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病院へ行ったことが

 病院とは、外観も内装もすべてが真っ白で、ある一本の透明なゴムチューブの中の中間地点に建てられた巨大施設のこと。病院の外はいつでも暴風は吹いて、いつまでも風向きを変えないまま、いずれは辿り着くであろうゴムチューブの先端へとまっさらな白い粉を運びつづけている。

 風に乗っかった粉がチューブの内壁に衝突するたび、金属と金属がぶつかったみたいな甲高い音が鳴り響いていた。肺と精神を悪くしてここへ入院していた僕は、夜中ひとりで眠れないまま、ベッドの上で毛布にくるまっているしかできず、外の粉の激しさが増していくのを音に聞くと、まるで幽霊でもみるみたいに、もう一つの心臓が病室の壁の隅々まで血管を張り巡らせる幻覚をみた。右手で自分の胸を撫でおろすと、心臓の鼓動というのはとても密かなものである。密かであるからこそ、病室の闇に耳をたてればそれは確かに聞こえるようで、外の粉の金属音をかき消すほどに、もう一つの心臓の響きが、眠れない僕の頭を無尽蔵に満たしてくれた。そして温かい川の底でほろほろと崩れていくように、いつの間にか眠りに引きずり込まれている。これはこの病院で夜を過ごすには欠かすことのできない、不眠の頼りのおまじないだった。


 昼には診察を受けたが、診察が終わると同時に先生が目を伏せて黙り込んでしまい、こちらからの問いかけにも何も反応を返してくれなくなった。少しムリに揺さぶろうとしてもぴくりとも動かず、羽織っている白衣すらも時間ごと冷凍されたようにはためきもしない。僕はやりようもなく諦めてしまうと、特に意味もなく、この部屋についている8つのドアをなんとなく順番に見渡していった。僕が普段寝ている病室は背後に取り付けられたウッディな扉から通じているが、他の7つの扉については未だにどこへ繋がっているのか、患者である僕にはこれまでまったく知る機会が訪れていなかった。

「おっと悪いな、代わりにオレが伝えるぜ。」

 急な声はその口調からも明らかに先生ではない。それでも反射的に先生の方へ向き直ると、名乗り出たのは先生の首にかかった黒い聴診器だった。さっきまで僕の背中や胸に当てられていた銀の部分を自立させてこちらに向け、その面にはれっきとした唇と喋るたび見え隠れする歯、会話能力に納得するだけの口腔ひとつがあんぐり開いて、多量の唾液が分泌していた。まさかコイツに噛み跡なんてつけられていないだろうか。

「治る。治るぜ、患者さん。患者さんは絶対に治るから、とりあえずこの、ええ、トゥルスコってのと、ジョニヲカレイドね。悪いところにスっと効きますから、とりあえず朝昼晩欠かさず飲んでくれよな。じゃ、お大事に。」

 蛇よりも自由な聴診器からはそういうことだった。いつの間にか石像先生の背後に現れた看護婦からも「お大事に」と告げられ、患者風情の僕はさっさと診察室を出て行くしかなかった。入院してどれくらい経つだろうか。8つの扉だってもう迷うことはない。立ち上がってすぐ後ろのウッディなやつをくぐる。ベッドに戻ってからは食事のあと薬を一錠ずつ飲んで、外の粉の穏やかなうちに惰眠を貪ることにした。


 外は日が落ちかけていて、寝て起きたシーツの乱雑さに自分の豪快な一面を眺めていた。快眠だったのは確かなのに意識がぼやけるのは、寝る前に飲んだ薬のせいかもしれない。最初にされた副作用の説明はあまり真剣に聞いていなかったが、そんなことよりも夕飯はまだだったろうか。

 体を起こしベッドの上で胡坐をかいた。立ち上がらなくても手の届く、患者用に備え付けられた簡素な引き出しを運動がてらに開けてみると、そこにしまっていたはずの薬がやはり今回もなくなっていた。これで三回目だった。誰かやったかなどすでに分かっていて、十中八九、あの看護婦がやっているのだろう。まずこの病院に看護師として従事しているのはあの看護婦一人だけだった。他に犯人の候補を挙げてみても、先生は昼の診察での通り石像だし、聴診器は聴診器に過ぎず先生の首周りを離れられない。極めつけは僕が初めて来院した際も、看護婦は堂々受付のレジから売り上げの一部を制服のポケットにしまい込んでいたのだ。この人の限られた病院内で、悪事をはたらくことのできる人物など、そもそも看護婦か僕かしか存在しなかった。

 ただ一向に僕は、本人を前にしてこれを咎めるだけの気力が湧かないでいた。どうせ盗まれたって処方分の日が過ぎれば勝手に貰える。精神が悪いというのはこういうところに垣間見えた。ただ空っぽの引き出しを閉めるだけのことが自分の未来ごと諦めるような感触だった。

 足音もなく病院食プレートが、これまたいつの間にか用意された簡易机の上へと置かれた。僕は確認したいようなしたくないような、目の前にある手から腕の方へと視線を滑らせ、看護婦とはいつであっても突然に姿を現すものだった。

「食事です。」

 これだけ述べ、看護婦は煙のように出て行ってしまった。あの冷たさでこの病院たった一人の看護婦である。帽子もやたらと深く被っているので、四六時中横になっている僕ですら看護婦の顔をハッキリとは見たことがない。この病院は石像先生含め、自分の仕事だけを淡々とこなすから欠片もパーソナルが掴めないのが不気味だった。

