(4)
あざやかな晴天のもと、少し早めに登校したシータはまっさきに学院長室の扉をたたいた。応答と同時に中に飛び込む。机で書類整理をしていた学院長は緑青色の瞳をわずかに細め、おはようと口にした。
「その様子では、何か問題が起きたようだね」
「髪が抜けるんです」
学院長は腰を上げると、シータを長椅子に勧めた。向き合って座り、シータはベストのすそをにぎりしめた。
「詳しく聞こうか」
学院長がやや前かがみの姿勢になり、膝上で指を組む。
「今はえているものはまだ染まっているのに、抜けた髪は黒に戻ってるんです」
頭皮をしびれさせるにぶい痛みはずっと続いていた。昨日は疲れていたこともあって眠気が勝ったが、今は頭の中がざわざわしていて落ち着かなかった。
「時々引っ張られるような気がして、そうすると髪が抜けて……」
魔王に短剣でばっさり切り落とされたので、耳のあたりまでの長さしかない髪を、シータはそっとなでた。
「例の短剣が何か影響をもたらしているのかもしれないね……もう一つ気になることがあるから、今日一日様子を見て、放課後にもう一度来なさい」
回答に納得はいかなかったがどうしようもない。シータは渋々学院長室を出た。
朝一番の授業は初級地理学だった。教室へ入ったシータに、剣専攻生も槍専攻もそろってどよめいた。
「シータ、その髪どうしたんだ?」
パンテールの問いかけにシータはぎくりとしたが、色ではなく長さのことを尋ねられているのだとわかり、半分ほっとしながらパンテールの隣に座った。
「昨日魔物とやりあったときに切られちゃって」
「もったいないな。あそこまでのばすの、けっこう大変じゃないか?」
後ろの席にいた同じ剣専攻生のエイドス・ヴァフィーがなぐさめる。そそがれるたくさんの視線の中にひときわ強いまなざしを感じて見ると、ピュールと目があった。
「唯一の女っぽい部分までなくしたのか。かわいそうになあ」と、ピュールのそばの槍専攻生たちが聞こえるように笑ったが、ピュールは無言ですっと顔をそらした。そこへ本鈴が鳴り、ウォルナット教官が入室してきた。
名簿を片手に出席者を点呼していたウォルナットは、返事をしたシータの姿に驚いたようだったが、ある程度は事情を知っているのか問いただすことなく流した。
そして授業が終わった直後だった。後頭部に鋭い痛みが走ったと思ったとき、エイドスが叫んだ。
「えっ――うわっ!」
エイドスが慌てたさまで後ろに飛びのき、ガタガタと椅子を鳴らす。何事かと皆がふり返った。
「シータ、お前、髪が抜け……」
青ざめたエイドスは床に散った髪からシータへと視線を上げた。
「なんで……黒!?」
ざわっと教室内が揺れた。実物を見に寄ってきた者が次々に後ずさり、シータの周囲から人がいなくなる。パンテールだけが隣で瞠目しながらもとどまっていた。
シータも動揺した。学院長に相談してからは抜けていなかったので、もしかしたら一時的なものだったのかもしれないと少し安心しかけていたのだ。
ウォルナットがそばへ来て、足元の髪を見下ろして眉をひそめた。
「シータ、ちょっと来い。おい、誰かこれを――」
片付けろと命じられる前に、皆がますます遠ざかる。暗黒神に通じる黒い髪を誰もさわりたくないのだ。
シータが自分で拾おうとしたとき、パンテールが手を挙げた。
「僕がやっておきます」
「そうか、すまんな」
パンテールが掃除道具を取りに行く。その間にシータはウォルナットに連れられて教室を出た。
また抜けるのではないかと不安で何度も後ろをかえりみるシータを横目に、ウォルナットが教官室に入る。シータを中へ通すとすぐ扉を閉め、ウォルナットは腕組をした。
「今朝、学院長から少しだけ話を聞いたが、頻繁に抜けるのか?」
「学院に来てからは今のが初めてです」
「頭も痛いそうだな」
シータはこくりとうなずいた。
「明日も続くようなら、かつらか帽子を用意しろ。その……お前のせいじゃないが、やはり色が……問題がある」
先ほどの同期生たちの反応を思い起こし、シータはうつむいた。
「学院長が調べてくださっているから、心配するな。だが午後の合同演習は見学したほうがいいな」
その様子では集中できないだろうと言われ、シータは力なく「はい」と答えた。
