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——三年後。
私が未だに行き遅れているのは……一体誰のせいだろうか。
自分の山代主任に対する想いに気付いた時には、本人はすでに日本に居なかった……とか。
あり得ない。
しかも、そう自分に問い続けて三年。
彼を忘れられない日々を送るとは自分でも予想しなかった事態だ。
あの日、バーのマスターが話していた話の内容……泥酔していた私のうっすらな記憶が蘇ったのは、転勤後しばらく経ってからだった。
当時の泥酔した私がその話が山代主任のことだと気付く訳がない。
もしそこで山代主任の海外転勤のことが分かっていたら、私はもう少しマシな行動が出来ただろうと思う。
とにかく色々な状況が重なってしまい、私は未だに行き遅れているのだろう。
そういう話を私は今日も、つばさちゃんに永遠グチったのである。
「今日は貴重な休日を使わせちゃって……ありがとね。また、一年後かな? 連絡するね」
「一年後じゃなくても連絡して下さい!! 何かあったら絶対ですよ! 光さんっ」
私が転勤した後も10月になると、一年分のおしゃべりをすべく、今日のようにつばさちゃんに会いに行くのがここ数年の恒例となっている。
夕方、暗くならないうちに彼女を懐かしの社宅まで送って行き、別れた。
社宅を後にすると、私は歩みを迷わず一方に進めた。
毎年ここまで来ると寄らずにはいられない。
私は10階建てのマンションまで来るとベランダの見える南側の道沿いへと回った。
その5階の一番東側。
そこを目指して視線をゆっくりと上げて行く。
彼はアメリカに居るのだから、その部屋にいる訳はない。
たとえそうだとしても、もしかしたらという思いが捨てきれないのだ。
そして、今日も彼の姿はもちろんなく、それでもしばらくそのベランダを眺めると、私は帰宅を決断した。
がその時、部屋のベランダが開き、中から誰かが出てきた。
私は食い入るようにその人物に焦点を合わせる。
しかし、下からはほとんどその人影を確認できない。ベランダの柵が邪魔なのだ。
ただ、それは山代主任ではない事は確かだった。
どう見ても彼よりかなり小柄で、少し茶色がかった艶やかな髪の頭部のみがベランダ内で動き回っているのが見える。
女性だ……。
まさかマンションを他人に売ったのだろうか?
あの女性は、彼のご家族だろうか?
家族ならば、たまに掃除に寄るぐらいしてもおかしくはない。
ご家族……?
私に凄まじい不安がよぎった。
なぜ今までその考えに辿り着かなかったのだろう。
つくづく私の愚点には腹が立つ。
奥さん……かもしれない。
彼がこの三年で彼女や奥さんを作ることに何も不自然な点はないのだから。
どうしよう。
私はどうしたらいい?
あの部屋に彼が居るのなら……会いたい。
でも今部屋に乗り込むにも、あそこには知らない女性がいる。
彼に会いたいという早まる気持ちの行き場を、どう処理してよいか分からず、私はその場で右往左往していた。
「神崎?」
声のする方へ振り向く。
山代さんっ!
あまりの驚きに声も出ない。
ただ彼の立ち姿に眼を見張ることで精一杯だった。
あたふたする私に、山代主任は躊躇なく近づいて来た。
「こっちに来てたのか?」
こちらに歩きながら彼は話し出す。
「本物なのかな……」
思わず漏れた心の声はさらに漏れ出す。
「何か痩せた?」
そこまで口にしたところで、やっと自分の口からでた声に気付き、はっとし、慌てて口を手で覆う。
「久しぶりだな、神崎」
柔らかな声に反応し、近くで見上げた彼は、しかし相変わらず怖い顔をしている。
「お、お久しぶりです」
自分のこの心臓の音が漏れ出しそうで、私はうつむきながら挨拶をする。
「いつ日本に帰ってたんですか? 連絡してくださいよ」
そう言ってしまった自分が恥ずかしくなった。
これではまるで、私がずっと連絡を待っていたかのようではないか。
実際、待っていたけれども!
「連絡……?」
「いや。連絡待ってた訳じゃないですよ。全く待ってませんから」
恥ずかしさのあまり紅く染まっていく自分の顔を思い切り捻って隠す。
「こんな時にお前に会うとはな」
「え?」
小さく呟いた彼の言葉がはっきり聞こえず、聞き返すが「いや、何でもない」と軽く返された。
「実は……明日から入院する事になってる。そのために一週間前に帰って来たと言う訳だ」
「誰が?」
「俺が」
「…………え? 入院って……体がどうにかなったんです?」
あまりの動揺に日本語が上手く出てこない。
「そうだ。どうにかなった。恐らく手術もする。
……大腸癌と言われている」
神崎光、思考停止。
立って居られない。
私はその場にしゃがみ込んでしまった。
「なんだ? そんなに心配してくれるのか? でも、俺は大丈夫だ」
山代主任も私の傍にしゃがみ、優しい口調で語りかけてくる。
「手術が成功すれば、元の生活にも戻れる。それに……今は、そばにいてくれる女性もいる」
「だから……」と続けようとする山代主任の言葉を遮るように私は立ち上がると、その場から先ほどのベランダを見あげる。もう、さっきの女性の姿は無かった。
そして、彼と面と向かって言い放つ。
「だから……? だから何です? 私は山代さんの心配もできないんですか?」
なぜかここで、私の三年間の想いが爆発しだした。
もう言い出したら止まらない。
子供がただをこねて親を困らせる様に山代主任を困らせるのは分かっているのに。
「こっちは、何年も前の山代さんに触れられた感覚を、抱き締められた温もりを、優しさを忘れることもできず、その温もりをまた感じたいと、ずっとずっと……」
「だから、ご迷惑かけないようにしますので、お見舞いに行かせてください。心配させてください。それだけさせて下さい」
「お願いします」と私は彼に向かって深々と頭を下げた。
しかし、彼からは中々答えが返ってこなかった。
いつの間にか夜の帳がおりはじめ、それに反応した街灯にあかりが灯り始めた。
「……ダメだ」
私は頭を下げたまま、ゆっくり目を閉じた。
「俺を家で待ってくれてる。心配させるから、もう帰る。神崎も気をつけて帰るんだぞ」
彼が私の横を通り過ぎて行っても、私はしばらくその場から動けなかった。
「本当に私のこと、諦めたんですね……」
ひとりになり、自分で呟くと急に虚しさに襲われた。
しかし、不思議なことに涙は一滴も出てこなかった。
最後まで読んで頂きありがとうございます。
次稿もがんばりますので、宜しくお願い致します。