(5)
休日の朝、シータは闘技場を出発する六人を見送った後、学院の中庭へと足を運んだ。噴水池は生徒たちのいない日でも絶えず水を噴き上げている。
まだ薄暗い中庭は人けのないこともあって、とても神秘的だった。時のとまった学院の中で唯一時間を刻んでいる噴水池に、シータはそっと近づいた。
あおいだ空は徐々に白みはじめていて、暁の星がかすんで見える。自分を置いていった六人の幻がちらつき、シータは歯がみして鍛錬に励むべく剣を抜いた。
一回、二回、三回……想像の中の敵に対して剣を振るう。しかしそれも長くは続かなかった。どうしても頭部の痛みが邪魔をして集中できない。いらいらしたシータは最後に「ああもうっ」と吐き捨てて素振りをやめた。
今の自分は戦えない。数日前までは普通に剣を振るっていたのに。
シータは空に向かって大きくため息を吐き出すと剣をしまい、噴水池の縁に腰を下ろした。波間に映るのはゆがんだ顔――今にも泣きそうな、情けない表情だった。
シータは水の中の自分の顔を指でかき乱した。嫌なことを流してくれるという噴水池の水が、自分の心に沈殿するもどかしさだけでなく呪いも消してくれればいいのに。
穢れを祓う力があるのなら、自分にとりついている少女たちの魂を浄化してほしい。
しかし壊しても壊しても、ゆがんだ顔は整わない。かっとなって平手で水をはね飛ばしたシータは、人の気配を感じてふり返った。
「休日にも登校とは熱心だね」
ヘリオトロープ学院長がゆるやかな歩調でやってくる。かたくるしい教官服ほどではないにしても、それに近い装いだ。
ふと鼻をかすめた感覚に、シータは気をとられた。
風の匂いとでも言うのだろうか。水の法のような包み込む癒しの形ではなく、肌に優しいそよ風が触れたとき一瞬だけ心が無になる、そんな感じだった。
漂ってきたのは学院長からだ。自分も風の神を守護神にもつからわかったのかどうかは謎だが、なぜかファイと一緒にいるような気分になった。
「学院長はお仕事ですか?」
しかもこんな朝早くから。
「そう、仕事といえば仕事かな。彼らは発ったのかね?」
学院長の胸元で首飾りが揺れる。風の法を使うのに、首飾りにはめられているのは水の女神を示す銀色の丸い紋章石だった。
「さっき見送ってきました。私も行きたかったけど、タウが許してくれなくて」
「カーフの谷へは明日七人で行くのだろう? 今の君ではそれが限界だ。タウはよい判断をしたと私は思うが」
「わかってるんです。今の私は役に立たないから、本当ならカーフの谷への参加も断られても文句言えないんだって。でも何かしていないと落ち着かなくて」
シータはそっと髪をなでた。あいからわず頭皮はうずくし、時々髪が抜ける。それでも膜が少女たちの魂を封じ込んでいるおかげで、この程度ですんでいるのだ。
くじ引きの後で痛みのあまり気絶したシータは、自宅で目を覚ました。ウォルナット教官が抱えて連れ帰ってくれたと、祖母から聞いた。
その翌日は大事をとって休み、一日家で過ごした。うたた寝をしていても頭の痛みで起きてしまい、結局ゆっくりできなかったのだが、髪が抜けるのを人に見られない安心感で、ささくれていた気持ちがいくぶん落ち着いた。
かつらは後で生徒が家に持ってきてくれたらしい。槍専攻生だったというので一番にラムダを思い浮かべたが、祖母が会ったのは焦げ茶色の髪に深緑色の瞳の少年だったという。
なぜピュールが届けたのかわからない。自分をののしり、さげすんだのはピュールなのに。
倒れる直前の話を祖母にしたら、祖母はなぜか微笑ましそうに目を細めた。「その子、普段から素直じゃないでしょう」と言われたのでうなずくと、教官時代にも似たような生徒をたくさん見たと祖母は笑った。そして、二人の間にそびえる壁が壊れればきっとうまくいくはずだと。
そんな日が来るなど、とても想像できなかった。人見知りはしないが、いらいらするから視界に入るなと一方的に毛嫌いしてくる相手とまでは、さすがに仲良くなれないし、なりたいとも思わない。
