(8)
翌朝、中央広場の鐘が五つ鳴る時刻に、七人は町の闘技場に集合した。太陽は東に頭を出しはじめたばかりであり、支度をしている商売人の他に人影はなかった。
用意された乗り物は荷馬車が一台と乗馬用の馬が二頭。すべてローの家の所有物だ。荷馬車の御者はローが務め、ファイ、イオタ、ミュー、シータは荷物と一緒に荷台に乗った。そして乗馬用の馬にまたがったタウとラムダを先頭に、七人は出発した。もちろんファイの早駆けの法で速度を上げて。
すがすがしいまでに青い空だった。流れる雲もくすみのない白で、ふっくらとしている。朝方の涼やかな空気はすでに熱をもち、じっとしていると汗ばんでくるほどだ。
カロ市の東隣にあるトレノ市に入ったところで、七人は昼食をとった。カロ市とトレノ市を分けるセムノテース川の川原で、木陰を探して弁当を広げる。皆めまいがしそうな暑さのせいで食は遅々として進まなかったが、体力回復のためにも無理やり飲み込んだ。
時間をかけてどうにか食べ終わったシータが木にもたれて一休みしていると、ミューがやってきた。法術で凍らせた布を手に持っている。
「今日は天気がいいぶん少し気温が高いわね。日暮れまではもつようにしてあるから」
「ありがとう」
普段はやけどなどの応急手当として使うものだが、触れていると暑さと頭皮の痛みがやわらぐ。ミューの気づかいをシータはありがたく受け取った。そこへタウから集合がかかる。全員が集まったところで、ファイが奇妙な飲み物を一杯ずつ配った。
「ファイ、このあやしいものは何だ?」
「体力回復剤。やっと完成したんだ」
ラムダの質問にファイが答える。甘い匂いは好ましいが、おいしそうに見えないのは色のせいだろう。どろどろした沼のような濃い緑色の飲み物を、ファイ以外の六人は緊張した面持ちで凝視した。
「即効性、持続性の両面でいい結果が出せた。ただ飲みすぎると精がつきすぎて攻撃的な思考を招く危険があるから、一日に一杯で十分だけど」
いぶかしみながら口に含んだラムダは、間をおいて目を丸くした。
「見た目は改善の余地ありだが、味はいいな」
好意的な評価に残り五人も勇気を出す。確かに色さえ何とかなれば完璧だった。最後に自分の分を杯にそそぐファイの隣で、タウが感嘆した。
「さっきまでの気だるさが消えた。たいしたものだな」
「いったい何を入れたの?」
首をかしげるイオタをファイはちらりと見た。
「チカラグサ」
まだ飲んでいる途中だったシータはむせた。
以前ローが行方不明になったとき、一晩中風の神の使いを操って倒れたファイのために、シータはセムノテース川で採った大量のチカラグサを届けたことがあった。チカラグサは育毛剤の主要材料として使われることが多く、見舞ったラムダにあやしまれたファイは、中級薬学の自由研究課題としてチカラグサ入りの体力回復剤を作るとうまく答えてくれたのだ。てっきりラムダからの追及の言い逃れだと思っていたのに、まさか本当に研究材料として使っていたとは。
山のようにあったチカラグサは、きっとほとんど消費してしまったのだろう。ファイはシータとは目をあわせなかったが、シータは頬のゆるみを抑えることができなかった。
夕暮れも迫る頃、一行はカーフの谷をかかえる山にたどり着いた。カーフの谷には人語を解する花がいくつもあり、奇跡のパンの材料となる『祈りの歌を歌う花』は夜明けに歌うという。谷に近いあたりで手頃な洞穴を見つけた七人は、そこで泊をとることにした。
食事をとり、寝床の準備を整える。念のためにたきぎの火を絶やさないよう交替で番をすることに決め、ローを残して六人は寝床に入った。
遠くでふくろうが鳴いている。たき火のはぜる音が耳につき、シータは何度も寝返りを打った。
体は疲れているのに目はさえていた。もし睡眠不足で明日体調を崩せば皆に迷惑がかかる。だが寝ようと思えば思うほど、眠気は遠ざかっていった。
