立花京介からの手紙4
僕が中学に入って、最初の夏休みを迎えた時、父は糖尿病だと診断された。どうやら食生活に問題があったらしく、確かに偏った食事をしていたという事実もあり、僕はちっとも不思議には思わなかった。子供の僕らには、幾度となく野菜を食べろだの、お菓子を食べるなだのと言ってはいたけれど、その張本人が野菜は食べず、お菓子ばかりを食べていたのだから、やはり不思議ではない。
母は呆れながらも、糖尿病患者に相応しい食事の献立を考え、そして作る。そして姉の由紀と涼香は、父の病気が治るようにと、毎日励ましていた。
しかし僕は何かをしたわけではない。正確に言うならば、何をすれば良いのかがわからない。けれどまあ、二人の姉に見習い、僕も父を励ましはした。
だが、この行為に意味があるのかと、そう考えるようになった。僕が父を励ませば、病気が治るわけではない。確かに、気持ち的な面では、いくらかプラスになるのかもしれないが、だからと言って簡単に治るわけがないのである。
とりあえず僕は、笑顔で父と話ことに専念する。
けれど、父の病気は悪くなる一方だった。会社に出勤し、自宅に帰り、僕らと同じように生活をしていた父は、とうとう入院するかどうかの瀬戸際まで追い込まれる。
そんなある日、僕は見てしまった。父が夜中にこっそりと起きて、ガサゴソと何かを漁っているような姿を。僕は息を、足音を、気配を消して、父がなにをしているのか探る。
すると、なんということだろう。醜い獣のように鼻息をまき散らしながら、大福を貪り食べていたのだ。顔中に白い粉がつき、歌舞伎役者のような顔面になって、それでもまったく動じていない。大福を掴み、口に入れ、また掴んで口に入れるの繰り返しで、非常に気味が悪い。血糖値が高すぎると指摘され、医者から禁止されていたはずの和菓子を、一心不乱に食べているその姿は、もう僕と同じ人間だとは思えなかった。
薬物にやられて頭がおかしくなった人間と、何が違うというのか。
僕はどうしたものかと思案しながらも、結局のところ、何をするわけでもなく部屋へと引き返した。もしかすれば、父にやめろと言うのが正解だったのかもしれない。
けれど、恐ろしかったのだ。人間という生き物の愚かさを、垣間見てしまったような気がして、僕はひたすら怯えていた。同時に、どうして父の病気が治らないのかと首を傾げていた母が憐れに思え、励まし続けていた二人の姉が不憫に思え、父への不信感を募らせた。しかし、それが原因で僕は、ぐれたりはしなかった。
あれは、ぐれるというよりか、家族の絆というものがいかに薄っぺらいものであるかを、悟ったとでも言えようか。要するに僕は、愛という感情が嘘っぱちであると、そう考えるようになったのだ。母や姉から父へと送られた、一方通行な家族愛。
気づいた頃にはもう、僕は人間不信になっていた。だってそうだろう。家族の間柄でさえ、平気で裏切り行為をする輩がいるのだから。
母の努力を水の泡にしたのは父。姉の言葉を戯言にしたのも父。ああ、なんと言えばいいのやら。兎にも角にも僕は、人間を嫌いになりつつあったのである。
今までは、他人の顔色ばかりを窺っていた僕であったが、そんな性格もめっきり変わってしまう。どうせあいつは、心ではどす黒いことを考えているとか、どうせあいつは、心にもないことを言っているに違いないとか、いや、僕は人間を嫌いになったのではなく、心という存在に嫌悪感を抱くようになったのかもしれない。
他人に好かれるための仮面は脱ぎ捨て、僕は他人を貶める仮面を身に着けるようになる。
そうして、どこか他所他所しく思えるようになった父は、糖尿病に次いで腎臓病を患い、透析をするようになって、僕が中学二年生の頃に死んでしまった。
葬式で泣くことも出来ず、自業自得としか思えず、僕は淡々と父とお別れをした。 それから、僕ら家族は、高級住宅街を去り、ごく平凡な街へと引っ越しをした。
