(3)
気づくと室内は少し暗くなってきていた。教官室で机に向かっていたシャモアは、眉間を指で軽くもんで長く息を吐き出した。目を通していた神法歴史学の論文をきれいに積み重ねてから腰を浮かす。独り暮らしなので食事の時間を気にする必要はないが、今日は少し集中しすぎたようだ。今から作るのもおっくうだし、帰りに姉の家に寄ろうかと考えながら部屋を出たシャモアは、扉の前でにらみあっているウォルナット教官とヒドリー教官に目をみはった。
背丈ではウォルナット教官のほうがはるかに勝っているが、目つきの鋭さではヒドリー教官も負けてはいない。人の部屋の前でいったい何をしているのかといぶかしむシャモアに、二人がはっとしたようにふり返った。
「これはシャモア先生っ」
「お待ちしておりました」
押し合いながら正面に立とうとして、さらに言い争いを始める二人に、シャモアは首をかしげた。
「ご用があるなら、お入りになってくださればよろしかったのに」
「いえ、用というほどのことでは……」
「用がないのなら、さっさと帰ってはどうだ」
「何だと」
互いの胸ぐらをつかむ二人に、「まあまあ」とシャモアは割って入った。
「それで、どうかなさったのですか?」
シャモアの笑みに一瞬黙り込んだ二人は顔を見合わせ、それから同時に頭を下げた。
「お宅まで送らせてください」
申し出の意図がわからず、シャモアは緑色の瞳をしばたたいた。
「あの、それはいったいどういう……」
「シャモア先生を魔物からお守りするためです」
真顔できっぱりと答えるウォルナットに、シャモアはようやく事情を察した。
「例の誘拐事件のことですか。ご心配なさらずとも、私をさらうような奇特な魔物はおりません。狙われているのは少女ばかりではありませんか」
三十も半ばになる自分がかどわかされるなどあり得ないと笑うシャモアに、二人は「だめですっ」と詰め寄った。
「今までは偶然そうだったかもしれません。ですが、シャモア先生が連れ去られない保証はどこにもないんですよっ」
「とにかく、事態が収束するまで、毎日護衛させていただきます」
二人の決心はかたいようだ。姉やファイと一緒に夕食をとりたかったが、シャモアはあきらめた。これはへたに寄り道をするより、まっすぐ帰ったほうがよさそうだ。
「わかりました。ではお言葉に甘えて……」
お願いしますと言いかけたところで、廊下を走る複数の足音が聞こえてきた。ふり返ると、タウたちが学院長室の扉をたたいている。その中にファイの姿も見つけ、シャモアは眉をひそめた。
応答があったのか、タウたちは学院長室に入っていく。一人たりないことに気づき、さらにその理由に思い当たり、シャモアは歩きだした。二人の教官が慌てたさまでついてきたが、待たずに学院長室へ向かう。
脳裏に浮かんだのはシータ・ガゼル。自分の記憶が正しければ、彼女は緑の瞳をもつ武闘学科生だったはずだと――。
ゆがんだ空間を越えると、まったく違う景色が広がっていた。暗闇に浮いているのは大きな城一つだけで、世界全体がひんやりとしている。
息苦しいのは魔物の飛行速度のせいかと思ったが、どうやら理由はそれだけではないらしい。空気がかぎりなく薄いのだ。シータは呼吸困難で思考がぼんやりしながらも、城のつくりだけは何とか記憶しようとした。
堅固な灰色の防壁には頂部にそって歩廊が続いている。要所要所に三角屋根の物見やぐらがあり、さまざまな異形の者たちがひしめきあっていた。庭には養魚池らしきものや果樹園、井戸もあり、人間の城とほとんど変わらない。
そのまま練兵場まで運ばれたシータは、地面に足がつくなり倒れ込んだ。長く宙づりにされていたせいで体が疲れきっていたのだ。見るとピュールもぐったりしている。一方、羽をしまった魔物はシータとピュールの腕をつかむと、乱暴に城内へ引っ張っていった。二人がすり傷だらけになろうが、あちこちにあざができようが、おかまいなしだ。
てっきり地下牢へ連れていかれると思っていたが、予想に反して魔物は城の階段を上へ上へとのぼった。そして最上階に近いだろうあたりの一室の扉を開けると、二人を中へ入れた。
