赤い雪
初めて書いた小説です。
手直しせずそのまま載せてみました。
読みにくいところもあるかと思いますが、
そこはどうか大目にみてください…。
「疾風!今日は少し遠出してみないか?」
「お仕事はいいのですか?」
「なぁに!心配いらん!お前と遊ぶのは楽しいからなぁ!」
「義仲様!俺、準備してきますね!」
「おぉ、行って来い!早くしろよ~!」
男の名前は源義仲。走って去っていった少年は、疾風。疾風はまだ九歳だが、立派な伊賀忍者だ。義仲は疾風を気に入って傍に置いている。二人は本当の兄弟のように仲が良かった。そのため、義仲は度々職務を放って疾風と遊びに行っていた。
「義仲様!お待たせしました!矢を取ってまいりました!」
「遅いぞ!よしっ今日は東に馬を走らせるか!」
「はい!」
二人は馬を飛ばし、まっすぐに東の森まで走らせた。風は刺すように冷たく、空は今にも雪が降りそうなほどどんより曇っていた。しかし、二人はそれを気にする様子もなく、一直線に駆けていく。
「疾風!どっちがでかい獲物しとめられるか勝負だ!」
「臨むところです!」
二人は森に入る直前で別れた。義仲の目は少年に戻ったようにキラキラと輝いている。
毎回このように別れて、獲物をしとめたらその場で口笛を吹いて合図をすることにしていた。義仲はどんどん疾風が腕をあげてくるのが嬉しかった。彼は、疾風が自分にも負けないほど強くなったら、いずれ巴の従者にさせようと思っていた。彼女は義仲が小さい頃から想いを寄せている女性である。普通の女性ならばそんなに心配しなくてもいいのだが、巴の場合、そうはいかなかった。彼女は戦というと供をしたがった。我先に戦火の中に身を投じる、そんな女性だったのだ。(あと数年すれば、疾風も成長して巴の供ができるようになるだろう。それまでせいぜい鍛えてやるか。)などと考えているうちに、合図である口笛が聞こえた。(もう仕留めたのか!)義仲は少し悔しそうに、音の方へ向かう。疾風はそう離れていないところにいた。義仲は獲物を見定めようと彼の近くに行ったが、そこに獲物は見当たらなかった。
「なんだ、仕留めたのではなかったのか?」
「義仲様…そこ、何かいた。」
「どこだ?」
義仲は疾風の指が指す方へ近づく。腰に備えていた刀を鞘から取り出し、慎重に一歩一歩踏み出す。と、微かに目線の方から泣き声を押し殺しているようなくぐもった声が聞こえてきた。それを耳にした義仲はさっと刀を元に戻し、声の主へ躊躇なく飛び込む。
「義仲様!」
「…疾風、大丈夫だ。…これはどういうことだ?なぜこんなところに子供がいる…?おい、お前、喋れるか?」
「……………。」
そこにはまだ小さな少女がうずくまっていた。小さな体を小さな手足で隠す。少女は義仲を見て、明らかに怯えていた。それでも目をそらそうとはせずに、彼女の目は見開かれ、義仲を射抜くように鋭い光を放っていた。
「…だめか。疾風、今日は帰るぞ。」
「…その子は?」
「連れて帰る。こんなところにこんな格好じゃ死ぬのも時間の問題だ。」
少女は冬用の着物を着てはいたが、足は素足で真っ赤になっていた。動こうとしない少女の手を無理矢理掴み、立たせる。思った以上に彼女の体は冷えていた。どれほどの間、この場所にいたのだろうか…あと少し発見するのが遅ければ、きっと凍死していただろう。今意識があることさえ奇跡のように思えた。少女は必死に抵抗したが、大人の力に敵うはずもなく、軽々と馬上に移動させられた。義仲はその後ろにまたがり、「舌を噛むなよ。」と声をかけ、自分の着ていた毛皮を脱ぎ、少女に巻きつけた。少女はまだ警戒していたようだが、それでも暖かい毛皮に包まれて、いくらか安らいだようだ。
隣りを走る疾風は興味深そうに少女を見る。少女が怯えていることに気付いた義仲は、疾風を見てから首をふった。疾風はつまらなさそうに前を見て走った。
屋敷についた二人は、従者が馬を引き取りにくると、それを任せ、少女を風呂に入れてやろうと屋敷内に入ろうとした。義仲は少女を腕に担ぎ、さっさと庭を横切る。
「殿、また今度はどんな拾い物をしてきたのでしょう?」
義仲は常日頃から猫や犬などを拾ってきていたので、毛皮に何か包まれていると思った侍女は声をかけた。義仲は疾風と顔を見合わせ、にっと笑って答えた。
「人の子。」
侍女は目を丸くして二人を交互に見た。そんな侍女の姿を笑って、さらに奥へと進む。行先は義仲が一番信頼している侍女のもとだ。彼女は奥で文を書いていた。突然がらっと障子を開けられた侍女は、動じる様子がない。そこに義仲が立っていることなどお見通しのようであった。
「なんだ、驚かないのか。」
「もう何度目とも知れませんからね。沙知は殿と関わるとろくな事がないことも知っておりますのよ。」
「まあそう言うな!実は早速頼みがあるのだが…。」
「また何か拾ってきたのだとお見受けしますが…。」
「うん、そうなんだ。この子を風呂に入れて温めてくれ。それと腹が減ってるだろうから、何か食べさせてやってくれ。」
毛皮から出てきたのが少女だとわかると、さすがの沙知もぎょっとしたようだ。しかし、彼女のいいところは、まず仕事をしてからあれこれ言うのだ。
「まぁまぁ、こんなに体が冷えて…。すぐに湯殿に行きましょう。」
「頼んだぞ。」
「後でどういうことなのかたっぷり聞かせてもらいますからね。」
少女は新しい事態に戸惑っているようだったが、沙知はそう言い残すと、彼女を抱いてさっさと消えてしまった。
「さぁ、これからどうすっか…。」
「義仲様、あの子、ここで引き取ることできないのですか?」
「うーん…俺はいいけど、重役がなんていうか…。東で戦が遭ったなんて聞いてないし、あの子の素性がわからないことには、微妙だな。なんだ、気に入ったのか?」
「はい!俺の妹にしたいです!」
「妹か…お前の妹ならば俺の妹でもあるな。よし!やってみっか!疾風、行くぞ!」
「はい!」
義仲は緊急に重役を集めることにした。皆不満を言っていたが、義仲が姿を現すと、場はシーンとなった。上座にどかっと腰を下ろし、一度、部屋の隅々を見渡す。義仲がこれから口にすることを、誰一人として想像できなかった。そして、威厳のある声で沈黙を破った。
「今日はすまなかったな。突然に召集してしまって。早速話に入る。単刀直入に言おう。俺は孤児を引き取る。」
唐突な義仲の発言に、そこにいた全員が思わず聞き返した。
「どういうことでございますか?」
「孤児…とは?」
「どこの生まれの者ですか?まさか素性が知れない者などとは仰りますまい。」
そういった重役達の発言を片手をあげただけでいともたやすくかき消すことができる。義仲はそういう空気をまとった男だった。周りを威圧する。まさに『殿』の資質を持っている。
「今日、東の森まで狩りに行ったところ、疾風がかの少女を発見した。衰弱は激しく、自分のこともわからないような状態だった。今、屋敷に連れて帰ってきている。これから、その子にいろいろ話してみようと思う。もし、少女が望めば、俺は喜んで親になろう。」
「そんなことは…。」
「俺が決めたんだ。責任は全て俺がとる。これで文句はないだろう。以上、解散!」
言うだけ言って、義仲は席を立った。その場にいた疾風も普段の義仲とのギャップに圧倒されたが、義仲に呼ばれて我に返り後を追った。残るのは何も言えなくなった重役ばかりであった。
「どうだ、疾風!さっきの俺はかっこよかっただろう!」
「はいっ!でもよろしいのですか?何も聞かずに勝手に決めて…。」
「なぁに!心配はいらないさ。俺の決定が一番重要だからな。そろそろ風呂も上がった頃だろう。沙知のとこに行くか。」
義仲と疾風は沙知を探した。彼女は侍女が食事をとる部屋にいて、少女にごはんをよそっていた。義仲が来たことを知ると、彼女は嘆きの表情を見せた。
「殿…この子、自分が誰なのかわからないみたいです。」
「記憶がない…そういうことか?」
「…はい。」
義仲は少女をじっと見つめた。少女はよほどお腹が減っていたのか、そんな義仲の視線など気にせず、がつがつと食べている。疾風も少女を見ていた。この子はこんなに細いのにこんなに食べるのか…と今日付けで妹になった少女を興味津々に見ていた。義仲は少女が満足するまで食べるのを待つことにした。その間中、部屋には少女の必死にお腹を満たす音しか聞こえなかった。
少女は一息つくと、改めて辺りを見回した。そこには、さっき自分を温めてくれた女の人と、自分を見つけた男の子、自分に毛皮をくれた男の人がいることに気付いた。何が起こったか理解できないように、三人の顔を交互に見る。すると、義仲が少し近づいてきた。思わず少女は身構えた。この人は私に何か怖いことをするのではないかしら…?そう思って、後ずさった。
「大丈夫だ。ここに怖い人はいない。もう腹はいっぱいか?」
意外に優しい声のトーンに、少女は少しばかり安心した。そうだ、ここに居る人は自分を助けてくれた人ばかりではないか。
「…誰?…ここ、どこ?」
「俺は義仲。あれが疾風で、これが沙知。ここは俺の家だ。」
「……。」
「ちなみにこれからここがお前の家になる…まぁお前がよければな。」
「家…?ここが…?」
「そう。…いやか?」
少女は首をふった。それを見て義仲は少年のように笑った。疾風を見ると彼も嬉しそうに笑っていた。
「お前、自分の事わからないのか?名前とか。」
「……わからない。」
「そっか…。名前ないんじゃ不便だな…。お前の声は高くて澄んでいるな…。鈴…うん、鈴なんてどうだ?」
「すず…?」
「そう。お前は鈴。どうだ?」
「いいと思いますわ。鈴…本当にこの子の声は鈴のように澄んでいるもの。」
「鈴、俺疾風!今日からよろしくな!」
少女は自分に何が起きているのか、いまいち理解できていなかったが、三人が笑うのでその疑問はそのままにした。
「鈴…。」
あれから十年の歳月が過ぎた。鈴は今では立派な忍びになっていた。
義仲に引き取られてから、鈴は姫として扱われていたが、疾風のように役に立ちたいと、義仲に迫ったのだ。鈴の熱弁に心を動かされた義仲は、忍者の真似事をさせることにした。疾風を鈴の教育係りにして、忍者の修行をさせる。義仲は、忍者の修行がどれほどきついか知っていたので、鈴に諦めさせるためにやらせたことだった。しかし、鈴は素質があり、どんどん技を習得していった。ここ数年で鈴は義仲が持っている兵の誰にも負けない程強くなっていた。疾風と鈴、この忍びコンビは義仲最大の武器となってしまった。
鈴を拾う前、巴の供にさせようとしていた疾風だが、鈴の教育でそうは言っておられず、結局、義仲の手元に二人は残ったままだった。
義仲は、強くなりすぎた鈴をどうしようか迷っていた。これでは鈴も巴と同じように、戦に突っ込んでくるかもしれない…。そんな不安を沙知に話したところ、沙知は笑って言った。「殿はそういう女子ばかりに惹かれるようですわね。」義仲は諦めたように肩を落とした。
義仲が鈴の相手を庭先でしている時、巴がちょうど屋敷を訪ねてきた。今まで巴には連絡なしに義仲の館へくることを禁じていた。それなのに、今回は何の連絡もよこさずに巴は現れたのだ。そこで、鈴と巴は初めて顔を合わせることになった。
鈴は初めて見る女の人が、以前から幾度となく話題になっていた女性なのかもしれないと思った。沙知から話を聞いており、義仲に何回か会いたいと言ったことはあるのだが、うやむやにされて一度も会うことはなかったのだ。彼をちらりと見ると、苦い表情をしていたので確信した。
「あなたが鈴?」
「そうです。巴様でいらっしゃいますか?」
「そうよ。私が巴。義仲様が随分可愛がっているそうね。」
