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え? 散財大好きな幼馴染に未練がまだあるんですか。結構です、私は好きに生きますので――騎士団の財政管理も本日で辞めます

作者: ふうりん
掲載日:2026/04/04

「すまない。俺との婚姻関係を解消してくれ」


結婚指輪と離婚書類が机に置かれる。


私は声を失ったのではない。


——ようやく理由が揃った、と思っただけだった。


沈黙が部屋を満たす。


夫は気まずそうに視線を逸らし、指先で机を叩いた。

その癖は、後ろめたい時に必ず出るものだ。


私は書類へ目を落とす。


すでに署名欄には彼の名前が記されていた。

準備は万端、というわけらしい。


「……理由を、伺っても?」


自分でも驚くほど穏やかな声が出た。


夫は少しだけ安堵した顔をした。

怒鳴られると思っていたのだろう。


「君に非はない。ただ……俺は、もう誤魔化せない」


誤魔化せない。


その言葉に、胸の中で数字が並び直す。


消えた資金。

増え続けた交際費。

用途不明の特別支出。


すべてが一本の線につながる。


夫は立ち上がり、扉の方へ視線を向けた。


「入ってくれ」


——来るわね。


扉が開く。


軽やかな足音と共に現れたのは、華やかなドレスに身を包んだ女性だった。


艶やかな髪。自信に満ちた笑み。

社交界で何度も見かけた顔。


夫の幼馴染。


リディア。


「久しぶりね。奥様」


まるで勝者の挨拶のように、彼女は微笑んだ。


私は小さく会釈する。


「ごきげんよう」


夫がどこか誇らしげに言う。


「彼女は昔から俺を支えてくれていたんだ。これからは……その、正式に隣に立ってもらおうと思っている」


なるほど。


だから離婚。


だから急な資金移動。


だから——騎士団の財政が崩れ始めた。


リディアは部屋を見回し、ため息をついた。


「本当に質素ねえ。団長夫人なのに。もっと華やかにすればいいのにって、ずっと思ってたの」


私は答えない。


代わりに、彼女の腕に光る宝石へ視線を向ける。


その指輪。


そのネックレス。


そのイヤリング。


全部、見覚えがあった。


騎士団の帳簿で。


「ねえ団長、あの新しい迎賓パーティーの件だけど——」


彼女は当然のように話し始める。


予算も、制度も、責任も理解していない声音で。


私は確信した。


騎士団の赤字。


未承認支出。


緊急予備金の消失。


——諸悪の根源が、目の前にいる。


夫は気づいていない。


いや、気づこうとしていない。


私は静かに離婚書類を閉じた。


「……承知いたしました」


二人が同時にこちらを見る。


私は微笑む。


「ですが、その前に確認だけさせてください」


机の端に置いていた帳簿を指先で叩く。


「騎士団の財政管理官も、本日で解任という認識でよろしいのですね?」


夫が眉をひそめた。


「……ああ。リディアが代わりに見る予定だ」


その瞬間。


胸の奥で、長く続いた仕事が終わった音がした。


私はゆっくり立ち上がる。


「かしこまりました」


そして初めて、心から穏やかに思った。


——これで、もう責任は私のものではない。


私は立ち上がりながら、ふと昔のことを思い出した。


彼と初めて会った日のことを。


 


騎士団の訓練場は、いつも鉄と汗の匂いがしていた。


書類を届けに行った私は、場違いな場所に迷い込んだ気分で立ち尽くしていた。


その時。


「危ない!」


背後から腕を引かれた。


次の瞬間、木剣が私のすぐ横をかすめる。


振り返ると、そこにいたのが——彼だった。


髪は乱れ、制服は土で汚れ、額から汗が滴っている。

正直に言えば、少しだらしない印象だった。


でも。


「怪我してないか?」


そう言って真っ先に私を気遣った顔は、驚くほど真っ直ぐだった。


私は思わず笑ってしまったのを覚えている。


 


あの頃の彼は、不器用で、真面目で、嘘が下手な人だった。


帳簿の読み方も分からず、給金管理に頭を抱えて。


「頼む、助けてくれ。俺、こういうの本当に苦手なんだ」


そう言って差し出された手を、私は取った。


——だから結婚した。


守りたいと思ったから。


支えたいと思ったから。


 


