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弥太郎の一生

作者: 赤影

室戸から高知市の方にもどると安芸市がある。

そこが三菱財閥の創設者、岩崎弥太郎の生まれたところである。

高知で一番見たかったのは、弥太郎の生家だ。彼はどのようなところで生まれ育ったのだろう、すごく興味があった。

坂本竜馬は郷士の株を買ったのに対して、弥太郎の家は郷士の株を売り、岡田以蔵と同じく武士で一番下の身分だった。

弥太郎の生家は、東京の邸宅とは問題にならないが、弥太郎が貧困の少年時代を送ったと、想像できないほど綺麗で落ち着いていた。


生け垣を巡らした屋敷内に茅葺の母屋や2階建て土蔵があった。土蔵の鬼瓦には岩崎家の紋で後の三菱のマークの原型といわれる三階菱があった。

縁側に腰を下ろし、竹箒を動かしている老人を眺めていると、「何処から」と土佐方言の入った言葉で問いかけられた。

老人は仕事の手を休めて隣に座り語りだした。

方言の入った言葉は、僕には半分しか分らなかったが、興味深い内容だった。


竜馬が亀山社中を海援隊に改編し蒸気船を手に入れた。

物の始めと言う意味の「いろは丸」と命名するが、この船は処女航海の時、紀州藩船「明光丸」と衝突し、宇治島沖で沈没した。

(海援隊は升屋清右衛門宅へ宿泊したことで、福山市鞆町に「いろは丸展示館」なるものもある)

この時、「いろは丸」に武器も積んでいたので、海援隊の被害はかなり大きく、紀州藩との間で、責任問題と賠償で難航していた。

交渉がうまく行かず頭を抱えていた竜馬のところへ弥太郎が訪ねて来て、「何が天下国家じゃ。好きなように脱藩して、好きなように飛び回って、ちと事故が起こったらもう止めたか。そりゃちと無責任すぎやせんか。あの「いろは丸」が走るまでにどれだけの犠牲があったか、大洲藩の国島六左衛門どのはおまんにそそのかされて、「いろは丸」買った責任取って腹切った。それと、おまんがユニオン号の取引の時死なせた近藤長次郎、ワイルウェフ号で難破した池内蔵太、二人とも、地に足のついた真面目な奴じゃった。おまんの夢みたいな話に騙されて命を落としたんじゃ、おまんには奴等の分もやらなならん義務がある、夢を見せた分の責任がある。情けない。」と言ったそうだ。


老人の声は、時には竜馬、時には弥太郎の声に聴こえた。



岩崎弥太郎は13代土佐藩主、山内豊照に秀才を認められ、21歳の時、彼は単身江戸へ遊学に出ました。

江戸で勉学に励んでいた弥太郎ですが、江戸へ出てわずか1年、酒席での喧嘩がもとで投獄された父親の事を知り、高知に帰ってきました。

父親の免罪を訴えたことにより、弥太郎自身も投獄され、その後、村を追放されました。

村を追放された弥太郎は、現在の高知市鴨田に住み、現在の高知市長浜で少林塾を開いていた吉田東洋のもとに入門し、才能を認められ弥太郎は土佐藩に登用されることになりました。

長崎へ視察に行き、海外事情を学び、34歳の時、土佐藩の商社である土佐商会の長崎駐在員として長崎に赴任しました。



ゆっくりとタバコを吹かしながら、老人の話は続きました。

1回目の交渉の場所長崎銭座町の聖徳寺、紀州側よりは明光丸艦長・高柳楠之助をはじめとする乗り組み九名、海援隊・いろは丸隊長・坂本龍馬をはじめとする八名で行われました。

 

艦長・楠之助 「さて、互い航海日誌の記録を照らし合わせたところ貴艦いろは丸の操縦間違い、不注意による衝突であったことはあきらかと思われる。わが紀州藩としては藩主より特別のご好意をもって見舞金一千両、一万両の貸与をくだし置かれるものとする」

隊長・龍馬 「待たれよ。我がいろは丸は船価三万両、積み荷数万両、それを沈めた見舞金が一千両とはなんですか。それに一万両を「貸してやってもよい」とは・・・」

艦長・楠之助 「されど、貴艦には船上に国際規約に基づきたるマストランプの灯火なく、非はそちらにあり。当方には賠償の責これなく・・・」 

隊長・龍馬 「マストランプの無しとの証拠、いずれにありや」

艦長・楠之助 「当方航日誌によれば、衝突の際、貴艦船員に問いただせし所、いろは丸にはもとよりマストランプこれなく候との証言あり」   

隊長・龍馬 「おい、ランプがついてなかったち、言うた船員は誰じゃ?」

いろは丸・船員 「・・・さあ・・・・」 

隊長・龍馬 「その船員の名をお聞かせ願いたく」    

艦長・楠之助 「当艦の士官・前田、岡崎の両名その証言を聞きしが、不覚にも貴艦船員の姓名を聞く事を忘れたり、」

隊長・竜馬 「なんじゃーそれ!」全員ズッコケル 

                      