かなり広い部屋は大きな牢にもなっていた。はめ込まれた鉄格子が室内を二分しており、さらにその鉄格子には壁からはえている太い蔓草がからみついている。蔓草は生きているらしく、魔物が牢の入り口を開けている間にシータとピュールへと触手をのばし、剣と槍をからめ取った。見ると他に槍が二本、蔓に縛られている。
二人を牢内へ突き飛ばした魔物は再び鉄の戸を閉め、そのまま部屋を出ていった。
容赦なく引きずられたせいで体中が痛い。どうにか起き上がったシータは、まず倒れたままのピュールに声をかけた。
「ピュール、大丈夫?」
「……あんまりいいとは言えないな」
返事にいつものようなふてぶてしさがない。女性化したときは体力も腕力も一時的に落ちると学院長は言っていたから、ここへ連れてこられるだけでかなり負担がかかったのかもしれない。
シータは奥でかたまって寄りそいあっている五人の少女たちを見た。予想より人数は少なかったが、ここへ連れ込まれて何日くらいたっているのか、五人とも希望をなくした顔つきで緑の瞳をにごらせている。と、五人とは別に武闘学科の生徒二人が壁際に立っていることに気づいた。卵色の髪に若葉色の瞳の二人の少女は、そっくりな顔だちをしている。
「僕はプレシオ・デオン。槍専攻二回生だ」
「オルニス・デオン。同じく槍専攻二回生だ」
シータの視線を受けて二人が握手を求めてきた。近くで見ても二人はよく似ていたが、笑うとプレシオは穏やかな雰囲気で、オルニスのほうは活発な感じだった。たしか黄玉の投票で五位と六位に入っていた二人だ。
「剣専攻一回生、シータ・ガゼルです」
相手が槍専攻生なので、やや緊張ぎみにシータが握手をすると、二人が目をみはった。
「もしかしてタウの集団に入った一回生かい?」
どうして知っているのだろう。プレシオの質問にシータがうなずくと、二人は互いを見合った。
「俺たちはバトスの集団に所属しているんだ。お前のことはバトスから聞いた。入学初日にあのファイ・キュグニーに頭突きを食らわせて気絶させたって?」
オルニスがにやりと笑う。バトスはそんなことまで仲間に話していたのか。よろめくシータに苦笑したプレシオは、あたりを見回した。
「とりあえず、今のところおとりとして成功したのはこの四人だけのようだね」
四人捕まれば上出来だと考えるべきなのか。プレシオもオルニスもけっこう美人だった。魔物といえど、その美意識は人間と大差ないのかもしれない。
「君たちが捕まったのも帰宅途中?」
「うん。中央広場のあたりでいきなり襲われたの」
「みんな同じ時間に学院を出たとして……今日はもう、犠牲者が増えることはなさそうだね。ところで、そこでのびているのはもしかしてピュールかい?」
プレシオがシータの隣に視線を投げた。同じ槍専攻生に顔を見られたくないのか、ピュールは寝転がったままでいる。
どれどれ、とオルニスがかがんでピュールの顔をのぞき込もうとし、それをピュールがはねのけた。
「やめろっ」
「上級生の言うことには素直に従ったほうがいいぞ」
ピュールは腕を交差して顔を隠していたが、結局もみあったすえに二人に見られた。
「へええ、これはまたうまく化けたな」
「ゲミノールムの黄玉の投票があと少し遅かったら、おもしろいことになってたかもね」
ピュールが屈辱を感じるとわかって言っているようだ。オルニスはもちろん、プレシオもなかなかいい性格をしているらしい。
案の定ピュールは歯ぎしりして二人をねめつけてから、その怒りをシータに向けた。
「お前も一緒にさらわれてよかったな。唯一本物の女なのに俺だけ連れ去られたら、お前の立場がないもんな」
むかついたので足を蹴飛ばしてやったら、ピュールがうめいて体を丸めた。いつもならよけそうなのに、よほど弱っているらしい。
バトスがアレクトールと仲がいいとは思えないし、オルニスとプレシオの態度からしても、ピュールは二人と友好的な関係を築いていないのだろう。一人ふてくされた顔ですみに座るピュールを放置し、シータたち三人は車座になった。
「とにかく、これからどうするか決めないとな」
