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2月も後半になり、寒さもやっと山を超えたようで、風にも春の気配を感じる頃になりました。
私はと言うと、平日は職場で毎日森田を身近に感じながら非日常になった日常を幸せに過ごしています。
朝は駐車場で森田と会話を交わし、職場では森田の声や姿を確認できる。あわよくば、話も出来る。
幸せだぁ!!
しかし、一方で非常にモヤモヤしています。しかもかれこれ2ヶ月も。
その原因こそ、今も私の斜め左前の席で無心で仕事に取り組む山代主任だ。
そう。忘年会の日から、山代主任がまったく目を合わせてくれなくなったのだ。
確かに、忘年会の日も迷惑をかけたのだが……きちんとお詫びはしたし。
私が何か他に失態をやらかした噂も聞かない。
とにかく、山代主任は、私との会話が辿々(たどたど)しく、私と話すのを嫌がっているように感じられる。
それまでは、すごい形相で睨んでたくせに。
何なのだ、この独り身おっさんは!
って、山代主任の五歳年下の私も独り身のおばさんなのだが。
今日も山代主任から来た社内メールを開くと、
文章の直しをいちいちメールで送って来やがったのだ!
ちょっと、傍に私を呼んで訂正箇所を言ってくれても良いと思う。
そんなに私と話したくないのか。
とにかく、上司の山代主任がこれだと非常に仕事がやりにくいのだ。
そんなモヤモヤを解消すべく、今、つばさちゃんと久々の休日ランチ中。
彼女の息子、たっ君は森田が外に遊びに連れて行ってくれているらしい。森田はイケメンのイクメンだ。すばらしい。
「光さん、部屋きまりそうなんです?」
「いや、全然。なんか気が向かなくてさ」
「そんなに渋るってことは、誰か同棲してほしい人でもいるんですか」
「つばさちゃん、相変わらず直球だね。そんな人がいたらもうとっくに結婚してるし、そんな相手いないって分かってて聞くのやめて」
つばさちゃんは、森田の奥様。
森田と同級生で、完全に美男美女のご夫婦なわけですよ。
一方で、つばさちゃんと私はかなり気のあう同士で、皮肉なことに我々は結構良好な友人関係なのである。
「分かりました。すみません。はははっ。でも、ほんと不思議だなあ。光さん、絶対モテるでしょ。言い寄られる事とかないんです?」
私は、はーっ、と深いため息ついて答えた。
「つばさちゃん、私の社会は狭いわけ。毎日職場と家の往復で終わる一日なんだよ。しかも職場にそんな人が居るわけないし、いたらマジ困るでしょ。仕事に支障がでたりさ」
しかも、あなたの旦那に一筋なのに、他に告られても多分、他人にときめく自信もない。
「そうなんです? もったいないなぁ」
「そう言ってくれるのはつばさちゃんだけよ。とにかくまず、私には出会いがないわけよ」
「誰か紹介しましょうか? って、それで光さんと気不味くなるのも嫌なんで、やめときます」
「つばさちゃん、ありがと。その気持ちだけで十分よ。自分の事だし特に焦ってもない。
結婚とか彼氏とかそういう気持ちが高まった時にでも、また話きいてくれたら、うれしいかな」
「そう言うことなら、分かりました」
