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緑の魔王と奇跡のパン  作者: たき
2/10

(2)

 午後最後の授業である中級植物学がロードン教官の都合で休講となったため、ファイは風の神の礼拝堂に足を運んだ。

 適度にひんやりとしていて静かな礼拝堂は、昼寝をするには絶好の場所だった。堂内は中央の通路をはさんで木製の長椅子が左右に七列ずつ配置されている。ファイは入り口から見て左側一番前の列の椅子で安眠の姿勢を取ると、そのまま目を閉じた。

 窓からほどよく差し込む陽光の中、かすかに届く小鳥のさえずりが心地よい眠りをいざなう。その影響かどうか、ファイは青白く輝く鳥になって碧空を渡る夢を見た。

 のびのびと翔けている状態ではなかった。誰かを捜すように。いや、誰かを追うように、必死に小さな羽をはばたかせていた。

 と、不意に翼が消滅し、ファイは人間の姿に戻って暗い穴底へ落ちた。何か重いものにからみつかれた形で、永遠に闇だけが続く空間にのまれていく。たまらなく息苦しい世界――そこは暗黒神アルファードの支配する領域だった。

 濃い闇の最下層でファイを捕らえようと、いくつもの黒い手がうごめいている。我先にと群がるさまにファイは吐き気をもよおした。

 翼の法は使えなかった。脱力感が邪魔をして集中できない。さらにひしめく手と手のすきまに、巨大な目が見えた。両性具有の闇の神が笑ってファイを待ち構えている。

嫌だ。誰か……

 助けを求めて上へのばした指先に何かが触れた。自分の手をにぎり返してきたぬくもりの正体は――。


“ファイ!” 


 バサバサッ

 大きな羽音に驚いてファイは飛び起きた。軽いめまいと頭痛におかされて額に手をやると、汗のつぶが浮いていた。ここが礼拝堂であることを思い出し、ファイはほっと息をついた。

 速まっていた鼓動が落ち着いてきたところで顔を上げ、風の神カーフの偶像を見やる。背に翼を備えたカーフは弓矢を持っていた。未来を見透かすと言われているそのまなざしは、窓から見える青空へと向けられているが、どこを目指し、何を映しているのかうかがい知ることはできない。大地の女神や水の女神の偶像からかもしだされる慈悲のぬくもりはなく、炎の神のように雄雄しくひたむきな強さも感じられないが、その大きな翼の後を追っていきたいと思わせる吸引力があった。

 脇には、カーフより風の法を授けられた最初の人間、風の賢者フィストゥラ・オーキュスが控えめに立っている。その手ににぎられている本を目にして、みんなとの約束をファイは思い出した。

 もう授業は終了したのだろうか。背伸びをしてから荷物をかかえて礼拝堂を出たファイは、待ち合わせ場所である図書館へと歩きだした――が、闘技場の大きな窓の前まで来たとき、中央棟から出てきた教官と目が合った。小柄でやせたその男は、炎の法担当教官モーブ・ヒドリーだ。

 まずいなという思いが先にたった。ヒドリーは赤い法衣のすそをひらめかせながら足早に近づいてくる。このままあいさつだけして素通りさせてくれる雰囲気でないのは、相手の妙に嬉しそうな顔を見れば明らかだ。

 籍は風の法専攻に置いているが、ファイは自身の興味を満足させるためにすべての法術の授業を選択している。ヒドリーは炎の法の授業以外に数秘学と天文学も受け持っているため、週に三度は顔をあわせていた。おまけにヒドリーは暇があればファイを呼び、進んで炎の法を教えている。ただで学べるならとファイも素直に個人授業を受けているものの、ヒドリーの狙いがはっきりしているだけに、感謝するとか好意をいだくとかいう気持ちはわかなかった。

「先日ロードン先生が君の召喚術の論文をとてもほめていてね。私も見せてもらったが、すばらしい出来だった」

 また少しはえぎわが上がったようだ。ファイは薄くなりつつある赤褐色の髪から法塔の時計へと視線をずらした。

「その論文について少し質問をしたいんだが、これから私の教官室に来ないかね?」

「すみません。今日は図書館で調べものをする約束があるので」

「何の調べものだね? ああ、無理して言わなくていいよ。別に詮索しようというわけではないから。しかし君はいつも熱心だね。たまには息抜きをしないと体を壊してしまうぞ。そういえば専攻生から珍しい異国のお茶をもらったんだ。風味がよくてね、君もきっと気に入ると思うんだが」