「皆がしつこく避けるようなら、俺から説明する」
教官たちは情報を共有しているらしく、ウォルナットもシータが髪を染めているのを知っているのだ。
「お前は何も悪いことをしていない。堂々としておけ」
ウォルナットがシータの肩をたたく。退室をうながされ、シータはとぼとぼと次の教室へ向かった。
教室へ入ったとたん、空気が凍るのを肌で感じた。怯えた目でシータを見る皆に、シータも足が動かなくなる。槍専攻生だけでなく、剣専攻生までもがひそひそ話をしていた。
「シータ、こっち」
穏やかな声が耳に届く。一番奥の後ろの席でパンテールが手招きしていた。一人だけ態度の変わらないパンテールに、シータはためらってからそろそろと近づいた。いつも中央列かつ前のほうの席を取るのに珍しいなと思い、その理由に気づく。シータの髪が落ちてもすぐにわからないよう、パンテールはわざと一番すみの後ろの席を選んだのだ。
びくつく生徒たちにできるだけ寄らないよう歩き、シータはパンテールが用意してくれた席に座った。
「パンテール、あの……」
「あれならとっくに片づけたよ」
何でもないことのように笑うパンテールに「ありがとう」とシータはお礼を言った。そこへ教官が入ってきたので、話はそこまでになった。
どの席でもパンテールはしっかりと授業を聞いている。その横顔を盗み見ながら、シータは痛む頭部を時折押さえてやり過ごした。
二限目が終わるなり、槍専攻生たちはシータと同じ空間にいたくないとばかりにいっせいに教室を出ていった。しかし剣専攻生たちは全員残り、遠巻きにシータを見ていた。
「シータ、もしかして魔物の呪いを受けたのか?」
まず最初にエイドスが尋ねる。シータの髪が黒くなって抜け落ちるのは昨夜の出来事のせいだとみんな考えたらしい。
シータは迷った。ずっと隠してきたことを告げるのは怖かった。まだ魔物のせいだと言ったほうが安心するかもしれない。
それでもいつかきっとばれるときがくる。シータは一度唇をかんでからかぶりを振った。
「違うの……髪が抜けるのは魔王の短剣で切られたからかもしれないけど、私の髪はもともと黒いの」
剣専攻生たちがどよめく。互いを見合い、恐怖と嫌悪のまざりあった視線を突きつけてくる彼らの中で、パンテールが口を開いた。
「髪を染めてたんだろう? シータはネーロ王国人の血をひいているから」
責める口調ではなかった。パンテールは床に落ちていたシータの髪を拾った。
「僕の父親は貿易商人だから、小さい頃はよくいろんな国に連れていってもらったんだ。ネーロ王国ともつきあいがあるから、向こうの人たちのことは知ってる。あちらでは黒髪黒目が普通なんだ。でも、国をあげて暗黒神を崇拝しているわけじゃない。ネーロ王国では別の宗教が信仰されていて、暗黒神のことなんか全然知らないんだよ」
「そうなのか?」
エイドスたちが目をみはる。
「僕たちがネーロ王国に行けば、むしろ僕たちの見た目のほうが奇異に映るはずだよ。でもこの国では黒は嫌がられる。だから、シータからお母さんのことを聞いたとき、もしかしたらシータは髪を染めてるのかもって思ってたんだ」
さすがにいきなり髪がごそっと抜けているのを見たときはびっくりしたけどな、とパンテールが苦笑する。
「だいいち、こんなに活発で明るいシータが暗黒神とつながっているはずがない。彼らはできるだけ目立たないよう、普段は周囲に溶け込んで生活しているんだから」
「……まあ、確かにな。授業初日から派手に喧嘩なんかしないよな。しかもピュールを相手に」
エイドスの言葉に、「それは暗黒神の信者じゃなくてもしないんじゃない?」と別の生徒が突っ込み、笑いが起きた。
場の雰囲気が変わるのをシータは感じた。染み込んでいた偏見はすぐにはぬぐえないのだろうが、少なくとも敬遠するのはやめる努力をしようという動きが伝わってきて、シータは我慢できずにぽろりと涙をこぼした。
「おい、シータ……」
「なにを泣いてるんだよ」
エイドスたちがとまどい顔になる。
「だって、絶対に避けられるって思ってたから」
手の甲で目元をこすって鼻をすするシータに、剣専攻生たちは視線をかわしあった。