父の稼ぎがなくなったからと言うよりか、父がいなくなってしまったあの家に対し、母はどこか違和感を覚えていたからなのかもしれない。
引っ越し、転校と、相次いで日常が変化し、僕はサッカーをやめ、またしても何もしない日々を続けていた僕であったけれど、別段それが原因で人間関係に支障をきたすこともなく、やはり淡々と、言葉を交わしていた。
本当は僕と関わり合いをもって欲しくない。どうせいつか裏切られるなら、僕と接してこないで欲しい。そうは思えど、僕はいつも通りの笑顔で返事をする。
しかし、いつもの笑顔と違うのは、相手に好意を抱いて欲しいという思惑とは真逆の、相手に騙される前にこちらから騙してやれ、というものであった。
いわゆる目には目を、歯には歯を、という復讐法を、いくぶん先取りした形で用いたのである。僕に向けられる笑顔は全て、偽物だ。
本当は、僕の心の奥底を見透かし、そして罠に嵌めてやろうとしているに違いない。そんな汚い感情を隠すために、みな笑顔で取り繕うのである。
だからこそ僕も、負けじと微笑み返してやるのだ。
時には悲しい顔。時には泣き顔。時には怒り顔。人間は実に小賢しく、相手を騙す生き物。そうだ、言ってしまえば、仮面を被っていたのは僕だけではなく、誰も彼もが身に着けていたのだ。それなのに僕は、そんなこととはいさ知らず、まるで自分だけに与えられた特権のように仮面を神々しく扱っていたではないか。ああ、バカバカしい。
女は僕の笑顔を、優しさと履き違え、猫のようにすり寄って来る。男は僕の笑顔を、友情と履き違え、犬のように顔中舐め回してくる。果たしてこいつらは、何がしたいのだろうか。僕にやたらと接触をしてくるけれど、何を考えているのだろうか。
僕を騙すためなのは明白なのだけれど、そんなことをして何の意味があるのか。 しかし答えは出ない。僕は諦め、無意味な騙し合いを続行し、とりあえずは、この混沌とした生活に流されてしまわぬよう、毎日かかさず日記を書き、出来事を客観視することで、どうにか正気を保った。
だけれど、僕は次第に自分がわからなくなる。日記というものは、その日あった出来事を書き連ねていくものであるが、書けば書くほどよくわからない。誰々と話をした、そしてこんなことを言われた、その時僕はこう思った、ふと空を見上げたら綺麗だった。そんな調子で書いていると、まるで他人の日記を盗み見ているような気分になるのだ。
僕の主観で日記は書かれているはずなのに、そうではないのだ。この感覚は誰にもわかるまい。映画やドラマを鑑賞するのとはわけが違う。言うなれば、物語の主人公を雲の上から俯瞰しているような、そういうものに近い。
僕は思った。いや、気がついた。僕はもうこの世界には、いないのではないかと。つまるところ、僕のまわりで繰り広げられる日常が、どこか遠くに感じられるのである。
恐ろしかった。何が起きたのか理解できず、だけれど非現実的にして超現実的な日常は終わってはくれないのだから。
僕は、僕という存在を疑いはじめ、頭が狂ってしまいそうになる。そんな拍子に、さらなる追い打ちをかけられた。
「お前はいったい、誰なんだ」
決定打だった。ギリギリのところで保っていた精神が、散り散りに霧消し、一切の容赦もなく、死亡診断書が出されてしまった。
「確かにお前はここにいるけど、だけどお前は、ここにはいない」
僕は笑顔。しかし心中穏やかでは、とてもいられない。咄嗟に僕の口から出た言葉は、こんなものであった。
「僕はどうやら、行方不明らしい」
「ふうん。だろうな」と、表情に乏しい顔で、僕にそう言ってきた男の名は秋山と言う。僕は秋山とクラスメイトだったのだけれど、いかんせん秋山という男は、クラスに馴染めずいつも一人で本を読んでいるようなやつだったので、話したことは一度もない。しかし、秋山は気づいていたようだ。僕が巧妙に仮面を使い分け、騙し合いに明け暮れて、そうして自分を見失っていたことに、唯一気づいていたのだ。