とにかくさすが葵の御紋、紀州藩は「悪くない」の一点ばり。相手が土佐藩でなく、どこの馬の骨ともしれぬ海援隊という烏合の衆と知ったので居丈高になって、結局1回目は平行線でした。

龍馬と海援隊は、トボトボと帰って行くのでありしまた。


長崎西浜町海援隊本部、全員が集まり会議を行っております。

長い沈黙の後、陸奥陽之助が席を切ったのです。

陽之助 「隊長!隊を辞めさせてください」

竜馬  「陸奥!なんじゃ不甲斐ないわしに愛想尽かしかや」

陽之助 「違います、このままでは隊は破滅です、高柳楠之助を斬って自分は腹を切ります」

竜馬  「愚かな事や、高柳楠之助を一人斬ってもどうにもならんぜよ」

陽之助 「紀州藩を背中に背負った居丈高な態度、許せんのです」

全員  「先生!わし等も同じ気持ちです」

龍馬  「困ったねや。いずれ幕府倒そうちゅうモンが、御三家ひとつにこない手を焼くとは情けない。それにしてもあいつらあんなに交渉が上手とは思わなんだ」

皆で切り込むという隊員をなだめ、独りになるとさすが竜馬も出口のない交渉に諦めの心境でした。

そこに土佐藩土佐商会の岩崎弥太郎が訪ねて来るのです。

弥太郎 「この度は大変な災難でしたね」

龍馬  「おうー弥太郎か」「ああ・・・災難も災難じゃ、大災難じゃ、いろは丸が始めての航海で沈んだ、えらい損害や、船だけやない、あそこにゃ長崎で仕入れたばかりの最新式のミニエール銃が三百九十丁も積み込んであったがじゃ。一丁十五両としてなんぼじゃ・・・・・・・・」

弥太郎 「五千八百五十両です」

龍馬  「そうか! とにかく紀州藩は、コマイ船が避けるのは当たり前じゃって、全然払う気はないし、もうイヤになったぜよ」

弥太郎 「交渉を放棄するちゅうこちですか」

龍馬  「そんなこと言うちょうらんが、どうにもならんぜよ」「わしゃ不運の男じゃ」「おまんのような、そろばん侍にはわからんぜよ」

そこで弥太郎は、前の記事に書いた言葉で龍馬を戒めたのです。

弥太郎 「わしはな、おまんのことを羨ましいと思っておったんじゃ、わしは学問はできたが剣術ができん、船も動かせん、家や親や土佐藩を捨て飛び回る度胸もない、郷士株を買って侍になった裕福な家の息子、わしは逆に郷士株を売って地下郎人に落ちた貧乏人の小伜じゃ、何が不運じゃ、おまんはわしにないもんを全て持っとるやないか、何もかも持っとるおまんが頑張ってくれんと、わしらもやる気になれんじゃないか、」

