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緑の魔王と奇跡のパン  作者: たき
6/10

(6)

「ラムダが昔住んでいた家を見てみたいわ」

 カロ市とヴァルサモ市を結ぶ道を、ラムダとミューは一頭の馬に相乗りして進んでいた。まもなくヴァルサモ市の町リーバに着くというところで、ミューは後ろのラムダをかえりみた。

「リーバに住んでいたのよね? エルライ湖への道筋からはかなりはずれるの?」

「通り道だが……でももう残っていないかもしれない」

「それでもいいわ。行ってみましょう」

 ラムダの返事があいまいだったため、うきうきしていたミューは妙な不安に襲われた。

「都合が悪ければ無理強いはしないから。じゃあ、今日はまっすぐエルライ湖へ向かいましょうか」

「ああ、いや……特別おもしろい町でもないから、退屈するんじゃないかと思って」

 どうも歯切れが悪い。ぎこちない笑みを浮かべたラムダが目をそらしたため、ミューも黙って前を向いた。

 入ってみると、リーバの町のにぎやかさはフォーンの町とあまり変わらなかった。ただ首都アーリストンと隣接しているせいか、古びた建物の雰囲気がどことなく品のよさをかもしだしている。露天商も多く、売っている品物はミューが初めて見るものばかりだった。

「いい町ね」

 ラムダが生まれ育った町。それだけでミューにはどんな町よりもすばらしく思える。ミューのほめ言葉に、ラムダは先ほどより少し頬をやわらげた。

「城ができるまでは、アーリストンとリーバの町は一つだったから。昔から住んでいる人間は、今でもアーリストンをリーバの町の一部だと考えているみたいだな。でも俺はフォーンの町のほうが好きだ……あそこが前の俺の家だ」

 ラムダは端から三番目の家を指さした。看板をかけていたのだろう場所には、つるすものがなくなった金具が寂しそうに輪の形を残している。窓は誰かが割ったのか取りはずされたのか、きれいに片づけられていて、壁もすっかりくすんでしまっていた。

 客の出入りする小料理屋と靴屋にはさまれたラムダの家に、目を向ける者はいない。人が住まなくなって何年もたてば、そこだけひっそりとしていても誰も気にしなくなるのか。

 ここへ来たいと言ったことをミューは後悔した。自分の家が町のにぎわいからのけものにされている姿を見て、喜ぶ人間はいない。あやまろうとしたミューは、ラムダの目が別の家をとらえていることに気づいた。

 ラムダの家からさらに三軒離れた大きな家を、ラムダは見つめていた。赤い屋根の家は庭の手入れも行き届いている。唇をかたく結んで微動だにしないラムダに、ミューが声をかけようかどうしようか迷っていると、横から呼びとめられた。

「もしかしてラムダか?」

 大きな袋を両手でかかえた細身の少年に、ラムダはわずかに眉をひそめ、それから笑顔になった。

「ラキスじゃないかっ」

「やっぱりラムダか。久しぶりだなあ」

 くすんだ黄色の髪の少年が日に焼けた顔でにっこり笑う。ラムダは馬を下りるとラキスの肩をたたいた。

「元気そうだな。お前、全然変わってないな」

「馬鹿言え。けっこう背がのびたんだぞ。まあ、お前ほどじゃないけどさ。くそう、ゲミノールムと交流戦があればなあ。武闘館にはもちろん進学するんだろう?」

「ああ、そのつもりだ」

 ひとしきり話し込んでから、ところでとラキスがミューを見た。ラムダはミューが馬から下りるのを手伝った。

「俺の幼なじみのラキス・ノートンだ。クラーテーリス学院武闘学科の三回生で、俺と同じ槍専攻……でいいんだよな? ラキス、こちらはミュー・レポリス。ゲミノールム学院神法学科の三回生で、今一緒に冒険をしている仲間だ」