「いつから?」と、秋山は僕に問うた。要するに、いつから自分を消失してしまったのかということで、僕はすかさず「とっくの昔に」と答えた。
そうなのだ。ようやく僕は理解した。幼稚園と小学生の時分には他人の顔色ばかりを窺い、中学に入ってからは、いかに相手を騙し、なおかつ騙されぬかのせめぎ合いをしていた僕であったが、考えてもみろ、僕は一度たりとも自分のために生きていたためしがない。
他人のために仮面を使い。他人に呑みこまれてしまわぬよう、これまた仮面を使い。僕はいつだって他人を気にしてばかりいたではないか。こんな生き方でどうして、人の道を生きていると言えようか。僕はもう、自分を亡くし、人間から離れつつあるのだろう。
ああ、何と言うことだ。
それをこんな男に、秋山に、気づかされてしまうなんて。
僕は恐ろしいと思った。自分のことすらよくわからないことが多いのに、それを秋山は、僕という他人の中身を一発で見透かし、見抜き、見下している。
見下しているなど、被害妄想だと思うかもしれない。けれど、そんなことはないのだ。秋山はわずかに唇の端を吊り上げ、焼け焦げたような癖毛を指先で弄りながら、腐った魚のような目で僕を見ている。これで見下していないわけがない。
僕は恐怖と怒りで震える身体を落ち着かせ、やはり笑顔で、秋山に言った。
「どうして君は、いつも一人でいるの」
「一人でいる方が楽だから」
「楽……確かにそうかもしれないね」
僕と秋山が言葉を交わしているのが、よほど奇妙に思えたのだろう。クラスメイトたちはみな黙って、僕らの会話を聞き逃さぬように集中している。
僕はそんな不快極まりない視線を浴びながら、秋山の発言を心の中で反復する。 一人でいる方が楽だから。それは当然だと、僕は思った。
孤独者でいることが許されるのであれば、僕だってそうしたいと思う。けれど、いかなものだろう。僕が歩けば、金魚の糞のようにみな後ろに張り付き、孤独者どころか、絶対的人気者ではないか。
ああ、忌々しい。
この仮面さえなければ、僕は秋山と同じように過ごせるというのに。
子供の頃からの癖は、なかなか直らないと良く聞くが、それは確かに言えている。笑いたくもないことで笑い、悲しみたくもないことで悲しみ、怒りたくもないことで怒る。それが僕。女の化粧よりもけばい僕の仮面。何十トンにも及ぶ鉄の塊よりも重い僕の仮面。脱ぎ捨てようにも、こびりついてしまっているので、剥がすことは出来ない。
それでも無理やり剥がしてしまえば、恐らく僕は本当に人間ではなくなってしまう。わかる。僕にはわかる。この化けの皮を脱いだ途端に、恐ろしい怪物が目覚めてしまうことぐらいは予想できる。他人の不幸を餌として、他人の幸福をつまみ食いして、絶望の種をまき散らす。それが僕。嫌だ、それだけは嫌だと思った。
いつしかの父のように、人間から離れたいとは思えない。僕はせめて、人間の真似事でもいいから、それでもまだ、人間らしくいたい。化物には成り下がりたくない。
僕は藁にも縋る思いで、秋山に声を潜めて言った。
「誰にも言わないでね」
きょとんと、秋山は一瞬したけれど、それでもすぐに理解したのか、「わかった」とだけ言ってくれた。もう少し言葉を付け足すとしたら、『僕が人間の皮を被った悪魔だと、誰にも言わないでね』ということである。
僕は阿呆な人間ではない。秋山が僕の本性に気づいているのは間違いなく、そして秋山はそれを誰かに言いふらす可能性があることは明白だ。だからこその口止めであった。
僕は笑顔で、そして秋山はやはり、唇の端を吊り上げていて、その状態でしばらく見つめ合った後に、お互い言葉を紡ぐことなく撤退した。
それから家に帰っても僕は、秋山のあの顔を忘れることが出来ず、一睡もすることができなかった。もしや今頃、秋山は誰かに言いふらしているのではないかと思うと、瞼を閉じることさえも危ぶまれ、息をすることすら苦しく、長い長い闇夜を過ごす。