けれど。


思い返してみれば。


彼は一度も、騎士団の財政について最後まで話そうとはしなかった。


報告を求めても、


「任せてる」


と笑うだけ。


帳簿を閉じるタイミングになると、必ず話題を変えた。


そしていつからか。


私の知らない決裁が増えた。


私の知らない支出が増えた。


私の知らない——名前が増えた。


 


リディア。


 


私は現在へと意識を戻す。


目の前では、その名前の本人が楽しそうに夫へ話しかけている。


……そう。


最初から、私は完全には信用されていなかった。


妻でありながら。


財政を預かりながら。


——肝心な場所だけ、外されていたのだ。


騎士団の門を出た時、思ったより荷物が軽いことに気づいた。


革の書類鞄ひとつ。


三年間、団の財政を支えてきた人間の持ち物としては、あまりにも少ない。


背後ではまだ談笑が聞こえていた。


きっと誰も、本当の意味で私が辞めたとは理解していないのだろう。


——帳簿は嘘をつかない。


支払い期限が来れば、すべて分かる。


私は振り返らず、石畳の通りへ歩き出した。


向かう先は決まっている。


王都商業区。


騎士団よりも、ずっと現実的な場所だ。


 



 


「……本当に退職なさったのですか?」


商会の応接室で、白髪の商会長が目を丸くした。


分厚い帳簿の山に囲まれた部屋。

インクと紙の匂いが落ち着く。


「はい。本日付で」


私が離婚証明を差し出すと、商会長はしばらく黙り込んだ。


「騎士団があなたを手放すとは……信じ難い」


「手放されたのではありません。不要と判断されただけです」


すると商会長は、深く息を吐いた。


「それは騎士団の損失ですな」


即答だった。


胸の奥が、少しだけ温かくなる。


騎士団では聞けなかった言葉だ。


「実はですね」


商会長は机の引き出しを開けた。


「あなたにお願いしたい仕事が三件ほどあります」


予想していたが、それでも少し驚く。


「そんなに?」


「財政を立て直せる人材は、王都でも数えるほどしかおりません」


その時だった。


背後から、知らない声が割り込む。


「噂は本当だったみたいですね」


振り向く。


壁にもたれるように立っていた男と目が合った。


長旅帰りなのか、外套には砂埃。

無造作に束ねた髪。

軽薄そうな笑み。


だが、視線だけが鋭い。


商人の目だった。


「失礼、紹介がまだでしたな」


商会長が言う。


「こちらはクラウス殿。各国を巡る交易商でして」


男——クラウスは軽く手を上げた。


「世界を渡り歩く、しがない商人ですよ」


そう言いながら私を観察している。


値踏みするように。


「騎士団の財政官。三年間赤字を表に出さなかった人物」


私は眉を上げた。


「よくご存じですね」


「商売は情報が命なので」


彼は机の向かいに座り、いきなり本題に入った。


「辞めた理由、聞いても?」


遠慮がない。


嫌いではないタイプだ。


私は少し考え、答える。


「統制不能な支出が発生しました」


「横領?」


「いいえ。もっと厄介です」


クラウスの目が楽しそうに細まる。


「感情ですか」


私は小さく頷いた。


「団長の私的判断による特別支出。監査を拒否されました」


「なるほど」


彼は指を鳴らした。


「じゃあ三ヶ月以内に資金ショートですね」


正確だった。


思わず笑みが漏れる。


「はい。その見込みです」


クラウスは椅子に深く座り直した。


「いいですね」


「何がですか?」


「あなたが仕事を失った理由が、能力不足じゃないところ」


そして彼は一枚の契約書を差し出した。


王都商会のものではない。


見慣れない国の印章が並んでいる。


「俺の商隊、財政管理官を探してるんです」


「……国外ですか」


「世界中です」


あまりにも自然に言う。


まるで散歩に誘うように。


「王都に縛られる理由、もうないでしょう?」


その言葉に、初めて気づく。


——本当に、ない。


妻でもなく。


