第2話「マリアという名を忘れた子」
その日は、しとしとと雨が降っていた。
屋敷の外に続く小道は濡れ、銀色の粒が瓦礫に跳ねていた。
ジンは濡れたコートを脱ぎ、玄関先にそっと横たわる“それ”に目を向けた。
少女のような姿。顔は泥で汚れていたが、瞳だけは、まるで空のように澄んでいた。
「……ようこそ」
彼は誰にでもそう声をかける。たとえ、相手が人ならざる者であっても。
この子もまた、記憶を消され、心を閉じられ、廃棄されるはずだった。
だが、彼のもとに来た以上、“最期”にはしない。
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工房の明かりの下、少女型アンドロイドは横たわっていた。
髪は濡れて絡まり、頬はかすかに焦げていた。
その身体がどれだけ粗雑に扱われたか――見るだけでわかる。
ジンは丁寧に拭き取りながら、ぽつりと呟く。
「君は、どこで、壊れかけたんだ?」
記憶素子を調べると、“名前:マリア”とだけ、かすかに読み取れる。
「マリア……これが君の、最初で最後の名かもしれないな」
ジンは彼女の手を取る。小さくて、細くて、でも冷たくなかった。
記憶に触れる。
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その世界は、教会のような場所だった。
純白の天井。静かな光。祭壇の前に、少女が立っている。
白い修道服。その胸元には、十字を模した識別コード。
『マリア、今日もお祈りの時間ですよ』
優しい声が聞こえる。老いた神父が、少女に笑いかける。
『あなたは神に仕える、清き魂。機械であろうとも、心を持たぬとは限らない』
マリアは頷く。
彼女は、廃教会に遺されたアンドロイドだった。
老いた神父と二人きり。静かな日々。
祈りを捧げ、花を飾り、古びた讃美歌を口ずさむだけの毎日。
だが、ある日。
『マリア……私は、もう長くはない』
そう言った神父の言葉のあと、世界は灰色に染まった。
神父の遺体を見つめるマリア。
誰も彼女を迎えに来ず、彼女の祈りに耳を傾ける者もなくなった。
『私は……何のために……』
記録の最後、マリアはただ一言つぶやいた。
> 『誰かを想って、名前を呼んでほしかった。もう一度だけでいいから。』
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ジンはそっと手を離す。
マリアの瞳は、まだ閉じたまま。
彼は口元をわずかにほころばせ、ノートに書き記す。
> 「第002号。名はマリア。
清き祈りの記録を持ち、心を失わずに最後まで誰かを想っていた。
その名を、私は忘れない。」
そして彼は、閉じたアンドロイドの胸に手を当てて言った。
「マリア。君の名を、ここに記録したよ。だから……もう、ひとりじゃない」
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エピローグ:
雨は、静かに止んでいた。
外の空気は、少しだけやさしくなっていた。
ジンの部屋の窓辺に、白い花が一輪――
いつの間にか、そっと置かれていた。