それとも、最初自分を避けていたファイのように、ピュールともいつか親しく話ができるのだろうか。
シータは心の中で否定した。弱っているときに追い打ちをかけてくるような人は嫌いだ。
だから、できることなら合同研修までにもとの状態に戻りたい。邪魔者扱いするピュールが何も言えなくなるくらい、強くなりたい。なのに、思い通りにいかないのが歯がゆくてたまらなかった。
「自分の力がうまく発揮できなくてあせる気持ちは、私にも覚えがあるからよくわかる。一緒に冒険する仲間の存在がどれほど心強いか、身にしみたのもそのときだよ」
「学院長も冒険集団に所属していたんですか?」
「今の君たちと同じように、虹の森を目指していた」
学院長は胸元の首飾りに視線を落とすと、丸い銀色の紋章石をなでた。
「今まで当たり前のように使ってきたものが使えなくなったとき、初めて見えてくるものもある。それに目を向けられるかどうかは君しだいだ」
今日明日すべてが順調にいくよう応援しているよと言って去っていく学院長を見送り、シータは再び噴水池をふり返った。噴水口からあふれでる涼やかな水の音を聞きながら、シータはしばらくの間身じろぎもせず、水に映る自分の姿を見つめ続けた。
高く高くそびえるレオニス火山をあおいだイオタは眉間のしわを深くした。山のふもとでありながらすでに熱気が渦巻き、立っているだけで全身から次々と汗が噴き出してくる。
ファイに早駆けの法をかけてもらった馬に相乗りしてフォーンの町を出発したタウとイオタは、通常より早くレオニス火山に到着することができた。来るまでは快適だったが、ここからが問題だ。
「どうして私がこんな暑苦しい山に登らなくちゃいけないのかしら」
ミューたちは涼しそうでいいわねとぼやくイオタに、タウは苦笑した。
「少なくともこちらはおぼれる心配はないと思うぞ。暑さでのぼせる可能性は否定できないが」
「干からびるのも水ぶくれするのも遠慮したいわね」
イオタは肩をすくめた。
火山といってもいつもいつも噴火しているわけではない。レオニス火山は世に大凶事が降りかかるとき噴火すると言われている。またそのような大惨事とまではいかずとも、国内に災厄が訪れる前には、過去幾度も地鳴りを起こしていた。
山肌は年中赤く色づいた葉に覆われている点以外、一見したところ普通の山と変わらない。しかし何といっても炎の神レオニスの守護する聖域。季節や昼夜を問わず、山全体は常に熱をおびていた。当然水は不可欠だが、普通の水筒に入れていたのでは蒸発してしまうため、この山に登る際は法術で保護された水筒が必要となる。
また生息する動物がすべて炎をまとっていることも、レオニス火山の特徴の一つだ。火のウサギ、火のキツネ、火の狼、火の馬から炎の大木まで、ありとあらゆるものが山の中で燃えている。そしてタウとイオタが目指すのは見晴らしのいい崖付近にある火の鳥の巣だった。雌の火の鳥の卵を手に入れるのが二人の任務だ。
レオニス火山には人間用に整備された登山道はない。それでも人や動物たちが何度も通るあたりは自然と踏みかためられて草が生えなくなり、道らしくなっていた。そこをタウは進んでいった。イオタにとっては少々きつい速さだったが、一日で往復しようと思えば許容範囲ぎりぎりの歩調なのだろう。とはいえ何度もふり返るタウに弱音は吐けなかった。女の子扱いされないのも嫌だが、こういう場であまり気づかわれるのも癪なのだ。いつものように文句を言って体力を消耗するわけにもいかず、複雑な心境で黙々と登っていたイオタは、ふと後ろをかえりみた。今まで歩いてきた道がはるか下のほうまでのびている。自分にしてはかなりがんばったと満足していたとき、名を叫ばれた。タウに勢いよく飛びかかられて目をみはったイオタの脇を、火の馬が駆け抜けていく。
「タウ!? ちょっとっ」
そのまま地面に尻をついたイオタは、倒れ込んできたタウを抱きとめた。見るとタウの腰からかすかに湯気が立っている。烙印のようなひづめの跡が服を焼いて肌に食い込んでいた。
