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7/11

山代主任の部屋で一日を過ごした日から既にニ週間が過ぎた。

そして、今や私の県外転勤は確実な情報となって、会社から言い渡されていた。


そして、山代主任はというと……


——神崎の事は……諦める


そう彼自身が言った通りである。

彼から私への思わせぶりな行動もなければ、いつかの様に避けられている風もない。

ごく普通の上司と部下という関係である。


まあ、今までもそうだったのだが。


あの日、山代主任の部屋で過ごした時間が夢だったのかと思わせる程に、ごく普通の日常が過ぎている。


そんな毎日が少し寂しいとも感じてしまうのは、たぶん気のせいだ。


「帰りました」


背中の後方、離れた席から森田が外から帰って来たであろう、声が聞こえて来る。


ふと時計に目をやると、既に16時を少し過ぎている。


もうこんな時間か。


私は今日の仕事を今日中に終わらせるべくラストスパートをかける事を決意する。


と、その前にコーヒーを。


そう思って給湯室へ向かった。

常に沸かしたてのコーヒーが常備されているのは嬉しい。

熱々のコーヒーを自前のカップに注ぎながら、この職場に通うのもあと数える程になったことを寂しく思った。

ここ一年であった出来事が思い出される。


森田が転勤して来たことによって回り出した私の中のひとつの歯車。それが周りの歯車を回して行き、私の心が良くも悪くも掻き回された。


この転勤を機にそれを止めよう。

また、私の平和な日常に戻そう。

そのためには……


森田のことを諦めよう。


今までも森田に何かを求めていた訳ではない。

ただ自分自身の心の持ち様の問題だ。


彼との妄想禁止!!


そう、そもそも妄想なんてするからいけないのだ。


妄想禁止令!

妄想禁止令!


