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立花京介からの手紙3

 僕の上には二人の姉がいた。二歳離れている姉の由紀。五歳離れている姉の涼香。片親というわけではなかったので、子供三人と両親の二人。あわせて五人家族であった。

 あの時代にしては、五人家族はけっこう珍しい方であったと思う。やはり、バブル崩壊から数年が経ったとは言え、それなりに厳しい時代ではあったのが原因であろうか。

 末っ子が可愛がられるのは世の常と言ってしまっても過言ではない。両親の関心は由紀や涼香よりも僕へと向けられていたのは確かであるけれど、しかし、由紀や涼香もまた僕を可愛がってくれた。僕が男であったからなのかもしれない。

 僕の生まれは川崎であるが、あの場所の記憶がまったくない。それもそのはず。川崎で過ごしたのはわずか一年ほど。僕が生まれてすぐに世田谷へと引っ越したからだ。

 世田谷での日々は鮮明に覚えている。いや、忘れたくても忘れられないと言った方がいいか。大企業に勤める父のお陰様で、僕は高級住宅街で暮らすことが出来た。

 そうして物心ついた時には、僕はお金持ちの家の子供が集う幼稚園へと入った。正門を潜ってすぐのところに、園長が飼っていた犬の小屋があり、僕もみんなとまじってあの犬を愛でたのは思い出深い。しかし、それぐらいだろうか。

 世田谷で過ごした日々の中で、まともだと思える記憶はそれぐらいだ。

 先にも述べた通り、僕のまわりには富裕層しかおらず、何かと窮屈な思いを強いられた。誰かと遊ぶにしても、公園で遊ぶことは禁じられ――僕の友達はみなピアノを習っていた。そして指を怪我してピアノの演奏に支障をきたすといけないから――誰かの自宅で遊ぶのが常であり、それもあの当時流行っていたゲーム機などは買い与えられることはなく、僕らは淡々と遊びをしていた。

 そう、淡々と。

 まるで演じるように、僕らは必死に遊んでいたのだ。

 そんなに嫌なら遊ばなければいい。そう思う人はいるかもしれない。けれど、そうはいかないのである。子供同士で遊ぶというよりは、主婦の会合に付き合わされていると言った方が正しい。なにぶん、両親共働きをするような家庭は一つもなく、そして、暇を持て余した母親たちは、子供の送り迎えという大義名分に便乗し、まんまと余所の家へと上がり込む。

 つまり、僕たち子供は、遊び相手を選ぶことすら出来ない。

 母親同士で気の合う人を見つけ、そして今度は、その子供同士で遊ぶことを命ぜられる。そうだもはや命令だ。拒否など出来やしないのだから。

 この頃からだろうか。僕はおとなしい方でも活発な方でもなく、要するに普通の子供であったのだけれど、母親の都合で友達を決められ、たとえ気が合わなくても仲良くすることを強いられ、そうこうしているうちに僕は、何もかもを他人にあわせるようになった。

 今でも覚えている。「きょうすけくんはどうしていつもわらってるの?」と、いつものごとく遊んでいたら、とある男の子が聞いてきた。「だって、たのしいからだよ」と、僕は心にもない返し言葉をおくる。僕は知っていた。笑ってさえいれば、その場をしのぐことが出来るということを。僕が笑えば、友達は笑う。幼稚園の先生も笑う。両親だって笑う。

 卒園する頃にはすっかり、僕は笑顔という仮面を手に入れていた。

 そして小学校。僕は入学と同時に、両親からヴァイオリンをやれと言われた。今までは、二人の姉がヴァイオリンをやっていたのだけれど、二人とも早めの反抗期を迎え、やめてしまった。楽器やら道具やら、何かと環境は整っていたので、そのまま捨ててしまうのは勿体ない。というわけで僕が代わりにやることになった。

 実につまらないと、あの時の僕は思った。いったい何が面白くて、二時間も三時間も演奏指導されなければいけないのかと思ったのだ。

 しかし僕は笑顔を忘れなかった。いかに苦しくても、いかに退屈でも、僕は笑ってみせた。やはり僕は、笑顔でいればどうにかなると、そう考えたのだろう。けれどまあ、その甲斐あってか、僕を指導していたヴァイオリンの先生は、こう言ってきた。「音楽を楽しむ心があれば、京介君はどこまでも上にいける」と。