「そうだね。武器は取り上げられてしまったし」
プレシオが鉄格子に巻きついている蔓草を見やる。四人の武器は少し手をのばした程度では届かないほど高い位置にあった。
「あの蔓草、意思をもっているのかな」
「人と武器には反応するみたいだぞ」
オルニスの返事にシータはうなった。逃げようとすればすぐあの蔓草に捕まるというわけか。
牢内にある唯一の窓にも鉄格子がはめられている。そこには見張りの蔓草はないが、ここまでの道のりを考えれば、部屋がかなり上の階にあるのは間違いない。普通の少女なら脱走をはかるようなことはしないだろう。だがシータたちは普通の少女ではない。この城にあとどれだけ囚われているのかわからないが、せめて今ここにいる少女たちだけでも何とかして救出したいところだ。
遅くても夜中には三人は元の姿に戻るだろう。行動するならそのときだ。
「蔓草を燃やせないかな?」
シータの提案にオルニスがかぶりを振った。
「いい考えだが、火なんてないぞ。魔物がくれるとも思えないし」
シータは少女たちに目を向けたが、炎の法専攻生らしき者はいなかった。他に何か良案はないかと相談していたところで、扉が開かれた。深緑の衣装をまとった魔物の登場に、シータたちはそろって息をのんだ。
床まで届く長い豊かな髪は深い緑、切れ長の瞳も緑、皮膚も緑、背にはえる大きな翼も緑。全身を緑に染めながら、整った顔だちのせいか気味悪くはなかった。むしろその憂い顔に強くひきつけられた。
静まり返った室内に魔物の靴音が優雅に響く。
「我はゼーロス。緑の魔王ゼーロス」
頭の中にこびりつくような低い声が空気を震わせる。
「我を永劫の闇から解き放つ者……我に安らぎを与える者はいずこ」
魔王の問いかけに、しかし誰も名乗りでなかった。奥で少女たちが縮こまってうつむく中、ゆっくりと流れていた緑の魔王の視線がピュールでとまった。
ピュールがはっと肩を揺らす。魔王の指先がすっとピュールに向けられた。
「その娘を」
指示を受け、下僕の魔物二匹が牢に入ってくる。ピュールははじめ怯えをわずかにのぞかせたものの、きゅっと唇を結ぶと自分から立ち上がった。さんざん文句を言っていたが、いざとなると務めを果たす覚悟をきちんともてるのだ。
プレシオとオルニスも見守る中、ピュールはシータとも視線をあわせることなく牢の入口へ歩んでいく。しかしあと少しのところで不意にびくりとこわばると、胸を押さえて前のめりに倒れた。
まさか、薬の効果が切れたのか。個人差があるということだったが、今ここでもとの姿に戻るのは非常にまずい。
苦しみもだえるピュールの胸が徐々にしぼんできているのを見て、プレシオとオルニスも腰を浮かす。魔王がいぶかしげに眉をひそめたとき、シータはピュールを背にかばう形で飛び出した。
「私が行くわ。この人、具合が悪そうだもの」
魔王のまなざしを正面から受けとめる。ややあって、魔王の唇がゆるやかな弧を描いた。
「勇気ある美しい娘。よかろう。今宵にふさわしいのはそなただ」
「シータ……」
心配そうに小声で呼びかけてきたプレシオに、シータはにこりと笑い、自分の腕をポンとたたいた。自分なら途中で性別が変わることはないし、薬を飲んで本来の力を発揮できない三人と違って素手でも戦えるとしぐさで伝えたシータに、プレシオがうなずく。
自ら牢を出たシータの背後で再び戸に鍵がかかる。濃い緑の瞳に顔をのぞき込まれ、さすがにシータも緊張にこわばった。
「恐れることはない。そなたの力を借りたいだけだ」
緑の爪をのばした指でシータの頬をそっとなでた魔王がきびすを返す。先に部屋を出る魔王に続き、シータは両側を魔物にはさまれて連れていかれた。
「おい、大丈夫か?」
冷たい石床の上でこぶしをにぎりしめて痛みに耐えるピュールに、オルニスが近寄る。荒い呼吸を繰り返していたピュールがやがて大きく息を吐きだした。
起き上がったピュールは、すっかり女性化が解けた体を眺めてから鉄格子の戸を蹴った。
「くそっ……あの馬鹿、なんで――」
そのとき、窓外で羽音がした。乱れる羽ばたきと何かを裂く気配が伝わったのち、一羽の鳥が羽を数枚散らせながら窓辺に降り立つ。