朝が来ればすぐに学校へと向かい、秋山のことを常に監視し、僕に害を及ぼすような発言をしていないか、それとなく探りをいれる。
「俺は自分のためになること以外、しない」というのが、秋山の口癖であった。それでも僕が執拗に、「そうは言ってるけど、裏では何をしてるかわからないからね」と、表向きでは笑い、裏向きでは怯え、聞いてみると、やはり秋山はこう言うのだ。「そんな無駄なことをするぐらいなら、俺はきっと、女の尻でも眺めてる」
実に下品な返しだけれど、僕にはこの返しが、どうにも胡散臭く思えて仕様がない。何か裏がありそうな気がしてならないのだ。
「秋山は女が好きなのか」
「まあ、な。女が嫌いな男なんて、この世にいない」
「じゃあ、僕が可愛い女を紹介してあげるよ」と、秋山の発言の真意を確かめるべく、そう言ってみると、意外にも秋山は、顔を綻ばせた。
とてもじゃないけれど、女が寄り添ってくるとは思えない汚い笑顔で、秋山は「それは本当か」と言う。「本当さ。僕はこう見えても、女の友達は多いからね」と僕が言う。
秋山は無言で手を差し伸べて、握手を求めてきた。これはもしやと思い、僕が「友達として認めてくれるのか、僕のこと」と言うと、秋山は「ああ」と短い言葉で区切り、肯定した。
僕は腹を抱えて笑いそうになった。僕の心配は無意味だったのだから。秋山は僕が思ったよりも、何十倍も単純な男で、要するに女が好きな、どこにでもいる男子中学生であり、何も心配する必要はなかったのである。
僕の本性を誰かにバラすもなにも、そもそも、秋山は僕のことなど、どうでもよかったのだろう。つまるところ、僕は秋山にとって有害ではないということだ。
初めて、ではないか。僕になんら興味を示さない人間は、秋山が初めてではないだろうか。僕は絶好のチャンスだと思った。秋山を上手く、僕側へと引き込めれば、クラスメイトとの無謀な騙し合いから、退場することが出来るのではないだろうか。
そうとわかれば、やることは一つ。
「秋山と、友達になりたいって、前から思ってたんだ。すごく、嬉しいよ」
「ふうん。変わったやつだな、お前」
「そうかもしれない」
「ああ、だけど、ちゃんと約束は守れよ? 女を紹介してくれないなら、俺はお前と友達になる気はないから」
僕は秋山の肩をポンと叩き、「任せて」と言った。
その日から僕は、街中を渡り歩き、ナンパ紛いなことをして、何人かの女と知り合いになることに成功した。面白いぐらいに、女は僕にひょいひょいつられるので、もしかしたら僕の見目形は優れているのかもしれない。
そうして、学校終わりの放課後に、僕は秋山と喫茶店で待ち合わせし、以前知り合った女を秋山に紹介してやった。すると、なんということだろう。
「ああ? なんだよ、お前らかよ」と、秋山は合計六人いる女をじろりと睨めつけ、入店して早々に喫茶店を立ち去ってしまう。
僕には、秋山が何を考えているのかよくわからず、六人の女に聞いてみた。
「もしかして、秋山と知り合い?」
「知り合いも何も、秋山って言えば、暴走族のヘッドだよ? この辺のちゃらい女ならみんな、秋山と肉体関係持ってるし」
開いた口が塞がらない、ということはなく、僕はなるほど確かに、と妙な納得をした。あれほど女を欲していた理由は、もうこの近辺の女は粗方手をつけてしまったからであり、だからこそ僕が女を紹介すると言った時、嬉しそうな顔をしたのだろう。
しかし、それは置いておくとして、本ばかり読んでいて、クラスから孤立していると思っていた秋山であるけれど、そうではなかった。恐らく、秋山が暴走族の頭を務めているからこそ、誰も近づこうとはしなかった。そういうことだろう。
ああ、もう一つわかった。僕と秋山の会話を、興味深そうに観察していたクラスメイトたちの心境が、よくわかった。アウトローな世界とは、無縁そうなこの僕が、どうして秋山と話をしているのか、気になって仕様がなかったのだろう。
