第32話「虚夢」
「アンタが工藤一家を殺したのは、昭雄さんに『アナタもランニングが〝趣味〟なんですか?』と言われたからだ。怪我を乗り越えてオリンピックにでも挑戦するつもりだったんでしょう? そのトレーニング中にそう言われたアンタは頭に血が上った。それも家族連れで来られた日には相当腹が立ったんでしょ? 奥さんがフレーバーウォーターを出した日には、そりゃもう、はらわたが煮えくり返った筈だ。こんなもので水分補給をしてるのか。こんな走り方で走ったつもりになっているのか。コイツらは俺を馬鹿にしてるのか、ってね」
「やっぱり特別な人間は俺の気持ちを分かってくれる」
「アンタは特別なんかじゃない。しかも、ただの殺人犯だ。一家を惨殺して猟奇的な殺人鬼にでもなったつもり? サイコパス拗らせて馬鹿じゃない?」
「なんだと……」
「一種の審査でもしてたつもりだったんでしょ? 近所でも評判の〝いい一家〟に潜り込んで、アンタは一回だけチャンスを与えた。でも工藤さん達はアンタへの認識を改めなかった。実は凄い選手なのだ、と明かしても、〝走り〟を教えても、工藤さん達はアンタを特別扱いしなかった。自分が望む反応が得られなかった。だから殺した。
この殺人に明確な動機も恨みもない。アンタはママの愛が手に入れられなかった子供みたいに駄々を捏ねただけ。変な自己愛拗らせて工藤さん達の未来を奪った、ただの殺人犯だ」
「違う!! 平凡なアイツらは……特別じゃないアイツらは殺されて当然だ!! 特別なものを特別だと分からない奴らなん……」
「ふざけないでよ‼︎」
思わず怒号を飛ばしていた。狼谷君が動機を口にしたがらなかった筈だ。こんな胸糞悪い結末で、彼の口を二度穢すことがなくて良かったと思う。憤慨する私に、三人の視線が注がれていた。
「審査? 平凡? 気に食わなかった? それだけであんな殺し方をしたの? ショックで痙攣して泡まで吹いて……子供は恐怖で失禁してた……アナタはそれだけの理由で……!」
「刑事ってエリートなんでしょ? なのに普通の考え方なんだね」
「え?」
「人を殺す理由なんて人それぞれでしょ? 殺人の理由に個性があったらいけないの? 頭が固いと損するよ?」
この男は何を言っているのだ。殺人の動機に〝個性〟だと? ふざけるにしても限度がある。しかし、三井の顔は、とてもふざけているようには見えなかった。それに慄き、思わず後ずさる。けれども背には工藤家の柵が立ちはだかり、私の行く手を阻んでいた。
「ほらね、話したって無駄だ」
混乱する私に狼谷君の冷淡な言の葉が降ってくる。そこで初めて〝冷静にならなければ〟と思った。
緩慢に手を上げ顔を包み込む。冷え切った指先が触れた柔肌は温かく、生を告げていた。