騎士団員でもなく。


守る義務もない。


私は契約書を見つめた。


新しい帳簿。


新しい数字。


新しい人生。


クラウスが静かに言う。


「それに」


彼は少しだけ笑った。


「崩壊する組織を外から眺めるのって、案外面白いですよ」


私は息を吐いた。


そして——頷いた。


「条件を確認させてください」


その瞬間。


私の第二の仕事が始まった。


「団長、少しよろしいでしょうか」


執務室の扉がノックされ、副官が顔を覗かせた。


団長——アルベルトは書類から顔を上げる。


「なんだ?」


机の上には式典用の計画書が広げられている。


リディアが提案した、王都貴族を招く大規模歓迎会。


騎士団の威信を示すための催しだ。


「……鍛冶ギルドから支払い催促が来ています」


アルベルトは眉をひそめた。


「もう払ったはずだろう」


「いえ、先月分が未処理のままです」


そんなはずはない。


これまで支払いが遅れたことなど一度もなかった。


彼は机の書類をめくる。


だが——該当する報告が見当たらない。


「財政管理官は何をしている」


副官が困った顔をした。


「現在は……リディア様が確認中です」


その名前に、アルベルトは小さく頷いた。


「ああ。問題ない。彼女に任せておけ」


副官は何か言いかけ、結局頭を下げて退室した。


 


静かになった部屋で、アルベルトはふと違和感を覚える。


——妙に書類が多い。


以前は違った。


必要なものだけが整理され、必ず優先順位が付いていた。


気づけば机の端に未処理の束が積まれている。


いつからだ?


考えようとして、やめた。


細かいことは専門家に任せればいい。


そう思ってきたのだから。


 


扉が勢いよく開いた。


「団長!」


リディアが楽しそうに入ってくる。


新しい宝石のネックレスが光っていた。


「迎賓パーティーの装飾、追加しちゃったわ。王都一にしないと意味ないもの!」


「追加?」


「大丈夫よ。お金なんて回せば何とかなるわ」


彼女は軽く笑う。


帳簿を片手で閉じながら。


アルベルトは一瞬だけ言葉に詰まった。


だがすぐに頷く。


「……そうだな」


以前も似たようなことはあった。


その度に問題は起きなかった。


だから今回も大丈夫なはずだ。


 


——あの女は慎重すぎただけだ。


 


そう思った瞬間。


再びノック。


今度は慌ただしい。


「団長!商業ギルドから通達です!」


伝令が息を切らして入ってきた。


「今月以降、騎士団との新規取引を一時停止すると——」


「停止?」


思わず立ち上がる。


「理由は?」


「……信用保証人の失効です」


意味が分からない。


「保証人?」


伝令が恐る恐る続けた。


「前財政管理官殿の個人信用を基準に契約されていたそうです」


部屋の空気が止まった。


 


アルベルトの頭に、一つの事実が浮かぶ。


彼女の名前。


帳簿に何度も書かれていた署名。


だが——。


「……代わりを立てればいい話だ」


そう言ったものの、伝令の顔色は変わらない。


「すでに三商会が取引停止を表明しています」


 


リディアが眉をひそめる。


「大げさねえ。騎士団よ?向こうが困るはずでしょう?」


誰も答えなかった。


 


その夜。


アルベルトは久しぶりに財政帳簿を開いた。


細かい字がびっしり並んでいる。


読み慣れない。


理解しづらい。


だがページをめくるうち、気づいた。


赤字になりかけた月。


突然均衡を取り戻している箇所。


不自然なほど完璧な調整。


欄外に小さな書き込みがあった。


 


《団長決裁分、次月補填済》


 


手が止まる。


次のページ。


また同じ文字。


また。


また。


また。


 


気づいた時には、椅子から立ち上がっていた。


 


——守られていた。


 


騎士団も。


自分も。


 


そして。


その人物は、もうここにいない。


 