 ファイは内心でため息をついた。こういうときのヒドリーを振り切るのは大変だと、今までの経験でわかっている。

 そもそも、彼が本当にお茶に誘いたいのは自分ではないのだから、なおさら厄介だ。

 担当外の教官とあまり親しくなりすぎるのも問題かもしれない。そろそろ独学で炎の法を勉強したほうがよさそうだと考えていたファイの眼前で、空気がビュンとうなった。

 ドッ、ガラァァンッ

 向き合う二人の間を突き抜けた剣は、そばの木に小さな傷をつけて地面に転がった。

「あっ、人がいたの。すみま……ファイ!?」

 闘技場から走ってきた鎧姿のシータは、かたまっているファイに顔色を変えた。

「ごめん、けがしなかった?」

 大丈夫と言いかけたファイより、ヒドリーの文句のほうが早かった。

「なんだね君は? 危ないだろう。もう少しで大けがをするところだったんだぞ」

「すみません」

 シータが頭を下げたところで、闘技場の窓からラーヴォ・ウォルナット教官が顔をのぞかせた。

「まったく、剣のにぎりが甘いからこういうことになるんだ。外にまで飛ばすなど恥ずかしいと思……どわっ」

 小言は最後まで続かなかった。ウォルナットは巨体に似合わず軽々と窓を乗り越えると、ものすごい勢いで三人のもとへ駆けてきた。

「ウォルナット先生、これはどういうことかね? 剣が飛んでくるようではうかつに学院内を歩けないではないか。しかももう少しで我々に刺さるところだったんだぞ」

「え? まさかけがをしたのか? ど、どこを……大変だ、すぐに手当てをしなければ。早く治療室へ。一人で歩けるか?」

「けがはしていない。人の話を聞きたまえ」

 顔面蒼白でファイを中央棟に引っ張っていこうとしたウォルナットに、ヒドリーが割り込んだ。

「貴様は昔からそうだ。どうしてもっと冷静に対処できないんだ」

「やかましい。誰も貴様の心配などしておらん。それよりもファイ・キュグニーだ。本当に、どこもけがをしていないのか? 無理をしているんじゃないだろうな?」

「大丈夫です」

 ファイは冷めた態度で短く返した。軽く一礼して身をひるがえすファイの腕をウォルナットがつかんだ。

「ま、待ってくれ。やはり心配だ。治療室に行こう」

「なぜ貴様がつきそう必要がある? 邪魔だ。さっさと授業に戻れ」

「俺の授業中に起きた事故だ。俺に責任がある。貴様のほうこそ邪魔だ。だいたいこんなところでファイ・キュグニーと二人きりで何をしていた?」

「私が神法学科生とどこで話をしようが私の勝手だろう。彼が提出した論文について、これから私の部屋で語り合うつもりだったんだ。それを貴様らがわけのわからん面倒ごとに巻き込んだんだろう」

「自分の専攻生でもない生徒を教官室に連れ込むとはどういうことだ。これはゆゆしき問題だぞ。学院長に許可は取ってあるのか?」

 自分をはさんでほえあう二人にファイはげんなりした。見るとシータは目をしばたたいている。その間にも二人の口論は過熱していき、ついには互いの胸ぐらをつかむまでになった。

 これ以上つきあっていられない。ファイがそっと場を離れると、少し遅れて気づいた二人が争いながらついてきた。どうやらこのまま治療室まで行くことになりそうだ。

 あの様子では、シータはきっと事情を知らないに違いない。後で説明しなければと、ファイは指でこめかみを回し押さえた。



 放課後、七人は学院の図書館一階に集まると八人がけの大きな閲覧机を一つ占領した。奇跡のパンの材料について記されている本を、分担して探す。膨大な量の蔵書にシータは立ちくらんだが、ローに検索のしかたを教えてもらい、どうにか探し出すことができた。

 それから七人はしばらく無言で作業に取りかかった。館内は時折ささめく声が漏れる他は、本を机の上でそろえる音や紙をめくる音、文字を書く音がするだけで、教室よりもはるかに人数が多いのにとても静かだった。

