102回目の夏
それは2026年の盆休みの頃だ。この時期、多くの人々は旅行を楽しんでいた。旅行をしている人々はみんな、嬉しい表情を見せている。今日という日を楽しみにしていた人々が見せる、満面の笑みだ。
だが、6年前はそれがあまりかなわなかった。2020年は新型コロナウイルスが流行していて、旅行をする気にはあまりなれなかった。感染を防止するために、自宅にいる事が多くなった。とても寂しい日々を送った。だが、それを乗り越えて、人々は元の生活を取り戻してきた。
大村竜也は24歳の若い中学校教員。だが、彼の高校生活最後の1年間は、新型コロナウイルスに振り回された。竜也は野球部だったが、その年は全国大会が中止になった。都道府県の大会で優勝したチームの一部で、交流試合が行われたものの、それはとても寂しいものだった。何しろ、各チーム1試合だけだったからだ。それも、無観客に等しいし、密を避けるために応援団は1人1人離れていた。去年とはかけ離れた甲子園球場に、見ていた人々は驚いた事だろう。
盆休みのある日、同僚の山口先生は竜也の住んでいるアパートの部屋にやって来た。今日は一緒に大阪を歩こうと思っていたようだ。去年は大阪・関西万博を一緒に楽しんだ。今年はディープに大阪を楽しもうと思ったようだ。
山口は自宅のインターホンを押した。だが、反応がない。どうやら、竜也は部屋にいないようだ。と、そこに大家がやって来た。
「あれっ、大村先生は?」
「甲子園球場に行ったんやて」
甲子園球場に行ったのか。そういえば、竜也は高校球児だったな。高校野球を見よう思い、甲子園球場に向かったようだ。残念だな。でも、竜也がそこに行ったのなら、自分もこっちに行こうかな? きっと面白そうだから。
「そっか・・・。ちょっと行ってみよかいな?」
「ええよ」
山口は竜也の部屋を後にして、甲子園球場に向かった。甲子園球場へは、梅田か難波で阪神電車に乗り換えて向かう。今からでもチケットを買えば、入れるだろう。
その頃、竜也は高校野球を観戦していた。竜也はウエストポーチを腰に巻き、水筒を肩にかけて観戦していた。この時期はとても暑い。熱中症対策のために、しっかりと水分補給はしないと。
「大村先生」
その声を聞いて、竜也は横を向いた。そこには山口がいる。まさか、山口がやってくるとは。どうしてここにやって来たんだろうか? まさか、自分を追って、ここにやって来たんだろうか?
「あれっ、山口先生やん!」
山口は竜也の席の横の通路に立った。そして、試合を見ている。みんな暑い中、一生懸命頑張っている。彼らはみんな、負けたら終わりというプレッシャーを抱えている。そして、負けた時、涙を流し、甲子園球場の砂を持ち帰る。これが夏の甲子園の風物詩だ。まるで、暑い夏の筋書きのない人間ドラマを見ているような素晴らしさがある。
「見とるん?」
「うん・・・」
だが、竜也は浮かれない表情だ。何か言いたい事があるようだ。一体、何だろう。
「どないしたん?」
「僕の最後の夏は、全国大会、なかったんやと思い出してな」
確かにそうだ。竜也が高校3年生の頃は、新型コロナウイルスが猛威を振るっていて、全国大会が中止になった年だ。毎年行われていて、まるで夏の風物詩になっていたのに、2020年は行われなかった。普通じゃない夏に、どれだけの人が違和感を覚えただろう。そして、どれぐらいの高校球児が悲しんだだろう。交流試合が行われたとはいえ、そのつらさは計り知れないだろう。
「そういやぁ、なかったな。確か、新型コロナウイルスやったっけ?」
山口もその時の事を思い出した。あの年は大変だった。様々なイベントが中止になり、大変な思いをした。特に印象的だったのが、東京五輪の延期だった。2013年に決まった時には、どれだけの人々が喜んだだろう。そして、グッズを買って、2020年を待ち望んだ事だろう。だが、延期になり、多くの人が残念がった。だが、それは仕方がないと思う人も少なくなかっただろう。その分、翌年にやっと開催された時は、どれだけの嬉しさが込み上げてきただろう。だが、それも無観客開催で、会場にいるのは関係者ぐらいだった。あまりにも寂しい五輪だった。新型コロナウイルスさえなければ、こんな事にならなかったのに。誰もがそう思う大会だった。
「うん。あの時は残念やったわ」
「その気持ち、わかるわ」
ふと、竜也は思った。今、こうして頑張っている高校球児は、2020年の夏の甲子園が開催されなかった事を、どう思っているんだろうか? 残念だと思っているんだろうか? 彼らが楽しめなかった分も頑張ろうと思っているんだろうか?
「今の高校球児、こんな時代があった事はわかるやろけど、中止になった事があるってのは知っとるんかな?」
「わかると思うで」
「交流試合行われたんやけど、やっぱり全国大会で優勝っちゅうのがあらへんの、残念やわ」
竜也は交流試合の様子をテレビで見ていたが、あまりにも寂しくて、面白くなかった。こんなに興奮しない夏は、初めてだ。その理由はわかっていた。だが、自分にはどうしようもなかった。
竜也は中京大中京のエースだった高橋宏斗の事を思い出した。あの3年後、WBCで活躍した。侍ジャパンは優勝し、高橋宏斗は最年少で優勝メンバーになった。
「2023年のWBCで活躍した、高橋宏斗って、交流試合で出場した中京大中京のエースやったんやな」
「うん。僕も見たで。あの時、大学生やった。こんな若くして、世界を舞台で活躍するって、すごいなと思ったわ」
山口もWBCを見ていた。あれは興奮したな。特に準決勝のメキシコ戦の逆転サヨナラ2点タイムリーはすごかったな。1塁ランナーの周東が原付を超えるスピードでホームインしてきたのには、とても興奮した。
「確かに。WBCの最後は夏の甲子園や春の甲子園みたいにトーナメント方式やな。それができた時って、嬉しかったやろな」
「うんうん」
2人とも、WBCの事を思い出していると、興奮してくる。スポーツって、こんな人々を興奮させる力があるのかと改めて思った。
「今、こうして自由に高校野球ができるって、嬉しいやろな」
思えば、中止になってから6年が経った。その時の記憶は、薄れていったんだろうか? いや、薄れないでほしい。いつまでも残していってほしい。
「あれから6年、あの頃の記憶は薄れてくんやろか?」
「薄れないでほしいわ」
「ほんまやね」
と、観客が歓声を上げた。どうやら、ホームランが出たようだ。まさか、ホームランの瞬間が見られるとは。
「さて、今日は楽しもうや。今、こうして自由に高校野球ができて、見れる幸せをかみしめようや」
「ああ」
2人は夏の甲子園を見ていた。やっぱり夏の甲子園は素晴らしいな。でも、それが行われなかった年があるというのを、忘れないでほしい。