龍馬  「・・・・・・・・・わかった!弥太郎わしが間違うてた、明日は紀州藩との最後の交渉じゃ、すまんが力かいてくれ」

弥太郎 「承知した!」「先ず記録を徹底的に洗いなおす」


こうして弥太郎は、最終の交渉に参加するのです。

二日目の交渉、聖徳寺の本堂に場所を移します。


艦長・楠之助 「いかがであるか。貴艦としては見舞金一千両を受け取って交渉を終えるが最善の策と存ずるが」

岩崎弥太郎  「お、お待ちくだされ」

艦長・楠之助 「・・・お主は」

弥太郎    「拙者、土佐藩、土佐商会会計主任、岩崎弥太郎と申すものにて候」

艦長・楠之助 「その会計屋さんが、何用でござるか」

弥太郎    「そちら9人、こちらは8人と聞き、不公平でござるので、助っ人にまかりこした」

艦長・楠之助 「ほぅーしかしもう交渉は終えるところだ」

弥太郎    「その前に、確認したい事があり申す」

艦長・楠之助 「何だ」

弥太郎    「此処に、そちらから出された航海日誌がある、この中でいろは丸が沈没する時、全員を助けたと書いてあるが間違いござらぬか」

艦長・楠之助 「それは助けるのが人の道、そちらが悪いからと言って、見捨ててはいかぬ、武士の情けである」

弥太郎    「かたじけない!ところで41名を助けたとあるが相違ござらぬか」

艦長・楠之助 「間違いないが、それがどうした」

弥太郎    「一度紀州藩に勤めたことがある伝助が顔見知りだったので、始めに伝助を乗艦許可し助けたとある」「伝助は一番初めに縄梯子を上ってきたとある」

艦長・楠之助 「そうだ!うちの当直士官が乗艦許可した、そのようなことどうでもよいではないか、こちらの航海日誌は間違っているはずかなかろう」

弥太郎    「こちらの船員総勢34名!伝助は足を怪我しており縄梯子は上れず、仲間が負ぶってそちらの船に移ったもの、この事どうか説明してくだされー」

艦長・楠之助 「・・・・・・・・・・・・・・・・・」

弥太郎    「夜中の航行にもかかわらず、当直士官がいなかったのでは」

艦長・楠之助 「・・・・・・・・・・・・・・・・・」

弥太郎    「先日のお集まりの折、いろは丸のマストランプに投光されていないとのこと、当直士官がいないとのことであれば・・・・・・・・・・」

艦長・楠之助 「・・・・・・・・・・・・・・・・・」


艦長・高柳楠之助も絶句し、完全に形勢逆転です。

こうして紀州藩から七万両の賠償金を貰うこととなり、竜馬は弥太郎を共同経営者と同じ扱いで海援隊に入れます。

龍馬の暗殺は、この事を恨みに思った紀州藩士の反抗という説は今でも有力です。

弥太郎が龍馬の死を知ると同じ頃に紀州藩から7万両が届きます。

弥太郎は目の前に積まれた七万両の千両箱を前に「坂本さん、わしゃこれ、どうしたらええですか」と立ち尽くしたそうです。


この七万両のうち四万両が土佐商会の預かりとなり、その運用資金をもって独立した岩崎弥太郎は、九十九商会、三川商会、そして「三菱商会」を立ち上げ、最近色々問題の多い三菱の元となったのです。


いろは丸事件を語った老人の話はこれで終わりです。いろは丸が沈まなかったら、三菱はなかったかもね!


岩崎弥太郎の話は、昨日で終わろうと思いましたが、いろは丸、龍馬の暗殺の後、弥太郎はどうやって三菱財閥の基礎を築いたのか。皆が知りたいとのことなので、この記事を継続します。

弥太郎の生家でお会いした老人は、弥太郎のことを誇りに思い、ボランテァで掃除をしていました。老人には悪いですが、弥太郎の悪い噂もあります。


あくまでも噂であって、本当のことは定かでありませんが、個々に推測して楽しんでください。

紀州藩からの7万両の内、4万両を土佐商会が預かったと記事にしましたが、普通考えてみると、何故土佐藩が預かるのかと言う疑問を持つと思います。

海援隊に援助した事実はあるものの、貸していたなら、返したとなるわけで可笑しな話です。

このお金は海援隊の物のわけですから、隊で分配したなら、納得できますが・・。

7万両全て弥太郎が着服したのではないかという噂まであります。

7万両だけでなく、後藤象二郎が長崎に回送した樟脳代金16万両合わせて23万両もの大金が行方知れずになったとの噂まであるのです。

維新のどさくさのなか、証拠の書類を焼却し、象二郎も事情を呑み込んでいたので追求されずに終わったとのこと、弥太郎が終生後藤象二郎に頭が上がらなかったのはこうした事情があったのではと疑いを持ちます。


弥太郎はその後、土佐商会が大阪に移り大阪商会になると、彼は商会代表として土佐藩の海運事業を一手に握ることとなります。

その後、土佐藩の権小参事に就任し、土佐開成商社を設立します。

藩所有の船舶を貸与され、半官半民の商社になるわけです。

この会社は後に九十九商会と改称し、藩所有の財産と船舶のすべてが彼に任され、九十九商会は三菱商会と改称し、岩崎弥太郎の完全な個人の商社となるわけです。

弥太郎が何処からか大金を懐にして、なんらかの動きをし、このようになったのは間違いないと思います。

これが事実とするなら背任横領の金が三菱の基盤を築き上げる元となるわけで、これを書くと三菱関係の人は怒るでしょうが、このような噂もあるとのことで聞き流し許してください。