「はい!義仲様には大変お世話になっています。」
「あなた、すごく強いんでしょう?今も稽古していたみたいだし…そうだ、ちょっと手合わせ願えないかしら?」
「巴様とですか?」
「ええ、そうよ。ね、義仲様。いいでしょう?」
「…止めても聞かないんだろう?」
「あら、わかってらっしゃるのね。なら話は早いわ。」
義仲は諦めたように言い、竹刀を渡した。そういうわけで、巴と鈴は戦うことになった。巴の腕は相当のものだったが、忍術を学んでいる鈴には勝てなかった。巴の一瞬の隙をついて、鈴が勝った。巴は驚きの表情で鈴を見て、おもしろいおもちゃを発見した子供のように顔を輝かせた。
「…初めて女子に負けたわ。鈴、気に入りました。私と一緒に来ない?」
その申し出は義仲も鈴にも驚くことだった。突然の事に、鈴は竹刀を落としてしまい、義仲は口を開けて巴を見ている。巴はそんな状況を無視するかのようににこにこしながら話を進める。
「義仲様は疾風を供につかせてくださるとおっしゃったけれど、それも随分昔の話だし、私は鈴が気に入ったの。鈴は疾風に忍術を教えてもらっていたのでしょう?そして今じゃ一人前の忍び。何の問題もないのじゃないかしら?」
鈴は確かに何の問題もないな、と思って義仲の方を見る。義仲はまだ事態が飲み込めていないように口をぱくぱくしている。そんなところに、義仲の命令で屋敷を離れていた疾風が戻ってきた。
「義仲様、ただいま戻りました。報告を…あれ、巴様ではないですか。ご無沙汰しております。」
「あら、疾風。お久しぶりね。元気だった?」
「はい。巴様もお元気のようで何より…あの、この空気はどうしたんでしょう?」
疾風は鈴と義仲を見て戸惑ったように巴を見る。彼女はおもしろそうに三人の反応を見ていた。
「私が義仲様にお願いしたのよ。鈴をくださいって。」
「鈴、お前どうすんの?」
疾風は鈴と二人っきりになったのを確認して口を開いた。
結局、あの後巴と義仲とで話し合った。義仲はもともと疾風を供につかせようとしていたから、巴のこの発言には戸惑った。鈴のことをまるで自分の娘のように感じていたからだ。疾風のことも弟のように可愛がっていたが、妹と弟では思いが少し違うらしい。結局義仲は、鈴がいいと言うなら自分も承諾しようと言った。巴は鈴に時間を与えると言った。あとは鈴の判断でことが運ばれる。
疾風はもう一度聞いた。
「巴様のとこ、行くの?」
鈴はまだ、実感が湧いておらず、ぼーっと宙を見ている。鈴は義仲が大好きだった。自分を拾って教育してくれ、面倒を見てくれた。それだけじゃなく、義仲の人柄自体が大好きだった。彼は威厳と自信を持っており、自分に絶対的な意思がある。それなのに、たまに少年に戻るときがある。そのギャップが大好きだった。一人の人間として、とても尊敬していた。巴のことも、義仲の想い人としていくらか話を聞いていたし、今日初めて会った時も、直感的に好きになれると感じていた。そんな二人を天秤にかけることなどできないような気がしてならなかった。
「疾風…あたしはどうしたらいいんだろう?どっちも好き。だけど、今までどおり義仲様のもとにいたら、巴様とぎくしゃくなるかもしれない…。逆もそう。あたしはどうしたらいい…?いっそ命令してもらえたら…。」
木々は緑から赤へと変わり、風も暖かいものから冷たいものへと変わり始めていた。太陽は傾き、山の谷間へと姿を隠そうとする。空には赤から青へとグラデーションがかかっている。
「…お前、行きたくないの?」
「…行きたくないってことはない。行ってみたい気もする。」
「じゃあ行けば?」
「………。」
「義仲様も巴様も、お前がどっちを選んだからって態度が変わるような方たちじゃないよ。それに義仲様には俺がついてるし、戦になったときに巴様をちゃんと守れる奴はお前ぐらいしかいないんじゃねーの?巴様好きなんだろ?」
「うん…。」
「じゃあ行け。別に主が変わるだけで、もう会えないとかじゃないんだしさ。それに巴様のところならすぐ会える。最近来ていなかったのはな、実は義仲様が巴様と鈴を会わせたくなかったからなんだ。会えば絶対鈴を気に入るってわかってた。だからお前、今までに何回か俺と狩りに行って来い、とか急に言われてただろ?あれ、わざとなんだよ。」
鈴は疾風を見た。その目は大きく見開かれていた。そして、吹きだした。
「え…義仲様がそんなことを…?…子供みたい…。」
「そうだよなぁ。全く…なんであの方はこんなに子供じみていらっしゃるのか…。」
「そうだよねぇ…義仲様、大人なようで全然子供なんだよね~。あたし達よりも精神年齢低いかも!」
その時、後ろから二本の腕が伸びてきて、鈴と疾風を捕らえた。二人は慌てる様子もなく笑い転げていた。
「お前ら~!気付いてるなら気付いてるって言えよ!このやろ~わざと聞こえるように言いやがって…!」
まるで本当の家族のようだった。そう間違える人もいただろう。この三人は、血のつながりなど関係なしに強く結びついている…そんな気がした。
ひとしきり笑った後、しんみりとした空気が流れた。鈴の気持ちはもう決まっていた。おそらく、二人とも気付いていた。だから鈴が言う言葉も、しっかり受け止めることができた。
「…あたし、巴様のところに行きます。だって義仲様の大切な人だもの。鈴が絶対に守ってみせます。」
「………うん。巴を頼むよ。あいつと鈴は似ているから…。自分から最前線へ行くような奴だから、ちゃんと見てやってくれよ。」
「はい。…本当にお世話になりました。」
「いや…これからもお世話するつもりだよ。だって、…巴、この屋敷に来ることになったもん。」
その義仲の言葉に鈴も疾風も一瞬固まったが、自分の主だということも忘れて飛びついた。
「どういうことですか!」
義仲は二人に押し倒された状態のまま、にやりとして言った。
「つまり、巴がこの屋敷に来れば、俺達もこのままでいられるし、巴も満足ってことで話はおさまるんだ。…どうだ?」
「義仲様…最高!」
鈴は義仲に抱きついた。疾風は鈴の勢いに飛ばされたが、なんとか着地に成功し、砂まみれになる事態は避けられた。義仲は疾風に横目で羨ましいだろう、と訴えかけたが、疾風はそれにあっかんべーで答えた。
その夜、疾風は義仲に呼ばれた。部屋には義仲しかいなかった。どうやら人払いをしたらしい。きっと鈴のことだ…疾風は直感的にそう感じた。その考えは正しかった。
「お前はどうして鈴に巴につくように言ったんだ?」
「鈴のためにはその方がいいと思いました。」
「疾風、お前、鈴のこと好きなんだよな?離れてもいい…どうしてそう思った?」
「…この先、苦しい戦は必ずやってきます。今は勝ち進んでいますが、先はどうなるかわかりません。もし、このまま義仲様のもとに残れば、鈴は最後まであなたと一緒にいるでしょう。しかし、巴様のところに行けば、きっと今より戦から遠ざけることができる、そう思いました。もし…これは例えですが、敗戦が確定したとき、義仲様はきっと巴様を逃がそうとなさる…鈴が義仲様についていれば、一緒に討ち死にすることになります。巴様のところにいれば、一緒に生き永らえるでしょう。」
「それを鈴が望んでいなくとも…か?」
「俺は…俺は生きてほしい。あいつには生きて欲しいんです。一緒に死ぬ…そうなってはいけない。あいつを生かしたい。俺がどうなっても…。すみません…。」
「謝るな。…やっぱり、俺達は血が繋がってるのかもしれないなぁ…。全く同じことを考えるとは、な。」
義仲はそう言うと、いつものようににっと笑った。かしこまった空気を一気に吹き飛ばし、彼は両手を頭の後ろにやってゴロンと仰向けになる。
「覚悟はしていたんだがな…。巴が鈴を気に入って、いずれ俺が鈴と離れることになるって。巴の奴、まさか初対面でそんなことを言い出すとは…。さすがにそこまでは想像していなかったよ。今日はなんだ…ほら、父親が娘を嫁に出すときの気持ちがよくわかったよ。娘の父親とは大変なものだな。」
「今日の義仲様を見て、世の父親がどんなものかわかった気がしましたよ。源氏の父でもあられますからね…。」
「まったく、お父さんは大変だ。…お前にも苦労をかける。」
「いえ、これが俺の仕事ですから。」
今日、疾風が行ってきたところは鎌倉。危険を冒して敵方の情報を探る。それが疾風の仕事だった。今日で明らかになった。もはや、こんな生活は送れない。家族団欒できる期間はあとわずかだった。
大きな戦が始まる。今までの比でないくらいに大きな…。
「巴様!だめですってば!」
「あら、少しくらいいいじゃない。すぐそこなんだから。」
「今は兵の動きが怪しいので、外出は禁止です!」
「鈴ったら…そんなこと気にしているの?だめだめ。私たちは女子。兵に会ってもなんとか大丈夫でしょう。これほどに腕が立つのですもの。」
「巴様ったら…ちょっとだけですよ?」
「ほらね、鈴も本当は出たかったのでしょう?私にはお見通しよ!」
二人は狩りに出た。最近、鎌倉の兵が攻めてこようとしている。義仲は京を占領し、源氏の大将を名乗っていた。しかし、それをよく思わない連中は大勢いる。そして、着々と滅ぼそうと近づいているのだ。そんな中、狩りに行くだなんて、鈴も重々危険を承知している。しかし、ここ最近、疾風は各地を飛び回り、義仲もしょっちゅう開かれる軍事会議に出席をしなくてはならず、巴と鈴は放ったらかしにされてとても退屈だった。
鈴が巴を主としてから数ヶ月、彼女達は初めて会ったのが最近だとは思えないほど、仲良くなっていた。その間に主従というものはあったけれども、気が合うのだろう。彼女達の間に隔たりは全くなかった。鈴は義仲がどうして巴に惹かれたのかわかる気がした。彼女は品があるのに飾らないのだ。女らしくもあるが、度胸がある。きっとどんな場面に出くわしたとしても動じないだろう。
鈴は空に向かって矢を放った。それは見事に悠々と旋回を楽しんでいた鳥に命中した。狩りは久々だったので、鈴は気が昂ぶっていた。それは巴も同じようで、すぐに口笛が鳴った。鈴は獲物を袋に入れて、巴のもとへ向かった。巴は見事な牡鹿をしとめていた。
「うわぁ~これはまた大きな牡鹿を…さすがですね。」
「久しぶりだから腕がなまっていないか心配だったけど、大丈夫みたいね。さぁて、どうやって運ぼうかしら?」
「これは二人では無理でしょう。一度戻って人手を借りてきましょうか。」
「そうね。じゃあ帰りましょう。」
二人は屋敷に戻り、数名の若い男を連れて狩場に戻ってきた。獲物はその人達に任せて、巴は鈴を散歩に誘った。
「ねえ、ちょっと歩かない?」
「いいですけど…どこへ行くのですか?」
「散歩よ。」
そう言うと巴は歩き出した。鈴はそれに遅れないように続く。しばらく行ったところに大木があった。巴はその木を見つけた途端に登ろうと言い出した。鈴にとっては簡単なことだが、巴にとってはなかなか困難であった。二人がなんとか木の上の方へ攀じ登ると、ちょうど太陽が真上に来ているところだった。木の上は風が冷たく吹き荒れていたが、運動をしたあとには心地よかった。空には一点の曇りもなく、大地を一面に照らしている。そこからは獲物をもって屋敷に引き返す人々まで見えた。
「あの人達も忙しいのに悪いことをしてしまったわ。」
「ええ。ですが、食料ですもの。ちょっとくらいの労力を貸してくれてもいいと思います。」
「ふふっそうね。」
二人は地上より少し高いところにいることが、いつもと違って楽しかった。たまにはこういうのもいいわね、巴はいたずらっぽく言った。汗が冷えてきたのか、急激に寒くなった。鈴は巴を見たが、彼女も少し震えていたので、帰りましょうか、と提案した。