 果たして先生の言う『上』とは、どこを指しているのだろうか。僕は子供ながらに思った。所詮大人も、曖昧なことしか言えないのだと

 僕はその時は、笑って「はい」とだけ返事をした。それからも僕は、楽しくもないヴァイオリンの練習に精を出し、やがてコンクールに出てみないかと先生から言われた。

 僕の子供心が歪み始めたのは、この辺りからだろう。

 コンクール入賞。しかも金賞である。僕は事態が上手く呑み込めず、家に帰って祝勝会をされても、喜べなかった。この時ばかりは笑うことも忘れ、ただボーっと両親からの褒め言葉に頷いていた。そんな僕に対して、二つ上の姉――由紀は不服を申し立てた。

「私だって一生懸命頑張って、それでコンクールに出たのに、お父さんもお母さんも褒めてくれなかった!」

「由紀、落ち着きなさい」と、荒ぶる由紀に対して、父は諭すように語りかける。「結果を出せなければ、いくら努力しても意味がない。それにお前はもう、ヴァイオリンをやっているわけではないだろう? 逃げ出したお前にとやかく言える筋合いはない」

 もう由紀は一言も喋らなかった。恐ろしいまでの正論を言われてしまい、返す言葉がなかったのだろう。しかし、これが原因で、僕と由紀の仲が悪くはならなかった。

 その後も優しく接してはくれた。けれど、由紀の言葉はどこか遠くから聞こえるようで、僕の心にはまったく響かなくなり、そうして僕は理解した。

 由紀は僕のことを弟としてではなく、一人の天才として見ているのだと。由紀がいくら努力しても上達しなかったヴァイオリン。それなのに、由紀よりも遅れた形で始めた僕が、いきなりコンクールで金賞をもらってしまった。だから由紀は、僕の存在を遠くに感じてしまったのだろう。

 由紀がよそよそしくなってからと言うもの、僕は非常に苦しみ、悩んだ。どうしようもない罪悪感が僕を、駆り立てたのだ。謝って済む話ではないし、かといって開き直れるほど傲慢な神経を持ち合わせてもいない。気づいた時にはもう、僕はヴァイオリンを見ることも、触れることも出来なくなっていた。弓を握り、弦に指先を添えると、後ろで誰かが囁くのだ。「お前のせいだ」と。

 僕のせいで由紀は、抜け殻のように空虚な人間になってしまった。そういうことなのだろうか。ああ確かに、由紀は変わってしまった。父と話す時はうわの空。僕と話す時は苦笑い。極めつけは、何事においても手を抜くようになってしまった。

 僕は怖くて聞けない。聞けるわけがなかった。

 どうして由紀は変わってしまったのかと、そんなことを聞けるはずが、ない。

 僕は初めて、両親に反抗した。

 もうヴァイオリンはやりたくないと、必死に懇願したのである。父も母も僕を怒鳴りつけ、しまいには三日三晩ろくな食事も与えられず、僕はお仕置きをされた。

 お仕置きとはつまり、悪いことをしたから、それに準ずる罰があたえられるということ。僕は安心した。何故なら僕は、悪いことをしたのだから。それを咎めてもらえるのであれば、非常に心地が良い。由紀に申し訳ないことをした僕は、天罰を下された。

 ああ、そうだと、僕は妙な納得をする。

 才能は罪だと。天才は罪人だと。僕はそう思った。

 そして、ある日のこと。両親から叱責されている僕を不憫に思ったのか、五つ上の姉――涼香が両親を説得しにかかる。この時の涼香は、小学校高学年ぐらいであっただろうか。しかし、大人も顔負けの強情さで、涼香は両親を説き伏せてしまった。

「あたしたち子供に、親の勝手な希望を託さないでよ」という言葉が決め手となり、父は気まり悪そうにそっぽを向き、母は女特有のヒステリックをおこし、リビングは非常に混沌とした有様になった。僕は涼香に手を引かれ、めっきり入ることのなくなった部屋――由紀と涼香の共同部屋――へと招かれる。僕は由紀と顔を合わせるのが嫌で嫌で仕様がなかったのだけれど、両親は喧嘩を始めてしまったため、とりあえずそこに避難をすることに。