ここまでは上手くことは運びますが、すごい強敵が現れます。

半官半民の「郵便汽船会社」、この海運会社は政府の手厚い保護のもとにおかれていた。半官半民とはいえ内実は、三井の支配下におかれた船会社なのです。

三井と三菱が四つに組んだ海運をめぐる戦争「三井三菱海戦」がこうして始まったのです。

激しいダンピング競争で大赤字を抱え、経営は破綻状態に追い込まれ、あと何ヶ月持つかという状態まで弥太郎も追いつめられていくのでした。

虫の息だった岩崎弥太郎に台湾出兵というチャンスが来るのです。

「征台の役」です。明治政府は台湾の政情不安と邦人保護を理由に軍隊を派遣し、海外で展開するはじめての軍事行動を起そうということですが、薩摩勢が熱心に「征台」を主張したのに対し、長州勢は内政不安を理由にあくまでも慎重論の立場を取ったのです。

三井が長州勢についたのをみて、弥太郎は非長州薩摩勢につきました。米国などは日本軍事行動を非難しますが、結局中立の立場を宣言したため、外国船にたよる兵員や武器の輸送が出来なくなります。

長州側に立つ三井は動けません、弥太郎はそこに目をつけ素早く行動に移ったのです。

弥太郎は薩摩方政府高官らと接触し、軍事輸送の利権を手中におさめただけでなく、政府が「征台」のため外国から購入した船舶13隻を借り受け、兵員や軍需物資の輸送に乗り出します。

長州勢に殉じた郵便汽船会社は身動きができず、軍事輸送で多額の利益を上げる三菱商会を横目で見ているだけだったのです。

「三井三菱海戦」は三菱優位のうちに終結するのです。

弥太郎も「運」のある人ですね!弥太郎素早い行動が「運」をよぶのかもしれのせんが。


この頃から、弥太郎の案内で豪遊する大久保利通や大隈重信など政府高官の姿が何度も目撃されています。弥太郎は政府中枢にも食い込でいくのです。

弥太郎の娘婿から加藤高明及び幣原喜重郎の2人の内閣総理大臣を輩出しています。

財閥創業者の娘婿が2人も首相になった例は他の財閥にはなく、三菱と国家の密接な関係がこのことで分ります。

どこかで聞いた話ですね!この頃から現在の政治の闇は完成していたのです。残念!

三菱、弥太郎、自民党斬り!ってとこかな!


三井との海戦に勝利をおさめた弥太郎の前に、次立ちはだかったのは外国汽船会社です。

運がいいと言いましたが、撤回します。一難去って又一難です。

「弥太郎さん!ヤッパリ汚いお金を元手にしたからじゃないの、次々災難来るのは?」

その時代、僕が生きていたらこんなイヤミ言いそうです。



米国の船会社パシフィック・メール社は上海ルートをかなりの値下げをして挑戦してきたのです。

岩崎弥太郎は三井系の郵便汽船会社を三菱商会に吸収して、政府から巨額な補助金を与えてもらい何とか切り抜けるも、今度は英国系の船会社ペニュシュラル・オリエンタル社が立ちふさがるのです。

弥太郎は経営合理を実施して、大胆なリストラを行い、経費を節減し、運賃引き下げに対抗できる経営基盤を築きこれも切り抜けるのです。此処は「スゴイ」の一言です。


昨日の記事で「運」がないと書きましたが、またまた撤回です。

此処からの弥太郎の三菱商会の発展は凄いです。

西南戦争が勃発です。もちろん弥太郎は政府軍につき、全面的協力し、三菱の所有する汽船はほとんど軍用船として活用し、この仕事を独り占めにし、これによって得た運輸代金は莫大な額が懐に転がりこんだのです。

同時に三菱は日本の海運をほぼ独占することにもなるのです。

弥太郎は多角化に乗り出します。為替業務、海上保険、倉庫業などの分野です。

三菱の口座で為替を組んだものは三菱の船舶を使い、荷物には三菱の保険をかけ、荷揚げには三菱の倉庫を使うという具合に、三菱の世話抜きには貿易ができない独占的システムを作り上げたのです。

戦争が起きれば、隣は儲かる!絵に描いたようなもので、三菱財閥は出来上がったのです。


「何だ!戦争で儲けたのか!」「なんか益々三菱の車に乗りたくなくなったなー」なんて言わないでください。

現在大手の企業はこのような話は一つか二つあるのですから!何も買うことができなくなりますよ!

例えば松下幸之助のナショナルは、誰が見ても「真似てる」と思う絵で、何とかという賞を貰った画家みたいに居直って「ピカソもコピーの天才だった」って言っていましたが、それに近い事しています。

他社の特許商品をコピーして製造販売して、裁判かけられた時は既に利益を十分にあげていて、ペナルティーを支払っても利益は残るという仕組みで伸びたそうです。

これも噂なので聞き流して許してください。松下さん!