 好奇心まるだしのラキスにひるみながら、ミューはよろしくと握手した。

「彼女、水の法専攻か? ネリアと同じだな」

「ネリアは神法学科なのか」

 隣のラムダが一瞬びくりとしたのを、ミューは見逃さなかった。

「ああ、今年『クラーテーリスの水晶』に選ばれた。実は今、俺たち付き合ってるんだ」

 照れている顔ではなかった。むしろラムダの気持ちを探ろうとしているかのようなラキスのまなざしに、ミューの胸の奥がざわりと騒いだ。

「そうか」

 ラムダの返事は短かった。再び乗馬したラムダはミューを自分の前に横乗りさせた。

「悪いが、あまりゆっくりできないんだ。今日中にエルライ地底湖にもぐって帰らないといけないんでな」

「たまには遊びにこいよ。みんな会いたがってるから」

「どうせ来年には武闘館で再会できるだろう。まあ、落ち着いたら顔を出すよ。それまでしっかり鍛錬して腕をあげておけとみんなにも伝えてくれ」

「わかった。ラムダがかわいい女の子を連れて歩いてたって触れ回っておくから」

 二人は笑いあうと、さよならを言って別れた。

 それからエルライ湖に着くまで、ラムダはあまり口をきかなかった。幼なじみに会えた嬉しさと、それを覆い隠すほどの暗い感情がごちゃまぜになったような複雑な表情で、手綱をにぎっていた。そしてそんなラムダをちらちら見ながら、ミューもまた心に影を落とすものにおびえていた。

 どうか思い過ごしでありますように。できるだけ楽しいことを想像し、ミューは不安から目をそむけた。



 ラムダとミューがエルライ湖にたどり着いたのは昼前だった。ラムダが手頃な木に馬をつなぎ、湖のほとりに立つミューに並ぶ。陽射しを浴びて銀色にきらめく湖は、時折風を受けて小さな波を起こしたが、ミューには心地よい風だった。

「天気もよければ景色も最高。少し早いが昼食にするか」

 背伸びをするラムダにミューもうなずき、弁当を広げる。ミューの持参したパンを豪快に腹へ入れながら、ラムダはレオニス火山のあるほうを見やった。

「順調に行っていればタウたちも着いている頃だな。イオタが文句ばかり言って、タウが怒っていないといいが」

「きっと大丈夫よ。イオタはしっかりしているし、がんばりやだもの」

 水筒からそそいだ果汁を口へ運び、ラムダが五つめのパンをつかむ。うまそうにたいらげていくラムダを見ていると、つい顔がほころびそうになる。ミューはできるだけラムダのほうを向かないようにしてパンを食べた。

 タウの決めた組み合わせに異議を唱える者はいなかった。シータを思うと胸が痛むが、ラムダと二人で行ける嬉しさに嘘はつけない。

 今年の降臨祭こそは誘えるだろうかと、ミューは『水の女神がまどろむ月』に思いを馳せた。

 卒業式の少し前にある降臨祭は、若者たちにとって大切な日だ。その日に口づけをした二人は、水の女神の祝福を受けて結ばれると言われている。祭りの決まりは一つだけ――女性のほうから誘わなければならないのだ。

 去年は勇気が出ず、結局声をかけることができなかった。来年は通う学校が別々になってしまうため、今年誘わなければ後悔するだろう。

 誰とでも気さくに話すラムダは男女問わず友達が多い。ミューが最初に知り合ったのは治療室だった。一回生の後半に水の法専攻生は治療室の当番に加わるのだが、ミューの担当日にラムダが訪れたのだ。

 一回生でありながらすでに三回生並の体格をしていたラムダを初めて見たときは、少し怖かった。だが全身傷だらけなのに冗談を口にするラムダの明るさに緊張はすぐにとけ、好感をもった。次に廊下で会ったときは、ラムダのほうから話しかけてくれた。覚えていてくれたことに驚いて、小さな好意が大きくなった。それからはよく言葉をかわすようになった。

 二回生になり、冒険集団結成の話をもちかけられた。水の法専攻生は絶対必要だからと誘われ、ミューは迷いなく承知した。その頃にはイオタとも親しくなっており、一緒に仲間入りした。

