第34話「虚」
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鉛のような空気に脂汗が伝う。額から流れるそれは輪郭をなぞり、首のラインをも伝って背へと向かっていた。横目で蟹江君を仰ぐ余裕もない私は、自らのデスクで指を絡めている猿島警部から目を逸らせない。窒息しそうな緘黙に、血潮が逆流しているかのような錯覚をしていた。
背からは先輩達の突き刺すような視線を感じるし、猿島警部の背後は抜けるような青空で、逃避したい気持ちに駆られていた。蟹江君の表情は確認出来ないが、恐らく同じ思考回路をしていることだろう。いつか来るだろう怒号に耐えうるように私は身を固くしていた。
「どっちの案だ」
「わ、私のです! 蟹江君は関係ありません!」
「だろうな。こんな阿呆なことを考えるのは馬鹿な女くらいだ」
それは二重表現ですよー、なんて、お道化て言える性格だったのなら良かったのだろうか。いや、きっと他の部署に飛ばされてお終いだ。
何も言えずにいれば、猿島警部は苛立ちを表すかのように利き手で机上を打ち続けていた。規則的な旋律が恐怖を増長させていく。私はいつか猿島警部の言葉で喉を塞がれてしまうのでは無いだろうか、と震えていた。
「分かっているか? これは違法捜査だ。それもお前達は往来でコレをやらかした。もしも住民達に目撃されていたなら警察への不信感を煽り、威厳を墜落させた。もしも、そうなっていたら懲戒免職では済まされない。それが分かっていてやったんだろうな」
「も、申し訳ありませんでした!! 証拠がなかったとはいえ身勝手な行動を取るべきではありませんでした!! 本来ならば猿島警部に報告を上げるべきところを……」
「そんな口先だけの謝罪は要らん!!」
「は、はい!」
反射的に返事を繰り出す私に、猿島警部が青筋を立てる。意味もなく腰を折る私の項に、深い溜息が降り注いでいた。
「蟹江、お前も何故報告を上げなかった!? お前らは同期だが歳は五つも上だろう!? それともそんなに別の部署に飛ばされたいのか?」
「そんなわけないじゃないですか!? 自分は猿島警部を尊敬しているんですよ!?」
「そんな甘言に騙されるわけがないだろ! たわけ!!」
「申し訳ございません!」
「謝ってどうにかなる問題じゃないから呼び出されていることが分からんのか!?」
「存じております! ですが、お言葉を返すようで申し訳ないのですが、報告したところで被疑者逮捕には繋がらなかったと思います。お言葉はごもっともですが、日辻の判断を間違っていたとは思いません。被害者の家から犯人の痕跡は上がらず、従来の捜査方法では三井まで辿り着けませんでした。任意で引っ張るにしても限界が……」
「そんなことは分かっている! やり方に問題があったという話をしているんだ! まったく……責任を取るのは誰だと……」
「「申し訳ありませんでした!!」」
「犯人に自供させたことだけは褒めてやる。それと真犯人を導き出した機転は良かった。これからは捜査に活かせ。俺に怒鳴られることのないようにしろ」
二人で頭を上げ、顔を見合わせる。猿島警部は相変わらず鋭い眼光を放ち、顰め面のままだったが、その言葉だけで救われたような気がした。
「蟹江はいい。日辻はまだだ」
「え?」
「『え?』じゃない。お前の従兄弟とやらは、この世のどこに存在するんだ?」
「そ、それは……!」
「うるさい! 蟹江には訊いていない! いいからあっちへ行っていろ!」
「はい」
流石に逆らえない、と判断した蟹江君が申し訳なさそうに手を合わせデスクへ戻って行く。庇おうとしてくれただけで嬉しいよ、という気持ちで眉尻を下げていれば、猿島警部の鋭い眼差しに射殺された。
「お前の親はどちらも兄弟はいない筈だが」
「よくご存知で……」
「部下のことだ! 当たり前だろう!」
「す、すみません!」
「狼谷真空だな」
「狼谷君を知っているんですか?」
「あの小僧……今度は日辻の周りをうろついているのか」
今度は、とはどういう意味だ。疑問符を浮かべていると、猿島警部の眉間の皺が更に濃くなった。
「いいか日辻、覚えておけ。アイツは疫病神だ」
「どういった意味でしょう?」
「お前もキャリアを棒に振りたくなかったら大人しくしていろということだ。犬養のようになりたくないのならな。大体お前は、ただでさえも……」
いつも通りの嫌味を右から左へ受け流していく。怒られるだろうことは覚悟していたが、これは相当ご立腹だったらしい。途切れることのない文句を、私は吐きそうになりながら耐え抜いたのだった。