 カーフの谷の『祈りの歌を歌う花』について調べていたシータは、一番はじめに根負けして手を休めた。どうもこういう場所に来ると眠くなってしまう。のども渇いてきたが、一人抜け出すのも気がひけるし、と仲間を見回すと、同じ武闘学科生のタウやラムダは黙々とペンを動かしていた。ラムダはやけに真面目そうに見えるし、片ひじをつき真剣なまなざしで本と向き合うタウは、剣をにぎる姿とはまた違った意味でさまになっている。その背後でやたらと女生徒が往来しているのに噴き出しかけたシータは、次に右隣のファイを見た。ファイも『祈りの歌を歌う花』についての記述を読んでいたが、書き出している文章量はシータの何倍にもなっている。読む速さも違えば、必要な文を効率よく見つけて書く速さも違う。まるで最初からどこに何が書かれているか知っているかのようだ。表情が豊かだとはお世辞にも言えない横顔をしばらく眺めていたシータは、先ほどのことを思い出した。

「ファイって……」

 呼びかけに応じてファイが顔を上げた。

「男の子だよね?」

 小声のつもりだったが、他の五人の耳にも届いたらしい。六つの視線がいっせいにシータに集まった。

「どういう意味?」

「いや、だってヒドリー先生もウォルナット先生も、必死にファイを追いかけていくから、何でかなと思って」

 短い間があった。突然、ラムダとローが爆笑した。

「二人とも、図書館だぞ」

 注意するタウもどこか苦笑をかみ殺したような顔をしている。ラムダとローは口を押さえたが、ずっと肩を震わせている。ファイは耳まで赤くなっていた。

「ヒドリー先生とウォルナット先生が好きなのはシャモア先生だよ。ファイはシャモア先生の甥だから巻き添えを食ってるだけ。シータが入学する前だったから知らないのは無理ないけど、シャモア先生が着任されたときはけっこう話題になったんだよ。特にあの二人の先生の態度は露骨だったからね。当のシャモア先生が涼しい顔で対応されるから特別問題にはなっていないけど、本人たちはあれで自分の気持ちを隠しているつもりだからおかしくてさ」

「あこがれの先生の血縁者とくれば、そりゃかわいいに決まってるからな。ファイはシャモア先生と顔だちが似ているし。それに、優しくすれば自分の評価が上がるんじゃないかと期待する気持ちもわかる。まあ、ファイにとっては迷惑もいいところだろうがな」

 涙目で苦しそうに話すローとラムダの話にシータが納得したとき、背中から穏やかな声が届いた。

「ずいぶん楽しそうね。何の相談をしているのかしら?」

 シャモア・マルガリテース教官だった。洗いじわのない上質の黄色い法衣を着用し、長い銀の髪を器用に丸めてすっきりとたばねたシャモアは、そう尋ねて緑色の瞳を弓なりにした。その視線が一瞬だけファイをとらえる。

「奇跡のパンを作ることになって、材料を調べているんです」

 タウの返答に、シャモアは興味深そうに目をみはった。

「初めて聞くわね。どんなパンなの?」

「食べれば願いがかなうそうです」

「まあ、素敵なパンね。よかったら私にも分けてもらえないかしら」

「わかりました。材料集めが難しいので時間はかかると思いますが、それでよければ」

「楽しみだわ。頑張ってね」

 品よく微笑んでシャモアが去っていく。前に会ったときは意識しなかったが、まとう空気がとてもやわらかくてあたたかい先生だなとシータは思った。それでいて手が届きそうにない不思議な雰囲気をもっている。

 ウォルナットやヒドリーが夢中になるのもわかる。独身なのかとファイに聞くと、今まで女神官の地位にいたし、結婚にはまったく関心がないみたいだよという答えが返ってきた。しかも任期は今のところ、ファイが学院を卒業するまでということらしい。大事にされているんだねと笑うシータに、時々心配が過ぎるけどねとファイはぼそりとぼやいた。



 翌日、またもや緑の瞳の少女がさらわれたという情報が町をめぐった。これで、ここ七日ほどで実に五十人以上の少女が魔物に連れ去られたことになる。誘拐の調査と魔物退治ははじめ、事件が多発している首都ヴァルサモ市にある武闘館と神法学院が担っていたが、ついにゲミノールム学院にも協力の要請がきた。ゲミノールム学院があるカロ市でも被害が出るようになったのだ。