木から降りるのも一苦労で、その作業をしているうちにまた体が温まった。それから馬をつないだ場所へ歩くうちに、巴がふと思いついたように口を開いた。
「そういえば…鈴は好きな殿方はいるの?」
「え、何をおっしゃいますか!」
「だって、鈴十七くらいでしょう?その歳になれば普通のことじゃないの。」
「あたしは忍びですから。」
「あら、そんなの関係ないわ。そうねぇ…疾風なんか?」
「え、違いますよ!」
「やぁね、ムキになっちゃって。青春だわぁ…。」
「な、違いますってば!確かにちょっと気になるっていうか…」
「へぇ、気になってるの。」
「巴さまったら!……でも、ずっと一緒にいたから、きっとこれは家族愛なんだと思います。」
「あら、そんなことで決め付けるのはおかしいわ。鈴、私のところに来ないかって言ったとき、あなたはどうしてためらったの?」
「それは義仲様と別れることになるのが辛くて…。」
「本当にそれだけ…?」
巴は立ち止まって鈴を優しい顔で見つめた。鈴も足をとめ、巴に向き合うようにして立った。風が葉を揺らす音が聞こえる。それはちょうど鈴のとまどいを表しているかのように不規則な音を奏でる。
「疾風と会えなくなるのかなって考えなかった?」
「…それは、…。思いました。でも、それって家族に感じるものと一緒じゃないですか。」
「困ったわ。鈴は何がなんでも想いを否定するのね。」
「巴様は何がなんでもそう思わせたいのですね。……じゃあ巴様はどうでした?」
「どうって?」
「巴様と義仲様は幼い頃、兄妹のようにして過ごされたのでしょう?それだけずっと一緒にいたのに、これは恋心だっていつ思ったんですか?」
「あら、私は会った時からこの人についていこうって思っていたもの。この人しかいない。そう思ったから……。自分が死ぬ時を思い描くと、そこには義仲様が必ずいるのよね…。大丈夫、自分が一緒だからって笑うの。やっぱり私の想いは正しかったって、その時思うわ。」
「自分が死ぬ時…?そんなの想像できませんよ。」
「鈴はまだ若いもの。今は無理でもしょうがないわ。あら、さっきまで晴れていたのに…。雪が降るかもしれないわね。行きましょう。」
鈴はその言葉で空に雲が漂い始めたことに気付いた。そして、自分が拾われたのも雪が降りそうな日だったと思い出した。
「鈴?行くわよ。」
「あ、はい!」
巴が言ったとおり、その日の夜は雪が降った。鈴は一人、庭に立って雪を見ていた。真っ暗と淀んだ空から白い花が降ってくる。肌に触れるとひんやり冷たく、熱を奪っていく。雪が地面に吸い込まれる様を見つめながら、疾風と初めて会った日を思い出そうとした。
「どうしてあたしはあそこにいたんだろう…。どうして一人だったんだろう?」
その問いは雪が包むようにしてかき消した。何も思い出せないことをこれまで不安に思ったことは幾度とあるが、こんな夜はいつもに増して不安になる。自分はどこから来て、何者なのか…。いつも考えないようにしているが、心の奥にひっかかっていることだった。この胸のつっかえは、きっと記憶を取り戻す日まであり続けることだろう。鈴はしばらくそこに立っていることにした。頭を冷やさなければ。今はこんなことを考えている場合ではない。敵軍はやってきているというのに…。
「どうした?」
背後から声がした。振り返らなくても誰だかわかる。声をかけるまで自分に気配を感じさせない人は、疾風だけだった。
「雪、寒くないのか?」
「平気。ちょっと頭を冷やしてるだけだから。」
「何かあったのか?」
「…別に話すほどのことでもないから。今日は偵察行ってきたんでしょう?誰が指揮取っているかわかった?」
「…源義経。従兄弟殿だ。」
「昔会ったことのある…?」
「…嫌な世の中だよな。血がつながってるもの同士が戦を起こす…。その点、俺らは血がつながってなくてよかったのかもな。」
鈴はふと昼間のことを思い出した。その途端、ここから立ち去りたくなった。思い出した今、疾風と普通に話せるか自信がなくなったのだ。
「な、なんか寒いかな…。もう中に入るね。」
「ちょっと待て。……これでちょっとはマシだろ。久しぶりに会ったんだ。もうちょっと話そうぜ。」
疾風は自分が羽織っていた毛皮を鈴にそっとかけてやった。鈴は義仲がしてくれたことを思い出しながら、この二人は本当に兄弟のようだ…と思っていた。少し余裕ができたのか、さっきまでの動揺も少し収まった。
「…うん。」
「はっきり言って、このままじゃ鎌倉にやられちまうんだ。」
「義仲様が…?」
「…あぁ。兵の数が違いすぎる。俺は京を離れることを進める。生き残れる可能性は、もうそれ以外ないと思う。」
「そっか…。どうしてこんなことになっちゃったのかなぁ?」
「…神のみぞ知る、だな。だけど俺は最期まで義仲様についていく。」
「あたしもだよ。」
「お前は…もし、もうだめだと思ったときは逃げろ。」
「え?ちょっと待ってよ。何言ってるの?あたしも戦うよ。最期まで!」
「いや、それはだめだ。お前は巴様をお連れして逃げろ。」
「どうして…?あたし、役立たずかなぁ…?ちゃんとお守りできないと思ってるの?」
「そんなことを言っているんじゃない!これは義仲様とも話したことなんだ。巴様を死なせたくない。それが義仲様のお気持ちだ。」
「でもそれは巴様のお気持ちじゃない!だって巴様言ってたよ?自分が死ぬ時を浮かべると、そこには必ず義仲様がいらっしゃるって…。自分が一緒だって笑ってらっしゃるって…。」
「…それでも、義仲様は愛する人には生きてほしいんだと。」
「そんな!結局それは自己満足でしかないじゃない!」
「違う!満足なんかしてない!…義仲様だって怖いんだ…。死ぬのが。愛する人と離れることが。二人で一緒に死ぬことは、きっと楽なことだろう。だけど、そこに残るものはなんだ?一緒に死んで何になる?義仲様はご自分を責めていらっしゃる。鎌倉と対立することになってしまったことを責めているんだ。自分のせいで辛い目に遭わせる…どれだけ心が痛むかわかるか?自分のせいで人が死ぬ。どれほど重いかわかるか?せめて…せめて愛する人には、生きてほしい。生き残れるならば、生きてほしい。…だから義仲様は、巴様を戦場へは連れて行かない…。」
「………。…それでも残された方は辛いよ。悲しいよ。…苦しいよ。皆が生き残る方法はないの…?」
「…明日、京を出るだろう。鈴も用意をしていたほうがいい。」
「…疾風も死ぬの?」
「…俺は、義仲様に最期までついていく。……それだけだ。じゃあな。」
「…疾風!」
そこにはもう疾風の姿はなかった。あるのは、未だに降り続ける雪と静寂だった。一人暗闇に残された鈴は、巴の言ったことを思い出していた。そっと目を閉じ、心に思い描く…自分の死を。『自分が死ぬ時』を。そこには疾風がいた。きっとこういうことなのだろう…鈴は自分が誰なのか、そんなことよりも、大事な事がある、そう思えた。「あたしは疾風を死なせたくない。義仲様も巴様も死なせない。あたしが誰であろうと、その気持ちは変わらない。」
死を身近に感じることができる今、心に誰がいるのか鈴にはわかった。一人そっと部屋に戻り、そのまま眠りについた。新たな決心を胸に、明日を迎える。
雪はやむ気配を見せずに、シンシンと降り続ける。それは世界を真っ白に染めようと必死になっているように見える。これはだれの想いなのだろう。
鈴は目が覚めてすぐに巴のところに行った。巴はもう起きていて、旅支度を始めていた。
「あら、おはよう鈴。あ、これ?…なんとなくわかっていたからね。もうすぐここともお別れね…。ん?どうしたの?」
鈴は拳を握り締め、巴を見つめた。
「…絶対、生きましょうね。」
一言言うだけで、鈴はいっぱいいっぱいだったのか、おじぎを一回すると、さっさと部屋から出て行ってしまった。
「鈴…。そうね、生きたいわね…。」
鈴は巴の部屋からそのまま義仲のところにも行こうかと思ったけれど、もし、義仲に自分の気持ちを悟られて説き伏せられたら敵わないと思い、そのまま自分の部屋へ戻った。屋敷内は騒がしかった。誰もが戦支度に追われていた。鈴はぼーっとしていた。何もかも夢ならいいのに…そう思っていた。くだらない思いだとは知っていたが、願わずにいられなかった。
義仲軍は都落ちした。これから待つ運命を消そうとでも言うように、雪は降り続ける。誰にとっても悲しい最期にはなりたくない…鈴は願いを込めながら雪に祈った。
鎌倉の軍は思いのほか進行が早く、早速一回目の激戦が始まった。そこでは兵の数もそう変わらずに、勝つことはできた。しかし、援軍がどんどん到着し、義仲軍は敗色濃厚になった。
鈴は敵の大将、源義経の近くまで近づくことができた。そこで鈴が首をとれば、義仲は戦に勝つ。(ここであたしが義経を殺せば、誰も傷つくことはないんだ…。)そう思って義経に一本の矢を射る。しかしあっさりそれを防がれてしまった。義経は鈴のもとへ馬を一直線に向け走らせた。鈴は腰の刀を抜き、義経と刃を交えた。近くで見る義経の顔はどこか懐かしく、それは幼い頃に会ったせいかな、と思う余裕があった。余裕などどこにもないはずなのに。すると義経の様子もどこかおかしなふしがあり、鈴は訝しげに相手を見つめる。義経が目を見開いた。鈴は目の前の武者が女であることに疑問を持っているのだろうかと思った。女でも負けるものか、と力を込める。
「よし子…」
鈴は誰と勘違いされてるのかわからなかったが、むしょうに腹が立った。どうして義経の知り合いに自分が間違えられるのか…どうしても納得がいかなかった。
「あたしはよし子なんて名じゃない!」
「お主、十年前に捨てられていなかったか?」
鈴は頭を殴られたような衝撃に襲われた。どうしてこの男が知っているのか?…きっと以前義仲を訪ねたときに聞いていたのだ。そう思い込むことしかできない。
「それがどうした!お前には関係ない!」
[昔義仲殿を訪ねた時、まだ幼いお主しか見ていなかったからわからなかったが…母上に似ている。お前はよし子であろう?]
鈴はますます混乱してきた。母上…?なんのことを言っているのか?鈴が戸惑っていると、義経は声を荒げて言った。
「お主は我が妹ぞ!十年前、平氏に育てられることになったよし子は、そのままどこかへ捨てられ行方知れずになったのだ!」
「え…?」
「よし子!会いたかった…。」
鈴は完全に混乱に陥った。どうしていいかわからず、そのまま落馬してしまった。頭痛が激しくなり、息もまともにできずに、ただ転がることしかできなかった。
「よし子!」
義経もすぐに鈴のもとへ寄ろうとしたが、それより早く疾風が駆けつけていた。鈴を抱き、忍術を使った。
「木の葉隠れ!」
煙と一緒に二人の姿は消えた。義経は今まで妹が立っていた場所を見つめ、思い直したように兵士達に告げた。
「撤退撤退!」
鈴は震えていた。さっきより落ち着いたとはいえ、未だに話をできる状態ではなかった。疾風がこのことを義仲に知らせに行く前に、義経の兵が撤退したことで巴と一緒に義仲もこっちへ向かってきていた。疾風は全てを聞いていたわけではなかったので、どうして鈴がこんなことになったのかわからなかった。ただ、義経と向かい合ってこうなったとしか二人に説明できなかった。
「鈴…、話ができるか?」
義仲の声も届かないようで、何も写っていないかのように眼はうつろだった。全身の力を奪われたようにぐったりと足を投げ出して座る鈴を、三人はとても心配そうに見ることしかできなかった。
(あたしは敵だったの…?今義仲様たちを苦しめているのはあたしだったの?…あたしはここにいちゃいけない。あたしは…誰?)