「そりゃあ、全然気持ち悪くないって言ったら嘘になるけどさ」
「正直、本当に受け入れるにはまだ時間がかかりそうだし…でも、お前の髪の色は怖いけど、お前のことが怖いわけじゃないから」
「そうか? 俺はシータを怒らせたら、ある意味ウォルナット先生より怖いと思うぞ」
こいつ容赦ないからなあと一人がぼやき、また笑い声が広がる。
「パンテールの説明を聞いたら、気にするほうが間違ってるってことだもんな」
シータはパンテールを見た。パンテールが微笑む。
「うん……ありがとう」
パンテールが一番の友達でよかった。剣専攻に所属してよかった。シータは心からそう思った。
午後の合同演習で、シータはウォルナットに言われたとおり見学した。本当は剣を振りたかったが、やはりじわじわと頭部からにじみ出るような痛みが消えなかったのだ。この状態で戦えば、集中できずにへたをしたら大けがをしてしまう。
上級生と下級生が入り乱れて訓練するのをうらやみながら眺めていたシータのもとに、一足早く休憩に入ったタウがやってきた。
「どこか具合が悪いのか?」
タウたちはまだ事情を知らない。今日の放課後に闘技場で詳しい話をすることになっていたのだ。
「昨日の件で、ちょっと問題が発生しちゃて」
口ごもるシータに、タウも何か感じ取ったらしい。「何があった?」と真顔で尋ねられ、タウにだけは先に伝えておいたほうがいいかもしれないと、シータが「あのね」と言いかけたところで、バトスも寄ってきた。
「お前が見学なんて珍しいな。もしかしてあれか、ついにお前も『女の子の日』が来……」
相手が上級生ということを無視して、シータはバトスの腹に膝蹴りを食らわせた。ぐはっとうめいてバトスが前かがみになる。
「今のはお前が悪い」とタウがバトスに向かってため息をついた。
「まったく……いい蹴りを放つじゃないか。ところで、いったいどうしたんだその髪は?」
よほど衝撃が大きかったのか、まだ顔をしかめて腹を押さえたままバトスが問う。
「昨日、魔王に切られたの」
「ああ、プレシオとオルニスもさらわれたって言ってたな。ピュールの身代わりになるなんてすごい奴だって二人とも感心してたぞ」
「だって、ピュールが急にもとに戻りはじめたんだもの。実は男だってあそこでばれると危ないって思ったから」
「かなり美人だったそうだな。俺も見てみたかったな」とバトスがにやりとする。
「ピュールと仲が悪いのにかばうなんて偉いじゃないか。いつもの馬のしっぽ頭もいいが、短いのも似合ってるぞ」
かわいいかわいいとほめながら、わしゃわしゃとシータの髪をなでまわしたバトスの手が不意にとまった。
「――なっ……」
つかんだ黒い髪の毛の束を放り投げて叫び声をあげかけたバトスの口を、タウが目をみはりつつ乱暴に手で覆う。そのすきにシータは床に舞い落ちた髪を慌てて拾ったが、同期生たちがざっと横一列に並んで二、三回生からシータを隠した。
「何だよ、何かあったのか?」
一回生の壁の向こうから上級生が声をかけてくる。タウに引き倒されて座り込んでいるバトスの鳩羽色の双眸が、信じられないとばかりにシータを凝視している中、シータが髪を片付けるのを確認したエイドスが皆に合図を送り、壁が解かれた。
「何でもない。バトスがシータをからかって、反撃を食らってひっくり返っただけだ」
タウが三回生に答える。
「醜態をさらされないようかばってくれたのか。一回生は優しいな」
「バトス、いいかげんちょっかいはやめておけよ」
「そうそう、そいつはタウに鍛えられて、最近ますます強くなってきてるんだから」
三回生たちが笑って散っていく。漂っていた緊張感が緩和され、タウとシータはほっと息をついた。
ごまかしてくれた同期生に頭を下げて笑いかけると、パンテールたちも微笑を返して離れていった。
「みんなに知られたのか」
小声で確認してくるタウにシータはうなずいた。
「うん。一限目に今みたいに髪が抜けて……最初はすごく引かれたけど、パンテールがとりなしてくれたの」
「そうか……いい仲間をもったな」
タウが瞳をやわらげる。そのとき、もごもごとバトスが何か言った。
「大声を出すなよ」とタウが注意して手を放す。