「神崎さん? 動き、止まってますよ」


「ひゃっ……森田かあ……」


考えることに集中していて、全く森田の気配に気付かなかった。


「森田かぁって、そりゃないでしょ。悲しいなぁ。あ、コーヒーいいっすか?」


話しながら、森田が彼のカップを差し出してきた。

私はどうやらコーヒーメーカーの前をすっかり陣取ってしまっていたらしい。


「ごめん。邪魔しちゃってたね」


言いながら、彼のために注いだコーヒーを差し出す。


「どうしたんです? 転勤の事でも考えてたんすか?」


彼は、その場で一口コーヒーを口にすると、私に問いかけた。


「まぁ、そんなとこかな。何か寂しくなっちゃって」


言い終えて、森田の顔を見上げると彼とがっちり目が合う。

目が合うだけでドキッとしてしまう自分が情けない。


さっき、諦めると決めたのに。


しかし、もうこうして森田と目を合わせて会話をすることも無くなるのかと思うと、自分から目を逸らす事が出来ない。


彼が「あ、そうそう」と目を逸らしても、私は森田を名残惜しく眺め続けた。


「つばさが神崎さんの転勤をすごく悲しんでて、最後にまたランチ行きたいって……」


そう言いながら彼は再び私の方を見下ろした。しかし、彼は話の途中で言葉を詰まらせた。

たぶん、私の頬を一筋の涙が流れていたからだろう。


「神崎さん、そんなにつばさと別れるのが寂しいんっすか?」


森田は優しく微笑むとクスッと笑った。


「うん、寂しい……。……ごめん、この歳になると涙脆くて……やだなあ。何かホント、悲しくなって来ちゃったよ」


やばい、涙が止まらない。


私は仕方なく森田に背を向け、ハンカチで涙を抑えた。


つばさちゃんと会えなくなる寂しさがあるのは本当。

でも、今流れてしまった私の涙は森田のせいだ。

もう、あなたの顔も姿も声も匂いにも触れる事が出来なくなるんだよ。


「あの……神崎さん? とにかく、多分つばさからまた連絡あると思うんで、一緒にランチ行ってやってください。コーヒーありがとうございました」


「うん、分かった……」


私の返事を聞くと安心したのか、森田は給湯室を出て行こうとした。


「森田ッ」


私は振り返って森田の名前を呼んだ。

もう、こうして森田と二人きりで話す機会がいつ訪れるか分からない。

そう思ったら、森田を引き止めずにはいられなかった。


森田に最後のお別れの言葉を言わなければならない。

私自身のために。


森田はこちらに首だけで振り返る。

それを確認し彼の瞳を捉えると、私は言葉を紡ごうと努力する。


「森田……と……」


ただのお別れの挨拶だ。

「ありがとう」って告げるだけだ。

なのに中々喉から声が出てくれない。

頭から言葉が紡ぎ出せない。


「何っすか?」


彼が完全にこちらを向き、いつも通りそう言ってくれた事で、私の中で何かの栓が開いてくれた。


「森田……とつばさちゃんが近くに居てくれて、ずっと心強かったよ。本当にありがとう。お世話になりました」


言えた。


私は森田に軽く頭を下げて、顔をあげると彼に向けて私の最大級の笑顔を向けた。


すると、森田は右手を差し出して来た。


「こちらこそ、我が家がすっごいお世話になりました。寂しくなりますけど、神崎さんも元気で頑張ってください」


「うん……」


この時、森田が見せた笑顔は多分、おそらく、絶対一生忘れる事は無いと思う。

それぐらい爽やかな綺麗な笑顔だった。


私も彼の差し出した右手に自分の右手を合わせ、サヨナラの握手を交わした。


ありがとう、さようなら……森田。




引越し前、最後の休日である九月最後の日曜日。


私とつばさちゃんはお別れランチ中だ。

私たちはどちらもパスタ好きのため、本日も行きつけのパスタ屋さんにいる。


「つばさちゃん、ひとつ聞いてほしい事があるんだけど」


お互いの注文した品が届き、食べ始めた頃を見計らって、私は意を決して口を開いた。

今日、私は友人であるつばさちゃんには、きちんと報告すべきだと決断して来た。


「前にさ、結婚とか彼氏とかそういう気持ちが高まった時に話を聞いて、って言ったの覚えてる?」


「覚えてますよ! そういう気持ちになったんです?」


つばさちゃん……。

めちゃめちゃ興味深々ななんだけど……。


「そういう気持ち、っていうか……。もう、自分の中で終わりにしたから、その報告」


「報告って……。やっぱり好きな人がいたんですか?!」


「ごめん、どうしても言えなくて。ずっと……好きだった人がいた。もう何年も好きだったな。相手にはずっと婚約者が居たから初めから見込みは無かったんだけど。一方的にずっと私が勝手に好きだっただけ」


うむ。嘘はいってない、よね。

ちょっと誤魔化しただけ。


「そんなに好きだったんですね、その人のこと」


「そう。でも、彼とどうにかなりたいとかは全く無かったかな。ただ好きでいるだけで幸せだった」


「この転勤を機に諦めたってことです?」


こうやって、割と濃い会話をしていても我々のパスタは、どんどん口に入っていく。


「諦めるっていうか、はじめから諦めてたんだけどね。自分にケジメを付けることにした、が正しいかな」


しかし、ここでつばさちゃんはフォークを置いた。


「なんか、その話きいてると……。あの気を悪くしないで聞いてくださいね。その人のこと、諦めて正解だったと思います。なんだか……私が推しのアイドルに抱いてる感覚と似てますもん」


アイドルに似てる??


私たち二人は、同時にお冷やを口にした。


「恋して好きなんだから、どきどきもするし、会いたいとも思う。私も推しが目の前に現れたら多分失神するぐらい興奮すると思います。でも、相手とどうこうなりたいわけじゃない。ただ、彼を応援して行きたいだけ。それは、自分の中で彼氏にしたり結婚出来ないのが分かっているから、一本線を引いてる」



「そうじゃないですか?」とつばさちゃんは私に意見した。


「う、うん……」


なるほど……正にその通りだ。

つばさちゃんのその考え方は、私の心の中の森田の存在にしっくり当てはまるものだった。

今まで森田に抱いていた恋心は、憧れに近い恋だったということか。

その答えに行き着いた途端に、今まで森田に抱いていた気持ちが一気に落ち着いて静かになっていくのが分かった。


この転勤のタイミングでそれに気付けて良かった。

でも、森田は私の中のアイドルで憧れということなら、これからも応援し続けよう。

素直にそう思う。

森田だけじゃなく、つばさちゃんそれにたっ君、三人の幸せを願いたい。


「つばさちゃん……その通りかもしれない。あー、何か目が覚めたなあ。ご指摘ありがとう。これでキッパリけじめをつけて次に進めるわッ」


つばさちゃんのおかげで、森田のこと、本当にスッキリした気がする。


私は知らぬ間に止まっていたパスタに再び手をつけ出した。

しばらく食べているうちに、このスッキリした森田への気持ちがとても心地よく感じ始めた。


こんな風に山代さんも私の事をスッキリ、キッパリ諦めたのかな?


ふと、山代主任に抱き寄せられた感覚が蘇ってくる。


——神崎の事は……諦める


私も山代さんも次こそは、心から愛せる人と幸せになれたらいいな。

お互いにもういい歳だしね。


でも、そう思った時、なぜか私の胸の奥で何かが胸騒ぎを起こした。


———-好きなんだ、神崎のこと


山代さんにそう言われた時のことを思い出す。

すると、私は急に胸が苦しくなり、思わず握った拳を胸に押し当ててしまった。


「光さん? 誰のこと思い出してるんです? まだ他に話したい事があるみたいですね……?」


「話してくれますよね」と、するどいつばさちゃんの攻めの言葉にかかると逃げられなかった。


私は山代さんとのこの一年間のこと、そして先日のお祭りの日の夜から翌日にかけてのことを全てつばさちゃんに話した。


名前は伏せて話し、森田への口止めを約束してもらった。


「光さん、その告白してきた人のこと……好きなんですね」


「は?」


そんなわけ無い。

たぶん……ちょっと優しくされたから、

ちょっとアプローチかけられたから、

勘違いしているだけだ。

勘違い?