 それからローが加わり、そのローがファイを連れてきた。その年は六人で行動し、今年シータを迎えたのだ。

 昨年いくつかの冒険をやりとげていった中で、ラムダを好きだと自覚した。おいしい果汁酒を飲めば、きっとこんな気持ちになるのだろうと思った。

「ふー、食った食った」

 満足げな顔でラムダが地面にあおむけになる。後片づけをしながらミューは笑った。

「ラムダ、大事な仕事があるのを忘れないでね」

「ああ。みんなには悪いが、野遊びに来たような気分だな。そういえば、みんなでのんびりどこかに行くってことをしたことがないな」

「冒険も楽しいけれど、たまにはゆっくりするのもいいかもしれないわね」

「タウは目的がないと遠出も寄り道もしないからな。俺が先頭だと寄り道ばかりで前に進めないだろうが」

 苦笑してラムダはミューを見た。

「たしか冒険集団を結成したのって、去年の今頃だったんだよな」

「昼休みだったわね」

「ミューを捜して走りまわったのを覚えてる。タウに推薦したものの、ミューが引き受けてくれるかどうか実は不安だったんだ。でも水の法専攻生と言われてミューしか思い浮かばなかったし」

 空に向かって手をかざし、ラムダは黄赤色の瞳を細めた。

「冒険なんか興味ないかと思ったけど、ミューなら一緒にやっていけそうな気がした」

 そよ風が、ほてりかけたミューの頬を優しくくすぐっていく。ラムダは起き上がると、いたずらっぽい笑みを広げた。

「イオタを連れてきたのは予想外だったけどな」

「タウとイオタが手を組んだって、学院中がちょっとした騒ぎになったのよね」

「おかげでアレクトールの機嫌が悪かったのなんのって。演習でも八つ当たりぎみにかかってくるから、しばらくは授業が終わるたびに治療室に駆け込んでいたな」

 アレクトールは早くからイオタを勧誘していたのだが、イオタはすげなく断っていた。だからミューもあまり無理強いしないつもりで誘ってみたところ、イオタはあっさりと承知したのだ。

「タウとイオタってどうなのかしら」

 ミューの問いかけにラムダは褐色の短髪をなでた。

「これ以上はない最強の組み合わせだな。でも二人とも頑固だから、難しいといえば難しい気もする。まだまだ様子見ってところだな。さて、そろそろ始めるか」

 ラムダが立ち上がり、服を脱いでいく。荷を袋に詰めなおしたミューも水着になった。

 自分とラムダはどうなのだろう。聞きたいけれどいつも聞けないことを、今もまたミューは胸の奥にしまった。

 周りは皆、大丈夫だと言ってくれる。ラムダがはっきり口にしないのは、わざわざ言葉にする必要がないほど互いの気持ちがわかっているからだろうと。あらためて告白するのが照れくさいのだと。

 本当に、そうであればいいと思う。でもやはり一言がほしいと願うのは、欲張りなのだろうか。

 たった一つの言葉をもらえるだけで、安心できるのに。

 リーバの町での出来事がよみがえりかけ、ミューは急いで脳裏から追い払った。そして、岸辺に立って準備運動をするラムダのがっしりした背中を見つめながら、密かにため息を漏らした。

 ラムダは自分の荷から小さな袋を二つ取り出すと、一つをミューに渡した。ファイが法術で作った空気袋と呼ばれる道具だ。水中で袋の口を開けても空気が外に漏れないようになっているため、安心して空気を吸い込むことができる。

 ミューもまた袋から首飾りを二つつかんで、一方をラムダに差し出した。イオタが炎を詰めた玉は、水中では明かりの代わりになる。

「放水が終わったばかりだといいんだが」

 必要最低限のものだけを詰めた小さな袋を背負ったラムダが、湖面を見下ろしてつぶやく。これから二人が向かうのは霊水のわくエルライ地底湖だが、そこへ行くには地底湖と湖を結ぶ『水の産道』を通らなければならない。地底湖の霊水は日に数回、エルライ湖へと押し出されるため、もし霊水の放出時間と重なれば、前へ進むどころか流れに巻き込まれておぼれる危険があった。

 二人はゆっくりと湖に入り体を慣らすと、大きく息を吸ってもぐった。水に触れたとたん、二人の首にさげた玉が赤々と発光し、視界を広げる。

 先を行くラムダを追いかけながら、ミューは湖の世界を堪能した。陽光が幕のように揺らめく中、遠くに小魚の群れ影が映る。人間を警戒しているのか、近づいてくる魚はいなかった。底では幾多の藻草がゆらゆらと身を振り、貝が懸命に砂に隠れようとしている。