 誰々が消えたという暗い噂を耳にしながら、一限目の授業である初級歴史学を受けにシータが二階の教室に入ったところで、みんながいっせいにふり返った。

 何かやっただろうかと困惑するシータに、パンテールが近づいた。

「おはよう、シータ。さっそくだが学院長室に行ってくれ」

「今すぐ? どうして?」

「僕にもわからない。ウォルナット先生からの伝言なんだ」

 半信半疑のままシータはうなずいた。一階の学院長室に走り、重い扉をたたくと応答があったので専攻と名前を告げる。入室が許可されて中に入ると、武闘学科生が十五人ほど、トウルバ・ヘリオトロープ学院長の大机を前に並んでいた。ピュールの姿もある。

 白い長衣の上に袖なしの黄色い長衣を重ね着している学院長は椅子に座し、その傍らには武闘学科の教官二人と、神法学科の教官四人が控えている。シータが生徒の最後列についたところで、学院長が腰を上げた。

「君たちもすでに聞き知っていると思うが、このところ緑の目をした少女がたびたび誘拐されている。目撃者の証言で相手が魔物であることが判明しており、先に武闘館と神法学院が追捕を試みたが、事件は広範囲に及んでいるためにいまだ成果はあがっていない。またこのカロ市でも残念なことに被害者が出てしまった。そこで当学院も緑の瞳の生徒たちの安全を確保するとともに、魔物退治に協力することを決定した」

 さざ波のごとく立つざわめきを片手で制し、学院長は続けた。

「君たちに来てもらったのは他でもない。重要かつ危険な任務を依頼するためだ。本来ならば君たちを預かる学院としてこのようなことを頼むのは、多くの問題を含んでいるのだが、栄えあるゲミノールム学院武闘学科に所属する君たちの武勇に、今は期待し信頼するより道はないと考えている。もちろん無理強いするつもりはないから、腕に自信のない者、不都合が生じる者はここで退出してくれてかまわない」

 沈黙が下りた。互いに顔を見合わせるものの、出ていく生徒はいない。それを確認した学院長は「勇気ある君たちの意志に感謝する」と言い、傍らの風の法担当教官コーラル・ロードンにうなずいた。

 ロードンが壁際に積み重ねていた木箱の一つを「よいこら」と持ち上げて、学院長の机に置く。ふたのない木箱には手のひらにおさまる大きさの茶色い小瓶が整然と収められていた。

「ここにある薬は体中の筋肉や脂肪を一時的に胸に集める作用がある。放課後学院を出る前に、男子諸君にはこれを飲んでもらいたい。個人差はあるが平均して二、三時間くらい効果は続くはずだ。事件が解決するまでは毎日担当教官から薬を受け取り、二人一組で帰宅するように」

 薬を使うのは男子だけなのかと肩の力を抜いたシータは、しかしすぐに()()()()に気づいた。生徒内にもどよめきが広がる。

 一人の三回生らしき槍専攻生が手を挙げた。

「すみません、それはつまり俺たちにじょ……女装をしろということですか?」

「そのとおり」

 にっこりと学院長は微笑んだ。

「正確には女性の体つきになってもらう。魔物がさらうのは緑の目の少女であって少年ではない。首尾よく連れ去られたら、先に誘拐された少女たちがどうなったか探ってほしい。薬が効いている間は腕力や体力はなくなるが、じきに元に戻るので大丈夫だろう」

 ざわめきがいっそう大きくなった。

「魔物の正体までわかれば完璧だが、できる範囲でかまわない。もちろん君たちだけに危険をおかさせるつもりはないので、こちらも別の対策を用意してある。ああ、胸は大きくなるが男性としての大事なものはなくならないので、魔物に気づかれないよう十分に注意してくれたまえ」

 みんな、穏やかな物腰と優しい口調にだまされたと後悔している顔だ。斜め前に立つピュールも明らかに動揺している。

「優先すべきは誘拐された少女たちの保護だ。そしてもし少女たちがすでに命つきていた場合、君たちは自分の身を守ることに専念しなさい。非常に冷静かつ的確な判断力が必要とされる任務だ。健闘を祈る」