鈴はもうどうなっているのか自分でもよくわからなかった。消えない頭痛。ちらほらと頭に浮かんでくる映像。それはどう考えても義仲の屋敷とは違うところにいる自分だった。知らない女の人と一緒に笑っている。これが自分…。
鈴が焦点の合わない目で心の映像を見ていると、重役の一人が義仲と巴を呼びに来た。今後の作戦会議だ。二人は鈴の様子を気にしながらも疾風に任せて行かなければいけなかった。
「おい、鈴!」
疾風の怒鳴り声で我に返った。それでもまだ鈴は夢現にいるように震えたままだ。
「どこに行くんだよ!」
「え…どこって…?」
鈴は無意識のうちにここから去ろうとしていた。ここにいちゃいけない、そんな思いが強かったのだろう。今の鈴はまるで夢遊病患者だった。疾風は近づき、鈴の眼を真正面から見る。
「おい、どうしちゃったんだよ?義経と何があった?」
鈴は、下を向くことしかできなかった。今ここで真実を語るのと、自分が消えたあとに誰かに聞かされるのと…どちらがいいだろう?鈴にはわからなかった。もう何もかもどうでもよかったのかもしれない。
「おい、鈴…?」
鈴は笑っていた。もう何もかも諦めたように。疾風は、鈴を強く抱きしめる。そうすることで、鈴を現実に留められる、そう思って。
「あたし、鈴じゃない。」
少女は笑うのをぴたりと止め、疾風の腕の中で鋭い声を出した。少女のその言葉の意味が疾風には理解できなかった。そっと力を入れていた腕を緩め、鈴の顔を覗き込んだ。
「…は?どういうことだよ?」
「あたし、よし子。義経の妹の、よし子。」
「なんだ?何言ってるんだ?」
「記憶、戻ったから。」
「おい、何言ってるんだよ?あ、寝ぼけてるんだろ?そうだろう?」
疾風は鈴を揺さぶる。鈴は涙をいっぱいに浮かべてされるがままになっている。
「おい…うそだろう?なんで…なんで今頃!」
鈴はもう耐えられなかった。涙は溢れんばかりに頬をつたい、勢いよく次から次へと流れる。もう止める術はなかった。疾風が好きだった。でも、もうそんなことを言える立場に自分はいない。もうどうすることもできない。このことを知って、疾風がどう思うか、義仲様がどう思うか、巴様がどう思うか…。義仲様は、重役達の反対押し切ってまで、自分を引き取ってくれ、今日までとても可愛がってくれた。本当のお兄さんみたいに大好きな人だった。これからもきっとこのままの関係でいられると信じていた。巴様は自分をわかってくれた。いいお姉さんを持った気分にさせてくれた。疾風が好きって気付かせてくれた。もっといろんなことを話したかった…。疾風は、ずっと一緒にいて楽しかった。記憶がなくて不安な時、いつも傍にいてくれたのは疾風だった。やっと気付いたのに、好きだってわかったのに、この気持ちは二度と伝わることはない…。このまま雪になって大地に消えてしまいたい。もう全てなかったことに…真っ白な世界に戻りたい。
疾風は、ふらふらと後ろの木に寄りかかった。どこを見るでもなく、ただ何も考えられないとでもいうように。鈴はその様子を見て、やっぱりここにいられない、そう思って静かに去ることにした。義仲も巴も、これからのことを話し合っているころだろう。鈴のことを知ったら二人はどうするだろう…。鈴はそっと姿を消した。二度と誰にも会わないですむところに行こう。そう思った。
山の奥には湖がある。この山に来たことがあった鈴は簡単に湖の場所に行き着いた。義仲様と疾風と、春に三人でここまで来た。湖は透明に澄んでいて、小さな魚たちが群れをなして泳いでいる様を見ていた。よく笑い合ったものだ。あの頃の湖と今の湖では、受ける印象がまるで違っていた。今ではこの場所は、黄泉へ続く道がある…あの世への扉があるように思えた。楽しそうに泳いでいた魚ももう見当たらないだろう。着ている甲冑などを見、この重さなら大丈夫、そう思って湖を見る。鈴ははっとした。寒さで湖の表面が凍っている。これでは死ねない。鈴は氷を砕くつもりで、湖の真ん中まで走る。氷の上では何度も滑った。滑るたびにその場所の氷を叩いた。何度も何度も叩き割ろうとした。自分の体を使って砕こうともした。それでも、氷は割れなかった。
「…どうして?死なせてもくれないの?だったらどうすればいい?もうあたしに居場所はないのに…消えなきゃいけないのに…。どうすればいいのかな?どうしてこんなことになったのかな?どうして?どうして?ねぇ!」
鈴はその場に泣き崩れた。自分の手が切れても、それでも手を氷に打ち付ける。氷は徐々に赤く染まっていく。静かな山奥に鈴の泣き声だけが響く。悲しみに満ちたその声は、山の中でひっそりと消える。まるで何もなかったかのように消えてしまう。
突然、鈴の下の氷がミシミシ音を立て始めた。彼女の体温と血の温かさで、氷が少しずつ溶けていったのだろう。鈴は下を見つめ、笑った。
「あぁ…これで行ける。誰にも見つからずに…。」
氷は一度亀裂が走った瞬間から、あっけなく崩れ始めた。甲冑の重みで真っ直ぐに沈んでいく鈴の顔はやはり、微笑っていた。湖の水は冷たく、鈴はすぐに体の自由をなくし、そのまま意識が薄れていった。最期に思い浮かんだのは、疾風の笑う顔だった。
雪は彼女を包むようにどんどん勢いを増し、一面の真っ白な世界を作り出した。鈴が望んだように真っ白い何もない世界を…。
「…!ごほごほっうっけほっ…!」
(苦しい…!)鈴は目が覚めた。どうして目が覚めたのか全くわからなかった。自分は誰にも見つからずに死んだはずなのに…。目を開けるとそこには疾風がいた。どうして、と問う間もなく左頬に鈍い痛みが走った。
「ふざけんな…!どうして死のうとした!どうして俺の前から消えようとした!」
「…は、や…?」
(声がうまく出ない…。)
「当たり前だ。こんな冷たい水に浸っていたんだ。機能が回復するのはまだまだだろうよ。俺がもう少し遅かったら…。…生きてくれていて、よかった…。」
疾風は鈴をそっと抱きしめた。その腕からは、壊れないようにそっと触れるようなかんじと同時に力任せに抱きしめたいような気持ちが窺えた気がした。鈴はぐったりしていた。とにかくまだ危ない状態なのだ。疾風は素早く懐から笛を取り出すと、力いっぱい吹いた。それが鈴の最後の記憶だった。その
後に何人もの足音と、義仲と巴の声が聞こえた気がしたが、それは夢だったのかもしれない。
鈴が目が覚めたとき、粗末な小屋に寝かされていた。後から、そこは山奥の小さな寺だと知った。傍には、巴がいた。鈴が気付いたことを確かめると、彼女の蒼白な頬に涙が流れた。鈴は綺麗だなぁと思ってその様子を眺めていた。
すぐには言葉を発せずに、そのまま鈴を見つめる。鈴の頬にそっと触れて、その存在を確かめるように何度も何度も撫でる。やっとのことで話せるようになった巴は、幾すじも流れる涙を気にもせずに必死に口角を上げようとするけれど、なかなかうまくいかない。頬が何度もひきつる。鈴はそれを夢のような感覚で見ていた。これが現実であるはずなどないと諦めていたのだ。
「この子は…本当にもう…。心配ばかりかけて。どんなに心配したか…。無事でよかった…。」
鈴はまだ夢の中にいるような気がした。自分が助かって巴が傍にいるということは、疾風が鈴の素性を話した可能性は多くあるのだ。鈴の正体がわかっているのに、こんな言葉をかけるなんてことは信じられなかった。鈴は巴を凝視していた。その目からは透明の雫が滴り落ちた。これは夢ではないのかもしれない…そう思えてきた。
「…巴様?わたし…」
「いいの。今は喋らなくて…。早く元気になりなさい。鈴より強い兵なんていなくて張り合いがないったら。ちょっと待ってて。義仲様をお呼びするから。鈴、…何も心配すること、ないからね?」
巴は名残惜しそうに鈴を振り返ったが、鈴と目が合うと微笑んでみせてさっと彼女の視界から消えた。鈴は泣くことしかできなかった。ここにはいれない、そう思って死のうとしたのに、自分の居場所はあるじゃないか。巴様がいてくれる。自分がどんなものでも、きっとこの人達は捨てようとはなさらない。今ではそう思える。なぜ居場所がないなんて思えたのか不思議だった。
「…あたしは、バカだ…。」
「そのとおり!」
鈴はぎょっとして、戸口を見た。そこには、未だに武装が解かれていない義仲が立っていた。彼の目は厳しさでいっぱいになって鈴を見据えていた。今にも雷が降りるだろうと予感したときだった。義仲がすごい勢いで、藁で作った粗末な寝床に向かってくる。鈴は殴られるならば仕方がない…と覚悟を決めた。義仲はそんな鈴の気持ちを知ってか知らないでか、勢いを増すばかりである。といっても、小屋は狭いので、あっという間に鈴のもとへ着いただろう。しかし、鈴の感覚器はその間の時間をとても長く感じさせた。(ごめんなさい、義仲様…。ごめんなさい…。)鈴は目をつむった。
一瞬何が起こったのかわからなかった。自分の上半身がふいに浮き上がったのだ。義仲は殴るどころか、鈴を抱きしめて泣いていた。鈴はあまりにも突然すぎて、また予想との隔たりがありすぎて状況把握に時間がかかった。
「…義仲様?」
「このバカ!どうして…どうして命を捨てようとした…。お前は本当にバカだ!救いようがない…。よかった…よかった!鈴が生きていてくれて、本当によかった!二度とこんな真似は許さんぞ!もう…俺達にこんな思いをさせないでくれ…。」
鈴はやっとのことで腕を動かして、義仲に抱きついた。触れた瞬間に、義仲が消えてしまいそうな気がした。けれど、どれだけ強く抱きついても、彼は消えはしなかった。それどころか、彼の力は増すばかりであった。彼女の体は震えていた。体の麻痺のせいじゃなく、嗚咽をこらえるための震えだった。
「義仲様…」
「…なんだ?」
「…義仲様、義仲様…」
「うん。……お前はまだガキだ。どうしようもないくらいにな。もっと頼ってくれよ。なんのために俺達がいる?俺達はなんだ?…家族だろ。血のつながりがなんだ。俺達は血に負けるのか?いや、そんなことはない…。なぁ、鈴。そうだろう?」
「うぅ…うあ―――――― !」
「よしよし。その調子だ。全部流しちまえ!今まで溜めていた辛いこと、苦しいこと、悲しいこと、全部吐き出しちまえ。お前が楽になれるんなら俺はなんだってしてやる。なぁ鈴。…………おいおい、…鎧に鼻水はちょっと…。」
最後には泣き笑いになっていた。やっと周りを見る余裕もできて、改めて見回すと、義仲のすぐ後ろで巴も泣き笑いしていた。鈴は安心した。この人達は家族なんだ…。血がつながってなくても、この絆は変わらないものなんだ。ふと戸口を見やると、そこには疾風もいた。彼は腕を組んで、戸口に体重を預けて立っていた。その表情からは、鈴のことをどう思っているのかわからなかった。それでも鈴はこの思いを断ち切ろうとした。自分達の絆に、こんな気持ちはいらないものだ…。そして、疾風に向かって微笑んだ。
鈴は着実に回復していった。あんなに冷たい氷水で溺れたのに、一日休めばもう動けるようになっていた。凍傷などにもならずに、彼女は何か自分ができることはないか…と部屋から何度も抜け出して、何度も叱られた。
「お前は…もうちょっと自分の体を大事にしろ!ついさっきまで死にそうな奴だったとは思えん…。」
「体力だけがとりえだって知ってらっしゃるじゃないですか。そんな私にいつまでもじっとしてろ、と?」
「…うーむ、どうしたものか…。巴、このはねっ返りをどうする?」
「そうですわね…監禁なさるとよろしいかと。」