そんな話をしながらも、私はつばさちゃん、あなたのことが心から羨ましいです。でも、森田とどうにかなりたいとも思わないし、森田家の幸せを壊そうとも思わない。
そんなこと出来るわけがない。
片肘を付いて頭を支えながら、いつの間にか、私はおいしそうにボロネーゼを口にするつばさちゃんを眺めていた。
「あ、そう言えば、今年もチョコありがとうございました。めっちゃ美味しかったです。旦那が一番食べてたかな」
森田も食べてくれたのね。何とも嬉しいです。
「それは、よかった! たっ君用のチョコも大丈夫だった? お子ちゃまのお菓子よく分かんなかったから、歯に優しいやつにしたんだけど」
「たっ君もあのチョコ大好きなんで、一気食いでしたよ」
「まじ? 悩んだ甲斐があったわ」
先日のバレンタイン。毎年、森田家にはチョコ渡すことにしている。今年はたっ君にもね。
私の中ではつばさちゃんには友チョコ、森田には本命チョコのつもり。
さすがに手作りは重いだろうから、買ったものなんだけどね。
喜んでもらえたみたいでよかった。
「私の職場は保育園なんで、唯一の男性が園長先生ってのもあって、女子職員全員で園長先生に毎年チョコ渡すんですけど、光さんは、職場の人にチョコ配るんですか?」
「そうだねえ。本当は配るのがいいんだろうけど、こんなおばさんに貰って嬉しいと思う? だから、もうここ数年は配ってないんだ。だから、森田家は特別よ。お世話になってるしね。ふふふ」
「それは、光栄です。ははは。」
「それより、つばさちゃんは旦那様にチョコとか毎年渡すの?」
「渡しますよ。今回はたっ君と一緒に作って渡したら、満弥君大騒ぎして喜んでましたよ。ははっ。」
「はははっ。さすが森田だ。ふふふ」
幸せそうな森田家が想像できる。
いいな。そういう家族。心底羨ましくなる。
その後「デザートも頼みましょうよ」と言うつばさちゃんに賛成し、私たちは二人のランチを最後までゆっくり楽しんだ。
さて、今日はホワイトデーです。
多分、おそらく、きっと、いや必ずや今朝は、社宅の駐車場で森田がバレンタインのお返しを渡してくれるはず。いや、森田家には渡したからね。それに、毎年お返しくれるし。期待してもいいよね。
ふふふ。
しかし……。
駐車場、森田の姿無し。
駐車場をうろうろするが、森田は来ない。
自分の車で五分待つが、森田は来ない。
森田が来ない。
森田が来ない。
私は、腕時計の時間と日にちをもう一度確認し、ため息をついた。
どんだけ期待してんだ私は!
朝からやはり、テンションが上がらない。
昼休憩だというのに今日は森田の姿が見当たらない。
壁掛けの在籍ボードをこっそり横目で確認すると、森田の欄は「休暇」となっているのが見えた。
今日は休暇だったのか。ホワイトデーだから、もしかしてつばさちゃんと宜しくやってるのかもしれない。いやいや、一般的に親子三人で、と言った方が健全か。
今日も職場後輩の清水ちゃんと上がらないテンションのまま社食でランチをすまし、一人トイレで午後からの気合いを入れ直す。
「ホワイトデーがなんだ、しっかりしろ、私」
小さな声で自分に喝を入れ、両手で両頬をぎゅっと押した。
「あ、神崎さん」
トイレから廊下へ出た所で、誰かに呼び止められた。
あ、森田だ!