 薬を渡された生徒たちが足取り重く退出していく。シータも部屋を出たとき、ウォルナット教官に呼びとめられた。

 ウォルナットは視線をせわしなく左右に揺らしながら、一度咳払いをした。

「ああ、その、なんだ、昨日シャモア先生から聞いたんだが、今度奇跡のパンを作るそうだな」

「はい。でもまず材料を集めないといけないので、けっこう時間がかかるんです。その材料も簡単に手に入るものではないので」

「そうか。それは大変だな。頑張ってくれ」

 ひどく落ち着きがない。いぶかしみながらも一礼してシータが教室へ向かおうとすると、ウォルナットに腕をつかまれた。そのまま廊下の角を曲がったところまですさまじい力で引っ張られていく。最後に背中を壁に押しつけられ、シータはわけがわからず緊張に身をこわばらせた。

「すまん、頼みがあるんだ。その奇跡のパン、俺にも一つくれないか?」

「あまりたくさんは作れないんですが」

「それなら一かけらでいい。頼む、どうしても欲しいんだ」

 そんなに差し迫った願いごとがあるのか。ぼさぼさ頭を下げてくるウォルナットにシータが承知しかけたところで、今度は炎の法担当のヒドリー教官が現れた。

「ウォルナット先生、こんなところでこそこそと何をしているんだね?」

「い、いや、別に。たいしたことじゃない。俺の専攻生に魔物退治の秘訣を少し教えておこうと思ってな。まだ一回生だし、何かと心配なことが多いんだ」

 怒鳴ると生徒を縮みあがらせる強面のウォルナットだが、声が完全に裏返っている。うしろめたさが丸見えだ。そんなウォルナットにヒドリーは深緋色の瞳の奥を光らせた。

「ほほう。私はてっきり彼らの集団が作ろうとしている奇跡のパンをねだっているのかと思ったが」

「どうして貴様がそれを知っているんだ」

「シャモア先生に教えてもらったのだ」

 得意げに鼻を鳴らすヒドリーにウォルナットがかみついた。

「俺だってシャモア先生に聞いたんだ」

「嘘をつくな。貴様なんぞにシャモア先生が声をかけるはずがなかろう」

「何だとっ。ああ、そうか、貴様は知らないんだな。昨日俺とシャモア先生は昼食を一緒に食べたんだぞ」

「それがどうした? どうせ食堂で席が近くなっただけだろう」

 図星だったらしい。歯ぎしりするウォルナットを冷ややかににらんで、ヒドリーはシータをふり返った。

「ところでシータ・ガゼル。その奇跡のパンというのはおいしいのかね? ああ、ちょっと質問が唐突だったかな。私はパンに目がなくてね。珍しいパンと聞くと、いてもたってもいられなくなるのだよ」

「おいしいかどうかは知りませんが……私も食べたことがないので」

 横でヒドリーを嘘つき呼ばわりするウォルナットに気兼ねしながらシータが答えると、ヒドリーはやせこけた顔に笑みを浮かべた。

「完成したら私にも一つ持ってきてくれないかね? ぜひ食してみたいんだ」

 当然のごとくウォルナットが大反対した。その場ではばかりなくののしりあいを始める二人に、シータは脱力した。

「わかりました。二人分用意しますから」

 二人が同時にシータをかえりみる。もらえるのは嬉しいが、こいつにもやるのかと言いたげな二人に、一かけらくらいしかないかもしれませんよと念を押してシータは逃げた。

 再度学院長室の前を通ったところで、扉が開いた。中から出てきた学院長にぶつかってしまいシータがあやまると、学院長は若々しい微笑を返してきた。すぐ後にロードン教官が姿を見せる。

「君には期待しているよ。一回生にまで任務を与えるのは少々不安だという意見もあったが、ウォルナット先生が大丈夫だと薦めてくれたからね」

 シータは誇らしさに頬がゆるんだ。先ほどのウォルナットはいただけないが、剣の腕は一流だと聞いている。国王の剣術師範の候補にまであがったが、未来の剣士を育てたいからと話を蹴ったという噂もある。そのウォルナットに推薦されたのはやはり気分がいい。

