え? 散財大好きな幼馴染に未練がまだあるんですか。結構です、私は好きに生きますので――騎士団の財政管理も本日で辞めます
「すまない。俺との婚姻関係を解消してくれ」
結婚指輪と離婚書類が机に置かれる。
私は声を失ったのではない。
——ようやく理由が揃った、と思っただけだった。
沈黙が部屋を満たす。
夫は気まずそうに視線を逸らし、指先で机を叩いた。
その癖は、後ろめたい時に必ず出るものだ。
私は書類へ目を落とす。
すでに署名欄には彼の名前が記されていた。
準備は万端、というわけらしい。
「……理由を、伺っても?」
自分でも驚くほど穏やかな声が出た。
夫は少しだけ安堵した顔をした。
怒鳴られると思っていたのだろう。
「君に非はない。ただ……俺は、もう誤魔化せない」
誤魔化せない。
その言葉に、胸の中で数字が並び直す。
消えた資金。
増え続けた交際費。
用途不明の特別支出。
すべてが一本の線につながる。
夫は立ち上がり、扉の方へ視線を向けた。
「入ってくれ」
——来るわね。
扉が開く。
軽やかな足音と共に現れたのは、華やかなドレスに身を包んだ女性だった。
艶やかな髪。自信に満ちた笑み。
社交界で何度も見かけた顔。
夫の幼馴染。
リディア。
「久しぶりね。奥様」
まるで勝者の挨拶のように、彼女は微笑んだ。
私は小さく会釈する。
「ごきげんよう」
夫がどこか誇らしげに言う。
「彼女は昔から俺を支えてくれていたんだ。これからは……その、正式に隣に立ってもらおうと思っている」
なるほど。
だから離婚。
だから急な資金移動。
だから——騎士団の財政が崩れ始めた。
リディアは部屋を見回し、ため息をついた。
「本当に質素ねえ。団長夫人なのに。もっと華やかにすればいいのにって、ずっと思ってたの」
私は答えない。
代わりに、彼女の腕に光る宝石へ視線を向ける。
その指輪。
そのネックレス。
そのイヤリング。
全部、見覚えがあった。
騎士団の帳簿で。
「ねえ団長、あの新しい迎賓パーティーの件だけど——」
彼女は当然のように話し始める。
予算も、制度も、責任も理解していない声音で。
私は確信した。
騎士団の赤字。
未承認支出。
緊急予備金の消失。
——諸悪の根源が、目の前にいる。
夫は気づいていない。
いや、気づこうとしていない。
私は静かに離婚書類を閉じた。
「……承知いたしました」
二人が同時にこちらを見る。
私は微笑む。
「ですが、その前に確認だけさせてください」
机の端に置いていた帳簿を指先で叩く。
「騎士団の財政管理官も、本日で解任という認識でよろしいのですね?」
夫が眉をひそめた。
「……ああ。リディアが代わりに見る予定だ」
その瞬間。
胸の奥で、長く続いた仕事が終わった音がした。
私はゆっくり立ち上がる。
「かしこまりました」
そして初めて、心から穏やかに思った。
——これで、もう責任は私のものではない。
私は立ち上がりながら、ふと昔のことを思い出した。
彼と初めて会った日のことを。
騎士団の訓練場は、いつも鉄と汗の匂いがしていた。
書類を届けに行った私は、場違いな場所に迷い込んだ気分で立ち尽くしていた。
その時。
「危ない!」
背後から腕を引かれた。
次の瞬間、木剣が私のすぐ横をかすめる。
振り返ると、そこにいたのが——彼だった。
髪は乱れ、制服は土で汚れ、額から汗が滴っている。
正直に言えば、少しだらしない印象だった。
でも。
「怪我してないか?」
そう言って真っ先に私を気遣った顔は、驚くほど真っ直ぐだった。
私は思わず笑ってしまったのを覚えている。
あの頃の彼は、不器用で、真面目で、嘘が下手な人だった。
帳簿の読み方も分からず、給金管理に頭を抱えて。
「頼む、助けてくれ。俺、こういうの本当に苦手なんだ」
そう言って差し出された手を、私は取った。
——だから結婚した。
守りたいと思ったから。
支えたいと思ったから。