「お前な、鼻までふさぐなよ。あやうく死ぬところだったぞ」とバトスがタウをひとにらみし、おそるおそるといった様子でシータを見やった。
「シータ、お前、髪染めてたのか? っていうか、なんでこんなに大量に抜けるんだよ」
「今はえているのはまだちゃんと染まってるみたいなんだけど、抜けた髪はなぜかもとの色に戻るの」
ずっと頭皮がひりひりしていることもシータが話すと、タウがけわしい容相になった。
「魔王の短剣で切られたのが影響しているのか」
「たぶん……とりあえず今日一日様子を見て、放課後にもう一度学院長室に行くことになってるの」
しかし答えが出るかどうかわからなかった。
「わかった。俺も付き添おう。みんなには先に闘技場で待っておくように伝える。状況がはっきりするまでバトスもしゃべるなよ」
「おう」
バトスもいつになくまじめな顔つきで了承した。そのまなざしにまだ警戒の色がちらついていたので、「黙っててごめん。お母さんが黒髪黒目だったの」とシータがあやまると、ようやくぎこちないながらもバトスは苦笑した。
「いや、俺も悪かったよ。ちょっと……あまりにもびっくりしたからな」
「タウたちは、シータの髪の色を知ってて仲間に加えたんだな?」と確認したバトスは、「それなら信用できる」と言った。
「あれだけ長い間、新しい仲間を増やさなかったこいつらが、おかしな奴を入れるわけないからな」
「それはお前のところも同じだろう」とタウも口角を上げる。聞けばバトスの集団にも今年一回生が一人加入し、七人になったのだという。
「ニトル・ロードン。風の法専攻生でロードン先生の孫だ。もちろん優秀だぞ」
バトスが得意げにふんぞり返る。風の法専攻生ならファイとも顔見知りに違いない。しかも他より上達が遅いと言われている風の法を専攻しているのに一回生から冒険集団に入れるということは、即戦力になるほど実力があるということだ。どんな生徒だろうとシータは想像をふくらませた。
放課後、シータはタウと連れ立って学院長室に行った。
部屋にはヘリオトロープ学院長と風の法担当のコーラル・ロードン教官がいた。入室したシータとタウを長椅子に勧め、二人の先生もシータたちの正面に座した。
「待たせたね。まずは今日どんな様子だったか聞かせてもらおうか」
シータは一限目からの出来事と自分の状態について、できるだけ詳しく報告した。その間、学院長もロードン教官もじっとシータを見つめていた。
「原因はわかったんでしょうか?」
タウの質問に、学院長はロードンと視線をかわしあった。
「断言できるわけではないが、それでもいいかね?」
「教えてください」
推測でも何でもいい。情報がほしい。祈るような気持ちで頼むシータに、学院長はうなずいた。
「君はたしか例の短剣で髪を切られたと言ったね。そのときひどい痛みが生じ、今も頭皮がうずいていると……実は昨日から気になっていたんだが、君の体におびただしい数の少女の魂が入り込んでいるんだ」
シータは目をみはった。
「おそらく魔王の犠牲になった少女たちだろう。一時的に君にまとわりついているのかと昨日は考えたんだが、どうやらそういうわけではないようだ」
「あの短剣には九百九十九人の娘の思いが込められていたそうじゃの。娘たちがお前さんにとりつく機会があったとすれば、おそらくそのときじゃろう。しかもその娘たちが、お前さんの髪を引き抜こうと悪さをしておる。頭が痛いのも、時々髪がまとめて抜けるのもそのせいじゃ」
彼女たちからは激しい怒りが感じられるという。あと一人で成就するはずだったのを、意図的ではないとはいえ邪魔したシータを恨んでいるのだ。
「追い払えないんですか?」
「通常の状態ならば可能だが、君の場合はかなり難しい。まず第一に、少女たちの魂を包み込んでいる膜のようなものがあるんだ。昨日の段階では、まだ少女たちは君の体を自由に出入りし駆けめぐっていたんだが、今は完全に膜に封じ込められている。それからもう一つ、あまりにも数が多すぎるという問題がある」
「魂の浄化は通常、一度に五人分くらいが限度での。浄化するために膜を破れば、五人は浄化できても、残りの娘たちの魂がお前さんをとり殺してしまうじゃろう」
なにせ九百九十九人もいるからのう、とロードンがうなる。