半透明に近い鳥に、三人は顔を見合わせた。
魔王の寝所に押し込まれたシータは、ほの暗さに目をしばたたいた。部屋は先ほどまでいた牢よりずっと広いが、燭台は三つだけが灯りをともしている。
つと視界に飛び込んできた大きな天蓋つきの寝台に動揺する。思わず魔王を見上げたシータは、短剣をとぐことを命じられた。ひとまずほっとし、シータはおとなしく短剣をとぎ石にあてた。
だがまだ完全に安心はできない。短剣をとがせて、いったい何に使うつもりなのか。
武器を持たせれば自身に危険が及ぶかもしれないというのに、魔王はまったく警戒しているそぶりがない。ただそばの椅子に座り、シータが短剣をとぐのを眺めるばかりだ。それがかえって気味悪く映り、シータはまた心配になってきた。
「そなたで千人目だ。ようやく我は死ぬことができる」
不意に届いた告白にシータは手をとめた。立ち上がり窓辺に寄る魔王を目で追う。
「もう何百年も前の話になる。聞くか?」
魔王が肩ごしにシータを見やる。シータがうなずくと魔王は再び窓へと向いた。
「遠い昔のことだ。我はまだたいした力を持たない魔物であった。あの娘に出会うまでは……」
翼ある魔物として名もなき小山に生まれたゼーロスは、人間の住む地には行かず、山に咲き匂う花々の生気を吸って生きていた。自らの翼で風を起こし、舞い上がる散花の中で一人戯れるだけで満足していた。
そんなある日、ゼーロスは初めて精霊の誕生する場に遭遇した。
朝露をたっぷり含んだ大きな花のつぼみが開き、あどけない少女はゼーロスの目の前に現れた。純白に輝くその花はゼーロスの生まれた小山を守護する精霊の宿体だったのだ。
つややかな緑の髪に澄んだ緑の瞳をもつ少女は、ゼーロスを魅了した。しびれたように動けなくなったゼーロスに、少女は兄様と呼んで可憐に微笑んだ。ゼーロスもまたそれに応え、二人はそれからの時間をともに過ごすようになった。
しかし少女といればいるほど、ゼーロスは己の醜い姿を嘆かずにいられなかった。年々美しく成長していく少女が自分を慕うことが、誇りであると同時に苦痛だった。長い間、ゼーロスは悩んだ。
少女は外の世界を知らなかった。やがて小山を統べるにふさわしい年になり、少女は今まで一度も離れたことのない宿体から飛んだ。軽やかに風に乗り、少女は鳥や花々と語り合った。
ゼーロスはすでに限界にきていた。置いていかれるあせり、少女の美しさへの嫉妬、いとおしさ、さまざまな感情がうねりをあげてからみあい、ゼーロスの心をおかした。
少女と一つになりたい。ずっと一緒にいたい。抑えきれなくなった想いはついにゼーロスを動かした。
ゼーロスは少女を食った。
変化はまもなく起きた。全身灰色だったゼーロスの皮膚は緑に変わり、緑の髪がはえた。灰色の瞳も翼も、すべてが緑になった。
だが、隣に少女はいない。ゼーロスは町へ下り、少女によく似た娘をさらった。しばらくはそれで幸せだった。しかし緑の瞳の少女は、ゼーロスに激しい食欲をよみがえらせた。
結局、その少女をもゼーロスは食った。それからは連れてきては食い、連れてきては食い、の繰り返しだった。少女たちを食えば食うほどゼーロスの容貌は輝いていき、まとう緑の色も濃くなっていった。そうして魔力を蓄えたゼーロスは翼ある魔物の王として認められた。
しかしゼーロスは、いつしか疲れを感じるようになった。食った少女たちの心の叫びが頭の中をかけめぐり、眠りをさまたげるのだ。食われたことを恨む者、自分が精霊の代わりでしかなかったことに傷つき責める者、さまざまだった。
もともと権力に執着する気持ちはなかった。安らかな死を願ったゼーロスは、夢で精霊と再会した。嘘偽りのない千人の緑の瞳の少女にといでもらった短剣で胸を貫けば望みはかなうと、愛する少女は教えてくれた。それからゼーロスは配下の魔物に緑の瞳の少女をさらわせ、城の一か所に集めて監禁した。毎夜選んだ少女に剣をとがせ、千日目に訪れるはずの穏やかな死を待ち続けた。
「今宵が千日目……この日を幾度夢見たことか」