けれど。
思い返してみれば。
彼は一度も、騎士団の財政について最後まで話そうとはしなかった。
報告を求めても、
「任せてる」
と笑うだけ。
帳簿を閉じるタイミングになると、必ず話題を変えた。
そしていつからか。
私の知らない決裁が増えた。
私の知らない支出が増えた。
私の知らない——名前が増えた。
リディア。
私は現在へと意識を戻す。
目の前では、その名前の本人が楽しそうに夫へ話しかけている。
……そう。
最初から、私は完全には信用されていなかった。
妻でありながら。
財政を預かりながら。
——肝心な場所だけ、外されていたのだ。
騎士団の門を出た時、思ったより荷物が軽いことに気づいた。
革の書類鞄ひとつ。
三年間、団の財政を支えてきた人間の持ち物としては、あまりにも少ない。
背後ではまだ談笑が聞こえていた。
きっと誰も、本当の意味で私が辞めたとは理解していないのだろう。
——帳簿は嘘をつかない。
支払い期限が来れば、すべて分かる。
私は振り返らず、石畳の通りへ歩き出した。
向かう先は決まっている。
王都商業区。
騎士団よりも、ずっと現実的な場所だ。
◆
「……本当に退職なさったのですか?」
商会の応接室で、白髪の商会長が目を丸くした。
分厚い帳簿の山に囲まれた部屋。
インクと紙の匂いが落ち着く。
「はい。本日付で」
私が離婚証明を差し出すと、商会長はしばらく黙り込んだ。
「騎士団があなたを手放すとは……信じ難い」
「手放されたのではありません。不要と判断されただけです」
すると商会長は、深く息を吐いた。
「それは騎士団の損失ですな」
即答だった。
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
騎士団では聞けなかった言葉だ。
「実はですね」
商会長は机の引き出しを開けた。
「あなたにお願いしたい仕事が三件ほどあります」
予想していたが、それでも少し驚く。
「そんなに?」
「財政を立て直せる人材は、王都でも数えるほどしかおりません」
その時だった。
背後から、知らない声が割り込む。
「噂は本当だったみたいですね」
振り向く。
壁にもたれるように立っていた男と目が合った。
長旅帰りなのか、外套には砂埃。
無造作に束ねた髪。
軽薄そうな笑み。
だが、視線だけが鋭い。
商人の目だった。
「失礼、紹介がまだでしたな」
商会長が言う。
「こちらはクラウス殿。各国を巡る交易商でして」
男——クラウスは軽く手を上げた。
「世界を渡り歩く、しがない商人ですよ」
そう言いながら私を観察している。
値踏みするように。
「騎士団の財政官。三年間赤字を表に出さなかった人物」
私は眉を上げた。
「よくご存じですね」
「商売は情報が命なので」
彼は机の向かいに座り、いきなり本題に入った。
「辞めた理由、聞いても?」
遠慮がない。
嫌いではないタイプだ。
私は少し考え、答える。
「統制不能な支出が発生しました」
「横領?」
「いいえ。もっと厄介です」
クラウスの目が楽しそうに細まる。
「感情ですか」
私は小さく頷いた。
「団長の私的判断による特別支出。監査を拒否されました」
「なるほど」
彼は指を鳴らした。
「じゃあ三ヶ月以内に資金ショートですね」
正確だった。
思わず笑みが漏れる。
「はい。その見込みです」
クラウスは椅子に深く座り直した。
「いいですね」
「何がですか?」
「あなたが仕事を失った理由が、能力不足じゃないところ」
そして彼は一枚の契約書を差し出した。
王都商会のものではない。
見慣れない国の印章が並んでいる。
「俺の商隊、財政管理官を探してるんです」
「……国外ですか」
「世界中です」
あまりにも自然に言う。
まるで散歩に誘うように。
「王都に縛られる理由、もうないでしょう?」
その言葉に、初めて気づく。
——本当に、ない。
妻でもなく。