つまり、膜が少女たちの魂からシータを守っている反面、順番に浄化していくことも不可能にしているということか。
「膜ごと取り除くことはできないんですか?」
タウの質問に、学院長はかぶりを振った。
「膨大な数の魂を抑え込んでいるせいか、膜自体がかなり薄い。だから時折ほころびかけたところから君の髪を引き抜く手がのびるんだろう。その都度どうにか修復しているようだが、もし無理に動かせば、すぐに破れて大変なことになる」
「そんな……じゃあ、一生このままなんですか?」
呆然とするシータを、学院長は哀れみと緊張の色がからみあったまなざしでとらえた。
「いや。むしろ時の経過とともに膜はいずれ弱くなり、どちらにしても壊れてしまうだろうから、それまでに解決策を見つける必要がある」
「もし、方法がなければ……?」
学院長もロードンも、その問いには答えなかった。
シータは生唾をのみこんだ。解決策を見いだすことができなければ、自分は死んでしまうのだろうか。
魔王の城で感じた激しい痛みと苦しさがよみがえり、背筋が寒くなる。
あれは、少女たちがいっせいに自分の髪を引っ張っていたからだったのだ。失敗したのはシータが髪の色を偽っていたから。しかし、なぜ魔王の消滅とともに少女たちは天へ昇らなかったのか。
「似たような例はあるが、まったく同じというものはない。だが解けない呪いはないと私は思っている。少し時間はかかるかもしれないが、必ず見つけると約束しよう」
真摯で力強い言葉だった。もとは学院側から与えられた任務が原因とはいえ、学院長が心から案じてくれているのがシータにも伝わった。
だが正直、たまらなく怖かった。自分の命は今、いつ破れるかわからない薄い膜一つにかかっているのだ。膜が失われればそれで終わりだ――。
「シータ」
鼓動が異常な速さで鳴り響く中、肩を軽く揺さぶられてシータははっとした。隣のタウが心配そうな顔でのぞき込んでいる。
シータは唇をかんだ。いつまでも嘆いているわけにはいかない。学院長だけに任せず、自分も方法を探さなければ。不安に押しつぶされそうだった気持ちを強引に奮い立たせ、シータはタウとともに退出した。
その足で闘技場へおもむいた二人は、控え室で待っていた皆に報告した。円卓を囲んで話を聞いた五人はしばし無言になったが、やがてイオタが口を開いた。
「奇跡のパンしかないわね」
「まあ、それが一番だろうな」
ラムダに続き、他の者たちも次々に同意する。タウもうなずいた。
「俺も同じ考えだ。計画していた冒険でもあるし。ただ最初の予定ではみんなそろって行くことにしていたが、状況が状況だけに少しでも早いほうがいいと思う。危険だが、手分けをして材料を集めよう」
幸いにも翌週のはじめは建国記念日のため、休みは三日間ある。話し合いの結果、レオニス火山にはタウとイオタが、エルライ湖にはラムダとミューが、サルムの森にはローとファイが行くことにし、一番遠いカーフの谷だけは七人で向かうことになった。シータはカーフの谷以外の冒険にも参加したいと訴えたが、タウに反対された。今は頭痛のせいで武器も満足に振るえないし、無理をしないほうがいいと。
「まあ、そうだな。それに、膜がどういう状況で破れるかわからないし」
同意するラムダに、「そのことなら問題なさそうよ」とイオタが言った。
「確かに薄いけれど、二、三日で破れるほどやわなものじゃないわ」
「そうね。何だか強い意志のようなものも感じるし」
続くミューの言葉にラムダは首をかしげた。
「膜が生きているとでもいうのか?」
「魂というか、念のようなものだから、厳密にはこの世に実体をもって『生きている』というわけではないけれど。でも必死に他の魂を抑えようとしている……きっとぎりぎりまでシータを守ってくれるはずよ」
イオタやミューと同じようにシータを見つめていたファイも、二人の意見を否定しなかった。神法学科生三人が大丈夫だと言うなら大丈夫なのだろうと、タウもラムダもローもほっとした表情になった。
「学院長には明日、俺から報告しておこう」
シータはカーフの谷に行く日まで安静にしておくようタウに念をおされたが、あいまいにうなずくだけにとどめた。