魔王がゆっくりと歩み寄ってくる。やっと楽になれることへの期待に輝く魔王の表情に、シータは痛ましさを覚えた。
少女たちを食ったことは決して許されることではない。だがそれも精霊への愛慕から始まった呪いであるならば、長い苦しみから解放してやりたい。これ以上、犠牲を出さないためにも。
短剣を手に立ち上がったシータは、そこではっとした。嘘偽りがないという点に引っかかったのだ。
自分は髪の色を隠している。これは嘘偽りにあたるのではないか。
魔王がシータの手から短剣を取り上げる。
もし効き目がなければ、逃げなければならない。条件からはずれていたと知ってなお生かしておくほど寛容ではないだろう。そう考え、一つの疑問が浮上した。
「短剣をといだ九百九十九人の少女は……」
その後どうなったのか。
魔王は笑った。冷ややかに。
「もちろん食った」
反射神経がものをいった。扉へ走ったシータの左右から壁を吹き飛ばして太い蔓草がのびてくる。蔓草は網の目のようにからみあい、シータをはじき返した。床に尻をついたシータは眼前の緑の格子に愕然とした。
魔王に首をつかまれ、引き上げられる。息苦しさにもがくシータを魔王は満足げに眺めた。
「千人目にふさわしい、まっすぐな目をもつ娘。どこから食ってやろう。そのやわらかな頬を少しずつかみ砕いてやろうか。それとも薄緑の目玉を舌で転がしながら味わおうか」
思いあがっていた。体力も腕力もそのままの自分なら抵抗できると甘く見ていた。
首筋に熱い息がかかる。牙をむく魔王にシータが身を縮めた刹那、鋭い羽音が窓から飛び込んできた。
半透明に輝く鳥は迷いなく魔王を狙った。とがったくちばしと爪は容赦なく魔王の肌をえぐる。頭上からの強襲に魔王が気をとられたすきに、シータはその手から抜け出した。
あの鳥には見覚えがある。あれはそう、風の神の使いだ。
(まさか……)
期待と興奮に胸躍らせるシータの目の前で、緑の血にまみれた魔王が鳥の脚をつかんだ。
「先ほどから感じていた異質な『気』はこやつのものか」
魔王はもう一方の脚もつかむと、上へ逃げようとする鳥をまっぷたつに引き裂いた。
「ファイ!」
かんだかい鳴き声が一人の少年の悲鳴と重なる。そのとき扉が乱暴に開かれた。駆け込んできたのはトウルバ・ヘリオトロープ学院長だった。
「何奴」
風の法で蔓草を切り刻む侵入者に、魔王が驚きと怒りに緑の両眼を燃やす。シータはすばやく魔王の手に蹴りを放って短剣を奪うと、その心臓に突き刺した。
それですべてが終わるはずだった。シータが本当に嘘偽りのない少女であれば。
魔王は信じられないといった容相で自分の胸と剣を見下ろし、そしてシータを見た。明らかになった事実に、魔王の形相が怒りにゆがむ。
「貴様……そうか、これか」
見破ったらしい。すさまじい力で髪を引っ張られ、シータは涙目でうめいた。
魔王がゆっくりと短剣を引き抜く。胸から緑の血が勢いよく噴き出しているのに、魔王はよろめきもしない。
「長年かけて刻み込んできた我と娘たちの祈りを無に帰した罪、その醜い体であがなってもらうぞ」
魔王が短剣でシータのくくっている髪をざくりと切ったとき、切り口から伝染したように激しい痛みに襲われた。続けて吐き気とめまいに膝をつく。
悲鳴? 怒号? 幾多の声が頭の中でうなる。
魂が四方八方から引っ張られて裂けそうだ。シータはぎゅっと目を閉じた。
「大気を司りし風の神カーフ。旋風の砦にてかの者の包護を!!」
学院長の唱えた砦の法が、シータにさらにつかみかかろうとした魔王をはじいた。後退する魔王に体勢をたてなおす暇を与えず、学院長が続けて嵐の法で攻撃する。
「大気を司りし風の神カーフ。我は請う、我に仇なすものに疾風の爪牙を!!」
風が魔王を取り巻いた。身を切る烈風から顔をかばう魔王の衣が裂かれ、腕が血に濡れる中、蔓草をかきわけてシータのそばに来た学院長がふところから短剣を取り出す。鞘から抜かれたそれは錆に汚れ、刃が欠けていた。使い古されたようにも、長年放置されていたようにも見える。
異変を感じたのか顔を上げる魔王の胸に、学院長は剣を突きたてた。先ほどシータが開けた穴に狂いなく差し込む。とたん、魔王は咆哮に近い悲鳴をほとばしらせた。