 少しずつ水温が低下していくのを肌で感じながら、ミューは空気袋に口をつけた。ラムダは時折かえりみてミューがついてきているのを確認しつつ、力強い泳ぎで前へ前へと進んでいく。

 やがて岩穴が現れた。『水の産道』の入り口でラムダは一度とまり、ミューが来るのを待った。

 予想より穴は小さく、大人二人が通るくらいの幅しかなかった。放水時間に出くわせば、流れに押されて岩壁にたたきつけられてしまいそうだ。

 霊水をとる者は皆この道を通るので地底湖まではつながっているのだろうが、ふくらむ不安は抑えきれない。天井が崩れて行きどまりになってはいないだろうか。奥に入るほど穴がせまくなってはいないだろうか。空気がなくなるまでにたどり着けるだろうか。考えれば考えるほど息苦しくなってくる。

 かたくなっていたミューの肩をラムダが軽くたたいた。大丈夫だと親指を立てるラムダに、少し気が軽くなる。ミューがうなずくとラムダは穴へと滑り込んだ。

 穴の中は暗かったが、玉のおかげで視界は悪くなかった。ラムダを見失わないよう、ミューは必死に目を凝らした。途中で角を曲がったラムダの姿が一瞬消えたときはあせり、泳ぎを速めた。

 だが緊張と疲労のせいで、そのうち手足を動かすのがつらくなってきた。もともと長い距離を泳ぐことはない。水をかきわける力が徐々に失われていくのを自覚しながら、それでも遅れないように努力していた刹那、なだらかだった水の流れに異変が起きた。まるで水の大砲が発射されているかのごとく、強い力が短い間隔で連続して襲ってきたのだ。

 押し戻そうとする水の勢いに抵抗するのは容易ではなかった。先を行くラムダはミュー以上に圧力を受けているはずだ。どこか休める場所はないかとミューが周囲を見回したとき、大きな流れに飲み込まれた。横壁に背中を打ちつけた衝撃で酸素を吐き出してしまい、空気袋が手から離れる。激痛に意識の消えかけたミューの腕をラムダがつかんだ。ラムダは片手でミューと自分の空気袋をかかえ込み、もう一方の手で一番近い岩の突起に手をかけた。産道を突き抜ける激流は容赦なく二人を引きずろうとする。ラムダのくれた空気袋で何とか呼吸ができるようになったミューは慎重に体をずらし、空気袋をラムダの口に持っていった。だが大きく吸い込めば力がゆるんでしまうため、ラムダは短い息継ぎを数回繰り返し、少量の酸素を得ることしかできなかった。

 とてつもなく長い時間だった。水の勢いはつきず、二人は何度も飛ばされそうになった。さらに命綱である岩がしだいに崩れはじめたのを見て、ミューはラムダの腰から短剣を抜いて手渡し、体に抱きついた。ラムダが両手で横岩に短剣を突き刺した瞬間、最大級の奔流がやってきた。それまで支えていた岩が砕け、二人は杭代わりに打った短剣一つを頼りに耐えた。

 イオタの勇みの法があれば逆らうだけの力が生まれるのに。癒すことしかできない自分をミューは恨んだ。

 それからしばらくすると水の勢いが弱まりはじめた。放出がやんだのだ。ミューは少しだけ酸素を吸収し、残りをすべてラムダに渡した。やっとまともに息ができるようになったラムダは、短剣を腰に戻すと夢中で空気を吸い込み、二人はまた地底湖を目指した。