僕はますます、絶好のチャンスだと思った。荒くれ者の秋山と仲良くなれば、僕は晴れて孤独者として存在出来る。嘘に惹かれ、嘘に疲れ、嘘に憑かれ、苦しんでいる僕は、ようやく虚偽の世界から解放される。
僕は女を残し、店を飛び出し、秋山を追いかけた。制服のズボンを腰穿きしている秋山は、すぐに見つかった。確かにあの頃の流行りは、腰穿きであって、街を歩けばそこら中に、そういう着こなしをしている男がいる。けれど秋山に関しては、もはや腰穿きというよりか、尻穿きと言った方が正しい。だから僕は、なんら苦労することなく、秋山を発見することが出来たのだ。
「待ってくれ。別の女を探してくるから」
僕がそう言うと、秋山は退屈そうな目をしながら言った。
「いや、もういい」
「どうして?」
「女はもういい。代わりに、お前に興味が湧いた」
「僕? どうして?」
秋山はズボンのポケットに手を入れて、やはり退屈そうにしている。僕はおかしなやつだと思った。興味が湧いたと言っておきながら、微塵もそういう顔をしていないのだから。
「俺が暴走族の総長だって、知ってたか?」
「いや、知らなかったよ」
「だろうな。それにしても、どうして俺があぶれ者だとわかっていながら、友達になろうとするんだよ。意味がわからない」
秋山があぶれ者だからこそ、僕は友達になりたいと思ったのだけれど、さて、これをどう伝えたらいいのやら。言葉を選ぶ僕に向け、秋山は続け様に言う。
「まあ、理由なんてどうでもいい。そんなことより、俺はお前に興味が湧いた」
「僕は、どうすればいい?」
「俺と友達になれよ」
「でも、女を紹介してないよ?」
「だから、それはもういいって。とにかく、俺にちょっとついてこい」
僕は言われるがままに、秋山の後ろを歩く。秋山の威光を笠に着る形で、僕は街の人に恐れられながら、怯えられながら、避けられながら、歩く。
未だかつて感じたことのない、この感覚。否が応でも、人に纏わりつかれることの多かった僕からすれば、避けられるというのは実に新鮮なものであった。
「おう、お前ら」と、秋山が発声した時には、僕は土手に辿り着いていた。奇妙な表現だと思ったかもしれないけれど、僕はさっきまでの不思議な感覚に気をとられるあまり、自分がどこにいるのか、何をしているのかも、判然としなかったのだ。
秋山の後ろからひょこりと顔を出せば、いかにも悪そうな顔をしたやつらが、十人ちょっと集まっていた。ある者は、単車の上に乗っかり、またある者は、タバコを吹かして、まるで誰かの葬式にでも来たかのように、みな辛気臭い顔をしていた。
「秋山さん、そいつ誰すか」と、下っ端っぽいやつがそう言って、僕を指さす。すると秋山は、僕の背中を力強く叩いて、「こいつを今日から、族にいれようと思う」と言った。
「そんな弱そうなやつを、うちらの仲間にするって? いやいや秋山さん。悪ふざけも大概にしてくださいよ」
「バカ野郎。男ってのはな、ただ喧嘩が強けりゃいいってもんじゃねえ」
秋山が低い声を出すと、れいの下っ端は「すんません……」と、頭を下げる。僕はよくわからぬ状況に混乱はしなかったけれど、それでも、疑問を禁じ得なかった。
「ねえ、秋山。どうして僕を暴走族の仲間にしようと思ったの?」
秋山は制服姿であることも気にせず、仲間からタバコをもらって、一服をする。
「お前、立花って言ったよな」
「うん。そうだけど」
「そうか。よし、じゃあ立花、理由を教えてやろう」
タバコに不慣れな僕を目がけて、白い煙をまき散らす秋山。
「お前は、普通の人間じゃない。だから誘った」
僕はゲホゲホと咳き込み、言った。
「普通の人間じゃなかったら……暴走族に誘うの?」
「そうだ。そういうことだ。族っていうのはな、頭がおかしいやつらの集まりなんだよ。単車なんかじゃ、碌なスピードも出せないのに、それでもこいつらは神速を語る。俺が一番早いだの、お前はとろいだの、くだらないだろ?」
僕は、秋山が何を言いたいのかわからず、とりあえず頷く。