「森田、今日休暇じゃなかった?」
コートを着たままの森田は、どうやら今出勤して来たところらしい。
毎日拝見してもドキドキする凛々しいお姿です。
「午後からの出勤にしてもらったんです。それよりちょっと、こっちにいいっすか?」
森田に手招きされ、トイレの奥にある給湯室に導かれる。
森田は廊下から顔を出して誰もいないのを確認すると、小さな紙袋を差し出した。
「これ、チョコのお返しです。朝、駐車場で渡したかったんですけど、拓也が熱出して、病院とか行ってたら遅くなっちゃって、すみません」
そう手渡され、私は紙袋を受け取った。
多分、いや絶対につばさちゃんと二人からのお返しなのは分かっているけど、嬉しい。
こうやって、森田が私に手渡してくれたことが嬉しい。
「そんな、たっ君が大変な時にごめんね。昼からは、つばさちゃんがたっ君をみてるの?」
「はい。つばさが昼から休みとってくれたんで任せてきました」
「よかったね。たっ君、お大事にね。あ、これありがと。大事に頂きます」
私は紙袋を胸まで抱えて私の中で最高の笑顔でお礼を言った。
「いえ。じゃ、僕昼イチで外行くんで」
「うん、行ってらっしゃい」
狭い給湯室の入り口を塞いでいた私は、森田に道を空けようと左へ一歩ずれた。
すると、私の左肩が隣にあった食器棚に当たり、棚がグラリっと揺れた。
次の瞬間、私の目の前が何かで塞がれた。
「あぶなっ。神崎さん、大丈夫です?」
目の前に立ち塞がっていたのは、森田の体だった。
しかも大接近。
いい匂いがする……。
視線を上に向けると、森田もこちらを見下ろしていた。森田の頭の上をさらに辿ると、両手で棚の上の花瓶を支えていた。
少し左に動いたつもりが、勢いよく棚にぶつかっていたらしい。森田と二人きりだった緊張からだったのかもしれない。
「だ、だ、大丈夫。ごめん。森田も大丈夫?」
「僕は大丈夫です」と言いながら、森田は花瓶を手に持ち、食器棚のたもとに置いた。
「棚の上に花瓶置いたの誰だよ。あぶな。」
そう言った森田の後ろに、山代主任がコーヒーカップを手に棒立ち無言で私たちを観察しているのが見えた。
いつから見られていたのだろう。
一瞬そんな不安を感じたが、私は色々と動揺し過ぎて山代主任に気を配る余裕が無かった。
「神崎さん、怪我なくてよかったです。じゃ、僕いきますね」
「うん、ありがとう。気をつけてね」
精神を集中して冷静を保ち、何とか森田に声をかけた。
森田は「はい」と言うと急いで給湯室を去って行った。
私は、その場にペタリと座り込んだ。
給湯室での二人きりだった緊張に加えて、森田に大接近された事件により、耳の奥から自分の心臓の音がバクバク聞こえてくる。
目を閉じ、自分の膝を抱えて平常心を取り戻そうとしたとき、足元に人の気配を感じた。
顔を上げると、山代主任が立っていた。
ああ、そうだった。
山代主任、いたんでしたね……。
「おい、神崎。具合悪いのか」
そう言いながら、山代主任は私の傍に自らもしゃがみ込んだ。
そして、私の顔を覗き込むと、手のひらを私の額に当てた。
「熱は無いようだな。顔が赤いから、また熱があるのかと思った」
「あ、ありがとうございます。大丈夫です。ちょっと気分が悪くなっただけですので。落ち着いたら戻ります」
「それならいい。横にならなくて大丈夫か」
優しい言葉が次々とでてくるが、山代主任の表情は相変わらず眉間に皺がよっていて怖い。実際は怖く無いのだけど。
そう考えていると、なんだか笑えてきた。
「ふふふっ」
「何がおかしい?」
「山代さんが怖い顔して、優しいこと言うからですよ。ふふふふふふっ」
「は?」
大笑いしたいところだったが、お腹と口を手で
塞ぐことでどうにか堪えた。
「はぁ、何か笑ったら落ち着きました。ふふっ、山代さん、ありがとうございます」
笑顔でお礼を言うと、私はその場にゆっくり立ち上がろうとした。
その私の片腕を山代主任が軽く支えてくれる。
「大丈夫ですから。あ、山代さんコーヒーですか?」
山代主任は、なぜか口を手で塞いでおり、目が泳いでいる。首を縦に振り、頷いた。
「じゃ、お礼にコーヒーを席までお持ちしますので、戻っといて下さい」
「す、すまないな」
「いいえ」と私が返事をすると山代主任は、背を向けた。
「あ、そうだ。山代さん、やっとまともに話してくれましたね。忘年会の日から何か私のこと避けてません? もうやめてくださいよ、仕事やりにくいんで」
「お願いしますよ」と念押ししたが、それに対する返事はなく、山代主任は背を向けたまま席に戻って行った。
全く何なのだ。あのひとは。今日も結局よくわからない。
まあ、取り敢えず、今回は山代主任に助けられた。感謝しよう。
そう思い直して、コーヒーを彼に届けに向かった。
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