何に勘違いしてるのだろう?

惹かれ始めていることに?

いやいやないない。


「胸に手を当てるぐらい苦しんでるのに。……好き以外何があるんです? ずっと好きだった人がただの憧れだった、って気付いた途端、本当に恋してたのは違う人だった、って分かっちゃったパターンですよね、光さん」


うそでしょ?


「光さん、その人に気持ちを伝えた方がいいですよ」


「いやでも、私のこと諦めた、って。それに私、そのひとのこと好きってまだ自覚ない……」


こちらが自分の気持ちの行き場を模索している間につばさちゃんはマシンガンの如く話を進めていく。


「いやいや、もう認めましょうよ、光さん!」


急に恥ずかしくなり自分の熱った顔を思わず両手で塞ぐ。


「好き……なのかな? やばい、やばい。本当にドキドキしてきちゃったじゃん」


30半ばのおばちゃんがこんなに恋にときめくとか、ありえる? 恥ずかしすぎるんだけど。


「その人、たぶん……今話聞いた感じだと光さんのこと諦めきれてないと思います。すぐに伝えるべきですよ。光さんの幸せのために」


「幸せか」と呟き、私は頭のなかで山代主任と暮らす日々を想像してみた。

たぶん、彼は私のことをすごく大事にしてくれるだろう。

愛してくれるだろう。

恐らく……小言でも言い合いながら楽しく過ごし、

私も彼も幸せになれるんだろう。


「私的には、女性は愛されてなんぼだとも思いますし。それに私はその人になら……何となく、光さんを託せる気がします」


「託せるって……」


確かにあの日は、山代さんに愛されてる、ってすごく感じた。


……でも、恐らく今は違うんだと思う。

私の様に、今は山代さんも彼自身の気持ちに区切りをつけているはず。


「とにかく、その人に伝えるべきです!」


「いや……」


「いや……、じゃないです!!」


そういうと、その後つばさちゃんは私の方へ上半身をのりだして、説得にかかって来たのだった。




次の日の月曜日。

本日は、転勤の辞令を受け取り、引き継ぎをする予定である。

そして、明日は転勤先への引越しだ。

したがって、山代主任に気持ちを伝えるなら、今日しかない。


昨日はつばさちゃんに散々説得を受け、私も何とか、今日、彼に気持ちを伝える決意をしたのだった。


……が、今日は山代主任が朝から出勤してない。


休暇なのだろうか?

仕方がない。

帰りに山代さんの自宅に乗り込むしかないか……。



そして、その日の夕方。

転勤の挨拶のため、転勤者が全員集められ、職場全体に向かって一列に並び、一人ずつ最後の挨拶をした。

転勤者七名の全員の挨拶が終わると、この職場で一番のお偉いさんである所長が話し出す。


「七名の皆さん、新しい職場でも各々の力をしっかり発揮して頑張ってください」


その言葉に転勤者全員が所長に向かってそれぞれが一斉に礼をする。


これで挨拶儀式が終わりかと誰もが思った瞬間、「それから」と所長が続けた。


「今日は出勤してないですが、山代くんは本日付けでアメリカのロサンゼルス事業所の勤務となりました」


山代さんがアメリカに?!


一気に全身の血の気が引いていく。

自分の心臓の音と所長の言葉が耳の奥でこだまする。

傾きそうな体を必死に固定し、続く所長の話に食らいつく。


「今日は、飛行機の時間の関係で朝一番で辞令を渡し、既にあちらへ出発してくれています」


既に日本を経った……。


この時点で、私が彼に気持ちを伝える機会をすでに喪失した事が判明した。

体の前で重ねた両手が小刻みに震え出す。


「彼の意向で、彼の海外転勤のことは今まで口外してませんでしたが、皆様にはくれぐれも宜しくとのことでしたので、この場をお借りしてお伝えしておきます」


その後、私に涙を流して悲しむ時間は無かった。

自分のデスクを片付け、職場に別れを告げると自宅に帰った。

自宅に帰ると、明日の引越しに向け作業の仕上げに追われた。

食事をする時間も入浴することもせず、日付が変わっても荷造りや掃除に没頭した。

体を休めてしまうと考えてしまいそうで……怖かった。


————もう、いいんだ


山代主任があの日、繰り返した言葉の裏には一体何が隠されていたのかを。








最後まで読んで頂きありがとうございます。


次話への活力のため

評価や感想、いいねでのフィードバックを頂けると嬉しいです。


宜しくお願い致します。

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