「そういえばシャモア先生から聞いたんだが、君たちの今度の目標は奇跡のパンを作ることだそうだね」

 またかとシータは頭をかかえた。シャモアは意外とおしゃべりなようだ。そしてシータの予想どおり、学院長もパンを所望してきた。

「今年の交流戦は負けられなくてね。ぜひとも奇跡のパンの力を借りたいのだよ」

「わしは近頃足腰が弱くなってきておるから、少し若返りたいのう」

 ロードンまで便乗してきた。さすがに三人の教官にあげる約束をしているのに、この二人をのけ者にするわけにはいかない。シータはやむをえず承知して、教室へ急いだ。これ以上声をかけられないことを祈って。

 走っていくシータを見送った学院長はロードンをふり向いた。

「さて、ロードン先生、お手数ですがよろしくお願いします」

「承知した」

 うなずいてロードンが歩きだす。学院長は次の作戦を指示するべく、部屋へと戻った。



 歴史学担当の教官はすでに事情を知っているらしく、教室へ戻ったシータを問いただすことなく席に着かせた。

 ピュールはまだ帰ってきていない。周囲の視線を浴びながらシータがおとなしく着席したところで、授業終了を告げる鐘が鳴った。

「シータ、何の話だったんだ?」

 教官が出ていくなり、教室中の生徒がシータの周りに集まってきた。

「例の誘拐事件に協力することになったの。私たちがおとりになって、うまく魔物にさらわれたら向こうで調査しろって」

「確かにお前は緑の目だから納得だけど、ピュールもか?」

 誘拐されるのは女だけだよなと不思議がる皆に、シータは正直に話していいかどうか迷った。そのときピュールが教室に入ってきた。

 ピュールは剣専攻生だけでなく槍専攻生までもがシータを囲んでいるのを見て、血相を変えて近づくと、シータを乱暴に立たせて外へ連れ出した。

「ちょっと、痛いじゃないっ」

 がっちり腕をつかまれたまま人けのない場所まで引きずられたシータは、ようやく解放されてピュールをにらんだ。

「お前、絶対にしゃべるなよ」

 すごみのある口調で迫られる。シータは一瞬たじろいだものの、その鋭い目つきの中に羞恥が見え隠れしていることに気づいた。

「ピュールが女……」

「言ったら殺す」

 かみつかんばかりの勢いでさらに一歩詰められる。これほど余裕のなさそうなピュールは初めてだ。

「そのうちどこかから漏れると思うけど」

「それでもだ」

 本当に皆に知られたくないらしい。気持ちはわからなくはないが、しかし。

 弱みをにぎったことについにやけてしまうシータに、ピュールはいっそう苛立ちをあらわにした。

「それから、当分の間はお前と帰ることになった」

「……は?」

「二人一組でって学院長が言っていただろう――なんだ、その顔は。俺だってフォルリ―先生の指示がなければ、お前なんかと一緒に下校しない」

 ああもう本当に腹が立つ、とピュールが焦げ茶色の髪をかきむしる。さすがのピュールも槍担当教官には逆らえないのだろうが、シータも素直に承知したくない話だった。

「今日は闘技場に集まる約束があるのに」

「断れ。いや待て。一緒に動くのはそこまでだ。後は俺は一人で帰る」

 どうせどこかで別れるのだからかまわないだろうと言い、ピュールは下校の待ち合わせ場所と時間を勝手に決めて去っていった。



 放課後、着替えをすませて更衣室を出たシータは生徒用玄関に向かう途中、生徒会室の掲示板に『ゲミノールムの黄玉』の投票結果が貼りだされているのを見て足をとめた。

 女子の一位はイオタで、二位のプラム・カリーナエとはわずか三票差だった。告知の際に掲載されていた情報ではたしか、プラムは教養学科の二回生で、去年もイオタと一位を争っていたはずだ。また八位のミュー以外、三位以下はすべて二回生で、ファイたちの学年は美人が多いのだなとシータは思った。

 一方、男子の一位はイオタと同じく二年連続タウで、二位のアレクトール・ドムスを大きく引き離していた。男女ともに期待どおりの結果にシータは満足したが、アレクトールが意外に人気が高い点については驚いた。