番をしているロー以外は全員寝てしまったのか、周囲は規則正しい寝息の輪唱が響いている。かたく目を閉じなおしたシータの頬に、つとかたいものが触れた。
「飲む?」
湯気のたつ杯を手に、ローがシータの顔をのぞき込む。シータは静かに起き上がると、ローについてたき火のそばへ移動した。
「どうしてわかったの?」
「あんなに一人ごろごろと寝返っていれば、誰でも気づくよ」
並んで座りながらローが笑う。シータは受け取った熱い茶に息を吹きかけて口にした。
頭上には満天の星が広がっていた。明滅する無数の光に見守られているようで瞳をすがめる。こうしていると、ちっぽけな存在が一つの悩みに悶々としているのが不思議なくらい滑稽に思えた。だからといって、かかえている問題が消えてなくなるわけではなかったが。
「ローはどういうきっかけで仲間になったの?」
「最初に話をしたのはヘイズルにからまれたときだった。僕が入学したときにはタウはすでに有名人だったから、名前は知っていたんだけどね。ちょうど今頃だったかな」
一度茶でのどを湿らせてからローは続けた。
「ヘイズルの父親は僕の父さんと市長選で争って負けたんだ。それ以来ヘイズルは僕の顔を見るといびるようになってさ。ヘイズルは気前よく金をばらまくから取り巻きも多くて、登校時から家に帰るまで、いたるところに伏兵がひそんでいたんだ。それにプラム……今年の黄玉の投票で二位になった女の子なんだけど、彼女はヘイズルの幼なじみで想い人でもあってね、プラムと一言でも話をしようものなら、ヘイズルは歯をむきだして怒鳴り込んでくるんだよ」
指で両方の口の端をつり上げるローに、シータは噴き出した。
「だからできるだけプラムには近づかないようにしていたんだけど、あの日、最後の授業で隣のプラムが羽ペンを落としてね。つい拾って渡してしまったものだから、授業が終わるなりヘイズルの猛攻撃が始まったんだ。校門はすでにヘイズルの取り巻きがおさえていて、学院内をひたすら逃げ回っていたんだけど、はさみ撃ちにされたところでタウとラムダが通りかかったんだ」
シータも、ローと一緒にヘイズルたちに囲まれたときのことを思い出した。あの場でタウとラムダが登場すれば、きっと救世主に見えただろう。
「向こうは僕のことなんか全然知らなかったのに助けてくれてね。それから廊下で会うたびに話をするようになったんだ。僕は将来父さんのような仕事につきたくて教養学科に入ったんだけど、冒険はしたかった。だからいろいろな集団をじっくり観察して、タウたちなら教養学科生というだけで追い払うようなまねはしないと確信したんだ」
ローは後ろに手をのばし、積み重ねてあった小枝をひとにぎり炎へと投げた。
「はじめに申し込んだときはさすがに驚かれたけどね。でもタウたちは馬鹿にしたりしなかったし、一緒に冒険をするようになってからも僕にできることは任せてくれた。だから僕も自信をもって、自分にできることを考えて行動できるんだ」
胸がうずいた。ローがいるからタウたちは安心して戦え、タウたちがいるからローは安心して自分の務めをはたすことができるのだ。
シータはからになった杯に視線を落とした。自分はどうだろう。この集団で、自分がもつ役割とは何なのだろう。剣を振るう以外にできることなんてあるのだろうか。
「実は昨日、噴水池で学院長に会ったの。今まで当たり前に使っていたものが使えなくなったときに、初めて見えてくるものもあるって言われた」
ローがシータの杯に茶をつぎ入れた。弱々しく立ちのぼる湯気が目にしみてくる。
「それからずっと考えてたの。もし呪いが解けなくて、運よくこのまま長生きできたら、私には何ができるんだろうって。剣をにぎることの他に、自分にはどんな力があるんだろうって」
「答えは出たの?」
