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まだまだ暑い日が続く9月に入ったばかりの休日、私はのんびり街中でのショッピングで時間を潰していた。
そうした昼過ぎのこと、その知らせは突然にやってきた。
「神崎さん、今日すごい話を聞いてしまいました」
電話の相手は同じ職場の後輩清水ちゃん。
「何?なに?」と話を促す。
「神崎さん、次県外転勤みたいですよ」
「県外……転勤?」
「そうです。これは、かなり確実な情報ですよ」
「うそでしょ」
うそでしょ。うそでしょ。
今年の春、社宅を退去させられて、ただでさえ森田との朝の会話が無くなったというのに、転勤?
森田との関わりが全く無くなってしまうってこと?
しかも、部屋借りたばかりだし、なんでなんだよー。
その後の清水ちゃんとの電話での会話はほとんど記憶がない。森田を目にすることも叶わなくなる日がもう直ぐ来てしまう、その寂しさが身体中を駆け巡っていたからだ。
さっきまで、ひとり、休日のショッピングをのんびり楽しんでいたのに、一気に目の前が真っ暗になったようだ。
その後、あてもなく街中を歩き続けた私は、周りが暗くなってきたことに気付き、やっと時計に目をやった。
「もう、6時半か……」
そう呟くと、周囲を見渡した。バスで帰ろうとしていた道のりを知らぬ間に自分のアパートの近くまで歩いて帰って来てしまっていた。
あれ? 今日、神社のお祭りだったんだ。
道の少し先に賑やかな神社の様子が見えた。
4月から借りているアパートは、以前住んでいた社宅からそんなに離れていない。この神社に足を運んだ事は何度かあるが、お祭りには行ったことが無かった。
まあ、一緒に行く相手もいないからなんだけど。
私は神社の和風の穏やかなネオンに癒しを求めて鳥居をくぐった。小さな神社だが、屋台もいくつかあり、わりと多くの人で賑わっている。
今日は、疲れたし、夕飯は屋台で買って帰ろう。
私はお参りを済まし、屋台をゆっくり物色する。
そうして時間を潰しているうちに暗くなっていた心が少しだけほぐれた気がした。
すると、鳥居をくぐって参道をこちらに歩く森田が目に入った。紺色の浴衣が長身でスラリとした彼にすごく、すごく似合っている。
眺めているだけで心臓の音がうるさい。
ああ、やっぱり森田のこと好きだ。
しかし、次の瞬間、森田の隣にいる、浴衣姿のつばさちゃんと甚平に身を包むたっ君が視界にはいった。森田を真ん中に両端にはたのしそうに会話を交わす彼の家族。
やっぱり家族といる時の森田の顔が一番幸せそうだ。
私には、この幸せいっぱいの森田家に割って入る隙なんてないんだ。
そう思ったら、私は無性に虚しく、寂しく、悲しくなった。
この森田への気持ちはどうすればよいのだろう。
後にも引けず、先にも行けない。
森田を感じる度にまた、好きだな、って溢れるこの気持ちをどうしたら良いのだろう。
太平洋のど真ん中でひたすら水平線の先を求めて泳いでいる様だ。
私は、参道沿いに並ぶ屋台の間を裏側に抜け、とにかく走った。
誰にも会いたくなかった。
走りながら、暗い道の中で出てくる涙を流し放題に流した。
しかし、35歳。そんな長い距離は走れない。誰もいない暗い小道で一旦止まり、両手を膝に預け、荒い呼吸と涙を止めようとした。
「心も体もボロボロだ」
自分で呟くとさらに虚しさがまし、また涙が込み上げてくる。満天の星空に向けて顔をあげ、涙を必死でこらえた。
「なんでボロボロなんだ?」
振り返ると、こちらに近づく山代主任がいた。
何でここにいるのだ、あなたは。
「……いつから見てたんですか? 私ボロボロなんでじろじろ見ないで下さい」
山代主任から、目を逸らし、私は半ギレ状態で言い放った。
泣き過ぎた顔で彼をまともに見ることができず、彼の表情は分からなかったが、返事はない。
「今、私誰とも話す気分じゃないんで、失礼します」
我ながら非常にやな態度だ。相手に本当に失礼だ。
しかし、今の私には平常心を保つ力も残っていない。
山代主任の返事を待たずに私は彼を背にして早歩きで立ち去ろうとした。
が、掴まれた腕がその歩みを止めた。
「森田なのか?」
その質問に山代主任とガッチリ目が重なった。
そんな事、答えられる訳がない。
私は、掴まれた手から逃れようとした。
しかし、太く力強い山代主任の手からは決して逃げられなかった。
「お前のボロボロの原因は森田なのか、と聞いてるんだが?」
もうこの腕からは逃れられない、この質問からも逃れられない。
私はもう全てがどうでもよくなった。
そして、その質問にやけになって答えた。
「私のタイプのドストライクなんですよ。仕方ないじゃないですか。
森田以外の人を好きになるとか、もう考えられないんです」
私は、今まで森田への思いを他言したことは一度もなかった。
なのに、言ってしまった。
既に後の祭りである。
私は流れに任せて喋り続けた。
「私、自分の転勤のこと聞いちゃったんです。だから、もう完全に森田からひき離されるんですよ。
もう、この想いを断ち切れってことなんですかね。
……すみません、なんで山代さんにこんなこと話してるんだろう。ご迷惑をお掛けしました。
今、話したことは聞かなかったことにして下さい。本当にすみませんでした」
「……もう、帰りたいので、手を離してもらえませんか」
そう伝えても何の言葉も返ってこない。
