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———ダメだ。
山代主任のその一言が頭の中をずっとこだましている。
こうして自宅に帰っても、乗って帰った電車の中でも消えてくれなかった。
私は……振られたのだ。
つまりは、そう言う事になる。
彼はもう私とは関わりたくない、と。
そう言ったのだろう。
心の中を空気砲で撃ち抜かれたように感情が全く湧き上がってこない。
こんな状態になる自分は初めてだ。
しかし、とにかく、明日はまた通常通り仕事だ。
明日の仕事に身体を専念させよう。
そう考え直し、就寝準備に動き出した。
あれから、山代主任の体調や治療はどうなったのだろう?
もう、退院したのかな?
あのマンションを訪ねたらどうなるなるだろう。
でも、あの女性と対面する勇気は私には、無い。
そもそも彼はあの女性とすでに結婚しているのだろうか?
この二週間、こうやって答えの出ない問題に考えをめぐらせても、もう、どうしようも無いことぐらい分かっている。
そして、それらの答えがどうであろうと、私はもう山代さんに会うこともできないし、ましてや彼に受け入れられることもない。
それだけが唯一の答えだ。
なのに、こうやって、仕事帰りに後輩数人を誘って飲みに出ても、山代主任の事が頭から離れてくれない。
私は、彼を頭の中から追い出そうと届いたばかりのジョッキの中身をガブガブと口から流し込む。
「ゴホッゴホッ」
「何? 金石君、風邪なの? 無理してこなくてもよかったのに」
隣に座る二十代若者が嫌な咳をしるのを、私は横目でチラッと見て半分貶し気味に言った。
「明日休みだからいいんですって。それに神崎さんと飲めるなんて、嬉しいですもん」
「何言ってんのよ。私の鬱憤晴らしに突き合わせてるだけなのに」
「それでもいいんですよ。ズルッ。神崎さん、ティシュないですか? 鼻水がひどくて」
「携帯しときなよ。もう、これあげるから」と傍のバッグから取り出したポケットティッシュ一つを金石に手渡す。
一方で私は先程のジョッキを飲み干した。
———あれは、山代主任とあの女性だ。
山代さん!
待ってください!
置いていかないでッ。
「ひとりにしないで下さいっ」
伸ばした手を……誰かが受け止めてくれる。
誰?
確認しようと、目を開けたいのに開けない。
ただ、すごく幸せだ。
なんだろう?
このひさびさに男性と交わった清々しい感覚……。
あれ? この人は誰だろう?
「神崎……」
「山代さん? えっ? もう退院したんですか? 大丈夫なんですか?」
「何の話だ? 寝ぼけてるのか? こっちへ来いッ」
この幸せな状況は? どうした? 何が起きた?
……ッ?
少しずつ目を開くと10月の朝日が瞳を直撃した。
思わず目を細め、瞬きを繰り返してゆっくり視界を明らかにする。
瞳だけで周りの様子を窺うと見慣れた自分の部屋の景色にホッとした。
「良かった……夢だ」
「……んっ、ゴホッゴホッ……神崎さん? おはようございます」
背中から聞こえる喉を痛めたような男性の声。
その男の顔を確認すべく恐る恐る首だけ動かす。
「ひッ、誰?」
「誰はないでしょ。僕ですよ」
うつ伏せの男性がこちらに向けた顔を一瞥し、すぐに顔を背けた。
彼が裸体だったからだ。
「金石……君」
ベッドの上の裸体の金石、そして私……ということは。
はっ!
遅れて自分も全裸なのに気付く。
やばい、やばい、やばい。
やってしまったぁぁぁあ!
3年前の山代主任との未遂とはどうやら違うらしい……。
それは、自分の体が充分理解していた。
あの日からずっとお酒には気をつけていたのに。
アラフォーにもなって、またやらかしてしまった。
掛け布団を頭からガバリとかぶり、昨日の自分に失望する。
すると、横から長い腕が伸びて来て顔を無理矢理彼の方へ向かされると、布団の下で唇を抉る様にうばわれる。
は? え? 何?
「僕たち、本気で付き合いません?」
二人の唇が離れると、甘いマスクの彼は可愛く微笑み、大胆発言をかましてくる。
——-少しは警戒しろっ
山代主任のいつかの言葉が頭をよぎった。
まさか、こんな子にまで警戒しなきゃいけなかったのか?
無理。冗談だよね。
「何いってんの? 冗談だよね」
「何で? 僕は本気ですけど」
今度は真剣な面持ちを見せてくる。
「それに、昨日は神崎さんから誘ってきたじゃないですか。ひとりにしないで、置いていかないで、って。覚えてないんですか?」
全く、全く記憶にございません!!
「ごめん、覚えてない……」
「なら、しょうがないですね。でも、僕の彼女になる事、考えてみてくださいよ。ぜひ」
「無理だよ」そう彼に一言告げるのは簡単だ。
だが、これからも一緒に仕事をする仲間だ。
穏便に事を運ばなければならない。
それに、山代さんに振られた今、今後こんな風にアラフォーおばさんに近づいてくる男性は、もう現れないかもしれない。
しかし、どうしたものか。
彼は本気とみた。
私は、どうやら自分にとって苦渋の決断をせまられているようだ。
ベッドの上で裸体の二人は、お互いに背を向けた。
彼に何か言わねばと思案していると、
後ろから、金石が私の体ごと彼の体全体で包み込む。
「僕はこうしてるの、幸せだなあ」
と私の背中に唇を寄せたような温もりを感じる。
また油断していた。
っていうか、かなり女性なれしてるな、こいつ。
「ちょっと、離してッ」
「ゴホッゴホッ、いやですー」
と、その時私のスマホの着信音が鳴り出した。
〜♫
私の着信音が鳴るのは珍しい。
さすがに金石から体を解放されて、ベッドから手を伸ばし、傍に落ちていたバッグからスマホを取り出した。
着信表示を確認すると、私は目を疑った。
山代主任……。
私は動揺を悟られないようになるべく冷静を装い、金石に先にシャワーを浴びるよう進め、彼が動き出したのを確認すると電話に出た。
「……神崎です」
「山代だが」と名乗る声に胸が締め付けられる。
布団を頭からかぶりベッドに座り込んだまま彼の声に聞き入る。
「突然すまない。……会えないか? 市民病院にいる。 次の土曜日に待ってる。良かっ……」
山代主任は急に言葉を詰まらせた。
「タオル、勝手にかりまーす」
金石の通る声が電話越しに相手に聞こえたからだろうか。
しかし、私には金石の声なんて聞く価値もなかった。山代主任の言葉の続きに精神を統一していたからだ。
「良かったら来てほしい」
「……」
胸が熱くなって、返事が出来ない。
「神崎?」名前を呼ばれて、込み上げていたものが溢れ出していく。
「……は、い」
そう返事をするのが精一杯だった。
「じゃあ、まってる」それに私が返事をしないまま電話は切れた。
嬉しくて、嬉しくて。
小刻みに震える自分の体を交差させた腕で締め付け、やっと流せた涙に感情を託した。
最後まで読んで頂きありがとうございます。
次稿もがんばります。
宜しくお願い致します。