騎士団員でもなく。
守る義務もない。
私は契約書を見つめた。
新しい帳簿。
新しい数字。
新しい人生。
クラウスが静かに言う。
「それに」
彼は少しだけ笑った。
「崩壊する組織を外から眺めるのって、案外面白いですよ」
私は息を吐いた。
そして——頷いた。
「条件を確認させてください」
その瞬間。
私の第二の仕事が始まった。
「団長、少しよろしいでしょうか」
執務室の扉がノックされ、副官が顔を覗かせた。
団長——アルベルトは書類から顔を上げる。
「なんだ?」
机の上には式典用の計画書が広げられている。
リディアが提案した、王都貴族を招く大規模歓迎会。
騎士団の威信を示すための催しだ。
「……鍛冶ギルドから支払い催促が来ています」
アルベルトは眉をひそめた。
「もう払ったはずだろう」
「いえ、先月分が未処理のままです」
そんなはずはない。
これまで支払いが遅れたことなど一度もなかった。
彼は机の書類をめくる。
だが——該当する報告が見当たらない。
「財政管理官は何をしている」
副官が困った顔をした。
「現在は……リディア様が確認中です」
その名前に、アルベルトは小さく頷いた。
「ああ。問題ない。彼女に任せておけ」
副官は何か言いかけ、結局頭を下げて退室した。
静かになった部屋で、アルベルトはふと違和感を覚える。
——妙に書類が多い。
以前は違った。
必要なものだけが整理され、必ず優先順位が付いていた。
気づけば机の端に未処理の束が積まれている。
いつからだ?
考えようとして、やめた。
細かいことは専門家に任せればいい。
そう思ってきたのだから。
扉が勢いよく開いた。
「団長!」
リディアが楽しそうに入ってくる。
新しい宝石のネックレスが光っていた。
「迎賓パーティーの装飾、追加しちゃったわ。王都一にしないと意味ないもの!」
「追加?」
「大丈夫よ。お金なんて回せば何とかなるわ」
彼女は軽く笑う。
帳簿を片手で閉じながら。
アルベルトは一瞬だけ言葉に詰まった。
だがすぐに頷く。
「……そうだな」
以前も似たようなことはあった。
その度に問題は起きなかった。
だから今回も大丈夫なはずだ。
——あの女は慎重すぎただけだ。
そう思った瞬間。
再びノック。
今度は慌ただしい。
「団長!商業ギルドから通達です!」
伝令が息を切らして入ってきた。
「今月以降、騎士団との新規取引を一時停止すると——」
「停止?」
思わず立ち上がる。
「理由は?」
「……信用保証人の失効です」
意味が分からない。
「保証人?」
伝令が恐る恐る続けた。
「前財政管理官殿の個人信用を基準に契約されていたそうです」
部屋の空気が止まった。
アルベルトの頭に、一つの事実が浮かぶ。
彼女の名前。
帳簿に何度も書かれていた署名。
だが——。
「……代わりを立てればいい話だ」
そう言ったものの、伝令の顔色は変わらない。
「すでに三商会が取引停止を表明しています」
リディアが眉をひそめる。
「大げさねえ。騎士団よ?向こうが困るはずでしょう?」
誰も答えなかった。
その夜。
アルベルトは久しぶりに財政帳簿を開いた。
細かい字がびっしり並んでいる。
読み慣れない。
理解しづらい。
だがページをめくるうち、気づいた。
赤字になりかけた月。
突然均衡を取り戻している箇所。
不自然なほど完璧な調整。
欄外に小さな書き込みがあった。
《団長決裁分、次月補填済》
手が止まる。
次のページ。
また同じ文字。
また。
また。
また。
気づいた時には、椅子から立ち上がっていた。
——守られていた。
騎士団も。
自分も。
そして。
その人物は、もうここにいない。
執務室が、ひどく広く感じた。
そんな生活が数週間続いた。
王都騎士団本部。
執務室の空気は重かった。
机の上に積み上げられた帳簿。
封蝋付きの書簡。
そして――王宮監査院の紋章。
団長である彼は、それを何度も読み返していた。