「だけどな、こいつらには見えてる。自分が一瞬の風になってる姿を見てるんだ。いや、もはや酔ってる。もはや騙してる。こいつらは自分に嘘をついてまで、風になろうとしてるんだよ。笑えるよな、まったく」
どこか他人事のように言っている秋山に、違和感を覚えはしたけれど、それに対する質問をしようとは思えなかった。僕は、そんなことよりも気になったことがある。
「暴走族の人たちは、どうして風になりたいの? その先に何かあるの?」
秋山は咥えたばかりのタバコを、ペッと地面に吐き捨て、言った。
「何にもなれないから、風になりたいと思う。このままじゃ、先が見えないから、だからどこまでも走って、その先を知ろうとする。お前にも、わかるんじゃないか」
僕にはわからなかった。何かになりたいから、単車に乗って、風を感じる。そして風となった彼らは、あてもなく走り続け、ゴールを見ようとする。
さっぱりわからない。
僕は風になりたいとは思わないし、先を、ゴールを、結末を知ろうとも思えない。何故なら僕は知っているから。風はこの世界が終焉を迎えても、それでも風として存在し続けなければならないではないか。結末を知れたとしても、またさらなる結末が顔を出すではないか。つまりは、この世に終わりがないということぐらい、僕は知っているのだ。
けれど、秋山たちを含め、暴走族を馬鹿にしようとは思えなかった。僕や、僕のクラスメイトのように、嘘で塗り固められた世界からあえて脱落し、自由に生きている彼らを、もはや褒めてあげたいとすら思えた。
「なんだか、凄いね」と僕が言ってやると、秋山は汚い顔で「だろ?」と返事をする。
僕は相変わらずニコニコとしているのだけれど、誰一人として僕に笑顔を向ける者はいない。目を細めていたり、だるそうに空を見上げていたり、タバコを吸いながら顔を顰めていたり。これは、僕がサッカーを始めたばかりの頃の状況と似ているようで、その実は違う。言うまでもなく、誰も僕に興味がないのだ。
そうは言っても、例外として、秋山だけは僕に興味があるようだけれど。しかしその秋山とて、発言と表情が一致していないのが現状だ。
僕はさして暴走族に関心はなかったが、それでも、居心地の良さを感じた。僕が仮面を使い分ける必要がない、唯一の場所。ここは楽園、いや、天国なのだろうか。
声をあげて笑いたい衝動を堪え、僕もみなに倣って、退屈そうで偏屈そうで、屁理屈をこねるクソガキのように、顔を顰めてみた。
「どうだ立花、一本吸ってみるか」
僕の隣に立っている秋山は、顎で下っ端に指示を出し、僕の元へとタバコを持ってこさせる。見るからに安物のライターではあったが、下っ端は僕に火を差し出す。僕は無言でタバコを咥え、大きく息を吸ってみた。
やはり、苦かった。どうしようもなく苦く、しかし不思議とマズイとは思わない。
「立花、一杯、飲みにいくか」
まさか中学生で、僕がお酒を飲むことになるとは思わなかった。だが、僕が「面白そうだね」と言うと、秋山はこれまた顎で合図を出し、十人かそこらの部下たちに、発進命令を下した。刹那、けたたましい騒音が、土手に響き渡る。自然が奏でる安らかな音色は瞬時に掻き消され、まるで地獄の使者が這い上がって来るような、そういう恐ろしい音が爆発し続ける。頭がクラクラとした。僕は言わるがままに、よくわからぬ男の単車の後ろに乗り、土手を疾走する。振り落されぬよう、必死に目の前の腰にしがみつくと、男は声を荒げて言った。
「おい! そんなだっせぇ格好してんじゃねえよ!」
何がどう、ださいのか知らないが、周りの人を見てみると、誰も腰を掴んではいない。単車の後ろのあたりに両手を添えて、それでバランスを保っているようだ。
僕が真似て、小規模な集団が土手を抜けると、どこから湧いて来たのか知らないけれど、あっという間に単車が群れを成す。つまりは、十人ほどの暴走族が、二十、いや三十か四十ほどの人数となり、まるで一つの生き物のように集合し、そして公道を我が物顔で走るのだ。