シータはかぶりを振った。あきれられるかと思ったが、ローは逆に「それでいいんじゃないかな」と笑った。
「僕は剣も法術も使えないけど、冒険はそれだけでできるものじゃないよ。たとえば暗闇の中で戦闘になったとき明かりが消えないようにしたり、大事なものを守っておく人はいる。状況を冷静な目で見て口頭で援護することだってできる。ちっぽけな役目かもしれないけど、とても大切なことだ。僕は、タウたちが戦いに集中するために自分がいるんだと思ってるよ」
理知的な暗青色の瞳がシータをとらえる。ローには確かに戦う技はない。でもそれに匹敵する賢さをもっている。だから負い目など感じず、堂々としていられるのではないだろうか。
「僕たちは一年間一緒にやってきた中で、それぞれの役割を自然に担ってきたんだ。もちろん目に見える役割のことだけじゃないよ。武器や法術が使えるというのは、仲間に入る前からわかっていることだからね」
ローはしっかりした小枝を一本取ると、地面に円を六つ描いた。
「一年間、僕たちは六人で行動してきた。そして今年、君を迎えた。仲間入りしたということは、君にも僕たちの集団の中で担うものがあるはずなんだ」
シータが茶を口に含む間に、ローが七つめの円を加える。茶の味が一杯目とは違った。
「前にも言ったけど、仲間になりたいと申し込んでくる人はけっこういたんだ。ただ僕たちのほうが乗り気じゃなくて、全部断っていた。おかげでこの集団に入るには厳しい審査があるとか、変な噂がたったけど。でも僕たちはシータを待っていたんだと思う。虹の森を探しにいける最後の仲間が次の年に入学してくるのを、無意識の内に感じていたんじゃないかって……天空神の啓示のようなものかな」
優しいまなざしで微笑まれ、シータは返事に困って目を伏せた。
運命だとローは考えているのか。自分たち七人が出会ったのは、偶然ではなく必然だったと。
入学式の日に自分が遅れ、ファイが受付だったことから、すべてが始まった。それはやはり天空神の導きだったのだろうか。
「思うように動けなくても、むだな時間なんて一つもない。今はシータにとってつらい時期だろうけど、きっと何か意味があるよ」
胸の奥にふっと何かが浮かんだ気がした。だがうまく言葉にできない。シータは開きかけた口を閉じ、杯に残っていた茶を飲み干した。
ローは手にしていた枝も火の中に投げ入れると腰を浮かした。
「さて、そろそろ交替だ。タウを起こしにいこうかな」
「私が番をしようか?」
ローを見上げると、軽く肩をたたかれた。
「君の今の務めは、しっかり睡眠をとることだよ。もう眠くなるはずだから」
いぶかしんだシータは、たった今飲んだ二杯目の茶に何か入っていたのだと気づいた。
「ファイ特製のお茶。短時間で深い眠りに陥るから、たぶん痛みなんか感じないだろうし、明日の朝はすっきりしてるよ」
説明を受けるそばからめまいがしはじめた。質がよいのは認めるが、効きかたがやや強引だ。もう少し穏やかに寝させてくれと思いつつ、シータの意識は夢の底へ引きずられていった。
ローの言葉どおり、翌朝の寝覚めは爽快だった。暁方に支度を整えた七人はカーフの谷へ下りた。
谷へ近づくにつれ、上空を駆ける風の音とともに、叫び声やら歌声やらが聞こえてくる。谷に咲く花々が話をしているのだ。そして谷に到着したシータは呆然とした。
不思議を通り越して異様な光景だった。形も色もさまざまな花たちが風に身を揺らしながら、叫び、笑い、歌っている。高音はこだまして谷に返り、想像を越えた賑々しさだ。
谷に踏み込んだ七人に、一番近くで咲いていた小ぶりな白い花々が夜露を振り払った。
「見て、人間よ」
「人間が来たわ」
彼女たちのささやきは一面をめぐり、ざわめきとなって谷を震わせた。訪れを拒むというよりは、興味をいだいたといった感じだ。しかし谷全体からそそがれる視線はあまり快いものではない。気後れするシータの前でタウが皆をふり返った。