イオタはタウを引きずって木陰へ移動すると、自分の背負っていた袋から水筒を取り出し、タウの腰に水をかけた。
「早く脱いでっ」
痛いのか顔をゆがめながら、タウがのろのろと袋を下ろし、服を脱ぐ。イオタはさらに、ミューが水の法術をかけて仕上げた冷却布を袋から引っ張り出した。
やけどは尻より少し上のあたりにあり、イオタが布をあてるとタウは身震いしながら背筋をのばした。そのまま布をタウに押さえさせ、包帯を巻いていく。ひきしまった体に後ろから抱きつくような形で包帯を巻くのは、正直とても恥ずかしかった。いつも治療はミューがおこなっていたため、慣れないことにとまどいながらイオタはどうにか手当てを終えた。
「すまない」
包帯のずれがないか確認したタウが着替えを出しながら言う。
「いいわよ、別に。助けてもらったみたいだし」
火の馬は暴走することで有名だ。レオニス火山内でも休むことなく走りまわっている。タウにかばわれなければ、今頃ははね飛ばされていたか踏みつけられていたに違いない。
「いい時間だし、休憩するか。イオタがずいぶんがんばったから、このままいけば予定より早く着けそうだ」
タウが笑って水筒を取り出す。
守ってやったんだと大げさに訴えることもしなければ、もっと感謝しろと要求もしない。うまそうに水筒の水をのどに通すタウをイオタは見つめた。
もう少し気のきいた冗談が言えれば完璧なのに。人気が高いことを自慢したりせず、騒がれてもへらへらしないのはよいことなのだが、真面目すぎるというか、やや頭のかたいところが実にもったいない。
それでも冒険集団を結成した頃に比べれば、かなり柔軟な対応ができるようになってきたのはたしかだ。それがラムダの影響であることも否定できない。少しずつ日に焼けはじめた健康的な横顔に、イオタは目をすがめた。
「どうかしたか?」
タウが水筒から口をはずして首をかしげる。
「別に、何でもないわ」
ごまかすイオタを追及することはせず、タウは袋から小瓶を取ると、ふたを開けてイオタに差し出した。
「気分だけでも涼しくなるぞ」
イオタが受け取って鼻を近づけると、さわやかな芳香に癒された。暑さが吹き飛んでしまうほどに清涼な香りだ。
「タウって店番に立つことはあるの?」
「店番はないが、客に呼ばれることは多いな。配達は俺の仕事だが、時々小物作りを手伝わされることもある」
タウの家が営んでいる香料屋は、町でも特に年配の婦人たちに評判の店だった。イオタも何度かタウの母親の顔を見たことがあるが、長い金髪を品よくまとめたきれいな女性だった。タウの妹も愛らしい顔だちをしている。たしか来年あたり学院に上がる年のはずだ。
客に呼ばれるというのは、店を訪れた婦人たちに香水の見立てをせがまれているということだろう。タウ目当てで顔を出す女性も少なくないようだから。
イオタも香水には興味があるのだが、気後れしてなかなか足を運べずにいた。タウの母親に値踏みされそうで怖いのだ。それにイオタと同じ年頃の少女たちは皆、よろず屋に置いてある安い香水を買いに行くため、香水の専門店をのぞく者はいない。イオタも一度よろず屋の香水を買ってみたが、安物だとタウに見破られるのが恥ずかしくてつけることができなかった。そのまま長く眠らせている間に蒸発してしまったため、先日瓶を捨てたのだ。
タウも好きな人ができれば、自ら選んだ香水を贈るのだろうか――イオタから返された香水を袋にしまうタウに、イオタは尋ねた。
「タウって好きな人いるの?」
唐突だったらしい。しばし困惑したさまでいたタウは、やがて小さく吐息を漏らした。
「そうだな。今はまだ絶対的な『好き』ではないから」
ずいぶんと遠まわしだが、つまるところ『いる』ということか。浮いた噂が一つもないだけに意外だった。
「いつか迷いなく好きだと言い切れるほどになったら、告白しようと思う」
