第一章 紫色の〝獏〟 ~『名前』と『称号』~
ようやく第一章終わりです。
しばらくして、〝獏〟が何かを思い出したように、
「そう言えばあなたの『名前』を訊いていませんでしたが、何て言うんですか」
「え?」
あたしはぽかんとして〝獏〟を見詰めた。
「『なまえ』……って、何?」
「え?」
今度は〝獏〟がぽかんとする番だった。
あたし達はたっぷり五分間見詰め合った。
五分後、茫然としながらも先に口を開いたのは〝獏〟だった。
「何って『名前』ですよ、『名前』。他人があなたを呼ぶ時に使う名称」
「あ……ああ、市民ナンバーのことね」
「市民ナンバー……!」
〝獏〟は絶句した。
「あたし達は《地区》名と出生病院区と出生ナンバーと居住区ナンバーで呼ばれてるの。あたしは、日本・西34-34628-129。だいたい同じ病院で生まれた人達が集まっているから、出生ナンバーだけで済ますことが多いわね。あたしは34628って呼ばれてる」
〝獏〟は、唖然としてあたしを見詰めていた。
「あ、そっか。あんたも『あんた』じゃ、ちょっと変よね。好きな番号言ってみて」
〝獏〟はまだあたしを見詰めている。
「ないの? じゃね、あたしが34628だから34629──」
「やめて下さい!」
〝獏〟が悲鳴をあげた。
「やめて下さいよ、そんな数字の行列!」
「え?でも、あたしの周りにあたしの次のナンバーの人っていない――」
「あのォ、ですねぇ」
あたしの言葉を再び遮った〝獏〟は、
「機械じゃないんですよ。何が悲しくて数字を並べなくちゃならないんですか!」
悲鳴に近い言い方をした。
「……数字、嫌いなの?」
あたしは〝獏〟の気迫に押され、おずおずと訊ねた。〝獏〟はそんなあたしを見ると、小さく息をついて、表情を和らげた。
「すみません、感情的になって……。数字は嫌いじゃありません。でも、自分が数字で呼ばれるのがいやなんです。まるで何かの一部になってしまうようで……。自分の存在理由がなくなってしまう気がするんです。それくらいならまだ〝獏〟と呼ばれてた方がマシです。少なくとも自分が何者かわかりますからね」
〝獏〟は、しんみりとした口調で言った。
「そ、そうだったの。こっちこそゴメン」
あたしは何となく謝ってしまった。
「いいですよ。ところで『名前』のことなんですけど……ここでは『名前』を使ってないんですか?」
「だから、『名前』って何? 市民ナンバーじゃないんでしょう?」
〝獏〟はしばらく考えてから、突然関係のないことを言い出した。
「えーと……歴史は習っていますか?」
「歴史って……地上史のこと?」
「ええ、多分。文明の発生とか、年代を追った文化の移り変りとか……」
「習うわよ」
「その時、有名な偉人なんかのことをどういうふうに習いますか? 例えば地動説を唱えた人物とか、初めて船で世界一周した人物とか……」
「えっと、地動説は『コペルニクス』で、世界一周は『マゼラン』……だったかな?」
「そう!」
〝獏〟は急に元気になった。
「それですよ! その『コペルニクス』とか『マゼラン』が名前なんです」
「へーえ! あたし、『称号』かと思ってた」
「『しょうごう』?」
「うん。偉い人や素晴らしいことをした人に特別に与えられる名称のことよ」
「ああ、『称号』ですか。そんな人、今でもいるんですか?」
「いるわよ。『市長』とか『医師』とか『局長』とか……」
「意味が違いますよ」
がっくりと肩を落としてから、呆れたように〝獏〟が言った。
「それは役職名でしょう。その地位から離れたらなくなってしまう名称じゃないですか」
「そりゃそうだけど、『市長』なんてあたしが生まれてからずっと変わったことがないわよ。『市長』はあたしが生まれる前から『市長』だもの。『市長』って言えば『市長』しかいないもの。『市長』は市民ナンバーで呼ばれないもの」
「はいはい、わかりましたよ」
投げ遣りな口調だった。
「そういう人がいるって言うのはよーく、わかりました。……で、あなたには『名前』が無いんですね?」
〝獏〟は念を押した。あたしは頷いた。
「昔の人はみんな『名前』ってのを持ってたの?」
「はい」
「どうして? 昔はみんな特別な人ばかりだったの?」
「違います。『名前』は親がつけてくれたんです」
「ええぇぇっっ!」
あたしは叫んだ。親って、そんな事もしてくれたの?