本当に、自分は何もせずにじっとしていていいのだろうか。このままみんなに頼るだけでいいのか。くすぶる疑問がぬぐいきれないまま、シータはみんなと別れた。
翌日、シータは髪が落ちないよう布でくるんだうえで、普段と同じ濃紺色に染めたかつらをかぶって登校した。できるだけ目立たないように過ごしたかったが、周囲から突き刺さる好意的でない幾多の視線や、あからさまにシータから逃げる生徒が少なからずいたことで、自分の髪のことが知られたのだと察した。
その情報源はすぐにわかった。槍専攻一回生たちだった。彼らは、魔王の呪いを受けたシータの髪が黒くなったと噂を広めたのだ。
それは事実ではなかったけれど、もともと黒いのだと言ってまわっても皆の態度は変わらないだろうから、黙っておくことにした。むしろ黒色が本当の色だと正直に話すほうが嫌悪感を増幅させてしまうかもしれないと。
あのときつい体が動いてしまったけれど、やはりピュールをかばったのは間違いだったかもしれない。感謝されたかったわけではないものの、この仕打ちはあんまりだとシータは悔しくなった。
午後最初の授業は騎士道学だったが、シータたち剣専攻生一回生と槍専攻一回生は大会堂に集合し、合同野外研修についての説明を受けた。武闘学科は年に数回、野外研修を実施している。今回は二専攻合同、一回生のみの参加で、各専攻二人ずつの四人一組で構成されるという。組はくじ引きである。
研修日に状態がよくなっているかどうかわからないので、不参加としたほうがよいのではとシータはウォルナット教官に相談したが、一応組分けをしておいて、当日もまだ解決していなければ欠席すればいいと言われ、気が進まないままくじを引いた。そして、やはりやめておけばよかったと後悔した。
「シータ、同じ組だな」
組み分けがすべて決まった後、肩をたたいてきたパンテールに笑顔を返してから、ため息をつく。相棒の剣専攻生は幸運にもパンテールだったのだが、槍専攻生の一人は不運にもピュールだったのだ。
近くで同じように掲示板を見つめていたピュールと目があう。何か嫌味の一つでも言ってくるのではと警戒したシータの態度が気に障ったらしい。ピュールが口を開きかけたとき、シータの背後に忍び寄った槍専攻生の一人がシータのかつらをむしり取った。
「うわっ!」
くるんでいた布と一緒にバサッと床に落ちる黒髪に、周りにいた生徒たちが飛びすさる。かつらを奪った槍専攻生も蒼白していた。
ずっと布とかつらで抑えていたぶん、たまっていた黒髪の量は半端なかった。半分くらい抜けたのではないかと、シータも思わず髪をさわって確認した。
やはり頭皮の一部がむき出しになっている。抜けすぎてはげてきているのだ。
「こいつ、本当に暗黒神の手先――」
目を恐怖に見開き、かつらをにぎりしめたままつぶやいた槍専攻生から、ピュールがかつらを取り上げた。
「くだらないことをするな」
ピュールは槍専攻生を叱りつけ、シータにかつらを放り投げた。お礼を言いかけたシータをピュールはにらんだ。
「お前、演習を見学してるんだってな。まともに武器を振るえないなら合同研修には参加するなよ。迷惑だ」
「なっ……」
「お前を見てるといらいらするんだ。俺の視界に入るな」
シータは目を見開いた。冷たく突きつけられた拒絶の言葉に立ちつくす。
「おい、ピュール。いくら何でも言いすぎじゃないのか」
エイドスたちがシータの加勢にやってくる。エイドスがピュールの胸ぐらをつかむより早く、シータはピュールの頬を平手打ちした。
「心配しなくても、そのつもりだから」
シータはピュールを殴った手をにぎりしめた。
「あんたなんか――大嫌い!」
こぼれ落ちそうになった涙を隠そうと背を向けて走りかけたシータは、急激に襲ってきた頭の痛みに悲鳴をあげた。
「シータ!?」
こらえきれずにその場に倒れ込んだシータにパンテールたちが駆け寄る。
痛い。今ある髪を無数の手が根こそぎ引っ張ろうとしているのを肌で感じ、シータは転がりわめいた。
「先生! ウォルナット先生!」
パンテールが教官を呼んでいる。その声がだんだん遠くぼやけていく。
かつらが手から滑り落ちる。同時にシータも意識を失った。