それ以上の追及は禁止だとばかりにタウが腰を浮かす。イオタも最後の質問を聞く勇気が持てないまま、タウに続いて出発した。
タウからの申し出を断る女の子がそうそういるはずがない。少しでも好きなら告白してしまえばいいのに、本当に堅物なのだから。先を歩くタウの背中に、イオタは馬鹿とつぶやいた。
途中で一度昼食をとった頃には、太陽はすでに天頂を過ぎていた。徐々に強まる日差しと山自体が放つ熱気に、二人の歩く速さは確実に落ちていったが、それでも何とか火の鳥の巣を見つけることができた。レオニス火山の山腹あたりの崖につくられた巣は二つ並んで置かれてあり、その一方に火の鳥が居座っている。火の鳥に警戒されない程度に巣から離れた場所にちょうどいい岩陰があったため、二人はそこに身をひそめて様子をうかがった。
「雌のようだな」
図書館の図鑑によれば、火の鳥の雄は頭に炎があり、雌は尾に炎がある。巣にいるのは見事な炎を尾で燃やす雌だった。このあたりでも力の強い火の鳥なのかもしれない。
体長は大人の人間二人分くらい。つがいの相手や巣立つ前の我が子には優しいが、縄張りに侵入する者には容赦ない。まさにレオニス火山に住まう動物たちの王とも呼べる存在だった。
一見うたた寝をしているかのように、火の鳥は目を閉じたままじっとしている。しかし周囲に意識を集中させているのはまず間違いない。
火の鳥の卵は雌があたためれば雌としてかえり、雄があたためれば雄としてかえる。そのため火の鳥は巣を二つ用意し、卵をわけた雌雄がそれぞれあたためる。二人が持ち帰らなければならないのは雌の巣にある卵だった。
「始める?」
「いや、もう少し待ってみよう。雄が戻ってきてからのほうが安全だ」
火の鳥は雌雄が交互にえさをとりに行く。いつ戻ってくるかわからない雄を警戒しながら雌の下にある卵を奪うよりは、交代して雌が飛んでいってからのほうが楽だろう。
それからしばし、二人は息をひそめて見守った。
やがて頭上高く羽音が響いたかと思うと、頭に立派な炎をおどらせる雄の火の鳥が舞い降りてきた。
雌より一回り大きな体躯の雄は、戻るなりすぐさまえさを雌の巣に運んだ。くちばしで仲良く獲物を食いちぎり腹におさめると、二羽はまるで人間同士の抱擁のごとく体をすり寄せはじめた。
互いの羽の下から尾のほうまで丁寧に毛づくろいしあう姿は見てはいけないもののようで、イオタは視線をうろつかせた。タウも瞳を伏せている。
夫婦なのだから何をしようと勝手だが、相思相愛で幸せですといつまでもむつみあわれてはたまらない。鳥のくせにとイオタがむすっとしていたそのとき、やっと雌が飛び立った。遠く羽ばたいていく雌が見えなくなるまで見送った雄が、自分の巣に入って脚を折る。それから雄はすぐに目を閉じ、首を垂れた。
「よし、やるか」
タウの言葉にイオタはうなずいたものの、二人とも次の行動に移らなかった。無言で顔を見合わせる。
「で、どっちが歌うのよ?」
番をしている火の鳥を眠らせるために、歌を歌うことになっていた。それは動物にのみ催眠効果を発揮する特殊なもので、誘眠歌と呼ばれている。
タウはイオタが歌うものとばかり思っていたらしい。イオタがタウに任せるつもりだったように。
「イオタが歌って俺が卵をとりに行くのが最良だと思うんだが」
「嫌よ。タウなら歌いながら卵をとることくらいできるんじゃない?」
「無理に決まってるだろう」
タウは困りはてた顔をしている。イオタ自身は歌うことが特別苦手なわけではないが、誘眠歌に問題があった。発音が難しいうえ、やたらに長い。早い話が、人間の言葉ではないのだ。
イオタが迷っている間に、タウが歌詞を書いた紙と法術の道具を袋から取り出した。ファイに作ってもらった風袋である。中につまっている風を吸い込んで声を放つと、遠くにいる相手にも届く。これで少し離れた場所から歌うことができるというわけだ。
「できるだけ短時間ですませる」
なかば強引に押しつけられ、イオタは露骨に渋面しながら歌詞の紙と風袋を受け取った。風袋の口を開け、中の風を大きく吸う。そしてイオタは歌いだした。