「京介、何も悪いことしてないのにね」と由紀。

「そうだよ。京介が可哀想だよ」と涼香。

 僕は二人の言葉に思わずゾッとした。才能は罪だと、ようやく自覚をすることが出来たのに、それを二人は真っ向から否定するような発言をしたのだから。

「違うよ、悪いのは僕だよ」と、僕は言った。しかし由紀は「ううん。悪いのは私」と言って、涼香はやはり「京介が可哀想」と言うのであった。

 僕は僕を疑う。まさか僕は悪いことなど、一つもしていないのではないかと、そう疑問を抱くようになった。だが、それと同時に、由紀と涼香への疑念も強まってしまう。

 あの頃の僕にとって、親の存在は強大にして絶対的なもので、反抗するということはつまり、この世の中からはみ出してしまうのと等しいと、そう考えていた。

 それなのに、由紀も涼香も両親を非難してばかりいる。いったい何のために? 彼女たちのメリットは? 僕の心に引っかかる。これは今すぐに結論を導かなければならない。さもないと、僕は二人の姉の陰謀に気づけぬまま、どうにかなってしまいそうだと思った。

 答えはすぐに出た。

 きっと由紀と涼香は、子供特有のあの反抗期とやらにさしかかる時期なのだろう。だから親に意味もなく反抗をする。そう、意味などないのだ。生憎ながら、幼い僕にはいまいち反抗心というものが理解できなかったが、それでも少しぐらいはわかってあげようと思った。

 やはり才能は罪であり、それを否定するのは間違っている。由紀と涼香は間違っている。しかし僕は、二人の意見に賛同をすることにした。

「僕は何も悪くない」と二人に言ってやると、どこか満足そうな顔になる。由紀は「そうだよ」と言って、涼香も「その通り」と言った。

 なおも僕は言う。出来る限りの悲しそうな顔をして。

「どうして僕が怒られなくちゃいけないんだろう」

「あたしは京介の気持ちをわかってあげられる。だからもう、悲しむ必要はないわ」と、案の定、涼香は僕の仮面に騙されてしまう。由紀はどういうわけか「ごめんね、ごめんね」と何度も僕に謝罪をしてくる始末。

 僕にはわかってしまった。この世界は、正論ばかりで成り立っているわけではないのだ。時には歪んだ事実でさえ、認めてあげる必要がある。

 そして、そういう場合は、悲しい顔をして相手に賛同してあげれば、誰も嫌な思いをせずに済むものなのである。

 小学校に入ってばかりの僕は、これで二つ目の仮面を我が物とした。

 もう二度と同じ過ちは繰り返さない。そう心に誓った僕は、「すまなかった京介」と謝罪をした父の前で悲しい顔をし、同じように謝ってきた母にも似たような表情で自分を偽ることにした。僕が悪いことなど明白であったが、それでも両親の意見を否定はしない。

 ここからは、暗黒時代の到来である。

 姉の涼香の勧めで、僕は涼香と同じそろばん教室へと通い出した。ただ何となく、涼香からの誘いを断る理由もなかったので始めたそろばんであったが、ヴァイオリンと等しく、僕はみるみるうちに上達していった。それはもう、姉である涼香のメンツを潰しかねないほどに。けれど、既に僕は学習をしている。才能は罪。天才は罪人。しかるべくして僕は、自らの才能を隠すために、わざわざ、毎日のようにそろばん教室へと通い詰め、死に物狂いで努力をしているように見せかけた。すると、どうだろう。

 誰も僕を天才だとはみなさず、むしろ、自分たちと同類であるかのように接してきた。僕は凡人であるから、だから努力をしている。その結果がついてきたまでのこと。

 そんな筋書きが完成し、これで晴れて涼香の立場は守られ、僕も涼香も誰も嫌な思いをせずに済んだ。しかし僕は、ふとした拍子に思ったのだ。

 どうして僕は、そろばんをやっているのだろう、と。

 そもそも、僕が天才だと悟られぬよう、わけのわからない努力をするぐらいならば、最初からそろばんをやらなければ良かっただけの話ではないか。

 考えれば考えるほど、僕は首を傾げてしまう。そうして僕は、何の前触れもなく、唐突にそろばんをやめてしまった。

 小学校一年、二年、三年と何もやらずに過ごす日々は続く。けれど、たまたま体育の授業でやった野球が、存外に面白く、僕は少し興味を持った。

 しかし思い出せ。僕は何をやっても、並の人間を遥かに上回ってしまう。この野球とて同じことになるのではないか。思いがけず誰かを苦しませてしまうのはもう、懲り懲りだ。

 僕は誰にも野球がやりたいとは言わず、黙って心の奥に閉じ込めた。

 だが、事件は起きた。

 笑ったり、悲しい顔をしたり、このたった二つの仮面を使い分けるだけでは限界 だったのだろう。父は僕に言った。お前には、やりたいことがないのか、と。

 僕はどんな顔をすれば良いのかがわからない。笑顔で「ないです」と答えると、 父は非常に落ち込んでしまうし、悲しい顔で「ないです」と言ってみても、やはり父は落ち込んでいる。途端に、僕は恐ろしくなった。