「お願いします、離して下さい」と私がもう一度言うと、山代主任は逆に益々力を入れて私の腕を掴み直し、彼の力強い手によって体ごと引っ張られる。
どんどん進む山代主任に、私はただ引っ張られ、ついて行くしかなかった。
「どこに行くんですか?」
「俺の家だ。この近くだから」
「え?」
しばらく山代主任にぐいぐい引っ張られ、しばらく引っ張られるままに歩くと山代主任のマンションに着いた。
山代主任は、私を部屋の玄関に入れると扉をしめ、私の腕から手を離した。
すると、すぐに彼の大きな両手が私の顔を包み込み、頭が固定されたと同時にお互いの唇が柔らかく重なった。
一瞬の出来事で、何が起きたか分からず、私は抵抗することも出来なかった。
キスされた。
お互いの唇が離れた時、私はそれを認識した。
そして、何故か私は数秒のこの優しいキスに身に覚えがある気がした。
しかし、それについてはどうでも良かった。
彼に対する怒りが込み上げて来たからだ。
「こ、こうやって、山代さんは傷ついた女の人をいつもなぐさめるんですか? 酷くないですか。腕だって痛かったし。」
「ちがっ、すまない」
「謝っても、もう今の無しに出来ないんですよ。しかも、私の久々のキスだったんですよ。なんで……」
なんで、よりによって山代主任なのだ。
森田とが良かった。
森田とキスしたかった。
ああ、もうズタボロだ。
悲しくなってくる。
胸の底から苦しくて、苦しくて、私の目からまた涙が流れでる。
こんなズタボロの自分を他人に見られることも最悪だが、これについても、もう取り返しがつかない。
もう、その場から逃げ出す元気もなかった。
すると、そんな私の姿を黙って見ていたであろう山代主任が沈黙を破った。
「好きなんだ、神崎のこと。
……ずっと、ずっと、神崎が森田から離れられないように、俺も神崎からずっと離れられないでいる」
は?
私の思考回路が停止した。
ただ、山代主任の瞳から目が離せず、自分の心臓の音だけがバクバク聞こえてくる。
あまりにも思いもよらない発言を聞いたからなのか、「好きだ」と言われた事自体が久々過ぎたからなのだろうか。
言葉が全く出てこない。
そうしているうちに、山代主任と最近の関わりが順に思い出された。
傘の事件、忘年会、給湯室、職場での彼の様子。
確かに色々助けてもらった。
……つまりは、そういう事だったのか。
私は山代主任から目を逸らすと、ゆっくり呼吸を整えた後、彼に向き直った。
「山代さん、すみません。今の私には無理です。その気持ちに向き合えません」
今は山代主任の気持ちに応えることは出来い。私の心の中は森田でいっぱいなのだから。
そう伝えると、もう山代主任と目を合わせることも、同じ場に立っていることに耐えられなくなった。
私は、玄関のノブに手を掛け部屋を出ていこうとした。しかし、またしても山代主任に腕を掴まれた。
「ひとりにしておけない」
「え?」と私は振り返った。
「そんな状態の神崎をひとりにしておけない。
今夜はここにいてくれないか?」
優しくて悲しい口調だった。
顔はいつも通り眉間に皺が寄っていて怖いけど。
正直、ズタボロの私は、その優しい言葉に一瞬甘えそうになった。
しかし、答えは考えなくても分かっている。
「無理です。腕を離して下さい。帰ります」
それでも、山代主任は離してくれない。
また、私も彼の手を振り離そうと足掻いた。
「森田のことでこんなに苦しんでるのに、山代さんに私を慰められるんですか?
森田じゃないとだめなんですよ、私は」
きちんと彼の目をみて訴えると、山代主任はやっと私の腕を解放してくれた。
「話、聞いてくださってありがとうございました。失礼します」
最後にお礼を言って私は山代主任の部屋を出た。
何なのだ。
もう今日は心がぐちゃぐちゃだ。
その後も涙が後から後から流れ出て止まってくれない。
しかし、この状態でひとり自宅に帰っても悶々とした気持ちで過ごすのが目に見えている。
ところが、森田のことを相談し、慰めてくれる知り合いもいない。
誰かに慰めてほしい。
でも、山代主任のとこには絶対に行けない。
酷いことも沢山言ってしまった。
会社でまた無視されるのかな。
月曜仕事、行きたくないな。
しばらく夜道を一人で歩いていると、なぜか山代主任の優しさが恋しくなった。
森田のことをぶっちゃけてしまったからかもしれない。もう、私を受け止めて甘えられる相手は山代主任しかいないんじゃないか、という錯覚にまで陥った。
多分、私は相当弱っているのだと思う。
そして、私はその錯覚に負け、山代主任に電話してしまった。
「もしもし、神崎?」と山代主任は、直ぐに電話に出てくれた。
「私を……どこか遠くに連れて行ってください。
森田のこと忘れられる楽しいとこに連れて行ってくれませんか」
「神崎……?」
山代主任の声を聞いた途端、こうして電話してしまった自分を後悔した。弱い自分に負けたせいだ。電話したのは間違いだった。
「って、無理ですよね。はははっ。冗談です。月曜日から気不味くなるのいやだったんで、謝っとこうと思っただけなんで。あ、さっきはすみませんでした。じゃ、また月曜日に」
「どこにいる? どこにいるんだ? 神崎」
電話の向こうから、必死に話しかける山代主任の声に一瞬、電話を切るのを渋ってしまった。しかし、それを聞かなかったことにして、私は意を決して電話を切った。
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