 今晩の夕食は、ご飯、牛乳、ワカメのみそ汁、たくあん、サバの味噌煮がプレートの直角ずつの区分けで盛りつけられていた。窓の外は白い粉がすっかり飛び交う夜だった。剣豪たちの決闘や鉄工所のプレス作業がそこで一緒にやっていればまだ面白い気持ちになれると思った。

 

 シャワー室の広さはせいぜい電話ボックスなみで、細かな穴の密集するシャワーヘッドの真下、全裸でつっ立ったまま体温が奪われていくのも気に留めず、僕は迫りくるほどに近い壁のタイルの溝を視線でなぞることしかできないでいた。病院が管理しているにしては清潔でない。黒カビが気落ちを誘うマーブル模様を表している。右手には一錠の薬を握りしめていた。僕はその錠剤の名前を知らず、また表面に製品IDすら刻まれていないことも見て知っている。以前の夜、僕が病室でひとり寝つけないでいると、先生に処方された薬のしまってある引き出しのもとへとあの看護婦が現れたのだった。僕は当然また盗まれるものだと寝たふりを決め込んだ。だが当の看護婦は引き出しのハンドルに手をかけることもなく、代わりに置かれたのが包もされていない、この名前のない一錠の薬だった。

「この引き出しにしまってある薬のこと、ごめんなさいね。気づいてたんでしょう。意外でしょうけど、私も悪いとは思っているんです。だから止められないところはありますけど、だからこそ謝ろうとも思ったんです。本当にごめんなさい……これ、特別な薬なんです。あなたくらい入院が長い方なら、この辺りの夜が嫌になることもありますでしょう。そういうどうにもならない気分なときに飲んでください。メモも一緒に置いておきますから。」

 聞くあいだ僕は寝たふりを崩さなかったから、看護婦がどんな様子でいたのかは分からない。向こうも僕が眠っていてくれた方が謝りやすかったのか、特に揺り起こされることもなかった。その翌朝、引き出しの上にはたしかに一錠の薬とオレンジ色の付箋が貼ってあった。内容はボールペンの黒字でこう書かれていた。

『これがお返しになれば幸いです。一錠しか用意できずごめんなさい。

効果:気持ちが楽になります

副作用:肉体が水溶性になります

40度以上の熱湯なら痛みも感じません。その際は院内のシャワー室をどうぞ。』

 握っていたこぶしを開花させるように解くと、湿気た手のひらに錠剤が貼り付いていた。成分が溶けだして、すでに右手の内だけ水溶性になっているのだろうか。今夜も、白い粉の金属音がここまで届いている。僕は薬を口に放り、疑いや恐れを覚えないまま蛇口をひねると、頭から冷水が降ってきて最後までシャワーの不便さを思い知らされるようだった。水が温まってくるとともに、薬の効果も感じられるようになってくる。頭頂部が髪を押しのけて膨れ上がって、視界が狭まったり広がったりする。温水が体内へ染みて内側から自分に抱きしめられるような感覚。すでに立つことすら折る膝もなく体を畳まれていく。銀色の排水溝に頬や臍や踵を擦りつけ、水や血肉が流れこんでいく近視の景色に揺られ、やはり人間とはいつでも眠りに向かうということを、どこかに落ちている瞼の重みに教えられると少しの逆らうこともかなわなかった。


 一晩中出っ放しになっていたシャワーの音が頭痛と共鳴してひどい仕打ちだ。夢が明ければ当然のように、僕は昨日いたままのシャワー室で目を覚ましていたのだった。だいたい、眠った時点で起きることは確約されている。それを長い人生、長い入院生活でいくらでも教えられてきたじゃないか。それが昨日はなぜか調子に乗って、サイアクだ。頭痛が和らぐまでは横になっていたいが、そうはしていられないほど床は水浸しになっていた。

 視力はあるが、頭の映像を役立てるだけの機能が完全に壊れている。拭き切れていない体を吹き切れたことにして、散らかしてあった患者服にもたつきながら着替え、シャワー室を出た。これでシャワー室の一晩中蓄えられた湿気からは解放されたわけだ。それだけでも、とりあえず喜びたいほどではあった。

 どこまでも白く長い廊下である。急に看護婦と鉢合わせ、別に悪いこともしていないのになぜか心臓を掴まれたような心地だった。看護婦は珍しく仕事の際中のようであり、固まって動かなくなった石像先生を引きずっている。首元にぶら下がっている聴診器が僕に気が付くと、喋れない先生の代わりに説明してくれた。

「よお、朝の回診だぜ。あげた薬、ちゃんと飲んでるか?」

 聴診器の声は陽気で、今の僕の頭痛とはすこぶる相性が悪かった。遅れて看護婦も僕に気が付いたようだった。

「おはようございます。」

 そのたった一言だけで、引きずっていた先生もろとも姿を撒かれてしまった。僕はムダと分かって辺りを見回し、多分これからも看護婦に薬を盗まれつづけるのだろうと直感した。見慣れない廊下は迷路だった。やっとのことで自分の病室に戻ると、ベッドの横の引き出しの上にまた新しい、名前のない錠剤と付箋のメモ書きがあった。

『使ってくれたみたいですね。また一錠しか用意できずごめんなさい。

効果は前と同様です。眠れない夜にお使いください。

今日は風に粒くらいの赤色が混じっていてきれいですよ。関係ないですが。』

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