわけにもいかない。ちらつく雪に白い息を吐き出しながら、私は緩慢に湯船へ身を沈めていった。
慣れてくると心地良い温度である。ほぅ、と深く吐き出した呼気は、立ち昇る湯気と共に空へ吸い込まれていった。
「前を見てみろ」
「え? ……すごい」
「だろ? 普段見ることの出来ない景色ってのは身に沁みるものだ。温泉も、たまにはいいものだろう?」
「ですね」
双眸に飛び込んできたのは勝景。雪化粧された山肌に降り続く銀花は、掌に乗せると結晶を象っていた。人肌ですぐ溶ける様がまた幻想的で美しい。雪は舞い続けているのに、空が青く澄んでいる。佳景を瞼に焼き付けながら口角を上げると、犬養さんも嬉しそうに頬を緩めていた。
「真空は扱い辛いか?」
「え?」
「あの子は嘘吐きで、人との付き合い方がなっていない。でも悪い子ではないんだ」
「分かります。狼谷君は亡くなった人の為に動ける人ですから」
「二人の間に何があったかは分からない。でも、なんとなく見ていられなくて……老婆心がな。話をする機会も無ければ、人は疎遠になってしまう。真空を信じてくれる人には、離れていって欲しくないと思うんだよ。とんだ親バカで悪いな」
「いえ」
「一家惨殺事件は中々応えたか?」
「はい。まさか、あんな……何でもない理由で人を殺すなんて……それもあんな方法で……」
「アタシは犯人の気持ちが分からないでも無いんだ」
両手で湯を掬い、そこを見つめる犬養さん。眼差しは諦念を孕み、眇眇たる水面に入り混じる沫雪が人間の脆さを表しているかのようだった。