執務室が、ひどく広く感じた。



そんな生活が数週間続いた。


王都騎士団本部。


執務室の空気は重かった。


机の上に積み上げられた帳簿。

封蝋付きの書簡。

そして――王宮監査院の紋章。


団長である彼は、それを何度も読み返していた。


理解できない、という顔で。


「……調査?」


目の前の副官が硬い声で答える。


「はい。未承認支出および予備金消失について、王宮直轄監査が入ります」


彼は思わず笑った。


「大げさだな。財政官が辞めたばかりで混乱してるだけだろう」


副官は沈黙した。


その沈黙が、妙に長い。


「……何だ?」


「団長」


副官はゆっくり言った。


「財政資料が、読めません」


「は?」


「前任者しか管理体系を理解していなかったようで……」


机に広げられた帳簿は数字だらけだった。


だが。


どこに何が記録されているのか分からない。


支出分類が複雑に整理され、

契約番号と補助金が連動し、

複数年度で帳尻が合うよう組まれている。


——完璧すぎて、他人には扱えない。


彼は初めて気づいた。


妻が何をしていたのかを。


「……リディアは?」


「現在、財政確認中です」


その時。


執務室の扉が勢いよく開いた。


「団長!!」


リディアだった。


顔色が青い。


「ねえ、これ何!? 支払い請求が止まらないんだけど!」


彼女の腕には書簡の束。


高級仕立屋。

宝飾商。

宴会業者。

馬車会社。


すべて請求書。


「予算はあるんだろ?」


彼が言うと、彼女は叫んだ。


「ないのよ!!」


静寂。


「え?」


「だってあなたが、予備金から出していいって言ったじゃない!」


副官の顔が凍る。


「……予備金は騎士団緊急運用資金です」


リディアは苛立ったように言う。


「だから何? 団長の判断で使えるって聞いたわよ!」


彼は汗をかいた。


「……少し使っただけだ」


副官が帳簿をめくる。


そして、低く告げた。


「総額、年間予算の三割です」


沈黙。


彼の喉が鳴った。


その時。


さらに扉が叩かれる。


王宮監査官だった。


黒衣の役人たちが部屋に入る。


「団長殿。財務不正の疑いにより、指揮権を一時停止します」


「な、何を――」


「加えて」


監査官は書類を差し出した。


「あなたは本日付で解任です」


世界が止まった。


その夜。


屋敷。


荷物が散乱していた。


リディアが怒鳴る。


「どういうことよ!!」


「俺だって分からない!」


「全部あんたのせいじゃない!」


彼女は机を叩いた。


「元妻がちゃんと引き継ぎしなかったからでしょ!?」


その言葉で。


彼の中で、何かが切れた。


「……違う」


「は?」


「違うんだ」


彼は頭を抱えた。


初めて理解したのだ。


妻が毎晩遅くまで帳簿を見ていた理由。

何度も説明しようとしていたこと。

止めようとしていた支出。


全部。


「お前が使った金だ」


空気が凍る。


リディアが笑った。


「何言ってるの?」


「宝石も、パーティーも、寄付金も、全部だ!」


「だって団長夫人になるんだから必要でしょ!」


「騎士団の金だぞ!!」


「あなたがいいって言ったじゃない!!」


沈黙。


そして彼は、震える声で言った。


「……監査で全部出る」


リディアの顔色が変わる。


「え?」


「支出承認書。贈答記録。口座移動」


彼は崩れるように椅子へ座った。


「全部、記録されてる」


彼女が後ずさる。


「……消せばいいじゃない」


「無理だ」


彼は乾いた笑いを漏らした。


「彼女が作った帳簿なんだ」


改ざんできない。


矛盾が必ず出る。


逃げ場がない。


「……あなた、守るわよね?」


リディアが縋る。


だが。


彼はゆっくり首を振った。


「もう無理だ」


そして。


三年間溜め込んでいたものが溢れた。


「全部お前のせいだ!!」


怒号。


「もっと華やかにしろって言ったのは誰だ!?」


「社交界に顔を出せって!」


「贈り物を用意しろって!」


「俺は止められなかった!」


リディアの表情が歪む。


「……最低」


「俺の妻を追い出したのもお前だ!」


沈黙。


その言葉は、決定的だった。


次の日。


王宮監査院。