「巴様!」
「うふふ。それじゃあちょっと鈴を巴につけてください。散歩に行きたいのです。」
「散歩…この辺はまだ安全だけれど、遠くへは行くなよ。敵を見つけたらすぐに引き返して来い。」
「あら、見つけたのならこの剣で一突き、よね?鈴。」
「はい!」
「またこいつらは…まぁいい。とにかく近くまでだからな。それと一刻以内だぞ。」
「わかりました。さ、鈴行きましょう。」
巴は鈴を寺から少し離れたところにある、見晴らしの良いちょっとした崖まで連れ出した。鈴には巴がここに連れてきた理由がわからなかった。この時間、ちょうど太陽が山の上で赤く輝いて、辺りを染めていた。確かに綺麗な景色だったが、巴がこれだけのために鈴をここまで連れてきたとはなぜか思えなかった。
「巴様…どうかしたのですか?」
「あら、どうしてそう思ったの?」
「いえ…なんとなくですけど。」
「おかしな子。どうしてわかったのかしら?実は、この間の話の続きをどうしてもしたくてね…。」
「話…というと?」
「疾風のこと。私から見れば、鈴が疾風に惹かれているのは一目瞭然なのよ。でも、距離をとろうとしているわね?どうして?」
鈴はどきりとした。なぜわかるのだろう?巴がさっき鈴に言ったことをそっくりそのまま返したかった。鈴は動揺を隠すことができなかった。巴の前で隠し事がばれずにすむ人は一体どれほどいるのだろう…そう思わずにいられなかった。
「…疾風とは、このままがいいんです。兄妹みたいに、ずっと。」
「怖いの?」
心の奥をつつかれたように、鈴はどきりとした。正直に言うべきか迷ったけれど、ここまで知られているのだから今更気持ちを隠すのはバカらしいことに思えた。
「…はい。関係が崩れるのはもう嫌なんです。変わることがこんなに怖いことだなんて知りませんでした。あたしは怖い…疾風があたしをどう思っているのか…よし子だって知った疾風とどんな風に接すればいいのか…。だめですね。こんなんじゃ。」
「鈴…。…あのね、私思うの。人生は一度しかない。そして、多分…私たちの人生の終わりはすぐそこまで来ている。一度しかないんだもの。できるだけ後悔は残したくないじゃない?鈴はこのままで後悔しないって言い切れる?」
「………。」
「ぶつかってみることも大事だと思う。やらなくて後悔するより、やって後悔するほうがかっこいい…そう思わない?」
巴は鈴に微笑んだ。まるで本当の姉のように優しく鈴を包み込むような笑顔だった。鈴は義仲が以前、自分と巴が似ていると言った言葉を思い出した。(義仲様は鈴を買いかぶりすぎている…あたしは巴様とは似ても似つかない…。こんな素敵な女性にはなれない…。)
巴は鈴の暗い表情に気が付き、言い直すことにした。巴は追い詰めたいわけではなかったのだ。
「皆が皆そうであるわけはないし、そうである必要もないわ。鈴が本当に気持ちを決めているのなら、私には何も言えない。だけど、今の鈴は逃げているようにしか見えないの。」
巴は鈴が自己防衛に入っているのを見過ごせなかった。妹のように思っている鈴には、幸せな恋をしてほしい、そう願っていた。それに、時間が限られている。そんな今だからこそこんな崖まで呼び出したのだ。
「…やっぱり、逃げなんでしょうか?」
「私にはそう見える。本当にそれでいいの…?」
鈴には何も言えなかった。自分が一番いいと思った道は、自分を守るための道だと言われ、正直どうしていいかわからなかった。黙った鈴を見て、巴は今日はもう無理だと思って、寺まで引き返すことにした。
「鈴、無理はよくないものね。急にごめんね。…最後まで考えなさい。これでいい、本当にそう思えるまで。」
そう言うと、巴は鈴の手をひき、寺に戻っていく。鈴が巴の行動を気にできるほど余裕がないことを確かめると、巴はそっと後ろを振り返った。そこには崖下から吹き上げてくる風があるだけだった。
「どうしてあの時出てこなかったの?」
巴は辺りが暗くなるのを待って、寺から外に出た。さっきの崖の手前まで行くと木々が生い茂る以外に何もない空間に向かって問い掛ける。巴の声が木々に吸い込まれる。
「鈴の気持ちはわかったでしょう?あとは疾風次第なんじゃないのかしら。」
「…だからこそ、何もできなくなりました。」
風が吹き荒れた。葉が竜巻にあったかのように舞い散る。いつのまにかそこには疾風の姿があった。
「あきれた…。あなたもなの?何をそんなに怯えることがあるの?想い合っているってわかっているのに…。」
「俺は…巴様みたいに強くはない。鈴が望まないのに、無理矢理気持ちを伝えることなんてできないんです。それって自己満足にしかならないでしょう?」
「では、鈴から言うのを待つの?それってずるいんじゃない?」
「…なんて言われても仕方ありません。確かに怖がっているのは自分でもわかります。でも…どうしようもできない…。」
巴はこれ以上ないほど大きなため息をして、髪をかきあげる。手は腰にあて、疾風を見据えた。
「ほんっとに…なんていうかあきれた、としか言えないわね。わかってる?私たちに残された時間なんて、あとどれほどもないの。好きと言えないまま二度と会えなくなるかもしれないのよ?疾風はそれでいいの?」
疾風は今までピクリとも動かなかった体をわずかに揺らしたが、それだけでは隠している彼の本心を窺えるはずもなかった。
「巴様に何を言われても、俺の気持ちは変わりません。…失礼します。」
それだけ言うと現れた時と同じように、木の葉に隠れて消えてしまった。風が吹き荒れる中、巴は今まで疾風がいた場所を見つめ、髪をいじっていた手を下ろし、きつく握り締めた。視線を足元に落とし、呟く。
「時間がないのよ…。」
遠くに見える松明に、月と星の光だけが輝いていた。うっすらと見える木々は風に揺られてざわざわと不安を掻き立てる音を奏でる。巴は一人ぽつんと、この森の中に生きるただ一つの生き物のように見えた。それほど、今のこの森には生気が感じられない。彼女は月を仰ぐと、一粒の涙を流した。それはまるで月の涙そのもののように、澄んで見えた。この世のありとあらゆるものを浄化してくれる…そう思えた。
疾風は一人、寺から離れた場所にいた。松明が見える場所からはかなり遠ざかっているようで、光といったら空に輝く天然の灯りしかなかった。それでも満月に近いせいか、疾風には十分過ぎるほどの灯りだった。
疾風は巴が言った言葉を思い返していた。二度と会えなくなる…これは確かなことだった。ずっと兄妹みたいに育ってきた鈴を、いつから女の子として見るようになったか…それは鈴が忍者になりたいと言い出したころだった。それまでは鈴を一人の姫君として身分相応に扱っていたが、彼女が気持ちを表し始めたそのころから、疾風は鈴を見直して、一人の対等な人間として接するようになった。忍者の修行を始めてからの鈴は、どんどん明るくなっていく一方で、姫として暮らしていた頃に比べるとまるで別人のようだった。誰といてもあまり笑わなかった鈴が、疾風に笑いかけるようになった。どんなきつい修行も歯を食いしばって泣き言も言わずにやり遂げる。そんな鈴を見ていて、いつのまにか鈴が愛する人に変わっていたのだ。
疾風は鈴が今のままでありたいと言うのならそれでいいと思った。たとえ最後まで二人の想いが通い合わなくても、それでも自分達の間にある絆は強いものだ…それでもいいと思えた。これが自分に言い聞かせるためのものであっても、間違ってはいない…そう思った。そう思うしかなかった。疾風は何よりも怖かったのだ。鈴に拒まれることが。
「………鈴。」
疾風の口から、そう聞こえた気がした。しかし、それは気のせいかもしれない。葉っぱ同士のこすり合いがそのような幻聴を聞かせたのだろうか。疾風の口は微動だにしていなかった。葉じゃないのなら、疾風の心の声が自然に調和して聞こえたのかもしれない。そんなことが起こっても不思議じゃないほど、月は不気味に輝き、星は辺りに散らばり、木々は自分の意志であるかのように四六時中揺れ動いて、幻想的な空気が彼の周りを漂っていた。
「義仲様!鎌倉勢がすぐそこまで兵を進めています!ここももうだめでしょう…。」
「うーん…まぁよくもったほうだな。鈴、ちょっとこっち来い。」
鈴は戦支度を整えて義仲の傍に控えていた。巴は義仲をちらりと見、義仲も巴を見た。鈴は二人の態度に戸惑ったが、素直に従った。
「なんですか?」
「お前がよし子だってこと、義経は知っているんだよな?」
鈴は驚いた。今更よし子の名を聞くとは思っていなかったのだ。義仲の目を覗き込み、彼が何を考えているのか探ろうとした。けれどもその瞳からはいつもの調子は窺えず、質問に答えるしか方法がないように思えた。
「…はい。」
「それならばお前は義経の妹として向こうに行け。」
鈴の一番避けたい事態が起こったことは明らかだった。義仲も巴も鈴を生かそうとしている。それは鈴にとって苦しいことでしかなかった。自分の存在意義は巴や義仲を守ることにある、と考えていた鈴には、生きる意味を奪われた気がした。頭を木刀で殴られたような衝撃が走り、すぐには返事をすることもできずにいると、義仲が今度は巴に向き直り、話し出した。
「巴、お前は寺へ行け。」
「…何をおっしゃっているのかよくわかりませんが。」
巴は心外だ、とでも言うように義仲にくってかかった。鈴のことで話し合っていた時には、そんな話は一度も出なかった。巴は当然ついて行く気でいたし、義仲もそれを認めていると信じていた。
「ここまで来てどうしてそんなことをおっしゃるの?今更、離れるなんて…何を考えているのですか!…嫌です。義仲様がなんと言おうと、私はついていきます。」
義仲は巴の方へ近づき、両手で肩を強くつかむ。巴をじっと見つめる義仲の目は、心なしか潤んでいた。鈴は何も言えず、二人の動向を窺っていた。
「義経が欲しいのは俺の首だ!…あいつとは戦になっちまったけど、悪い奴ではない…きっと巴の首まで獲ろうと思わないだろう。」
「…だから?」
巴は大きな瞳に溜まるたくさんの涙にかまいもせずに義仲を睨みつける。そうすることで、泣かずにすむかのように。
「それが何?義経が私に情けをくれる…だから何?私は義仲様がいるところに行きます!決して離れません!」
普段の義仲ならばこんな時怒鳴っていたかもしれない。しかし、義仲は肩を掴んでいた手に力を込めて、巴を引き寄せた。巴は突然のことに前のめりに転びそうになったが、そこには義仲の分厚い胸板が待っていたので、転ぶことはなかった。巴より頭一つ分背の高い義仲の胸に、巴はすっぽりおさまった。一言も発することができなかった。
「俺は怖い…。俺のせいでこんなことになってしまった。俺のせいで何人死んだ?…自分が死ぬことはいいんだ…。ただ、お前が死ぬのは…俺のせいで巴が死ぬのは嫌だ!」
今では巴が義仲を抱きしめる形になっていた。彼の体は小刻みに震えていた。この人はどれほど苦しんできたのだろう…巴は彼をできるだけ強く抱きしめる。こんなにも震える義仲の心を少しでも温めようと、腕に力が入る。
鈴は黙ってその光景を見ていた。やっぱり義仲は巴を生かすつもりだった。最初から…。義経のもとへ、寺へ…一気に混乱に陥った鈴だが、巴の気持ちを考える余裕はあった。彼女は死ぬ時は義仲のもとだと決めていたのだ。死ぬことに恐怖を少なからず感じているだろう。ただ、義仲の「自分がいるから大丈夫」というたった一言があれば、きっと彼女は最期まで満足できることを鈴はわかっていた。