 やがて前方が明るくなってきた。ついに二人は穴を抜け、小さな湖らしき場所に出た。霊水の輝きで水中がまぶしかったため、手探りで地底湖の端を探して陸へ上がる。

 空気袋は使い切り、しぼんでいた。酸素不足と疲れのせいで頭がひどく痛み、体もきしんだ。

 めまいに悩むミューの隣で、荷物を下ろしたラムダがあおむけに倒れた。

「きつかったな。死ぬかと思った」

 ラムダの胸は大きく上下している。岩壁にでもこすったのか右腕に切り傷があるのを見て、ミューは治癒の法をかけようとしたがとめられた。

「ちょっと切っただけだから、これくらいどうってことない。それよりできるだけ体力を回復しておかないと、帰れなくなるぞ」

 杖がなくても法術は使えるが、紋章石があれば少ない力で術の効果を増大させることができる。ラムダの言葉はありがたかったが、迷惑をかけただけに気がひけた。

「それよりミューは大丈夫なのか? 背中を打っただろう」

「平気だから、心配しないで」

 ミューが微笑むと、「無理はするなよ」と念を押してラムダは背伸びをした。

「さて、少し眠るとするか」

 言うなりラムダは寝息をたてはじめた。短時間の睡眠で回復をはかるのは戦士として必要な能力なのだろうが、その早さにミューは感心した。

 ラムダを見ているうちに眠くなり、ミューも結局横になった。そしてちょっとだけと思いながらまぶたを閉じた。



 聞こえてくる荒々しい水音が霊水の放出だと気づき、ミューはまどろみから覚めた。次の放水が始まったということは、かなり時間が経過しているということだ。慌てて身を起こしたミューは、隣であぐらをかいているラムダと視線がぶつかった。

 ラムダがきまり悪そうに顔をそらす。今まで寝顔を見られていたのかと、ミューは恥ずかしくなった。

「あのな、ミュー」

 一呼吸おいてラムダが再びミューを見つめる。奇妙なほど静かな間だった。

 鼓動が速まる。耳のあたりが熱くうずき、ミューは胸の前でぎゅっとこぶしをにぎった。

「俺……」

 だが、そこまでだった。黄赤色の瞳を伏せたラムダは、ひどくつらそうな、それでいてどこかおびえたような顔をしていた。

 ラムダはため息をつくと、袋から瓶を取り出した。水際に行って霊水をくみ、ふたをかたく閉めてからしげしげと瓶を眺める。

「奇跡のパン、うまく作れるといいな」

 弱々しく笑うラムダにミューは腰を浮かした。

「ラムダ、私」

「ごめん」

 続く言葉をさえぎったラムダは、瓶を袋にしまった。

「できれば俺から言わせてくれ。でも今はまだ……もう少しだけ待ってくれないか?」

「どうして?」

 抑えていた気持ちがあふれだした。頭の中がほてり、ミューは自分がわからなくなった。

「ネリアという人が関係しているの?」

 顔をこわばらせるラムダにミューはすがりついた。

「彼女と何があったの? 教えて、ラムダ」

「ミュー」

 肩をつかまれ、ミューははっとした。

 ラムダは今にも泣きそうに見えた。そんなラムダにも、感情のたかぶるまま追及してしまった自分にも、うちのめされた。

「ごめんなさい。私……降臨祭までは待つから。だから……」

 ミューはたまらず目頭を押さえた。だがぬぐおうとすればするほど涙はこぼれてしまう。小さく嗚咽を漏らしたミューは、ラムダに抱きしめられた。

「ごめんなさい、ラムダ」

「違う、ミュー」

「ごめんなさい」

「違うんだ。あやまるのは俺のほうだ。俺がもっと……」

 ラムダは声をつまらせ、自嘲気味に笑った。

「情けないな。強くなろうと決めたのに」

 胸が苦しい。

 ラムダが好きだと、今ここで言ってしまいたい。だが告白してもラムダはきっと困る。それなら自分が我慢したほうがいい。自分さえ、気持ちをのみ込めば。

 一緒に来なければよかった。ずっと知らずに過ごしていれば、幸せな未来だけを夢見ていられたのに。

 いつもほがらかなラムダばかりを目にしてきたから、内に秘めているものがあるなど気づきもしなかった。そのかかえているもののせいで、二人の距離が縮まらなかったなんて。

 単に照れているだけではなかったのだ。

 それでもいつか話してくれると信じるしかない。今は待つしかないのだ。

 離れる際に一度だけ視線をかわし、ラムダは再び袋を背負った。まだ放水は続いている。帰りは流れに乗るので楽になるはずだが、水の力の恐ろしさが体にしみ込んでいたミューはわずかにひるんだ。

 新しい空気袋を手に先に入ったラムダが、動かないミューをふり返る。ラムダの瞳が懸念の色をおびているのを見て、ミューは気持ちを奮い立たせた。

 早く帰ろう。エルライ湖の霊水が自分の中で渦巻く暗い気持ちを洗い流してくれることを祈り、ミューも水に足を忍ばせた。





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