立花京介からの手紙5
桜の舞い散る季節には、底知れぬ不快感を覚える。どこもかしこも、浮き足立った人々が大勢いて、見ているだけで怒りがこみ上げる。笑顔でお喋りをしている彼らも、裏では何かを企み、そしてどうしてやろうかと算段を立てているに違いない。
中学を卒業し、高校の入学式を迎えた僕であったけれど、もはや言うまでもないことだが、相変わらず仮面を外せずにいた。
結局、秋山は僕と同じ高校に進学することができ、中学の担任は驚きのあまり、一週間ほど寝込んでしまったぐらいの快挙を、秋山は成し遂げたのであった。
というのも、僕らはそれなりに世間で名の知れた高校に、合格をすることができたからだ。しかしきっと、僕が合格するのは当然として、まさか不良少年の秋山が、という気持ちを抱えている人間はかなりいることだろう。先生も、生徒も、果てには校長までもが、驚いていた。正直なことを話すが、秋山の合格に関して、僕はまったく驚きはしなかった。
気が狂ったように勉強をしていた秋山の姿を、僕は知っていたが故に。まあ、この僕はたいした勉強をせずとも、難なく合格をすることが出来たのだけれど、それはもういいだろう。
なんにせよ、秋山の恐ろしいまでの精神力には、顔を顰めざるを得ない。「そんなに頑張ったって、身体を壊したら意味がないじゃないか」と、甘い言葉でそそのかし、秋山の反応を面白がっていた僕に、「ここで諦めたら、元の人生に戻っちまう」と、負けじと言い返してきた秋山。「わかったよ。そんなに勉強したいなら、僕の家に来るといい。君の家と違って、夜中に電気をつけて怒られることもないからね」と、僕が秋山の貧乏話をからかってやっても諸共せずに、「それは助かる。行かせてもらう」と、平然としていた秋山。
ああ、秋山とは一体、何者なのだろうか。これほどまでに、僕に馬鹿にされているというのに、秋山はそれに気づかない。鈍感なのか、やはり単なる馬鹿なのか、いまいちわかりかねる。入学式を終え、嬉しそうに歩いている秋山に、僕は言った。
「そんなに嬉しいのか?」
「当たり前だ。散々、屑だの糞だの馬鹿だの言われてきた俺が、今となってはそれと真逆の人間になってるんだから。足を洗って、更生して、俺は真面目に生きる」
そうは言っても、やはり人間という生き物は、一度身に着けてしまった習性を、忘れることはできない。だからきっと秋山は、自分ではすっかり真人間になれたと思っているが、それは絶対に違うのだろう。勘違いなのだろう。
タバコも酒もやめている秋山であるが、根本的な部分は改善できないはずだ。暴走族の元総長である秋山は、有名高校に入ったとしても、白い目で見られるに決まっている。今だって現に、秋山は同じ学校の生徒からも、通行人からも、避けられているではないか。
そうこうしているうちに、本性を隠し切れず、怒りが爆発し、元総長たる悪の精神が勝り、誰かを傷つけるに決まっているのだ。
僕は秋山の顔を一瞥し、そして鼻で笑う。惨めなやつだ。しかしそれにしても、秋山のような最底辺の人間をそばに置いておくと、僕の気持ちはやはり落ち着く。
持つべきものは親友というか、持つべきものは同類というか、僕と同じかそれ以上にろくでなしである秋山を見ていると、僕はまだまだ、捨てたものではないと思える。
いや、しかし、今の秋山は本当にろくでなしなのだろうか。
酒やタバコに関しては先に述べたが、女に手出しをすることもなくなり、喧嘩をすることもなくなり、貧乏とはいえ、奨学金で高校に通うことができ、かつての末期感が漂う雰囲気は感じられない。これはいけないと、僕は思った。
僕が唯一、落ち着ける、いわば休息の地であったはずの秋山が、徐々に変化しつつあるではないか。よく考えてみれば、いま惨めなのは、よもや僕の方ではあるまいか。
秋山のことを見下し、馬鹿にしてばかりいる僕が、どうして秋山よりもまともだと言える? どちらが屑で、どちらが真人間だ? ああ、これはいけない。
考えれば考えるほど、嫌な予感がしてならない。僕は額の脂汗を手で拭い、「僕と秋山なら、どっちの方が人間らしいかね」と、秋山に聞いてみると、「俺もお前も、まだ不完全だと思うけど」と、言ってきた。