「…それでも私はあなたとともに行きたい…。そう言っても、きっとだめなのでしょうね…。」
義仲ははっとして少し体を離し、巴を見た。彼女は穏やかな顔をしてはいたが、その頬には雨に濡れたかのように水が滴っていた。
「それでは…。」
「ええ。義仲様と戦へは行かない。私は生きる道を選びます。」
「巴…。」
「私は後悔などしていません…。あなたの傍にいられたこと、心から感謝しています。結果がどうであろうと、あなたとの出会いに感謝しています。あなたが私にしてくれたこと、全てに感謝しています。義仲様は私をいつも幸せにしてくださる…。あなたを愛しています。この想いは決して消えることも、薄れることもありません。この気持ちが私の全てです…。」
「巴…。巻き込んでしまって悪かったな。俺はお前と会えて本当によかった。…幸せってこういうことを言うのだな。俺は今幸せだ!巴がいるから…巴がいてくれているから…。どれだけお前に救われたことか…。俺に言う資格があるかわからない。だけど構うもんか!俺は言いたいから言う!巴、愛してるぞ!」
そう言うと、再び巴を強く抱き寄せ、力任せに抱きしめる。
「…言いたいから言ったものの、…こっぱずかしいなぁ。今のが最初で最期だからな!」
巴も義仲も笑っていた。涙が流れていたものの、最高の笑顔だった。鈴は、やっぱりこの二人は強い、そして理想だと、そう思わずにいられなかった。たとえ別れが迫っていても、こんなに自分に正直になるには、鈴にはまだ勇気が足りなかった。
二人を見ながら疾風のことをぼんやり考えていた鈴は、疾風が自分のすぐ傍まで来ていることに気が付かなかった。いきなり強い力に腕をつかまれ、戸口へと引っ張られる。抗うことはできなかった。したくなかった。
「あれが二人の最期の時間だからな。俺らは邪魔だ。」
ある程度遠くへ行くと、疾風は掴んでいた手を放してぶっきらぼうに言った。鈴は自分たちにも最期の時間であることを思った。それでも、気持ちを打ち明けることはできない。二人の間に沈黙が流れる。疾風は遠くを見つめていた。鈴にはその目線の先に何があるのか見当もつかなかった。それでも、一緒にその向こうを見つめていたい。一緒に前を向いていたい。そう思いながら疾風の後ろ姿を見つめていた。
「…さっき義仲様がおっしゃったこと、わかったよな?」
疾風が沈黙などなかったかのように、いつもと変わらないトーンで話し出した。鈴は不意をつかれた。彼女の頭の中は、今では真っ白だったのだ。そんなところに疾風の言葉。そして内容。すぐには返答できなかった。
「………。義経のもとへ逃げろ。」
疾風が念を押すように強い口調で言った。それでも鈴は何も言えなかった。鈴にもわかっていた。自分を死なせないために言っていること。助けたくて言っていること。しかし、鈴にはそれが引き離す言葉にも聞こえた。
「嫌だ…。義仲様がなんとおっしゃろうと、あたしはここにいる。」
そう言うことしかできなかった。それが今ある鈴の本当の気持ちだった。義仲が死ぬ…それなのに、どうして自分が生きていられようか?鈴は決意していた。巴には生きてもらいたい。彼女は女性なのだ。鈴は忍びの道を選んだ時から、既に自分は義仲の戦力になっているものと考えていた。さっきは突然のことで返事もできなかったが、落ち着いた今では言えることだった。決して傍を離れないと。
「義仲様の気持ちを無駄にするのか?」
疾風は予想がついていたのだろう。声が荒がる様子はなかった。鈴に背を向けたま、微動だにせず立っている。彼の周りだけ時間が止まっているような気がした。鈴は黙った。義仲の気持ちはわかるが、それでも裏切られたような気がしてならないから。
そのままどれほど時間が経ったのだろうか。あっという間だったのかもれないが、鈴にはその時間が永遠であるような気がしていた。張り詰めた空気は、崩れる様子もなく漂っている。誰かが来るまでこのままかもしれない、と鈴は覚悟したが、ふいに疾風が振り返って鈴を見た。
真正面から見る疾風の瞳は、今までで一番澄んでいる気がした。この目を見ることはもう二度となくなる…考えないようにしても、油断するといつのまにか胸が苦しくなっていた。
「…そんなに義経のところに行きたくないのなら、最期まで巴様をお守りしろ。それがお前の仕事だろ。」
鈴は目をみはった。想像もつかないことを言われた気がした。けれど、鈴は巴の従者であり、その考えが出てきてもおかしくはないのだ。今更のように驚いている鈴を見て、疾風は苦笑する。
「お前…仮にも従者だろ。何、その手があったーーー!って顔してんだよ。」
「いや…うっかり…。そうか…あたしには義仲様のためにすることが戦に行くこと以外にも残されていたんだ…。あたしは巴様を守る…!そうか…これなら義仲様も何も言えないかもしれない!疾風ありがとう!」
「しっかりしろよ…。こんなんじゃこれからが心配だぜ。………。」
鈴ははっとした。どっちにしろ、疾風とは会えなくなるのだ。自分が選べる道に、疾風はいない。でも心配はかけられなかった。もう、受け入れなければいけないのだ。疾風との別れを。
「…しっかり守れよ。まぁ、鈴にならできる。」
「疾風もね。最期まで精一杯お守りしてね…。」
「当たり前だろ。誰にもの言ってんだ?疾風様だぞ。」
「確かにすごいけど、その自信は一体どこから来るのさ…。」
「どこからって…俺の全てから?ま、お前に心配されるようじゃ俺もまだまだなのかもしれねーな。」
今の二人からは、これまでのぎくしゃくした感じはどこにもなかった。仲の良い幼馴染に戻れた。本心はどうかわからないが、それでも、明るい別れをすることができる。涙は見せない…鈴はそう誓った。
「…また会えるかな?」
「あの世でなら会えるかもな。」
「そっか…。元気でね。」
「なんだそれ。………お前もな。」
涙は決して見せてはいけない。鈴は自分が立てた誓いを守ることができた。そして疾風の目を見たまま、決心した。自分は生きる、と。
「そろそろだな。巴様を安全な場所へ。沙知さんが先に村に下りているから、まずはそこに行くんだ。巴様を頼んだぞ。」
疾風はそう言うとそのまま立ち去ろうとしたが、数歩行ったかと思うと歩みを止め、きびすを返して鈴の近くまで来た。そしておもむろに腕を上げ、鈴の頭の上に乗せて、軽くくしゃくしゃと撫でた。鈴は思いもよらない疾風の行動に一瞬目を丸くしたが、黙ってそれを受け入れる。泣かない…と心の中で何度も呟いて。
「…何?もう…頭ぼさぼさになっちゃうじゃんか。」
「元からだろ。…お前はずっと前を向いていろよ。義仲様の分も、…俺の分も。」
疾風はわずかに目を細め微笑んだ。その表情は、悲しみと苦悩が入り混じったようでもあり、全てを受け入れたようでもあった。鈴も笑った。心配しないで、大丈夫、とでも言うように、彼女ができる最高の笑顔を造ったつもりだった。うまく笑えていたかはわからない。言葉を発してしまえば、鈴の誓いは破られたことだろう。そのことがわかっていた鈴は、表情で気持ちを伝えるために笑った。一生懸命、造った。
疾風は鈴の顔を見て、今度は痛いのを我慢しているような笑顔になった。鈴は不安になった。ちゃんと笑えていないのかもしれない、と。そんな鈴の不安を知ってか知らずか、疾風は鈴の頭の上にある自分の手を軽く上下させて、ぽんぽんっと音を出した。
「行くか。」
それだけ言うと、彼はさっさと歩き出してしまった。鈴は置いてけぼりにならないように、すぐさま後を追う。疾風はいつもより歩調が遅かった。きっと鈴に合わせているのだろう。その優しさが嬉しかった。また、悲しくもあった。
疾風は、鈴が巴の供をするということを義仲に伝えていた。彼は反対せずに、黙って受け入れた。
「鈴、巴を頼んだぞ。」
「はい。義仲様、義経の鼻をあかしてやってくださいね。」
「おう、任せとけ!巴、鈴で遊びすぎないようにな。」
「ええ。鈴で遊ぶことはいたしませんが、鈴と遊ぶことはしますわ。」
「こりゃあやられたな!…疾風、準備は?」
「いつでも。」
「よし…。それじゃあお前ら、気をつけてな。」
「…はい。義仲様も疾風も、どうかお気をつけて。」
義仲と疾風はそれぞれ馬に乗り、別れを惜しむ間もなく鞭を打った。鈴も巴も今では旅芸人に扮装しており、あとは村へ下るだけだった。
大人しく見送っていた二人だが、突然巴が馬の砂埃が立つ方へ走り出した。鈴はすぐさま押さえつけたが、巴に追う意思がないのがすぐにわかり、放すことにした。彼女は鈴が止めに入っても、それを拒む仕草を見せなかったからだ。巴は鈴が放したあとも、しばらく走ったが、ふいに止まり、砂埃に向かって消え入るような声で呟いた。それでも、その声はどこまでも届くような響きがあった。
「いってらっしゃいませ…。」
鈴は巴が止まったのを見届けると、彼女の手を引いて反対側に向かって歩き出した。巴は泣いていた。今にもつられて泣いてしまいそうな自分に喝を入れて、一歩一歩踏み出す。前を向かなくては…と自分に何度も何度も言い聞かせながら。
そのまま、森はずっと静かだった。巴も鈴も喋る気になれなかった。正反対の場所で愛するものが命を賭けている。そんな時に言葉を発することはできなかった。心の中で想い、何度も思い返す。彼らと一緒にいた今までのことを。
鈴はちらりと巴を見た。相当精神的ダメージを受けているのだろう。彼女の目はうつろだった。歩き方もどこか現実と思えないようにふらついている。義経の妹だと知ったときの自分を見ているようだった。今は自分がしっかりしなくては…鈴も同じようにダメージを受けていたが、それでも巴を守るという使命がある今は、いくらか現実に心を存在させることができた。しかし、巴にはできないようだった。このまま、風と一緒に巴も消えてしまうのではないだろうか…鈴は急に不安になった。巴の心は明らかにこの場所にはなかった。きっと魂だけ体を抜け出して戦場へ向かってしまったのだ。一人残されたような気持ちになった。このままではいけない…そう思った瞬間、鈴は力いっぱいに巴の体を揺すっていた。
「巴様!巴様!しっかりしてください!」
頬を何度もぶった。このまま抜け殻になってしまうのではないか、と思ったとき、巴の瞳が動いた。戻ってきたのだ。鈴は巴に抱きついた。これでもかというほど力いっぱい抱きついた。
「巴様…!よかった……本当によかった……。」
「………鈴?あなたが私を戻したの?…ありがとう。」
「巴様、義仲様と一緒だったのでしょう?」
「ええ…。戻してくれてありがとう。けれど…わかってしまった…。もう、わかってしまったのよ………。」
「何の話で……!」
巴の拳が鈴のみぞおちに深く食い込んだ。鈴は信じられないという顔をして巴の足元に崩れ落ちた。そのまま意識が途切れてしまった。薄れ行く意識の中で巴の声を聞いた気がした。
「ごめんね…一人残してしまって……。私、わかってしまった。魂だけ義仲様に従っても、一緒に消えることはできないのよ。…あなたには生きて欲しい…。私の代わりに、生きて…。ごめんね…。」
森は鈴だけを包み込む。巴は今来た道を一人で引き返していた。彼女の後ろ姿を、鈴の代わりに森が見ていた。これから待つ運命をも見透かすように、じっと。
(私は弱かったのね…。義仲様がいなければ、この世に存在すらできない…。肉体だけが生きていても意味がない。それならばこの体を愛する人のために使おう。義仲様、今参ります…。)