「手分けして『祈りの歌を歌う花』を探そう」
目当ての花の外見は統一されていない。この雑然とした状況で、細々と祈りの歌を歌っている花を見つけだすのは非常に困難だった。
耳をすませば聞きたくない声も勝手に入ってくる。というより、邪魔な声のほうが圧倒的に多かった。あちらこちらから届くからかいや自己主張にいらいらしながら歩いていたシータは、甘い香りに誘われて視線を落とした。
巨大な紅色の花が開いていた。茎が短いのか、花はまるで地面の上に直接咲いているかのように広がっている。一人くらいなら飲み込めそうな花に嗅覚を刺激され、触れようかどうしようかシータは迷った。だがその媚びて待つような姿勢がどうにも好きになれない。そのまま素通りしようとしたとき、風の神をたたえるかすかな声が聞こえた。
この近くに『祈りの歌を歌う花』がある。息を詰めてあたりを見回し、声を聞き取ろうとしたシータは、またもや甘い香りに包まれた。
紅色の大きな花は自分を見てと必死に訴えている。シータは少し同情した。これほど大きな花なのに、そばまで来ないと見つけてもらえないのだ。
また祈りの歌が耳をかすめた。シータはじっと紅色の花を見つめた。まさかこの花が歌っているのか。
繊細な歌声は今にも消えてしまいそうなほど弱い。シータは腰を落として紅色の花に顔を近づけた。
違う。祈りの歌は正面ではなくやや左側から聞こえる。紅色の大きな花びらをめくり上げたシータは、その陰で咲く薄青い小さな小さな花を見つけた。歌っていたのはその花だった。
「あった!」
喜んだ刹那、紅色の花びらをつかんでいた右腕を引っ張られた。
花が食いついている。タウが剣を抜きながら駆けてきた。
「シータ、逃げろっ」
間に合わなかった。シータは抵抗する余裕もないまま、一気に花の中へと飲み込まれた。
甘い風の中で浮かんでいるような気分だった。シータは胎児の姿勢で流れに身を任せていた。
紅色の花は人食い花だったのか。自分はもう食われて死んでしまったのだろうか。かすむ意識の中で、不意に背後から剣をつきつけられた。
肩越しに見やり、シータはこわばった。タウだったのだ。
「お前は誰だ?」
ねばついたまなざしに寒気がした。シータはタウを突き飛ばしてあとずさった。
「あなたこそ誰? あなたはタウじゃない」
タウがあざ笑う。
「真っ黒だな。黒は暗黒神の色だ……お前は、暗黒神の下僕か」
「違う!」
「嘘をつくなよ」
後ろから冷めた声が届く。ラムダとミューが立っていた。そしてイオタ、ロー、ファイが順番に現れ、シータは六人に囲まれた。
「みっともなくて、本当に気味の悪い奴だな。誰がこんな奴を仲間に入れようとしたんだ?」
ローがよそを向いた。
「僕は知らないよ。そんな黒くてボロボロでみすぼらしい人、僕が連れてくるわけないじゃないか」
心臓がひやりとした。
これは夢だ。夢に違いない。彼らは自分の知っている六人ではない。わかっているのに震えがとまらない。
「放っておけば? どうせ使い物にならないんだし」
「そうね。仲間は六人で十分だわ」
イオタとミューが言い捨てる。
「違うわ、仲間は七人いる。七人いなければ虹の森へは行けないものっ」
「あんた、何を言ってるの?」
「虹は六色よ。知らないの?」
嘘だと叫ぼうとしたシータの眼前で、六人がぐるぐる回りはじめた。遠く、近く、あざけりが耳をなでる。
「虹は六色だ」
「仲間は六人よ」
「あんたに何ができるの?」
「汚らわしい役立たずのくせに」
回転する六人の体は溶け合い、六色の虹を構成した。それは七色の虹よりも美しく完成されたものに見え、シータは立ちすくんだ。
本当に虹は六色だったのだろうか。だとしたら自分は何のために彼らと行動をともにしていたのか。