もだえ苦しむ魔王の姿が緑から茶色へと変わっていく。そしてついに踏みしめられた枯れ葉のように崩れ、茶色い粉と化した。
錆びた短剣が床に転がる。と、同時に薄緑色に輝く光の粒が、風にさらわれて舞いのぼる魔王のなれのはてから分離した。光はシータを包み込むとその体に溶け込むように消えていった。
それまでさいなまれていたひどい頭痛が少し軽くなった。シータは乱れた呼吸を少しずつ整えながら、首をひねった。何が起きたのか理解できなかった。
「大丈夫かね?」
学院長が穏やかな声音で尋ねてくる。髪を引っ張られているような痛みがあるくらいだとシータが答えたところで、風の法担当教官のコーラル・ロードンとともにピュールたちがやってきた。後ろには牢に閉じ込められていた五人の少女がいる。ピュールだけでなく、オルニスもプレシオもすでに男の姿に戻っていた。
「お前のだ」
シータの剣を押しつけるように渡してきたピュールは、むすっとしている。オルニスがあきれ顔になった。
「せめて礼くらい言えよ。かばってもらったんだから」
たしなめられてピュールの眉間のしわが深くなる。しばしシータと見つめあい、結局ピュールはぷいとよそを向いた。
素直に感謝されてもむずがゆいだけだし、恩に着せようとして行動したわけでもなかったので、シータは気にせず自分の剣を腰にさした。
どこから質問すればいいのかわからない。そもそも、学院長たちはどうやってここを探し当て、乗り込めたのだろう。迷うばかりで言葉にできないシータに、ロードン教官が寄ってきた。
「一つずつ順番に話をせねばならんな、学院長。どうもこの勇敢な生徒は混乱しておるようじゃ」
ほがらかに笑うロードンに、そのようですねと学院長も破顔した。
「まず君たち武闘学科生におとりになるよう任務を与えた。同時に風の法専攻生にも役割をもたせていたんだ。もし緑の瞳の少女がさらわれる場に出くわしたら、風の神の使いを召喚して後をつけるようにと。特に任務を受けた武闘学科生と親しい者には、下校時に見張っておくよう頼んでいた。その結果、空中のとある一か所で見失ったという報告があったため、そこに異空間への道があると見て、我々で穴をこじあけて侵入したというわけだ。風の法専攻生の放った使いはそこで帰したんだが、一羽がついてきてしまってね……ああ、ついてきたというのは適切ではないな。穴が開いたとたん先に突入してしまったんだ。まあそのおかげで君の危機に間に合ったようだが」
シータは泣きそうになった。やはり一番に自分を助けに来てくれた鳥はファイのものだったのだ。
続けてシータは魔王の呪いについて説明した。話を聞き終えた学院長は二、三度うなずくと、錆だらけの短剣を拾って鞘におさめた。
「なるほど。だから彼は最初死ななかったわけだね。私も事件について調べている途中で、魔物の正体に予想をたててね、この剣を持ってきたんだが……この剣の錆は植物を再生不能にする毒がしみついていたから効果があったようだ。最初の短剣の願かけが成就していれば、彼はきっと苦しまずに死ねたのだろうね。精霊が教えたやりかたは彼の魂を浄化する力をもっている。だが私の剣では彼を救うことはできない。二度とこの世に生を受けることはないだろう」
自分を食った魔王を精霊が許し、苦しみから解き放つ手伝いまでしようとしたことに、シータは心揺さぶられた。精霊の行動が魔王への愛ゆえなのか、すべての生ある者へ差別なくそそがれる慈愛からくるのかは、定かではないが。
つと足元に振動が起きはじめた。そろそろだなと学院長がつぶやいた。
「城の主が消滅したせいで城自体の安定が崩れたようだ。脱出しなければ、どこの空間に流されるかわからない」
「でも、どうやって?」
行きは翼ある魔物に運ばれてきたのだ。城は異空間に浮いているだけの状態であるため、歩いて帰るわけにはいかない。うろたえるシータの肩を学院長がたたいた。
「風の法を軽んじてはいけないよ。ロードン先生、いきますよ」
「ほいほい。さあみんな、手をつなぐんじゃ。絶対に放すんじゃないぞ」
