6、接近
祝辞を述べ終わった生徒会長が、普段からは考えられないほどに上機嫌なのを見て、副会長である蔵灘諒は彼に声を掛けた。
「会長、どうかされましたか?ご機嫌ですね」
「あぁ、諒か」
春間途雪は、切れ長の瞳を背後の諒に向け、端正な口許を上向けた。
「面白いものを見つけた」
「……またですか、会長」
「何だよ、そのため息は」
諒は呆れ返って物も言えなくなった。この人は反省というものを知らないのだろうか、とつくづく思う。
「あまり行き過ぎた行動は控えてくださいよ……弟君の件で、散々搾られたこと、もうお忘れになったんですか?」
「あぁ、直のこと?良いだろ、結局未遂だったんだから」
しれっと言いのける生徒会のトップに、副会長はただただため息を深くするしか出来なかった。
(穴が空くほどに俺を見つめていた……さて、いつ声を掛けてあげようかな?)
入学式が終わると、新入生はそれぞれの教室に移動となった。
「今日から皆の担当になる、彦根和臣だ。よろしくな!」
上総と三穂の担任は、彦根和臣という三十五歳の男性教諭だ。甘いマスクに、均整の取れた痩躯。既に何人かの女子生徒からは熱い視線を注がれているようだ。その担任に指示され、一人ずつ自己紹介をしていく。全員終わってから一通りの連絡事項が伝えられ、入学一日目は正午過ぎに無事に終了したのだった。
上総は、あまり人付き合いが得意ではない。ましてや自分から初対面の人間に声を掛けるなんて、滅多に考えられない。
だからホームルームが終わると、シラバスを鞄に入れるのももどかしいくらいの感覚で、さっさと教室を後にする。こういうのが友達が少ない理由なのだと分かってはいても、自分にはこうしか出来ないのだ。
そして何より――
「生徒会室…」
式場の壇上で滔々と祝辞を述べて見せた人が気になって仕方なかったから。
『あの人』に似ていて、名前も漢字一字しか違わない存在。気にならないわけがなかった。
だが生徒会室を見つけたものの、そこからのことを上総は何も考えてはいなかった。いきなり押し掛けられても、相手だって困るに決まってる。
(何やってるんだ…俺、)
考えなしな自分に、ため息も深くなる。抱えた鞄を抱き締め過ぎて、革がぎゅぎゅっと変な音を立てた。
「帰ろう――」
虚しくそう呟いてぐるりと体の向きを変えれば、目の前に人が居て、上総はひどく驚くハメになった。
「っ!!」
「生徒会に何か用?」
微かに香る、柑橘系の匂い。式場で聞いた声に、体が硬直する。
「あ―――」
間抜けに漏れた一語に、相手が口許を緩めた。
生徒会長――春間途雪は、自分にはやはり“運”が向いていると思わないで居られない。ちょっかいを掛けようと思っていた存在が、何の細工もなしにこうも易々と自分の前に現れるなんて。
「なっ、」
生徒会室のドアを開け、彼の手首を掴んでその華奢な体を部屋の内側に押し込む。「い、痛っ、」
来客用のソファーに何の躊躇もなく押し倒す。
「なっ、何するんですか!」
怯えながらも、上総は喚く。『あの人』と瓜二つだけど、絶対に『あの人』ではないと確信する。
『あの人』はこんなことしないはずだ。
「何って…入学式で俺のことをまじまじ見てたくせに。こんな近くで見られて嬉しいんじゃねぇの?」
「そ、それはっ」
「それは?」
「あ、あなたが同じ顔だから……」
同じ顔、という言葉に、整った眉がぴくりと動いた。
「同じ顔だ?」
さっきまでにはなかった、苛立ちを含んだような低い声。顔を更にずいっと近付けられ、上総は更に身を強張らせる。
「あ、あの…」
「同じ顔。…そうか、お前もあれに毒されたクチか」
「毒……」
「あれは止めておけ。ろくなことにはならん」
「あ、あなたに…」
無理矢理押し倒している人間に言われたくない。
上総がそう言い掛けた瞬間、がりっという音とともに左の首筋に噛み付かれた。いきなりのことに目を白黒させる上総。しかも、噛み付かれたあとも相手の口はすぐには離れて行かず、そのまま皮膚を吸って来る。
「っ……、やめて下さいっ」
「あれと関わらないって約束するなら、止めてやる」
喋るために口が離されたところを狙って相手を突き放そうとしたが、あっさり片腕で相殺される。
「……っ」
「それに、お前の……すごく“旨そう”だ」
「!」
一気に身体中から血の気が引く感覚。
「はな、放して下さいっ!!」
「い・や・だ」
「っ!」
更に首筋を吸われ、上総は皮膚を粟立たせた。恐怖よりも嫌悪感がぶわっと膨れ上がった。そして、途方もない怒りも感じた。
「はな……せッてんだろうが、色情魔がっ!!」
普段からは考えられない乱雑さで、上総は男の腹に蹴りを入れた。
「と、」
たいしたダメージは与えられなかったが、体を解放されるには十分だった。男が上体を起こしたのを見計らい、上総はソファーから離れた。迫力はないと分かっていつつも、男を睨み上げる。
「あ、あの人とあんたじゃ全然違う!あの人は、こんなことしないっ」
上総の言葉を、男は柳に風、といった体で聞き流していて、その態度が更に癪に障った。
「し、失礼します!!」
こんな場所、一秒だって居たくない。それに何より、『あの人』と同じ顔にこんなふうに接されたくなかった。『あの人』を汚された気分だ。
上総は思い切り目の前の相手を睨み付けると、彼を押し退けるようにして生徒会質を足早に後にした。
……生徒会長は、追っては来なかった。だから上総は気が付かなかった。生徒会長が、「新たな獲物を見つけた」とでも言うような愉快げな表情をしていたことに。