はて、不完全とはいかにと思い、「どういうことだ?」と聞くと、「俺はまだ、みんなから不良だと思われてる。お前もまだ、自分を見失ってる」と言ってきたのだ。
つまるところ、どちらも人間ではないということが言いたいのだろう。だけれど、『まだ』という部分に違和感を覚える。その言い方ではまるで、そのうち僕らは人間になれるとでも、言いたげではないか。
僕はいまのやり取りを通じ、確信した。やはり、惨めなのは秋山で間違いない、と。だってそうだろう。叶いもしない希望を抱いてしまっている時点で、秋山は惨めで、愚かで、みっともないではないか。僕がちゃんとした人間になれるとは、思えない。
きっと大人になっても、僕は平気で他人を騙すことだろう。何故なら、もう僕にとって偽りとは、呼吸をするようなものなのだ。要するに、嘘をつかなければ生きていけないと、そう言ってしまっても過言ではないのである。
秋山にしても、同じことが言える。長年の間、培ってきた暴力的な性格は、きっと、なおることはないだろう。ああ、これでハッキリとした。
秋山は僕よりも下、もしくは同じ位置にいる人間であり、また、僕も秋山も一生人間に戻れることはない。このまま、生きて行かざるを得ない。実に単純である。 僕はホッと胸を撫で下ろす。けれど、それも束の間、秋山はとんでもないことを言った。
「俺は、真面目に生きる。いや、真面目に生きたいと思ってる。だけど、もしお前にそういうつもりがないなら、俺はお前と縁を切る」
唐突な発言に、僕は思わず「え?」と、聞き返してしまった。
「俺は立花に感謝してるし、恩返しをしたいとも思ってるんだ。けどさ、お前に変わる気がないなら、俺の邪魔をしてばかりいるなら、話は別だ」
変わる気があるのかないのかは、ともかくとして、いったい僕はどう変われば良いと言うのか。それはもちろん、僕が嘘つきであることは間違いなく、それを変えろと言っているのだろうけれど、本当にそれで僕は、変化したことになるのだろうか。否、それは変化とは呼べない。つまるところ、今の僕の姿があるべき姿であり、それを変えてしまったら、もはや僕とは呼べない。「妙なことを言うんだな、秋山」と僕が返すと、「お前こそ妙なことを言うな」と、秋山は顔を顰めて言った。
特にそれ以上、僕らは言葉を交わさなかった。というか、これ以上なにを話せばいいのかわからなかったのだ。
それから幾日が経ち、僕と秋山は同じクラスになったのだけれど、いつもと変わらず僕が笑顔でいると、秋山は「いい加減になおせよ」と言ってくる。しかもそれは、一度や二度ではなかった。もう、毎度のごとく、なおせなおせと注意してくるので、いよいよ僕は秋山の存在を鬱陶しく思う。「ごめんよ」と、僕は適当な返事をし、秋山は「わかればいい」とだけ言う。いったいこいつは、どんな権利があって僕に、偉そうなことを言っているのだろうか。僕は恐らく、生まれてから初めて、誰かを憎いと思った。
傲慢な態度の秋山を見れば、僕の笑顔はヒクヒクと引き攣り、上から目線なことを言われれば、思わず仮面を脱ぎ捨て、激昂してしまいそうになる。
そうこうしているうちに、もしや? と僕は、勘付いた。秋山は僕に、縁を切るとまで言ってきた癖に、疎遠になるどころか、以前よりも馴れ馴れしく、なおかつ寄り添ってくるではないか。これは何か、裏があるに違いないと、次第に僕は考えるようになった。
高校に入学してから、およそ一月が経った頃であろうか。僕は確信こそもてなかったが、それでも多少の自信を持って、昼休みに、秋山に言ってやった。
「まさか、僕のことを脅してるんじゃないだろうな」
脅すとはつまり、秋山の後ろめたい過去を、僕が誰かに口外しないように、前もって予防線を張ったということである。
確かに秋山は、この辺りでは名の知れた不良であり、もはや僕が口外せずとも、秋山のしでかした悪事は知れ渡っている。だが、僕しか知らないことがあるではないか。
僕しか知らないこと、要するにそれは、秋山の家が貧乏であり、それが原因で奨学金を貰っているとか、秋山が小説家を目指していることとか、そういうことだ。
これが果たして、僕を脅すほどの秘事であるのか判然としないが、もしかしたら秋山にとってすれば、どうしようもなく隠したいことなのかもしれない。「そんなつもりはない」と言った秋山を、僕はなおも追求する。