理解できない、という顔で。
「……調査?」
目の前の副官が硬い声で答える。
「はい。未承認支出および予備金消失について、王宮直轄監査が入ります」
彼は思わず笑った。
「大げさだな。財政官が辞めたばかりで混乱してるだけだろう」
副官は沈黙した。
その沈黙が、妙に長い。
「……何だ?」
「団長」
副官はゆっくり言った。
「財政資料が、読めません」
「は?」
「前任者しか管理体系を理解していなかったようで……」
机に広げられた帳簿は数字だらけだった。
だが。
どこに何が記録されているのか分からない。
支出分類が複雑に整理され、
契約番号と補助金が連動し、
複数年度で帳尻が合うよう組まれている。
——完璧すぎて、他人には扱えない。
彼は初めて気づいた。
妻が何をしていたのかを。
「……リディアは?」
「現在、財政確認中です」
その時。
執務室の扉が勢いよく開いた。
「団長!!」
リディアだった。
顔色が青い。
「ねえ、これ何!? 支払い請求が止まらないんだけど!」
彼女の腕には書簡の束。
高級仕立屋。
宝飾商。
宴会業者。
馬車会社。
すべて請求書。
「予算はあるんだろ?」
彼が言うと、彼女は叫んだ。
「ないのよ!!」
静寂。
「え?」
「だってあなたが、予備金から出していいって言ったじゃない!」
副官の顔が凍る。
「……予備金は騎士団緊急運用資金です」
リディアは苛立ったように言う。
「だから何? 団長の判断で使えるって聞いたわよ!」
彼は汗をかいた。
「……少し使っただけだ」
副官が帳簿をめくる。
そして、低く告げた。
「総額、年間予算の三割です」
沈黙。
彼の喉が鳴った。
その時。
さらに扉が叩かれる。
王宮監査官だった。
黒衣の役人たちが部屋に入る。
「団長殿。財務不正の疑いにより、指揮権を一時停止します」
「な、何を――」
「加えて」
監査官は書類を差し出した。
「あなたは本日付で解任です」
世界が止まった。
その夜。
屋敷。
荷物が散乱していた。
リディアが怒鳴る。
「どういうことよ!!」
「俺だって分からない!」
「全部あんたのせいじゃない!」
彼女は机を叩いた。
「元妻がちゃんと引き継ぎしなかったからでしょ!?」
その言葉で。
彼の中で、何かが切れた。
「……違う」
「は?」
「違うんだ」
彼は頭を抱えた。
初めて理解したのだ。
妻が毎晩遅くまで帳簿を見ていた理由。
何度も説明しようとしていたこと。
止めようとしていた支出。
全部。
「お前が使った金だ」
空気が凍る。
リディアが笑った。
「何言ってるの?」
「宝石も、パーティーも、寄付金も、全部だ!」
「だって団長夫人になるんだから必要でしょ!」
「騎士団の金だぞ!!」
「あなたがいいって言ったじゃない!!」
沈黙。
そして彼は、震える声で言った。
「……監査で全部出る」
リディアの顔色が変わる。
「え?」
「支出承認書。贈答記録。口座移動」
彼は崩れるように椅子へ座った。
「全部、記録されてる」
彼女が後ずさる。
「……消せばいいじゃない」
「無理だ」
彼は乾いた笑いを漏らした。
「彼女が作った帳簿なんだ」
改ざんできない。
矛盾が必ず出る。
逃げ場がない。
「……あなた、守るわよね?」
リディアが縋る。
だが。
彼はゆっくり首を振った。
「もう無理だ」
そして。
三年間溜め込んでいたものが溢れた。
「全部お前のせいだ!!」
怒号。
「もっと華やかにしろって言ったのは誰だ!?」
「社交界に顔を出せって!」
「贈り物を用意しろって!」
「俺は止められなかった!」
リディアの表情が歪む。
「……最低」
「俺の妻を追い出したのもお前だ!」
沈黙。
その言葉は、決定的だった。
次の日。
王宮監査院。
リディアは横領および公金私的流用の主導者として拘束された。
叫び声が廊下に響いた。
彼女は最後まで叫んでいた。
「全部あの女のせいよ!!」