暴走族が夜に走行しているのは、過去に見たことがあったが、こんな交通量の多い夕方に爆走しているのは初めて見た。車はブーっとクラクションを鳴らし、僕らを威嚇。すると、どっかの誰かがその車を足で蹴飛ばし、威嚇をし返す。
信号待ちをしている車と車の間を蛇のように潜り抜け、いよいよ先頭へと躍り出る。みな一斉にエンジンを吹かす。凄い音だった。これほどの騒音の真っ只中にいるのに、耳を塞ごうとは思えず、むしろ、どこぞのオーケストラよりも美しいと思った。
エンジン音の重なりは、決して不協和音ではない。これはハーモニー、これは音楽革命、これは天使の歌声。ああ、風が吹いた。
ヘルメットを被ってしまっては、きっとこの風は感じられないのだろう。ほんのわずかではあったが、風になりたいと思う彼らの気持ちが、わかったような気がする。
こうして、僕らは短い時間の爆走を終え、誰かの家に到着した。僕が単車から降り、歩き出した秋山の後ろについて行くと、秋山の手下たちは、声を張り上げる。
「「お疲れさまでした!」」
「おう。もう帰っていいぞ。今日は立花と、ゆっくり酒を飲むからな」
秋山は後ろの部下に、一瞥もくれてやることなしに、玄関へと向かう。恐らくここは、秋山の家なのだろう。僕も振り返らない。後ろからの轟音が鳴りやんだころには、僕と秋山は貧乏くさい家の中で、盃を交わしていた。
二階建ての小汚い家の、ボロボロに破れた障子が印象的な、リビング。椅子はなく、丸い座布団がいくつか並べられているだけだ。換気扇が壊れているとか、何とか言われて、僕は煙い部屋でむせ返りながら、お酒を飲む。
初めて飲んだお酒が芋焼酎だなんて、あまり喜ばしいものではない。所詮、子供の飲むお酒などは、たいして美味くはないけれど、それでも僕は、この身体が火照ったような感覚が、好きだと思った。
暴走族の連中と関わり合いを持つようになってからは、いくぶん、僕の人間不信やら嘘の仮面やらは、改善されてきたように思える。
しかし、完全に払拭することは出来ず、僕は相変わらず学校に行けば、クラスメイトと笑顔で話をしていたし、教師に対しても仮面を外せなかった。
秋山も秋山で、僕と多少仲が良くなったとはいえ、積極的に話しかけてくるような男ではないので、クラスで一人、読書をしていた。
そうこうしているうちに、高校受験がもうじき始まるという季節になり、僕はどうしたものかと考えていた。というのも、僕は秋山と同じ高校に通うつもりであったのだけれど、その秋山は高校には進学せずに、働くと言っていたのだ。
「俺は貧乏だから」というのが、秋山の決まり文句であり、「奨学金とか、いくらでも高校に通う方法がある」というのが、僕の常套句であった。
恐らく、僕が一人の人間に固執したのは、これが最初にして最後であろう。秋山といると楽しいから、一緒にいたいというわけではない。そしてまた、秋山といると安心するからというわけでもないのだ。実に酷い言い方ではあるが、秋山を見ていると、「ああ、まだ僕の方が人間らしい」と、落ち着くことができるのが理由である。
妙な勘違いをされたくはないので、あらかじめ説明しておく。安心すると落ち着くとでは、似て非なるものだ。安心するとはつまり、心が安らぐことであり。落ち着くとはつまり、文字通りの意味で、落ちるところまでたどり着いた際に感じるものであり、言ってしまえば、負の感情に近いと、僕は考えている。
要するに、秋山を見下しているのだ、僕は。何時だったか忘れたが、秋山が僕のことを下に見ていたあの状況が、逆転してしまったわけである。
ずっと秋山のそばで、色んなことを見てきた僕だからわかる。秋山は暴走族の総長という自分の立場を、あまり好ましいものだとは思っていない。否が応でも、相手から喧嘩を売られれば、立場上それを拒否できず、喧嘩をした後などはよく、「俺は争い事が好きじゃない」と言うぐらいだ。