何も聞こえない…森の声すら聞こえない。一体どうなっているのだろう?鈴は一人だった。音も、景色も何もない場所に一人ぽつんと立っていた。何が起こったのかさっぱりわからない。なぜ一人なのか、今まで誰といたのか、何もわからなかった。ただ、不安と恐怖が心の全てを支配していた。出口が見当たらず、自分の動く音すら響かない。明らかに異次元に迷い込んでしまったのだ。
「ここは…どこ?皆は…?…皆?皆って…誰?」
鈴は混乱していた。何もわからない自分が一番怖かった。彼女は闇雲に走り回った。そうすることで、恐怖を少しでも和らげるかのように。
「どうしてここにいるの…?あたしは、誰?」
知らず知らずのうちに悲鳴をあげた。あげられずにはいられなかった。悲鳴は闇へと吸い込まれて、初めから何も起こらなかったかのように音がない世界へと戻る。それでも何度も叫ぶ。助けを求めて。
「誰か…誰か助けて!」
『何も心配すること、ないからね。』
聞きなれた声がした。今まで静寂だった世界が少しずつ音を生み出す。暗闇に灯りがともりだす。
「巴様…?巴様、巴様!どこにいらっしゃるんですか?」
『家族だろ。』
「義仲様!ご無事だったんですね!二人ともどこにいらっしゃるんですか?鈴にはわかりません…。」
声は聞こえるのに姿が見えない…そんな不安が鈴を押しつぶそうとする。
「お姿を…お姿を見せてください!あたしには近づくことができない…。」
鈴は走り回って疲れたのか、その場にへたり込んだ。全ての力が吸い取られたように、体が動かない。光り始めていた世界が、またもや暗闇に戻りそうだった。それでも鈴は動けなかった。
「もう…だめなのかな…?会えないのかな…?」
ぽつりと弱音を吐いた。その途端、再び灯りがともりはじめた。この世界に光が射してきている。鈴は力をふりしぼり、光の先を見極めようとする。あまりに輝いていて、ほとんど見えなかったが、そこには人影のようなものが浮き出ているように見えた。
『鈴にならできる。』
その声は遠くから聞こえたようでもあり、すぐ傍で聞こえたようでもあった。思わず鈴の頬に涙がつたう。
「疾風…。」
「…ず………すず……鈴!」
鈴は目を覚ました。頬がじんじんと痛む。目を開けるとそこには見知った顔があった。
「沙知さん…。」
「よかったぁ…もう、いつまでたっても来ないから心配できちゃったじゃないの!…巴様は行かれてしまったのね?」
鈴は飛び起きた。頭がぐらぐらする。それでも起きないわけにはいかなかった。
「ちょっと!あなたどこへ行くの?そんな体で…。」
「あたし…行かないと!」
「だめよ…。義仲様に命令されているもの…。」
「ごめん、沙知さん。それでも行かなきゃ!」
「……後で、迎えに行くから。死なないで。」
彼女は涙を浮かべて、それでも流すまいと必死にこらえていた。鈴にもそれがわかったのか、曖昧な笑みを浮かべ、痛む体に鞭打って即座に駆け出した。早く、早く行かなくては…。気持ちが急いて、体が追いつかない。それでも必死に走った。自分が意識を失ってからどれほど経ったのだろうか…それだけでも聞いてくればよかったと思ったが、今は時間がとても惜しかった。今出せる全ての力を出して走った。どんなに呼吸が困難になっても、走り続けた。今の鈴にはそうすることしかできなかったのだ。
走ってからどれほど過ぎたのだろう。明らかに戦があっただろう場所へ行き着いたが、そこには生きている者はいなかった。死人が二十人ほど血を流していた。血はまだ乾き始めてもいない。その中に義仲軍の兵がいた。彼は既に息絶えており、鈴は三人の安否を心配した。もう遅いのかもしれない…それでも行かずにはいられない。
馬が通ったであろう道を行くうちに何度もそんな場面があった。今まで倒れていた兵の数はどれほどになっただろうか?鈴には気にする暇はなかったが、ゆうに五十人は超えていただろう。その中には知った顔が幾人もいた。
森の中を勘だけで走るうちに、小さいけれど雄叫びが聞こえた気がした。それほど離れていないところで、義仲たちが戦っているのかもしれなかった。急いで声の元へ走る。だんだん刀が交わる音も聞こえてきた。悲鳴もなまなましくなる。間に合った…鈴は無意識のうちに笑顔になっていた。
「義仲様…巴様…疾風…!」
懐に隠していた短刀を振りかざしながら、戦の中に飛び込む。鈴の奇襲に敵方の兵も味方の兵も一瞬怯んだ。しかし、鈴が味方であることに気付くと、一気にこちら側は奮起した。あっという間に敵は退いた。
「鈴!」
義仲が叫んだ。鈴は笑顔で振り返った。義仲のもとには巴も疾風もいた。三人とも目を真ん丸にして鈴を凝視していた。鈴は心の底から嬉しいという感情が湧き起こってきた。もう一人じゃないのだと。
「…追いつけました。」
義仲は鈴を厳しい顔で見ていたが、その言葉を聞いた瞬間、表情が和らいだ。
「このバカどもが…。」
鈴は満足気に微笑んだ。そして視線を巴に移してみぞおち効きました、とふざけて言った。巴は唖然と見ていたかと思うと、ごめんね、と舌を出して笑った。最後に疾風に目を移すと、彼だけは他の二人と違っていた。無表情だった。その顔から彼が怒っていることがすぐにわかった。けれども、鈴は今更そんなことを気にする気はなかった。一人でいることよりも、いくらもよかったからだ。
それから義仲たちはひっそりと隠れるように進んだ。何回も義経軍にぶちあたったが、なんとか切り抜けられた。しかし、こちらの兵はもういなくなっていた。もう四人しか生き残っていないのだ。確かに不安を感じずにはいられなかったが、鈴が入り込んでしまった無の世界に比べたら、大好きな人たちがいる分、不安は薄れた。鈴はまだ一言も自分と会話をしようとしない疾風が気になった。まだ怒っているのだろうか。気にしないでおこうと思ったが、やはり気になるものはなるのだ。
「疾風…ごめん。」
鈴を見ようともしない。ただ黙って行く先を見据えるだけだ。鈴は自分がそんなに悪いことをしたとは思えなかった。確かに別れを受け入れようとはした。けれど、完全に受け入れることができなかったのだ。一人になりたくなかった。暗闇に一人放り出されるくらいなら、命を絶った方がましだった。疾風はそんな気持ちを味わったことがないから怒っているんだ、そう思った。
「でもあたし、後悔しないから。」
それでも疾風は反応しない。鈴が痺れを切らして掴みかかろうとしたときだった。
数本の矢が突如雨のように頭上に降ってきた。間一髪、避けることができたが、今までの兵の数とはわけが違った。ありとあらゆるところから矢が降り注ぎ、身を隠す場所を見つけてもそこもすぐに安全ではなくなる。矢が何度もかする。血が滲みだし、鋭い痛みが走る。それでも戦った。生きるために。全員で生き残るために。
鈴は矢が降る方向に向かって走り出した。矢を放つ人物が減ればこちらに有利なことがわかったからだ。自分が傷つけられても、鈴は一生懸命に短刀を振り回した。鈴によって矢の数は大分減ったが、それでもかなりの数だった。
また一人、鈴が敵兵を倒した。そして次のターゲットのもとへ駆け出す。その瞬間、ヒュン、と鈴の背後に向かって矢が放たれていた。最期の力で敵兵が矢を放ったのだ。鈴はその存在に気付けなかった。急いで振り返った時にはもう避けきれないところまで迫っていた。彼女は死を覚悟していたが、やはり体は強張った。目をきつく閉じた。何も考えられなかった。鈴…そう呼ばれた気がした。その後で義仲が叫ぶ声も聞こえた。疾風…と。
鈴は目を開けた。目の前には何もなかった。何も見えなかった。何が起こったのかわからない。横を見れば、義仲が立ち尽くしている。その義仲を必死で守るように戦う巴も。…疾風は見当たらなかった。もう一度前を見る。やはり何かに視界がふさがれている。目の前がゆっくりと赤い色に染まっていくのがわかった。鈴は何も考えたくなかった。こんなことがあっていいのか、と思うよりほかになかった。無の世界に逆戻りしたかのように、鈴の耳は何も受け入れなかった。頭は目で見たものを否定しようと必死だった。…疾風だ。鈴を覆う壁のように存在するのは、愛しい人の背中だった。
「疾風…?」
突然、強固な壁が崩れるように疾風は倒れた。それを必死に支えようとする鈴。しかし支えられるはずもなく、一緒に倒れ込む。泣かないという誓いの存在を忘れた。涙は今までの分を取り戻すように溢れ落ちる。無音の世界に包まれた。今まで聞こえていた敵の声も、矢が飛んでくる音も、全てが遮断された。二人の周りには、外界から切り離すシェルターがあるようだった。
「疾風…疾風…。」
疾風は顔をしかめていた。必死で痛みを我慢するかのように、必死にこの世界に留まろうとしているかのように。
「痛ぇ…おい、鈴…傷口に塩水たらすな…。」
「疾風…どうして?どうして…。」
義仲は既に戦いに戻っていた。それでもやはり疾風の安否を気にしながら戦っているのがわかった。疾風は肋骨のやや上部に刺さる矢の近くに、自分の手をもっていって、傷を確認した。生ぬるい液体が手にまとわりつく。疾風は鈴に義仲に伝えてほしいことがある、と言った。その時初めて、鈴は義仲たちの存在を思い出した。鈴は顔を疾風に近づけて、聞き逃さないようにと必死だった。周りの怒声が疾風の声をかき消すのだ。一言一句確認しながら聞く。その間も涙は零れ落ちる。全てを言い終えた疾風は、鈴を優しく見つめる。彼はさっきまで怒っていた人と同一人物には見えなかった。鈴は鼻をすすりあげ、義仲に顔を向ける。飛んでくる矢を気にしようともしない。息を大きく吸い込み、義仲を見据える。
「義仲様!疾風からの伝言です!『義仲様の盾になれず申し訳ありません。勝手に体が動きました。まあ、こんな風に俺を育てたのは義仲様ですからね。』だそうです!」
言い終えると、目線を疾風に移した。彼は満足そうな顔をしていた。それでも、鈴は泣かずにはいられなかった。次から次へと頬をつたう涙はとても冷たく感じられた。
義仲も、巴も泣いていた。それでも必死に戦っていた。義仲は愉快だと言わんばかりに大口を開けて笑った。
「そうだな!全くお前って奴は主人を守らず先に深手を負うなんて、なんてアホなんだ!さすが俺の弟!」
二人とも満足そうだった。巴も義仲の言葉を聞いて、優しく笑う。悲嘆にくれているのは鈴だけかもしれなかった。その時、鈴の左肩に鋭い痛みが走った。何かと思うと、そこには疾風に刺さっているものと同じ矢があった。その時初めてここは戦場だったと思いだした。自分と疾風がいるところと義仲と巴が戦っている場所は異世界だと思っていた。しかし、痛みが鈴を現実に呼び戻す。自分が誰を守らなくてはいけないか思い出した。
「鈴!」
巴は叫んだ。その声に鈴も振り向く。そして、疾風と巴とを交互に見る。自分の役目を思い出した今、疾風の傍についていることはできなかった。鈴の心の葛藤を巴は見抜いてしまった。そして、ほぉら、ごらんなさい…とでも言うように、微笑んでみせた。けれど、彼女の目には涙が浮かんでいた。
「…鈴、疾風を連れて逃げなさい。義仲様、ここは私たちだけでいいですよね?」
義仲は状況を読み取ったのか、間をおかずに宣言した。
「ああ。ここは俺らだけで余裕だ。鈴、早く逃げろ!疾風をこのまま死なせていいのか!」
鈴は二人を見た。明らかに二人で敵う数ではなかった。生きろ…そう言っていた。疾風は既に顔は青白くなっていた。でもまだ間に合うかもしれない。鈴は少ない可能性に賭けたかった。それでも、ここを離れることは躊躇われた。大好きな主をこんな場所に置いていきたくない。鈴がまだ迷っていると、義仲が怒った口調で叫んだ。