「スプル スーペルゥウ ラドンマラサ スルーュデコロク ラーテスム スプレ スィウグンア スープロクマ パルタ スゥトッラ ナーリッガ スクーピ スルッガ スーパレエ」
舌がもつれそうだった。必死で歌詞の紙をにらみつけるイオタの隣で火の鳥の様子を観察していたタウが、袋を背負ってゆっくりと歩きはじめた。どうやら火の鳥の眠気を誘うのに成功したらしい。タウをちらりと見やったイオタは続く言葉をつまらせた。
「スーチュッ……トゥテゥッ」
火の鳥のまぶたが開いた。頭の炎がひときわ大きく揺れ動く。イオタは慌てて正しく言いなおした。
「スーテュデリテプア スヌグュキ ナエアュヒ スナア スゥウルケ スクリトス」
爛々とぎらつく両の目が再びまぶたの奥に消えていく。イオタはほっとし、歌詞に集中した。
「ガパコーメルュミ アイーナ ルェフギンラ コッゲ ススルウ スーテルマ」
じわじわと近づいていったタウは巣にたどり着くと、袋から赤く塗った卵を三つ出した。火の鳥に気を配りながら一つずつ巣に入れ、代わりに巣から取った赤い卵を袋にしまっていく。途中で火の鳥が一度低くうなり、タウは腰の剣に手をのばした。
火の鳥のいびきだとわかるまでに少しかかった。タウはほっとした表情で袋をつかんだが、背中を見せて逃げるのは危険だと判断したのか、火の鳥のほうに体を向けたまま静かにあとずさった。
「スィウオ アミーシ スリグィテ ラプカ ルセッパ バンルコ アニーコキ」
あと少しで歌詞の一番が終わってしまう。二番など知らない。イオタは胸元が汗ばむのを感じた。
「ラィウクア ナーラ スリーェフ ルセンーア ラデロウ ルトスカ カーポ」
ある程度離れたところで、ようやくタウが身をひるがえした。できるだけ足音を立てずに駆けてくる。
「ラッリゴ ラトル レーミルド」
最後の言葉が終わると同時に、タウはイオタの待つ岩陰へと走り込んだ。
眼前で泡がはじけたように火の鳥が目を覚ます。火の鳥は周囲に視線をさまよわせ、最後に雌の火の鳥の巣を見るなり一声鳴いた。
「まずい、走れっ」
地を揺るがすほどにとがった叫びを発して翼を広げる火の鳥に、タウがイオタの腕をつかむ。タウに引きずられて転びそうになったイオタは、自分の手を離れた歌詞の紙の向こうから火の鳥がまっすぐ飛んでくるのを目にした。速い低空飛行に悲鳴をあげる。頭をかかえてその場に座り込んだイオタの頭上をかすめた火の鳥は上空で向きを変え、再度狙いを定めてきた。
「森へ急げっ」
タウに背中を押され、イオタはもつれる足でよろよろと駆けだした。
遠くから別の鳴き声が聞こえた。雌が帰ってきたのだ。防戦はタウに任せ、イオタは無心で森を目指した。背後でタウと火の鳥が争う気配がする。森へ入ったイオタがふり返ると、タウと雄の火の鳥の戦いに雌の火の鳥が加わろうとしていた。
「光と熱を司りし炎の神レオニス。我は請う、我に仇なすものどもに灼熱の刃を!!」
イオタの放った炎のかたまりが雄の火の鳥に命中する。同属性のぶつかりあいのため、せいぜいはじき飛ばす程度だが、それでもタウの時間かせぎにはなった。鋭い鉤爪から逃れてイオタのほうへ向かうタウの後ろに、雌の火の鳥の姿が見える。
「タウ!」
その言葉だけで十分だった。タウはさっと身をかがめて雌の攻撃をやり過ごすと、再び走った。
タウが森へ滑り入る。雌雄の火の鳥は生い茂る木々の中までは追撃してこず、一度空へと舞い上がった。
鳴き声からして、おそらく森の上を旋回しているのだろう。剣をしまったタウは袋を下ろして卵を確認した。
「割れたかと思ったが、けっこう頑丈なようだな」
「卵より自分の心配をしなさいよ」
受けたのがくちばしか鉤爪かわからないが、右腕が深くえぐれていた。左腕にも長い切り傷があり血が垂れている。顔も土ぼこりで薄汚れ、せっかくの美丈夫がだいなしだった。
「ミューがいればよかったんだけど。帰ったらすぐ治癒の法をかけてもらうのよ」