〝獏〟はきちんと座りなおすと、あたしを正面から見詰めた。
「『名前』――正確には『姓名』といいます。『姓』は先祖代々受け継がれるもので、自分の所属を表します。『名』は生まれ出た時に近親者――たいていは親ですが――つけてくれます。その子の幸福を願ったり、親の名前から取ったり、過去の偉人の名前や自然現象や希望を入れたりもしました」
〝獏〟の口から語られる、『名前』と言う過去には当たり前で、今は無くなってしまった風習。とても新鮮な驚きだった。
「もっと昔には『真実の名』と『通り名』というかたちもありました。『通り名』とは普通に呼びかける時や当人を指す時に使い、『真実の名』は隠された名でその人の本質を表し、ごく親しい者や信頼できる者意外には教えませんでした。『名前』には魔力が秘められていて、知られると支配されると考えられていたからです。他に、一人でいくつもの名を持っている人もいました。国によって名付け方は違いますが、大体こんなところです。あと、名付け親は『名前』をつけた者に対する責任を負ったりもしました」
〝獏〟の話が終わって、あたしは疑問が一つ、涌いてきた。
「ねえ、その方法だと同じ『名前』の人がいたんじゃない?」
「はい」
「ややこしくない?」
「多少混乱することはありました。でもだからと言って、『名前』を安易に変えようという人はあまりいませんでしたね」
「どうして?」
「理由はいくつかありました。まず、自分の所出をはっきりさせるためにはどうしても必要だったから。次に『名前』自体が意味を持っているからです。意味があるというのは、それだけで充分に力を持っているということです。そして最大の理由は、形のないものでしたが親が自分のためにしてくれた最初のプレゼントです。つまり、親の愛情の証しです」
〝獏〟は胸を張って言い切った。それを見てあたしは泣きたい気持ちになって、うつむいてしまった。
あたしには〝獏〟が言うような胸を張って言い切れるほどの想いを、両親に対して持っていない。あたしだけじゃない、きっと両親もそうだろう。子供は独立するまで保護して育てる『義務』の対象でしかない。今の人達はみんな、自分以外の人に関しては親であっても一様に関心を持っていない。それは、個人のプライバシーを尊重するということが一番大切だということを小さなころから教えこまれるからだ。
仕方がないといえば仕方がないのだけれど、何だか寂しい。あたしが疎外感とか孤独感を感じるのはいつも「仕方がない」と思った後だ。そんなふうに思うのは良くない事だと周りから言われれば言われるほど、孤独感が強くなり、この世に自分一人しかいないような気がする。
昔の人は『名前』というもので自分の属するところを知っていた。きっと寂しさなんて感じなかったのだろうな――あたしは考えて、そして、昔の人達が羨ましいと思った。
つかの間自分の思いに浸り込んで、きっと暗い顔をしていたのだろう。そんなあたしに、〝獏〟が思いもかけないことを言い出だした。
「私が『名前』を付けてあげましょうか?」
あたしは顔を上げた。〝獏〟の黒い穏やかな瞳があった。
「『名前』が無いなら、『名前』が欲しいなら、素敵な『名前』を付けてあげましょうか?」
〝獏〟の声は優しかった。
「……うん」
あたしは呟くような声で返事をした。
「あたし、『名前』が欲しい……」
しばらく考えてから〝獏〟は口を開いた。
「……それじゃあ」
*** ***
結局〝獏〟の名前は〝獏〟ということになった。あたしは『名前』と言うモノの付け方がわからなかったし、当然センスもない。
「じゃあ、〝獏〟が自分でつければいいじゃない」
と言ったら、
「こういうモノは自分でつけるものじゃないんです。それにさっき教えたでしょ? これはプレゼントなんです。自分で自分にプレゼントって、空しくないですか?」
と、言うことらしい。
そしてその日は、その後も〝獏〟といろいろな事を話した。気が付くと朝になっていて、ほとんど眠る時間がなかった。まあ、仮にベッドに入ったとしても興奮して寝付けなかっただろうけど。
本当なら眠れなかったというのはとても辛い事なのだけれど、あたしは苦痛には感じかった。それどころか、逆にとても心が満たされた感じで、幸せだった。