だが誰も聞かなかった。
数日後。
元団長は王都を去った。
爵位剥奪。
騎士資格停止。
再就職先なし。
彼は初めて気づく。
守っていたつもりだった妻が、
実は自分を守っていたのだと。
だが。
もう遅かった。
海風が心地よい港町だった。
王都から遠く離れた交易都市。
石畳を行き交う言葉は三か国語以上。
香辛料と潮の匂いが混ざる。
そして私は——笑っていた。
「それ、利益計算間違ってますよ」
帳簿を覗き込みながら言うと、クラウスが顔をしかめる。
「また?」
「三回目です」
「俺、航路は読めるんだけど数字だけは敵でして」
わざとらしく肩をすくめる姿に、思わず笑みがこぼれる。
騎士団にいた頃より、よく笑うようになった。
それに気づいたのは、彼だった。
「最近、表情柔らかくなりましたよね」
不意打ちだった。
私は視線を落とす。
「……仕事が楽しいだけです」
「嘘だな」
即答。
「前は“責任”で働いてた顔だった。今は“選んでる”顔してる」
言葉が胸に残る。
選んでいる。
誰かの妻でも、
誰かの補佐でもなく。
自分の意思で。
数週間。
共に港を巡り、
契約を取り、
商談で徹夜し、
失敗して笑い合った。
夜の甲板で星を見ることもあった。
静かな時間。
クラウスが隣に立つ。
距離が近い。
でも触れない。
それが余計に意識させた。
「……どうして私を雇ったんですか?」
私は聞いた。
「優秀だから」
「それだけ?」
少し沈黙して。
彼は笑った。
「最初はね」
そして、低く続けた。
「今は、あなたと旅を続けたいから」
胸が強く鳴った。
けれど。
私は一歩下がる。
「……それは、困ります」
「どうして」
答えはすぐ出た。
「私は一度、結婚しています」
「知ってます」
「……捨てられました」
彼は何も言わない。
私は続ける。
「妻としても、女性としても、選ばれなかった人間です」
言葉にすると、思った以上に痛かった。
「だから——」
距離を取ろうとした、その時。
背後から声がした。
「……本当に、ここにいたのか」
振り返る。
そして。
時間が止まった。
元夫だった。
だが。
記憶の中の姿とは違う。
制服はない。
背筋は丸まり、
髭も整っていない。
疲れ切った男が立っていた。
「……久しぶりだな」
私はただ見つめた。
胸が驚くほど静かだった。
怒りも。
悲しみも。
何もない。
彼が近づく。
「探したんだ」
「……そうですか」
声は冷静だった。
彼は必死に言う。
「俺、全部失った」
知っていた。
噂は交易路を早く流れる。
解任。
失脚。
幼馴染の逮捕。
全部。
「君がいなくなって分かったんだ」
彼の声が震える。
「俺を支えてたのは君だった」
沈黙。
私は、彼を見た。
そして。
初めて気づく。
——ああ。
もう、好きではない。
かつて守りたいと思った人は、
もうどこにもいなかった。
目の前にいるのは。
責任を失い、
誰かに寄りかかろうとしているだけの男。
心の奥で、何かが完全に終わる。
「……戻ってきてくれないか」
その言葉に。
私は小さく息を吐いた。
「無理です」
即答だった。
彼が固まる。
「私はもう、あなたの妻ではありません」
そして続ける。
「あなたが必要としていたのは私ではなく、“支えてくれる誰か”です」
言葉は穏やかだった。
だが容赦はない。
「私はもう、その役目を引き受けません」
沈黙。
彼の視線が、私の隣へ向く。
クラウスが静かに立っていた。
一歩も前に出ず。
ただ見守っている。
それが決定的だった。
元夫は理解したのだ。
もう入る場所がないと。
「……そうか」
彼は力なく笑った。
そして去っていった。
振り返らずに。
私はしばらく立ち尽くす。
不思議なほど、心が軽かった。
未練が消えた瞬間だった。
クラウスが隣に来る。
「追いかけなくていいんですか?」
「ええ」
私は答える。
「終わりましたから」