「ほら、鈴!行けってば!主の言うことが聞けないのか!あ、俺違った。巴、なんとか言ってくれ!」
巴は敵をなぎ倒し、剣についた血を払いながら笑った。
「義仲様、私に、『俺がいるから大丈夫』って笑顔で言ってくださらないかしら?」
義仲は怪訝な顔をした。そして巴の顔を見て、けろりとして言った。
「なんだ、それ?当たり前のことを聞くなよ!巴には俺がいる!だから大丈夫だ!」
義仲はどうして巴がこんなことを聞きたがったのか、よくわかっていなかった。これは、巴と鈴にだけわかる暗号だった。巴は涙を流しながら、嬉しそうに笑った。これ以上の幸せがある?鈴に問い掛けるような、そんな笑顔だった。
「ほら、鈴!聞いたでしょう?早く行きなさい!後はあなたの番…。」
「巴様…義仲様…ごめんなさい…、ありがとうございます!」
「疾風をよろしくな!鈴、疾風…じゃあな!」
鈴は二人に向かってお辞儀をした。急いで疾風に肩を貸すと、勢いよく立ち上がった。涙は枯れることを知らないかのようにいつまでも流れ続ける。鈴はこの二人が本当に大好きだった。もう二度と会うことはできない…そんな考えが頭をよぎるが、それを考えていたら鈴は今にも歩みを止めてしまいそうになる。なるべく考えないで歩こうとした。そんなことは無理なのに…。
女の力で、ほぼ一人で歩くことができない男性を運ぶというのは、体力的にとても難しかった。しかもさっきまで全力で戦って、自分も傷を負っている。鈴は息も絶え絶えに足を動かす。たまに木の根にひっかかりそうになり、体制を何度も立て直さなければいけなかった。追っ手がつかないように獣道も歩いた。ほぼ限界に近づいた。疾風は鈴の状態を感じ取り、声をふりしぼった。
「鈴…置いていけ。」
そんなことできるはずがなかった。疾風の言葉を無視して歩く。涙か汗かわからないほど、鈴の顔はぐちゃぐちゃだった。疾風はまた話し掛ける。
「お前…主人を助けないで…俺を、助けるなんて…違うぞ…。」
「疾風に言われたくない!どうして庇ったの…あたしを。」
「…………勝手に、動いてたって…言っただろ。」
疾風の声はもう微かにしか聞こえなかった。鈴は焦った。あとどれほど行ったら沙知に会えるだろうか…方角が全くわからなかった。これ以上疾風をあてもなく連れまわすのは危険だった。出血の量が半端じゃないのだ。
「疾風、いい。もう喋らないで。」
「…俺、さ…お前に言ってないこと、あるんだ…。」
「いい。今はいい!喋らないで!じゃないとほんとに…。」
「どうしても…聞いて、欲しい…。」
鈴はもっと鍛えておくんだったと後悔した。もう一歩も動けないのだ。膝の力が抜け、ガクンと倒れる。二人は仰向けに転がった。もう無理だ、そう感じた。ここで消えるのも悪くないかもしれない。森が二人を包んでくれる。そっと疾風の頬に触れた。彼の頬は雪のように冷たくなっていた。鈴は涙が流れ落ちるのを感じた。鈴の涙が土へ還る。それはもう悲嘆の涙ではなかった。
「あたしも…言えなかったこと、あるよ。」
「うん…俺、知ってる…。」
「…え?」
「…巴、様と…話してるの…聞いてた…。」
「…盗み聞き?趣味悪いね…。」
鈴の頬が冷たいものを感じ取った。それは次から次へと舞い降りてくる。
「あ…雪。疾風、雪降ってきたね。」
空を見上げると、そこは既に真っ白に輝いていた。雲間から覗く太陽の光が、ちらほらと落ちる雪に反射している。疾風もその光景を確かめて、感嘆のため息をもらした。
「…ああ。雪、好きだ…。」
「あたしも好き。また二人で見たいね…。」
「好きだ…。俺、鈴が…好きだ…。」
「…うん、あたしも好き…。」
少しずつ降り積もる雪が、鈴の涙で溶けていく。そこだけ、茶色い丸ができていた。気付くと、その他にも白い空間にぽっかりと剥き出しになっている土があることに気付いた。疾風も泣いていたのだ。
「やっと…やっと、言えた…。ずっと…言いたかった…。」
疾風は体の向きを変えた。もうほとんど感覚のなくなった四肢を一生懸命動かして、鈴と向き合うように。疾風の頬にあった鈴の手が地面に触れる。今度は疾風が鈴の頬に手をおいた。
「泣いてんの…?」
「違うよ…雪だよ…。」
「そっか…。暖かい、な…。」
疾風は静かに目を閉じた。鈴は自分の頬にある疾風の手を握り締めて、微笑む。疾風の手はきっと氷のように冷たかったのかもしれないが、鈴も十分に冷えきっていたので、全く気にならなかった。
「雪、積もるといいね…。」
森は真っ白に塗り替えられたかのように、ゆっくりと全く違う世界へと変わっていった。戦場では首がない武者の遺体、それに寄り添うように横たわる女武者の体を白く染め、全てから隠すように次から次へと雪は積もっていく。森の深いところは既に白く染まりきっていた。そこにあるのは白い空間だけ。音もなければ目に映るものもない。ただ一つを除けば…。
雪は永遠に降るかと思われた。願いを聞き入れたかのように、止む気配を全く見せなかった。
一面の銀世界、それは誰に望まれた結末だったのだろうか…。
視界がぼやける…。見えるものは一面に染まる白、ではなかった。薄暗い色がぼやけて目に映る。おかしいと思った。どうしてこんなものが見えるのだろう?今見えるものは白に包まれた世界のはずでは…?隣りに疾風もいるはずだった。
「鈴!」
聞き慣れた声だとは思ったが、それが誰のものなのか、思い出せなかった。頭が混乱していた。
「誰…?」
「沙知!沙知よ!本当に…四日も目覚めなかったのよ…?心配したわ…。よかった…無事で…。」
「…何を言ってるの?あたしは疾風と一緒にずっといたよ…?」
鈴には沙知がここにいることが不思議だった。そして、自分が温かい場所にいることにも疑問を持った。
「…?ここは森ではないの?」
沙知は目を伏せた。途端に鈴は自分の隣りを確認する。そこには、粗末な板敷きと鈴が寝かされている布団の端しか見えなかった。鈴はどうしようもないほどの喪失感を味わうことになった。また、一人だけ取り残された。そして、今度は永遠に会うことはないのだ。
「どうして…?どうしてあたしだけなの…?」
消え入るような声で鈴は嘆いた。こんな想いをするために、義仲と巴をあの場所に残したんじゃない。疾風と一緒に逃げたのは生きるためだったのに、唯一の希望である疾風がいない。
沙知は、かける言葉も見つけられず、また、鈴の目を見ることもできずにただ泣き声を殺す。鈴の気持ちを思えば、心が痛んで涙を出さずにいられなかった。しかし、当の本人が涙を見せないのだ。それがまた哀れでならなかった。
鈴は泣かなかった。泣けなかった。泣けたならばいくらか楽になっただろう。けれど、きっともう流しきってしまったのだ。それでよかった。もう何も感じたくなかった。あの時、自分は疾風と一緒に死んだのだ。ここにいるのは抜け殻でしかないのだ。そう思った。すると、さっきまで痛んでいた心が麻痺したように痛まなくなった。鈴は静かに何もない空間を見つめた。
「ねぇ…どうしてあのまま死なせてくれなかったの…?」
沙知は直感した。やはり鈴は巴に似ている、そう思った。鈴もまた、抜け殻になろうとしているのだ。沙知は許せなかった。思わず彼女は手を高く振り上げていた。パシン…静かな空間に音はよく響いた。
「このバカ娘!あんたねぇ…義仲様と巴様がどんな想いであんたを逃がしたと思っているの?疾風だってそう!疾風がいなかったら、私は鈴を見つけられなかった…。」
痛む頬を右手で押さえながら、驚いた目で沙知を見つめた。沙知は鈴の魂を留めることに成功したのだ。
「…疾風が…何?」
沙知は涙がいっぱいに溜まった目をこすり、落ち着こうとする。彼女だって悲しくないはずがないのだ。それでも、平常心を装って、話し出す。鈴のために。
「あの日、助けに行ったときは吹雪だった。視界が悪くって、それに、雪が積もっていて見つけられなかったの。手伝ってくれた人たちも、もう無理だと言ったわ…。私も諦めかけた。でも…」
沙知は再び涙ぐんだ。それが何を意味するか鈴にはわからなかった。ただ、鈴には無表情で聞いていることしかできない。涙を出そうと思っても出ないのだから。
「一面真っ白だったの…。本当に。でもね、その中にポツンと何か赤いものが見えた…。不思議よね?雪は何十センチも降り積もっていたのに、一箇所だけ赤く染まっていた。私は引き寄せられるようにそこへ向かった。近づけば近づくほど、その色がとても鮮やかなのがわかった。ついに手が届くところまで来た。その部分だけ、他の個所に比べて雪が窪んでいた…。その雪を少しずつ取り除いたわ。そしたら…いたの。疾風に包まれるようにして倒れているあなたが…。赤いものは疾風の血だったの…。あなたを生かそうと必死だったのね…。気付いてほしかったのよ…私たちに。」
沙知は、鈴の魂がまたいなくなったのかもしれないと思った。何の反応も見せないのだ。しかし、鈴はちゃんと存在していた。鈴の目から、枯れたと思っていた涙が流れたのだ。
「疾風が……?助けてくれたの…?どうして…?だってあの時、あたしより先に疾風はいなくなったのに…。先に目を閉じてしまったのに…。」
「それだけ、あなたを死なせたくなかった…そうでしょ?だからきっと、雪も彼の味方をした…彼の想いの強さに惹かれて…。今の鈴は何人もの人によって生かされているの。あなたの命はとても重いもの…。感じるでしょう?」
そこまで言ったところで、沙知は鈴の異変に気が付いた。鈴は瞬きもせずに、泣いていた。右眼だけで…。
「鈴…左眼、どうかしたの…?」
「左眼…。」
鈴は動く方の手を両目にもっていった。すぐに鈴にもわかった。涙は右眼からしか流れていない。鈴は自分の身に起きたことを思い返す。雪が顔の半分を隠す頃、薄れる意識の中で鈴は最期に見たのだ。疾風の穏やかに笑う死に顔を…。左眼が疾風のその顔をしっかり焼き付けていた。抑えきれなくなった嗚咽が部屋中に響く。
「疾風…疾風!……そっか。やっぱり淋しかったんだ…。あたし一人をこの世界に置いていくこと、辛かったんだ…。…あたしが一人でも生きていけるように、そして、疾風も淋しくないように…。だから涙と疾風の残像を交換したんだ…。」
鈴は沙知を見てにっこり微笑んだ。右眼はいくつもの涙を流す。ここに来て初めて、義仲の死、巴の死、疾風の死を受け入れることができた気がした。淋しくはない。きっといつも傍にいてくれているから。
「沙知さん…ごめん。ありがとう。」
鈴の目にあった絶望は消えていた。沙知は安心した。それと同時に堪えていた涙が吹き零れる。今度は鈴が沙知を落ち着かせる番だった。
「それにしても、やっぱり沙知さんの平手打ちは強烈だね…。」
沙知は涙を拭きながら、笑った。鈴も自然に口元がほころんでいた。まだ笑えるんだ、まだ終わりじゃない。…そう思えた。
義仲の笑い声が聞こえた。巴も笑っていた。
「頑張れよ。」
疾風の優しい声が耳元で響く。みんなここにいるんだ。
鈴は沙知に体を支えてもらい、外に出る。雪は未だに止んでいなかったが、鈴は前を見つめて微笑んだ。
「うん、大丈夫…。あたしは生きる。」
ちょうど大河で義経をやっている時に思いついた小説です。
かれこれ5年程前のものを今更載せてみました。
当時の意欲を見習い、書き溜めていきたいと思います。
最後までありがとうございました。