ロードンに言われて全員が手をつないでいく。両端に二人の先生が立ち、シータは学院長の隣でその手をにぎった。そのとき、学院長が一瞬けげんそうな表情でシータをふり向いた。
「学院長?」
「……いや、何でもない」
学院長は「残滓だろうか」とつぶやき、シータから目をそらした。そしてあいているほうの手で杖を持つ二人の先生は、声をそろえて翼の法を口にした。
「翼ある者の王にして自由と旅を愛する風の神カーフ。我と我に与する者たちは、御空をあおぎ、あこがれし者。風の祝福を望む者。我らは切に願う。今ひととき、御身の青き翼をたまわらんことを」
とたん、床が揺れ、天井が崩れ、壁が砕けた。崩壊する城から飛びたったシータたちは、二人の先生に導かれるまま宙を翔けた。背後で城が異空間の奥へと吸い込まれていくさまを見やり、シータは隣で舵をとる学院長に視線を移した。
「学院長って、風の法専攻生だったんですか」
いつも水の紋章石を胸元で揺らしているので、てっきり水の神法士だと思っていた。
「知らなかったのかい? 私はゲミノールム学院出身だ。ロードン先生の教え子だよ」
出口が見えた。一瞬の光の明滅にシータが目をすがめたときには、すでに元の世界に戻っていた。
穴のそばに浮かんでいる見知らぬ老年の男女に、学院長が言葉をかける。二人はうなずくと穴を封じた。神法学院とスクルプトーリス学院の風の法担当教官だと、学院長が紹介した。
封印された空間は周囲に溶け込み、あたりは何事もなかったかのように静かになった。それから学院長は救出した少年少女たちを連れて地上を目指した。二人の教官もついてくる。
足元に散らばる家々の明かりは大地に描かれる星のようだった。まだ人々が起きているということは、日付を越えてはいないということなのだろう。
まもなくゲミノールム学院が見えてきた。校門周辺に人だかりができている。降り立ったシータは、一番に祖父母に抱きしめられた。誘拐されていた少女たちはこれから学院長が責任をもって自宅へ送っていくという。
オルニスとプレシオ、ピュールも迎えに来ていた家族と去る中、タウとラムダ、イオタ、ミュー、ローが駆けてきてシータの無事を喜んだ。皆ここで待っていてくれたのだ。
ファイはどこだろうと周囲を見回すシータに、一足先に帰ったことをタウが告げた。タウたちは異空間へ通じる場所を見つけたファイとともに学院に行き、学院長に報告した。学院長とロードン教官が現場に向かい、役目を終えた他の風の法専攻生は帰宅したが、ファイだけはそのまま動かなかったため、タウたちはそばで見守っていたのだ。
やがて途中でファイは表情をけわしくし、攻撃の法術をつむぎはじめたという。それからしばらくして突然うめき声をあげ、ファイは倒れてしまった。
「召喚者と召喚したものは念でつながっておる。召喚したものが攻撃を受ければ、召喚者にも痛みは伝わる。へたをすれば精神に異常をきたすこともあるんじゃよ。召喚術の授業でくどいほど教えたはずなんじゃが……まったく、無茶をしおってからに」
話を聞いたロードンがぶつぶつこぼす。大丈夫なのかと心配するシータに、ファイを連れて帰ったシャモアから何も連絡が来ていないと言うことは問題ないのだろうとロードンは答え、それから何かに気づいたようにシータをじっと見つめた。
「うん? シータ・ガゼル、お前さん……」
言いかけてロードンは口を閉じた。片手であごをなでながら、暗緑色の瞳をすがめたロードンは、「名残かの」と独り言を漏らした。
「何がですか?」
そういえば学院長も魔王の城を出る前、自分を見て「残滓だろうか」とつぶやいていた。気になって尋ねたシータに、ロードンは「まあ、明日には消えておるじゃろう」とはぐらかし、それ以上答えなかった。
夜も遅いので詳しい話は明日するとタウたちに約束し、シータは祖父母とともに帰途についた。
頭痛はまだ続いていたが、無事に事件が解決し、非常に疲れたこともあり、シータは寝床に倒れ込むなりすぐに眠りに落ちた。そして翌日、頭部の痛みで目を覚ましたシータは悲鳴をあげた。
枕辺に、ごっそりと髪が抜け落ちていた。