風が吹く。
海の匂い。
新しい航路の匂い。
クラウスが静かに言う。
「さっきの話、続けてもいい?」
私は少しだけ笑った。
「……私は、一度誰かの妻だった人間ですよ」
彼は即答した。
「知ってます」
一歩近づく。
「それでも欲しい」
まっすぐな視線。
選ばれるのではなく。
——選び合う。
私は手を差し出した。
「では、条件があります」
「聞きましょう」
「対等な共同経営者として」
彼は笑った。
「もちろん」
手が重なる。
契約成立。
恋も、仕事も。
私たちは同じ航路を進み始めた。
港に新しい旗が掲げられた。
白地に金の羅針盤。
その下に刻まれた商会名。
《ノルド=ヴァイス商会》
創設から三年。
私たちの商隊は王都、北方連盟、砂漠国家、海洋都市を結ぶ最大級の交易網へ成長していた。
かつて帳簿一冊で騎士団を支えていた私が、今は国家規模の資金を動かしている。
人生は分からないものだ。
「次の船団、利益率十二%上振れです」
部下が報告する。
私は頷き、署名する。
もう“補填”は必要ない。
隠す赤字もない。
正しい数字だけが並んでいる。
それが、こんなにも楽だとは思わなかった。
扉が開く。
「財政官殿、港が騒いでますよ」
クラウスが入ってくる。
相変わらず外套は少し乱れているが、今では誰もが知る大商人だ。
そして。
私の共同経営者。
「また値下げ交渉ですか?」
「いや」
彼は笑った。
「王都騎士団が補給契約を申し込みに来てる」
私は手を止めた。
「……そうですか」
驚きはない。
予想していた未来のひとつだった。
「会います?」
少し考え。
首を振る。
「担当者に任せます」
それだけだった。
午後。
港の視察に出る。
潮風が髪を揺らす。
荷運びの掛け声。
クレーンの軋む音。
異国語の交渉。
すべてが活気に満ちている。
その中で。
ふと、視線が止まった。
荷箱を運ぶ男。
日焼けした手。
粗末な作業服。
重い木箱を抱え、黙々と働いている。
顔を上げた。
目が合う。
元夫だった。
一瞬だけ、時間が止まる。
彼も私に気づいた。
驚き。
そして、理解。
ここがどこで、
私が何者なのか。
彼の視線が、港に並ぶ船へ移る。
商会の旗。
忙しく動く部下たち。
私の隣に立つクラウス。
すべてを見て。
彼は小さく頭を下げた。
謝罪でも。
未練でもなく。
ただの敬意のように。
私は——
何も感じなかった。
怒りも。
優越感も。
ただ。
「ああ、元気そうで良かった」
それだけ。
過去が完全に過去になった瞬間だった。
私は視線を外す。
「次の航路確認しましょう」
クラウスが頷く。
二人で歩き出す。
背後を振り返ることはない。
夕暮れ。
出航準備が進む。
甲板の上。
海が黄金色に染まる。
クラウスが隣に立つ。
「後悔してます?」
「何をですか?」
「全部」
少し考える。
そして答える。
「いいえ」
本心だった。
もしあの日、離婚を突きつけられなければ。
私はまだ誰かの影で帳簿を閉じていただろう。
「むしろ感謝しています」
クラウスが笑う。
「ずいぶん大人な結論だ」
私は肩をすくめる。
「商人ですから。損益は冷静に判断します」
彼が手を差し出す。
自然に握る。
今度は契約ではない。
選択だった。
「次はどこへ行きます?」
彼が尋ねる。
私は水平線を見る。
まだ見ぬ国。
まだ知らない市場。
まだ書かれていない帳簿。
「世界の続きへ」
船がゆっくり動き出す。
港が遠ざかる。
過去も。
後悔も。
すべて置いて。
新しい航路へ。
そして後年。
各国の商業史にこう記されることになる。
“世界交易網を完成させた伝説の共同商会”
その創設者の名を。
かつて不要とされた一人の財政官だったことを。
知る者は、もう誰もいない。
面白いと思っていただけたら、
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