第1話 人間のお兄さん
わたしはたぶん人間だ。妖精じゃなくて、人間だ。
今ここにはいないリヴィ兄さまみたいに耳は尖ってないし、輝くような銀色の髪は持っていない。わたしの髪は闇みたいに真っ黒だから。
剣の先をこっちに向けてくるお兄さんの耳はわたしと同じ丸い感じ。ついでに言うと、その髪は薄い灰色だった。
それで、お兄さんはなんでこんなところにいるの? こんな森の深いところ、誰も来ないはずだよね。
「妖精……?」
もしかして、わたしのことを言ってる? 違うよ、わたしもお兄さんと同じ人間。
そう言うのが一番早いのはわかってる。……わかってはいるんだけど、ごめんなさい。無理なの。怖いの。優しくないものを向けてくるひとが怖いの。
リヴィ兄さま以外のひととお話しするのなんていつぶりかな……? そもそも兄さま以外のひととお話ししたことあったかな。なかったよ。なかったに決まってる。だって怖いもん。そんな怖いこと、できるわけがない。
「な、なあ、君……」
何? なんで近づいてくるの?
そんな怖い顔しちゃいやだよ。右手に持ってるその剣は、やっぱりわたしを切るためのもの?
逃げなきゃいけないのはわかっている。だけどどうにも足が動いてくれない。そもそも立てない。お尻が地面にくっついてる。はがすのには時間がかかりそうだから、お兄さんにはちょっと待ってほしい。待ってくれないかな……うん、無理だよね。
わたし、今、心臓がびっくりするくらいバクバク鳴ってるんだ。もうどうしたらいいのかわからないくらい。
両手もびっくりするくらい冷たくて、もはや何も感じないというか。でも目の周りだけは熱くって、お兄さんの姿もそこらに生えてる木も、全部がぐにゃって見えている。
息もなんだか苦しいし、わたし、どうなっちゃうんだろう。
「——、——……?」
あれ? お兄さん何か喋ってる? ごめん、自分の心臓の音がうるさすぎて何も聞こえないや。それに息が苦しくて、どうしてか目の前が暗くなってきて。
ごめん、ごめんね。ごめんなさい。ちょっと待って。お願い、ちょっと待ってもらえたら、きっと落ち着いて話を聞けるようになるから。
だからさ、もう少し待ってくれないかな——。
+・+・+
木の隙間から見える空は青かった。どこかから鳥さんの歌が聞こえてきた。
わたし、息が上手くできなくなって倒れちゃったんだっけ。
いつの間にかかけられていた毛布はふわふわで暖かい。この敷物も、リヴィ兄さまが用意してくれたとか……?
でもその予想は大はずれ。体を起こしてみたら、見知らぬお兄さんと目が合った。
夢……もしかしてこれ、夢かな。夢だといいな。ほっぺたを引っ張ってみるのはあえてやらなかった。それで痛かったら、現実だって確定しちゃうから。
「なあ、君」
ううん、嘘ついた。現実なのはわかってる。すでに確定してる。そろそろ受け入れなきゃダメなこともわかってる。
でも、怖いの。
お兄さんはだぁれ? なんでこんなところにいるの?
そうやって聞かなきゃダメなのに、体が勝手に震え出す。心臓もずっとバクバク。目のあたりが熱くなって、見えてるものがぐにゃりと歪む。
息が上手くできない。上手くできなきゃずっと苦しいままなのに。
深呼吸って、どうやるんだっけ……?