最後に虹の森に行くことが目標ではなかったのか。だが虹は六色だ。六人で行ける。
では自分は? 自分は必要ではない。
ここに……彼らといる意味がない――シータはその場にひざをついた。
肉が失われていく。足から腰、そして胸。自分を構成している肉や骨がすべて砂のように崩れていく。
自分はこのまま消えていくのか。
絶望に目を閉じかけたとき、小さな炎がともった。炎は徐々に燃え上がり、たき火となってパチパチはじけた。
湯気のたつ杯が目の前に差し出される。恐る恐る受け取ると優しいぬくもりに包まれた。
“仲間入りしたということは、君にも僕たちの集団の中で担うものがあるはずなんだ”
誰かに言われた……誰だったか……そう、たしかローが……。
“僕たちはシータを待っていたんだと思う。虹の森を探しにいける最後の仲間が次の年に入学してくるのを、無意識の内に感じていたんじゃないかって”
――僕たちはシータを待っていたんだと思う。
一度力が抜けた。そして次の瞬間、シータはしっかりとした目で宙を見据えた。
溶けかけていた体が再生をはじめる。ゆるやかに。急速に。
力がよみがえる。
今、気がついた。タウはカーフの谷へは七人で行くと言った。
長くはない言葉の中に、とても大切な意味がこめられていた。ローと同じことを、タウはあのとき語っていたのだ。
タウやローだけではない。ラムダも、イオタも、ミューも、ファイもそうだ。
そしてシータはもう一つ思い出した。彼らは仲間を放ってはおかないということを。
光が縦に差した。まるで厚い岩壁がこじ開けられるように、花の檻が破られる。
「シータ、無事か!?」
あたたかい手に引き出される。外側の世界へ転がり落ち、シータは激しく咳き込んだ。
「ゆっくり、大きく息を吸うんだ」
背中を支えるタウの指示に従って何度も深呼吸をするうち、ようやく普通に息ができるようになってきた。
空気がたまらなくおいしい。
生きていると、シータは実感した。
「俺たちがわかるか?」
タウにうなずくと、六人はいっせいに安堵の表情を浮かべた。
「まったく、『悪夢の花』に近づくなどどうかしている。植物学で最初に習うはずだぞ」
「覚えてない」
タウの小言にシータは肩をすくめた。『悪夢の花』は飲み込んだ生き物の感情から生命力まで、奪えるものはすべて奪ってから捨てる。遺体に外傷はないため、見た目には死んだ理由がわからないのだ。
「これからはまじめに授業を受けることだ」
「そうする。あんな怖い夢はこりごりだよ」
本当に夢でよかった。ほっとするシータに、ローが感心した口ぶりで言った。
「それにしても、よくもちこたえたね。あの花に捕まって正気でいられた人は少ないから、どうなることかと思ったよ」
「ローのおかげだよ。ローが私に話してくれたことを思い出したの」
感謝してもしたりない。ローの励ましが自分を悪夢から救ってくれた。大事なことに気づかせてくれたのだ。
「大変、もう時間がないわよ」
イオタがわめく。太陽はすでに山を越え、空高く昇りつつあった。
『祈りの歌を歌う花』は夜明けにしか歌わない。同様の花は多いらしく、カーフの谷は静まりつつあった。
「一つは手に入れたけど」
ファイが右手の黄色い花を見せる。
「私も見つけたよ」
シータは両断されて身動きしなくなった『悪夢の花』の巨大な花びらをめくり、その下で祈りの歌の最後の章を歌い終えたばかりの薄青い花を抜いた。一瞬身を震わせた花は、それきり沈黙した。
「この状況で二つも入手できれば上等だ」
必要最低限の量しか得られなかったが、ラムダが明るく言ってくれたおかげで場の雰囲気が軽くなった。
カーフの谷が光に彩られていく。陽射しに目をすがめ、シータは涼やかな風を全身に感じた。
あとは帰って奇跡のパンを作るだけだ。祈りが通じることを期待し、シータは皆とともに谷を去った。