 さらに見ていくと、三位は入学式後に学院内の案内をしてくれたバトス・テルソン、四位にはラムダが入っていた。そして七位にはファイが、九位にはなぜかローの天敵であるヘイズルの名前があった。きっと取り巻きに命じて自分に投票させたのだろうとあきれながら視線をずらしたシータは、十位の欄を見て眉間にしわを寄せた。パンテールとピュールが同数で入っていたのだ。

「なんでピュールなんかが入ってるのよ」

 パンテールはいいとして、ピュールの名前があるのは納得できない。まさか槍専攻一回生が全員ピュールの名前を書いたのか。唇をとがらせるシータに、「悪かったな」と横から声がかかった。

 独り言のつもりだったが、聞こえたらしい。やってきたピュールは投票結果を一瞥した。

「入学式の代表戦に出たからだろう。目立つことをすると票が入りやすくなるみたいだからな」

「もしかして、ピュールもけっこう告白されてるの?」

 パンテールと同じ状況なのだろうかと尋ねると、ピュールはどうでもよさそうに「ああ」と肯定した。

 もっと得意げにするかと思ったのに、意外な反応だ。そしてシータはその手に小瓶がにぎられているのを目にした。

「もう飲んだ人いるのかな」

「飲んだとしても、人目につかないように帰ってるだろう。まったく、どうせなら女性化が似合う奴にしぼってやらせればいいのに」

 ピュールはまだ受け入れられないようだ。武闘学科に限定したのは、魔物の住処に侵入した後でさらわれた少女たちを守れるようにとの理由からだろうが、たしかに武術をたしなんでいる者がか弱い女の子になれるはずがない。タウのように顔のつくりが整っていれば迫力美人に変身するかもしれないが、残念ながらタウの瞳は赤色だった。

「お前はいいよな。素でいけるんだから……ああでも、やっぱりお前も薬をもらったほうがよかったんじゃないか? 体中の筋肉や脂肪が()()集まるそうだから」

 シータの上半身に一度視線を滑らせ、ピュールが鼻で笑う。シータはむくれた。

「よけいなお世話よ。武闘学科生にとっては、大きくないほうが戦いやすくて都合がいいんだから」

「大きくないにも程度ってものがあるがな」

「うるさいわね。いいからさっさと薬を飲みなさいよ。帰れないじゃない」

 こっちは大笑いする準備ができているんだと嘲笑し返してやると、ピュールは舌打ちした。

「まったく、最悪だ。よりによってこいつと組まなきゃならないなんて」

「私だってあんたなんか願い下げだわ。文句があるなら学院長とフォルリ―先生に言ってよね」

 シータがせかすと、ピュールは露骨に渋面したまま小瓶のふたを取った。ねっとりとした匂いに、ピュールの眉間のしわが深くなる。甘いものが苦手なのかもしれない。

 しばしためらう様子を見せてから、ピュールは一気に中身を飲み干した。

「まずっ……」

 むせて嘔吐しかけたピュールが口の端を手の甲でぬぐう。直後、ピュールが胸を押さえた。

「な……ん……?」

 壁に手をついたピュールは体を折り曲げた。あまりに苦しそうなさまに、シータも慌てて手を差しのべる。

「ちょっと、大丈夫?」

 背中をさすろうとしてはっとする。かたい感触が消えていっている。代わりに、歯をくいしばってうめくピュールの胸がどんどんふくらみはじめた。

 ドンッと最後の激痛がきたかのように、ピュールが体をそらした。ぐらりと傾いてきたピュールを支える。しかし身長と体重はそのままらしく、シータはあやうく押しつぶされそうになった。