本題にもどります。

その時代、独占禁止法がなかったにしろ、こんなことしたら誰か反発する人が出てくると思いませんか。それは誰か!

それは「三井」です。またしても「第二次三井三菱海戦」の始まりです。

三井物産は体制を建て直し反三菱勢力が再結集するのです。

この三井の後ろ盾の中に、僕が事業家として最も尊敬する、岩崎弥太郎の強敵となった渋沢栄一が登場します。


埼玉の生んだ偉人、資本主義の父と言われた渋沢栄一は、幾つもの国立銀行(現みずほ銀行など)東京ガス、東京海上火災保険、王子製紙、秩父セメント(現太平洋セメント)、JR東日本、サッポロビール,帝国ホテルなど、多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上と言われています。

渋沢栄一と岩崎弥太郎は偉大な実業家ですが、基本的な考え方はまるで違います。

二人の面白いエピソードがあります。

明治11年8月、渋沢栄一が三菱創設者の岩崎弥太郎から料亭に招かれます。

(写真上、渋沢栄一)


岩崎は渋沢より6歳年上で、西南戦争の軍需輸送で大もうけし、政商として飛ぶ鳥を落とす勢いの岩崎は、対抗する海運会社が必要と考えていた渋沢へのけん制が目的で招いたのですが。


岩崎「僕と君が手を握れば日本の実業界を思うように動かせる。意味のない競合は避けて、手を組もう。」


渋沢「競合に意味がないとはどうしたことか。あなたの話は、独占という欲に目のくらんだ利己主義だ。申し出を受け入れるわけにはいかない。」

  

岩崎「君がやっている株式会社制度は、船頭何人もいる船のようなもの。事業というのは、唯我独尊で思いのままにやってこそ醍醐味がある。オーナー企業こそが理想の男の夢である。なぜに株主なるものを集めてまで事業を行うや」


渋沢「一人の知恵より衆人の知恵。一人の財力より衆人の財力を合併して大商いをなすべし。」 

 

岩崎「株主を多く集めれば、派閥ができたり主導権争いが生じたりする。会社の利益はまったく社長の一身に帰し、会社の損失もまた社長の一身に帰すべし。」

  

渋沢「事業は個人の私利私欲のためにあらず。広く社会から人力と財力を結集し、公益になることを考えるべし。あんたは小判だの宝石だのを懐に入れてあの世へ行くおつもりか。」


渋沢栄一は怒り、なじみの芸者を連れてその場を立ち去った、と言うお話です。


さて!「第二次三井三菱海戦」その後どうなったのでしょう。



反三菱勢力は発起人に三井武之助、大倉喜八郎、川崎正蔵、渋沢喜作(渋沢栄一の義兄)など経済界の重鎮が顔を揃え、さらに全国各地の豪商らが参集します。

前回と異なり、今度は強力な体制で臨んできます。

英国製新鋭艦6隻を含む24隻体制を作り上げます。対する三菱は27隻です。

反三菱勢力は団結して追い上げてきたのです。


弥太郎に運があると言いましたが、またまたまた撤回です。

蜜約関係にあった大久保利通は暗殺され、大隈重信も政変で役職を解かれ、政府の中枢には三菱をバックアップする者は誰もいなくなったのです。


対する三井勢には、伊藤博文、井上馨など長州勢力を味方につけ、政府による保護の約束を取り付けます。

民権派の連中も参戦し、弥太郎たたきに拍車が加わります。

マスコミも反三菱勢に味方をして筆を揃えて三菱を非難するのです。

このやり方は、かつての弥太郎が「第一次三井三菱海戦」の時取った戦術をそっくり真似て、三菱の追い落としを企てたであります。

さすがの剛腹な弥太郎も今度ばかりは参ったようです。

営々として築き上げた全財産を失うかも知れない事態が続きます。激務と深酒の日が続き、心労と酒が過ぎた弥太郎は病に倒れるのです。

明治18年2月、弥太郎は闘い半ばにして無念の最後を迎えたのです。


弥太郎亡きあと、共倒れになっては困る!政府が調停に乗り出し、両者を合併させるのです。

こうして誕生するのが日本郵船です。

弥太郎の人生は、幸せだったのか、不幸なのか別にして、戦いの連続だったのは間違いありません。

東京の上野公園不忍池近くの岩崎弥太郎宅はゆとりのある大きい物ですが、心の中はゆとりが一度もなかったのではないでしょうか・・・・・・・おわり。



長い間お付き合いいただき有難う御座います。


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