 僕にはもう、笑顔か、悲しい顔の二つしか、出来なくなっていたのだ。辛うじて真顔になることは出来るけれど、それはポンコツな機械のようにぎこちなく、ましてや怒ることや泣くことなどは出来やしない。何より困ったのは、曖昧な表情がつくれないこと。

 何かを言われて、困るべきところでも、僕は困る顔を知らないから、笑顔か悲しい顔で誤魔化すしかない。へこんだ父を見つめながら、僕は思う。誰かが悲しむ顔はもう二度と見たくない。由紀を変えてしまったあの記憶が、ふっと、蘇る。

 僕の父は、今まさに、あの時の由紀と同じような顔をしていた。僕はまたしても失敗をした。僕の誓いは、いとも簡単に崩れ落ちてしまった。

 僕は必死に、仮面を探す。どこかに落ちてはいないかと、目玉をぎょろりと動かす。けれど、探せど探せど見つからなくて、やはり僕は、笑顔で父を見上げていることしか出来ずにいた。背筋を丸めて去り行く父を眺めながら、僕は僕に、失望した。

 そうして、家族全員が寝静まった夜、僕は父の書斎へと忍び入り、何か解決策はないかと模索することにした。悲しんでいた父を喜ばせるような、一発逆転を出来るような、とっておきの秘策はないのだろうか。

 だが、父の書斎は難しい書物ばかりで、僕の理解を遥かに超えている。片っ端から調べていると、ある一つの雑誌が目に飛び込んだ。

 それはスポーツ雑誌であった。タイトルを見れば、子供と楽しむサッカー、とか何とか書かれており、僕は思わず「これだ!」と声を上げてしまう。

 翌日になって早々に、僕は父にサッカーがやりたいと言った。どちらかと言えば、野球の方がやりたかったのだけれど、今は一刻を争う事態である。

 僕はある程度の確信をもって、父の顔を見た。すると、ようやく父は笑ってくれたのだ。僕の肩をポンと叩いて、「じゃあ、明日にでもどこかスポーツクラブを探しにいこう」と、大変嬉しそうに父は言ってくれた。

 僕は喜ばしい思いで一杯だった。しかし、それもほんのわずかの間。いざサッカーをやってみれば、僕の身体能力はずば抜けていて、新入りの癖にレギュラーの座を獲得してしまった。ポジションはフォワード。いわゆる花形の位置である。

 お得意の笑顔と悲しい顔を使ってみるが、僕は実に見事に嫌われてしまう。試合中に笑えば、「笑ってんじゃねえ」と仲間にどやされ、悲しい顔をすれば「めそめそしてんじゃねえ」と、これまたどやされる。また、だ。またしても僕は、仮面を探していた。

 けれど、新たな仮面は案外、あっさりと見つかる。それは怒り。僕は大して不快な気分ではないのに、それでも怒るべきだと考えた。

 だってそうだろう。

 僕の仲間はみんな、揃いも揃って怒ったような顔をしている。つまり、サッカーをやることにおいての鉄則、なのだろう。そうとわかれば、迷う必要はない。

 僕はプツンと、血管が切れてしまったように、顔を真っ赤にさせ、偽りの怒りを演じてみせた。結果は大成功。みんなは静まり返り、さっきまで僕がやっていたように、笑っていた。

「ようやくお前も本気になったか」と、仲間は言った。

「ああそうだよ。僕は本気だよ。だから怒った」と、僕は言った。

 こうして着々と仮面を収集していた僕にとって、もはや怖いものなど存在しなかった。思いがけず誰かを傷つける恐れもなく。誰かの期待に応えられないという恐れもなく。誰からも相手にされないという恐れもない。

 僕は完璧な人間だ。自らの本性を、正体を、誰にも見せることはないのだから。 その結果として、僕は姉からも両親からも友達からも、果てには学校の先生までも騙すことに成功した。みんなは言う。京介は、京介君は、良い子だねと。

 そうだ。僕は子供の鑑だ。僕のような人間が、子供のあるべき姿なのだと、そう実感した時には、僕は小学校を卒業していた。

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