近くに川も見当たらないため、イオタは水筒の水で傷口の周りを洗った。右腕の傷は深かったが表面の幅はせまく、薬をたっぷりしみ込ませた布をあてて包帯をしっかり巻くと、血がにじんだ。
「治癒の法に慣れすぎるのもよし悪しだな」
あぐらをかきながら大きく息を吐き出したタウは、イオタに渡された布で顔をふき、汚れの量を見て渋い顔つきになった。
「しかし一目で見抜くとは、たいしたものだ」
よく似た卵を用意したつもりだったが、親鳥はあっさりと看破したのだ。この場においてはあまり喜ばしいことではないが、火の鳥は他の鳥より賢いらしい。
「これからどうするの?」
「道からはずれすぎないようにして森を抜けるしかないな。あの調子ではしつこく追いかけてきそうだ。休憩するか?」
「大丈夫よ。進めるうちに進んだほうがいいわ」
荷を背負って立つイオタが杖をにぎりなおす。この山にいる間は敵はすべて同属性となるため、自分の法術では殺傷するほどの効果はない。本当に自分が来てよかったのだろうかと思うイオタに、タウが微笑んだ。
「イオタのおかげで助かった」
「別に特別すごい術でもないし、あれくらいの援護はできて当然よ」
よくやったと言うなら、むしろあの状況でイオタも卵も自分自身も守ったタウのほうだろう。そう口にできればいいのだが、あいにく自然にほめ言葉が出るほど素直ではない。
タウも袋を背負いなおして立ち上がった。来た道を右手にとらえながらイオタの前を歩く。途中丈の長い草の群れにはばまれて少し迂回したが、ふもとへ向かっているのは間違いなかった。
「道がないのによくわかるわね」
「野営学で習うからな」
足場の悪い岩場を先に下りたタウがイオタに手を差しのべる。
「レオニス火山の通り道を?」
「まさか。教えてもらうのは方角の調べかたや野営に安全な場所の見分けかた、それから……泉があるな」
タウが左手のほうへ視線を投げる。湯気がわき上がっているのがイオタにも見えた。
温泉のようだ。汗まみれのイオタは深黄色の瞳を輝かせたが、提案する前にタウに退けられた。
「残念だが、風呂につかるほどの時間はないぞ」
イオタは抗議したが、どんなにねばってもタウはうんと言わなかったので、渋々あきらめた。本当に融通がきかないというか、女の子の気持ちがわかっていないというか。
タウはきっと無事に帰ることしか頭にないのだ。休憩も体力を取り戻すためにしているのであって、少し寄り道して遊ぼうとか、気晴らしをしようとか、むだなことには目を向けない。確かにゆっくりしている場合ではないが、集団を引っ張る人間ならそういうときこそ何とか調整してほしいのに。
内心で文句を言いながら下りようとしたイオタは、不意に体勢を崩した。支えるタウの手の力が一瞬抜けたのだ。
「ちょっと、気をつけてよ」
「すまない」
岩場から滑るイオタを抱きとめたタウの表情に余裕はなかった。タウの腕に巻かれた包帯がかなり血を吸っていることに、イオタは息をのんだ。
熱気のせいで傷口がなかなか乾かないのだろう。じくじくした痛みがずっと続いているはずなのに、タウは何も言わない。自分にも水の法が使えたらと歯がみしたイオタは、つと寒気を覚えた。
この感じ――ねばついた、それでいて刺すような嫌なまなざしは、少し前に地下水路で経験したものと同じだ。
タウは気づいていないのか。それほど集中力が欠けているのか。イオタは駆け出したいのを我慢して、ゆっくりとタウに近づき、その背中にささやいた。
「タウ、何かいるわ」
ようやくタウの足がとまった。タウも周囲を取り巻く不穏な気配を察したらしい。
「狼だな」
タウが小さく舌打ちする。おそらくタウの血の臭いをかぎつけてきたのだろう。
人間の足で走るには森は不利だ。しかし森を出れば火の鳥に見つかる可能性が高い。
戦うにしても敵は群れで襲ってくる。けがをしているタウの力がどこまで通用するか――イオタの法術も、相手が火の狼では命を奪うまでにはいたらない。それでも今この場で一番いい方法は、イオタが法術を連発することだった。