リディアは横領および公金私的流用の主導者として拘束された。


叫び声が廊下に響いた。


彼女は最後まで叫んでいた。


「全部あの女のせいよ!!」


だが誰も聞かなかった。


数日後。


元団長は王都を去った。


爵位剥奪。

騎士資格停止。

再就職先なし。


彼は初めて気づく。


守っていたつもりだった妻が、


実は自分を守っていたのだと。


だが。


もう遅かった。




海風が心地よい港町だった。


王都から遠く離れた交易都市。


石畳を行き交う言葉は三か国語以上。

香辛料と潮の匂いが混ざる。


そして私は——笑っていた。


「それ、利益計算間違ってますよ」


帳簿を覗き込みながら言うと、クラウスが顔をしかめる。


「また?」


「三回目です」


「俺、航路は読めるんだけど数字だけは敵でして」


わざとらしく肩をすくめる姿に、思わず笑みがこぼれる。


騎士団にいた頃より、よく笑うようになった。


それに気づいたのは、彼だった。


「最近、表情柔らかくなりましたよね」


不意打ちだった。


私は視線を落とす。


「……仕事が楽しいだけです」


「嘘だな」


即答。


「前は“責任”で働いてた顔だった。今は“選んでる”顔してる」


言葉が胸に残る。


選んでいる。


誰かの妻でも、

誰かの補佐でもなく。


自分の意思で。


数週間。


共に港を巡り、

契約を取り、

商談で徹夜し、

失敗して笑い合った。


夜の甲板で星を見ることもあった。


静かな時間。


クラウスが隣に立つ。


距離が近い。


でも触れない。


それが余計に意識させた。


「……どうして私を雇ったんですか?」


私は聞いた。


「優秀だから」


「それだけ?」


少し沈黙して。


彼は笑った。


「最初はね」


そして、低く続けた。


「今は、あなたと旅を続けたいから」


胸が強く鳴った。


けれど。


私は一歩下がる。


「……それは、困ります」


「どうして」


答えはすぐ出た。


「私は一度、結婚しています」


「知ってます」


「……捨てられました」


彼は何も言わない。


私は続ける。


「妻としても、女性としても、選ばれなかった人間です」


言葉にすると、思った以上に痛かった。


「だから——」


距離を取ろうとした、その時。


背後から声がした。


「……本当に、ここにいたのか」


振り返る。


そして。


時間が止まった。


元夫だった。


だが。


記憶の中の姿とは違う。


制服はない。

背筋は丸まり、

髭も整っていない。


疲れ切った男が立っていた。


「……久しぶりだな」


私はただ見つめた。


胸が驚くほど静かだった。


怒りも。

悲しみも。


何もない。


彼が近づく。


「探したんだ」


「……そうですか」


声は冷静だった。


彼は必死に言う。


「俺、全部失った」


知っていた。


噂は交易路を早く流れる。


解任。

失脚。

幼馴染の逮捕。


全部。


「君がいなくなって分かったんだ」


彼の声が震える。


「俺を支えてたのは君だった」


沈黙。


私は、彼を見た。


そして。


初めて気づく。


——ああ。


もう、好きではない。


かつて守りたいと思った人は、

もうどこにもいなかった。


目の前にいるのは。


責任を失い、

誰かに寄りかかろうとしているだけの男。


心の奥で、何かが完全に終わる。


「……戻ってきてくれないか」


その言葉に。


私は小さく息を吐いた。


「無理です」


即答だった。


彼が固まる。


「私はもう、あなたの妻ではありません」


そして続ける。


「あなたが必要としていたのは私ではなく、“支えてくれる誰か”です」


言葉は穏やかだった。


だが容赦はない。


「私はもう、その役目を引き受けません」


沈黙。


彼の視線が、私の隣へ向く。


クラウスが静かに立っていた。


一歩も前に出ず。


ただ見守っている。


それが決定的だった。


元夫は理解したのだ。


もう入る場所がないと。


「……そうか」


彼は力なく笑った。


そして去っていった。


振り返らずに。


私はしばらく立ち尽くす。


不思議なほど、心が軽かった。


未練が消えた瞬間だった。


クラウスが隣に来る。


「追いかけなくていいんですか?」