「じゃあ、どうして僕にこだわるの?」
「俺はお前に変わって欲しいから」
「どうしてさ」
「色々と助けてもらったからに、決まってるだろ」
別に僕は、秋山を助けてやった覚えはないけれど、それでも助けてもらったと思っているのなら、それはそれでかまわない。しかし、有難迷惑である。
「もういいよ。そんな、恩返しみたいなことは、やめてくれよ」
「だけど、俺が言ってやらなきゃ、他に誰がお前に言ってやれるってんだよ」
「つまりは、自分を偽るのをやめろって、そう僕に言ってくれるやつが、お前以外にいないとでも、言いたいのか?」
秋山は、今にも泣きそうな顔をしていた。僕の目を必死に見つめ、まるで今生のお別れをするように、悲しそうな表情で、秋山は言った。
「お前の本性に気づけたのは、俺以外にいたか? お前のその、精巧な仮面に騙されなかったやつが、俺以外にいたか?」
言われて、まあ確かに、秋山以外にはいなかったと思う。けれど、それは今のところの話であって、今後は秋山のようなやつがあらわれるかもしれない。
いや、いやいや、そこは問題ではない。そんなことよりも何よりも、秋山のこの、自分は特別だとでも言いたげな態度が、気に喰わない。
もうこの際、秋山が妙なことを企んでいるのかは、考えないでおこう。僕が今やるべきことは、目の前にいる秋山に、釘を刺しておくことだろう。
「もう、僕に関わらないでくれ」と、それだけ言い残し、僕は秋山の元から立ち去った。やはり秋山は危険人物であった。きっと、このまま秋山と関わっていたら、僕が僕でいられなくなってしまう。グルグルと頭が回っているのが、その証拠である。
わずかではあったが、僕の心は揺らいだのだ。揺らいでしまったのだ。秋山が消えてしまったら僕はどうなる? などと、柄にもなく意味のないことを考えてしまった。
秋山が消えようと、死のうと、僕には関係がない。逆に、秋山が居ようと、生きようと、それまた僕には無関係である。それなのに、僕は秋山の言葉を聞き、額から嫌な汗が流れるのを感じた。ああ、ダメだ。秋山は危険だ。十五年かけて築き上げた、僕という確固たる存在が、ぶれてしまったのだから。だから秋山は、危険だ。
仮面を外したら僕は、どう生きていけばいい? 嘘をつけなくなったら僕は、どう生きていけばいい? 答えは一つしかない。僕から仮面と嘘を取り上げたら、もう生きてはいけないだろう。それは断言できる。しかし、秋山は僕からそれらを取り去ってしまおうとしたではないか。秋山は嫌なやつだ。秋山は最低なやつだ。
だってそうだろう。
秋山にだって、僕が生きていけなくなることぐらい、容易に想像できたはずだ。
混沌とした思考回路を整理していくうちに、僕は自然と涙を零していた。これが僕にとって、初めての涙だったかもしれない。学校の中で、一人で、泣いている僕の姿は、さぞ滑稽なものだったろう。廊下ですれ違った生徒たちはみな、揃いも揃って首を傾げていた。
制服の袖で涙を隠そうにも、仕様がないほどに、溢れ出してしまう。
得意の仮面で笑顔を作ることは出来るけれど、それでも涙は止まることを知らない。実に歪な顔だった。ふと、窓に映る自分の顔を見たら、ぐちゃぐちゃに泣き腫らしているのに、だけれど非常に嬉しそうな顔をしていて、正しくキチガイ染みていた。
途端に、僕は恐ろしくなった。
急いで秋山を突き放したが、もう手遅れ。僕の心はもう、確実に、崩壊した。今まではギリギリのところで、精神を保っていたのだけれど、秋山のあの、余計な言葉がキーとなり、僕は僕を見失ってしまった。いや、ずっと見失っていたことはいたが、それでも、僕の残した痕跡のようなものは、見えていた。しかし、痕跡も足跡も、跡形もなく消えた。
僕は僕がわからなくなり。僕は僕を知らなくなり。僕は僕に殺された。立花京介は何者なのかと、いまこの瞬間に聞かれたら、間違いなく、そんな人はいませんと答えるだろう。いや、立花京介はもう、死にましたと、そう答えるのかもしれない。
とにもかくにも、僕の命日は、高校に入学して一月が経ち、思わず笑ってしまうほど良く晴れた天気で、世の人々が浮き足立っている、今日と言う日であった。