無事生きのびたとしても、体力を使いはたして明日の冒険には参加できないかもしれない。しかし明日のことより今が大切だ。今生きなければ明日はないのだから。
タウはまだ黙って宙をにらみつけている。きっと同じことを考えているはずだが、口にするのをためらっているように見えた。
「途中で倒れたら、責任をもって連れて帰ってちょうだい」
杖をにぎりしめるイオタに、タウの視線が動いた。その赤い瞳にはなおも迷いがある。
「頼むなら頼む、自分でできるなら自分でする、どっちかはっきりしなさいよ」
イオタがいらいらして詰め寄ると、タウは一瞬目を見開き、それから頬をゆるめた。
「何よ?」
「いや……似たようなことを二年前に言われたのを思い出したんだ」
「それって全然進歩してないってことじゃないの?」
タウは笑った。
「そうだな。じゃあここはイオタに任せる」
「最初からそう言えばいいのよ」
少しずつ距離を縮めてきた狼たちの中から、体格のいい三頭が進み出た。火の狼は頭から背中にかけての毛が燃えている。炎の勢いはさまざまだが、現れた狼が群れの実力者であるのはたしかだ。
相手側もイオタの戦意を感じたのか、腰を低くしてうなり声を発した。今にも飛びかかりそうな狼たちを前に、タウが剣を抜いて構える。
「光と熱を司りし炎の神レオニス。我は請う、我に仇なすものどもに灼熱の刃を!!」
イオタの詠唱を待たずに突進してきた狼をタウが一閃のもとに打ち倒す。それをきっかけに狼たちがそろって牙をむいたが、イオタの法術になぎ払われた。狼たちが後退したすきにイオタとタウは走った。それからは追いつかれるたびにイオタが剣の法を放ち、タウが襲いくる狼を切り捨てた。
追撃してくる狼の数は目に見えて減っていったが、イオタの消耗も激しかった。狼が完全にひかないのは、まだ頭目の狼が残っているからだ。群れの強者どもをぶつけて二人の体力をけずり落とし、勝算が高まったところで出てくるつもりなのか。
少しでも早くふもとにたどり着きたい。胸が破れそうなのを我慢して走っていたイオタは、小石につまずいた。坂道を転がりかけたイオタをタウが支える。どちらの汗の臭いかわからないほど、タウもイオタも服がびしょ濡れだった。
もう限界だと言いたかったが、息が乱れて声が出ない。目の前で木々が回転し、吐き気をもよおす。ずるずるとタウの腕から滑り落ちて大地に座り込んだイオタの視界の端に、ひときわ大型の狼が映った。頭目の登場に空気が張り詰める。燃え盛る炎を風に揺らす頭目の狼は、勝利を確信したさまで悠々と歩いてきた。
タウが剣を一振りし、まだ戦えることを示すと、狼の足がとまった。肩を激しく上下させながらもしっかりと大地を踏みしめるタウがまぶしかった。きっとタウは力つきるまで守ってくれる。卵をかかえて一人逃げたりはしない。それがわかっているから、イオタは最後の気合を入れた。
勝敗に関係なく、これで終わる。イオタはかすれ気味の声をふりしぼって剣の法を唱えた。
イオタの描いた三角形から炎がほとばしり、タウの頭上を越える。頭目の狼も自身の炎を大きく燃やし、炎と炎が衝突した。
轟然たる爆発音が森を震わせる。幾多の小鳥が空へ飛び立ち、散った葉が灰に変わっていく。
イオタはそばの木に背を預けた。呼吸がうまくできなくて頭がぼうっとしている。それでも複数の足音が遠ざかっていくのは聞こえた。
勝った。狼の群れを追い払ったのだ。
「よくがんばった」
目の前にひざまずいたタウの顔がぼやけて見える。差し出された水筒を受け取って水を飲んだが、カラカラに渇いたのどは満たされなかった。
「もう一歩も動けないからね」
「かまわない。約束は守る」
タウは自分の袋から出した冷却布で、汗まみれのイオタの顔を優しくふいた。
「責任をもって連れて帰るよ」
冷えた感触が気持ちいい。イオタはタウの手に自分の手を重ねて布を頬に押し当てると、目を閉じた。