 一緒にその場に座り込む。何度も肩で息をしていたピュールが、やがて長大息をついた。

「死ぬかと思った……」

 焦げ茶色の髪をかきあげ、ピュールは半分自分の下敷きになっているシータを見やった。目が合い、シータは驚きのあまりかたまった。

「何だよ。笑うならさっさと笑えよ。しばき倒してやるから」

 苦々しげに吐き捨ててピュールが顔をそらす。

「え……あー、うーん……ピュール、予想してたより美人だなって」

「ああ?」

 ふり返りにらんだピュールは、シータが本気でそう考えているとわかったのか、口を閉じた。

「なんか、もっとこう、気持ち悪い女の子になるかと思ってたのに」

 顔立ちまで少し丸みをおび、いつもより柔らかい雰囲気になっている。むしろ、そこらの女生徒よりかわいいかもしれない。

「全然、嬉しくも何ともないんだが」

 はあ、とため息をこぼし、ピュールが立ち上がった。

「くそっ、本当に力が入らないな。これじゃまともに戦えないぞ」

 愛用の槍すら重そうに持ってぼやく。

「外ではしゃべらないほうがいいよ。その見た目でその声だとものすごく違和感が」

「やかましい。ほら、さっさと帰るぞ」

 周囲に目撃者がいないのを念入りに確認し、ピュールが歩きだす。

「明日から帽子がいるな」

「顔を隠したら意味がないんじゃない?」

 隣に並びながらシータが上目遣いに見やると、うつむきがちだったピュールに睥睨された。

「こんなので本当に魔物をだませるとは思えないし、俺一人くらいごまかしたって別にかまわないだろうが」

 協力する約束なのに逃げるつもりかと非難しかけたシータは、ピュールと同じように不審な動きかたをしている剣専攻二回生の二人連れを見つけた。

 向こうも気づいたらしく、シータたちをかえりみる。ばっちり目があい、互いに足をとめた。

 ピュールを見て瞠目した二人が、恥ずかしさと敗北感のないまぜになった表情で走り去る。ピュールがぼそりとつぶやいた。

「……あれよりはましか?」

「うん……すごく」

 やはりみんながみんな美少女になるわけではないようだと改めて知り、シータは彼らを同情のまなざしで見送った。



「おう、そこの美人な武闘学科生二人! しぼりたての果汁を飲んでいかないか? 一杯おまけしてやるぞ」

 中央広場を通り、まもなく闘技場というところで、屋台で果汁を売っていた中年男性が呼びとめる。だらしなくにやけながら手招きする相手に、ピュールはいいかげんうんざりしたさまで冷ややかな一瞥だけを返した。

 もともと肩幅の広いがっちり体形ではないので、すらりとしているのに出るところは出ている長身美人に見えるせいか、ここに来るまですれ違う人すれ違う人そろってピュールを二度見していた。学院生、しかも女生徒が少ない武闘学科の制服を着ていることで、かえって目立っているのかもしれない。

「二人だとよ。よかったな、数に入れてもらえて」

「私に八つ当たりしないでよ」

 じろじろ見られるわ、口笛を吹いて気を引こうとする者はいるわで、ピュールはすっかり不機嫌になっている。

「もういっそのこと開き直って楽しめば? こんなにちやほやされることはそうそうないだろうし」

「そうそうあってたまるか。今日中に誰も魔物の住処にたどり着かなければ、俺は明日休む」

 帰り際に出会った剣専攻生たちからすればかなり贅沢な不満だと思うが、嫌なものは嫌らしい。女性としてほめそやされるというのが、自尊心をひどく傷つけているのかもしれない。

 やれやれとため息をついたとき、急に足元がふっと暗くなった。バサアッ、バサアッと重い翼の音が間近で耳を打つ。

「えっ……」

 あおいだ先に鳥の形をした魔物を見たときには、シータの体は宙に浮いていた。

 灰色がかった黒い大きな翼を広げ、灰色の皮膚をした魔物は耳まで裂けた口をにたりと開いた。細くとがった歯と歯のすきまから長そうな舌がちらりとのぞく。頭に毛はなく、額には血管が浮き上がっていた。

 逃げようにも、鋭い爪に両肩をがっちりつかまれている。もがくとそれが食い込んできて、シータは痛みにうめいた。

 見るとピュールも別の魔物に捕獲されている。

 屋台の主が腰を抜かして震えているのが視界の端に映る。その後方にファイの姿があった。

 こちらへ駆けながらファイが詠唱している。最後に宙に描かれた右肩上がりの『Z』が輝き、青白い半透明の鳥が現れた。

「シータ!?」

 ちょうど闘技場へ向かう途中だったのか、タウとラムダも疾走してくる。シータは一番近くまで来ていたファイに手をのばした。しかし届かなかった。

 シータとピュールを連れた魔物は力強い羽ばたきで一気に上空へ舞い上がり、ファイたちの姿はあっという間に見えなくなった。





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