「ええ」


私は答える。


「終わりましたから」


風が吹く。


海の匂い。


新しい航路の匂い。


クラウスが静かに言う。


「さっきの話、続けてもいい?」


私は少しだけ笑った。


「……私は、一度誰かの妻だった人間ですよ」


彼は即答した。


「知ってます」


一歩近づく。


「それでも欲しい」


まっすぐな視線。


選ばれるのではなく。


——選び合う。


私は手を差し出した。


「では、条件があります」


「聞きましょう」


「対等な共同経営者として」


彼は笑った。


「もちろん」


手が重なる。


契約成立。


恋も、仕事も。


私たちは同じ航路を進み始めた。



港に新しい旗が掲げられた。


白地に金の羅針盤。


その下に刻まれた商会名。


《ノルド=ヴァイス商会》


創設から三年。


私たちの商隊は王都、北方連盟、砂漠国家、海洋都市を結ぶ最大級の交易網へ成長していた。


かつて帳簿一冊で騎士団を支えていた私が、今は国家規模の資金を動かしている。


人生は分からないものだ。


「次の船団、利益率十二%上振れです」


部下が報告する。


私は頷き、署名する。


もう“補填”は必要ない。


隠す赤字もない。


正しい数字だけが並んでいる。


それが、こんなにも楽だとは思わなかった。


扉が開く。


「財政官殿、港が騒いでますよ」


クラウスが入ってくる。


相変わらず外套は少し乱れているが、今では誰もが知る大商人だ。


そして。


私の共同経営者。


「また値下げ交渉ですか?」


「いや」


彼は笑った。


「王都騎士団が補給契約を申し込みに来てる」


私は手を止めた。


「……そうですか」


驚きはない。


予想していた未来のひとつだった。


「会います?」


少し考え。


首を振る。


「担当者に任せます」


それだけだった。


午後。


港の視察に出る。


潮風が髪を揺らす。


荷運びの掛け声。

クレーンの軋む音。

異国語の交渉。


すべてが活気に満ちている。


その中で。


ふと、視線が止まった。


荷箱を運ぶ男。


日焼けした手。

粗末な作業服。


重い木箱を抱え、黙々と働いている。


顔を上げた。


目が合う。


元夫だった。


一瞬だけ、時間が止まる。


彼も私に気づいた。


驚き。


そして、理解。


ここがどこで、

私が何者なのか。


彼の視線が、港に並ぶ船へ移る。


商会の旗。


忙しく動く部下たち。


私の隣に立つクラウス。


すべてを見て。


彼は小さく頭を下げた。


謝罪でも。

未練でもなく。


ただの敬意のように。


私は——


何も感じなかった。


怒りも。

優越感も。


ただ。


「ああ、元気そうで良かった」


それだけ。


過去が完全に過去になった瞬間だった。


私は視線を外す。


「次の航路確認しましょう」


クラウスが頷く。


二人で歩き出す。


背後を振り返ることはない。


夕暮れ。


出航準備が進む。


甲板の上。


海が黄金色に染まる。


クラウスが隣に立つ。


「後悔してます?」


「何をですか?」


「全部」


少し考える。


そして答える。


「いいえ」


本心だった。


もしあの日、離婚を突きつけられなければ。


私はまだ誰かの影で帳簿を閉じていただろう。


「むしろ感謝しています」


クラウスが笑う。


「ずいぶん大人な結論だ」


私は肩をすくめる。


「商人ですから。損益は冷静に判断します」


彼が手を差し出す。


自然に握る。


今度は契約ではない。


選択だった。


「次はどこへ行きます?」


彼が尋ねる。


私は水平線を見る。


まだ見ぬ国。

まだ知らない市場。

まだ書かれていない帳簿。


「世界の続きへ」


船がゆっくり動き出す。


港が遠ざかる。


過去も。


後悔も。


すべて置いて。


新しい航路へ。


そして後年。


各国の商業史にこう記されることになる。


“世界交易網を完成させた伝説の共同商会”


その創設者の名を。


かつて不要とされた一人の財政官だったことを。


知る者は、もう誰もいない。


面白いと思っていただけたら、

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