「息を吐くんだ。ゆっくりと、ふぅーって」
こちらに向かって手を伸ばしているお兄さんは、それ以上近づいてきそうにない。
わたしはお兄さんの真似をして、何回か息をしてみた。吐いて、吐いて、吸って。吐いて、吐いて、吸って。
しばらくそうしていたら、さっきよりもずっと大丈夫になってきた。
「落ち着いたか……?」
おそるおそる見てみたお兄さんは心配そうに眉を下げていた。このひとはそこまで怖くないのかもしれない。小さくうなずいてみたら、「よかった」と言葉が返ってくる。
お兄さんが着ているのは、薄灰色のシャツ、深緑色のズボンとベスト、黒色の丈が短めのマント。腰には皮でできた小さなカバンがつけられている。そばに置いてある剣は黒い鞘にしまわれていた。
灰緑色の目をうろうろとさせて、お兄さんはぽつりとつぶやいた。
「君は、その……ひとりなのか? 誰か、大人は?」
今はひとりだよ。リヴィ兄さまはちょっと長めのお出かけ中だから。わたしはそのお留守番。どうしてもわたしを連れていけない用事があるんだって。
だから、兄さまが出かける前に、ひとりでいるときは結界の外には出ないっていう約束をした。でも、ネコさんと追いかけっこしていたらいつの間にか外に出ちゃっていたんだけど……。それは、それとして。
外は外でも、ここは〈妖精の森〉の深いところで、人間は来ないのが当たり前ってリヴィ兄さまが教えてくれたはずなんだけどな。
でも、どうしてかこのお兄さんはいる。それがなんでかはわからない。お兄さんが何者なのかもわからない。
良いひとなのか悪いひとなのかもわからないけど、何にせよお兄さんは人間だから、リヴィ兄さまが妖精であることは言わないほうがいいと思う。
「ひとり、だよ」
「そうか」
「うん」
お兄さんは腕を組んで考えるポーズを取る。しばらくかかりそうだったから、わたしは周りを見てみることにした。
二階建ての家をすっぽり隠せるくらいの背の高い木たち、その隙間からちらちら見える空は青色。
木にも地面にも岩にも、いろんなところに緑色の苔が生えている。結界の中とは違って、お花はほとんど咲いていない。
この場所に慣れてきた今、ひんやりしっとりとした空気は結構息がしやすかった。
追いかけていたネコさんは無事に帰れたかな。結界の中にいる動物さんたちは、みんなリヴィ兄さまの〈妖精の契約者〉。さっきのネコさんも、わたしと違って帰り道を知ってるはず。だからきっと大丈夫だ。
「君、」
びくって肩が揺れた。考える時間は終わったみたいだった。
少し早い心臓には知らないフリをして、わたしはそっとお兄さんと目を合わせる。
「よければ、僕と一緒に来ないか?」
「……ぇ?」
お兄さんはこの〈妖精の森〉に住んでいるわけじゃない。そんなお兄さんについて行くっていうことは、森から出なきゃいけなくなるってことだ。それはつまり、リヴィ兄さまから離れないといけなくなるってことで……。
「い、いやだ」
「どうしてか聞いても?」
「わたし、ここで待ってる。兄さまが、探しに来てくれると思う」
帰ってから絶対に怒られるだろうけど。それを考えたらだんだん声が小さくなってしまった。お兄さんは難しい顔をした。
「君の兄がいつ来るのかはわかっているのか?」
「たぶん、五日後くらい」
リヴィ兄さま、出かけて行く前に五日くらいで帰ってくるって言ってたから。
「厳しいことを言うが、森の中は危険だ。それにお腹も空く。それをわかっていながら、君をここに置いて行くことはできない」
「……うん」
ご飯は兄さまが用意してくれていたし、掃除とか必要なことは魔法がかけられた家が勝手にやってくれる。話し相手と遊び相手は動物さんたちだ。
そうやってしっかり準備してくれていたのに、その家がある結界の中へ帰る方法がわからないなんて……ごめんなさい、兄さま。
お兄さんは真っ直ぐとわたしを見ている。
「改めて言う。僕と一緒に来てほしい」
断っても、わたしひとりでここに残ることはできないと思う。この感じだとお兄さんは何回でも説得してくるはずだし、人間であるお兄さんがいるとリヴィ兄さまは姿を現しづらいはず。
結局、わたしはうなずくしかなかった。そうしたら、お兄さんが微笑んだ。
「ありがとう」
「なんで、お兄さんがお礼を言うの?」
「君が心配で眠れなくなるところだった。だから、一緒に来ることにうなずいてくれて安心できた」
「そっか」
悪いひとじゃないと思う。結構良いひとなのかもしれない。でもやっぱり、初めて会ったばかりのわたしにここまでしてくれるお兄さんは変だ。怪しい。何か悪いことを考えてる気もしてきた。
だけどもう、そんなに怖くはない。
「僕はセンゼル。君の名前を聞いてもいいか?」
このひとは大丈夫。そう思えたから。
「わたし、ミア」
「ミアか。よろしく」
差し出された右手に自分の右手を重ねてみた。
「うん。……よろしく、センゼルさん」
少し暖かくて、少し冷たい。センゼルさんの手は、わたしの手とよく馴染む温度だった。
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