極めつけは、「俺が抱いてきた女はどれも、俺のことなんざ見ちゃいねえ。どいつもこいつも、俺の肩書にばっか、惹かれてやがる」とか言って、ヤケ酒するぐらいだ。
詳しい話を聞いてみれば、なんでも秋山は、秋山の兄が暴走族の元総長だったらしく、その後継者として強制的に抜擢されたらしい。
これはもう、見下すしかあるまい。常に他人を物差しとし、他人を騙し続けていた僕よりも、秋山の方がはるかに悲惨と言えよう。
秋山はもう、人間ではない。人間もどきの僕よりも、ずっと人間らしくない。惨めな生き方を選ばざるを得ず、それはもう家畜のように薄汚い生き様だ。
もしかしたら、秋山にも人間らしくいられた時期があったのかもしれないが、今となってはそれも過去の話であろう。
貧乏であり、要らぬ肩書を背負わされ、世間から後ろ指さされ、しかし本人はそれを非常に気にしており、出来ることならそういう障害を全て、取り除きたいと思っている。
見事なまでに、憐れな人間だと、僕は思った。そして同時に、僕はなんて最低な男なのだろうとも思った。秋山を見ていると僕は、心底胸が弾み、心が躍り、最高な気分になる。
ああ、もう認めてしまおう。僕は自分を人間もどきと言っていたが、秋山を見下していたが、その秋山よりも屑だと、認めることにしよう。
「秋山、君はなんて可哀想なやつなんだ。同情するよ」
「そうか。お前はわかってくれるか。ありがたい」
愉快だ。
「秋山、君はなんて運のないやつなんだ。きっといつか、良いことがあるさ」
「そうか。お前だけはそう言ってくれる。ありがたい」
愉快だ。巧みに仮面を使い分け、悲しい顔をしていながら心では笑ってる僕に、秋山は気づかない。僕の肩を叩いて、ありがたい、ありがたいと言っている秋山であるけれど、まさか自分が嘲笑されているとは思うまい。
結局のところ、秋山は僕を信頼し、僕と同じ高校に通うことを決意し、総長としての役目を果たしながらも、懸命に勉強をしていた。
しかし、高校受験が目前まで迫っているにも関わらず――いや確かに、秋山は相変わらず必死に勉強をしていたけれど――学校の休み時間には、いつものように本を読んでいた。
長年の疑問と呼べるほど、機が熟していないが、それでも、それなりに疑問を感じてはいたので、僕はふと、秋山に聞いてみた。
「どうして、いつも本を読んでるの」
秋山は、恐らく僕と出会ってから初めて、無邪気な笑顔で言った。
「俺は子供の頃から、小説家になりたいって、思ってたんだ。だけど、家が貧乏だったから、口が裂けてもそんなこと言えなくて、だからこうして、本を読むことで気持ちを紛らわせてるんだよ」
僕はもう、笑いを通り越して、泣いてしまった。だが、それは悲しい気分だからとか、同情したからではなく、あまりにも面白かったから泣いたのである。
いわゆる、笑い泣きというやつであろうか。
しかし本当に、僕は笑ったりはしない。もうすっかりお馴染の仮面を使い、華麗なまでに悲しい顔で、けれど心では笑い、僕は秋山に言った。
「貧乏な家庭で育ったけど、それでも小説家になった人は、きっといる。だから秋山も、めげずに頑張ってみたらどうだい」
秋山は照れ臭そうに鼻をさすりながら、「けど、俺にはたぶん、文才がない」と言ってきたので、「文才は重要じゃない。面白いかどうかが、大事だと思うよ」と、言ってやった。
すると、どうだろう。秋山は自信を持ったような面もちで、「そうだよな。お前の言う通りだよな」と、言葉を返してきたのである。
どこまでも愉快なやつだと思った。少し考えればわかることだ。文才は確かに重要ではないが、それを言い換えるのであれば、文才はあって当然のもの。要は、文才があっても面白くなければ小説家失格である。僕の言葉の意味を履き違え、めでたくも勘違いしている秋山に、こればかりは同情してしまいそうになった。
僕は思わず笑ってしまう前に、秋山のそばを離れ、いつものようにクラスメイトたちに微笑みかけ、変化のない日常へと戻った。




