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もう、覚えていないけれど

作者: 群青鈴

「ねぇヴィンセント、早くしてよー」

「今行くって、ちょっと待ってろ」


 先に湯船に浸かっているルイーゼロッテが、いつものように大声で叫んでいた。ヴィンセントは湯浴み用の肌着とズボンを急いで身に(まと)って浴場に入り、湯船には浸からずにすぐ側の風呂椅子に腰を下ろす。もちろん少女のことはなるべく視界に入れないように背中を向けてだ。


「あー、また服着てる。別に私は見えないんだから気にしなくて良いのに」

「けじめだよ。てかお前の方が何か着ろよ」


 くいくいと肌着の裾を引っ張っられたが、絶対に後ろは振り向かない。ヴィンセントが今ここにいるのは基本的に話し相手としてだ。あとは一応、目の見えない少女が——


「——うわっ!」


 突然の悲鳴とバシャッという水音が浴場に響き、肌着の裾にかかっていた力が消えたことを肌で感じる。それらの情報から、ルイーゼロッテに何かあったと瞬時に判断して振り返る。


「ルイーゼロ——」

「お、やっとこっち見た?」


 そこにいたのは、上半身を湯船の外に出して(へり)でうつ伏せになる少女。頬杖をついて、光が宿っていないはずの瞳を真っ直ぐにヴィンセントへ向けていた。満面の笑みだ。


「……はぁー」


 もちろん何事もない。水音は足で作り出したのだろう。

 結局、ヴィンセントが六つも下の少女の裸を見てしまっただけだ。それだって洗う時に見慣れてはいるので、深いため息しか出て来ず再び背中を向ける。


「あー、ごめんってば! いつも通りちゃんと肩まで浸かるから。ほら、ヴィンセントもこっち向いて。お話ししよ」


 ザブッと大きめに音を出しながら、ルイーゼロッテは慌てて声を上げる。

 この少女は目が見えない分その他の感覚が鋭敏になっているようで、こっそり背中を向けて話してもバレて機嫌を悪くされてしまう。というわけでお()りを務めるヴィンセントは渋々といった表情を浮かべて、だだっ広い浴槽の隅っこでちょこんと正座している少女と対峙する。


「……分かったよ。で、何を聞きたい?」

「ヴィンセントの好きな女性のタイプ!」


 案の定、最初の質問はいつも同じだ。


「……ルイーゼロッテ」

「あはっ! もう、ヴィンセントは正直者なんだからー」

「ただしもうちょっと年上な。お前じゃお子様すぎるから」


 何度も聞いたことあるくせにまだ照れることができるらしく、ルイーゼロッテの頬がほのかに朱に染まっている。十四ならもう少し大人っぽいものだと思っていたが、残念ながらこれこそ世に『聖女』として名を(とどろ)かせる少女の真の姿である。




****




 風呂も終わって食事の時間。これまただだっ広い部屋に、たった二人で無駄に大きなテーブルを挟んで座っている。テーブルの上には絵に描いたように豪勢な料理が所狭しと並んでいた。絶対に二人で食べきれない。聞くところによると、一週間ぶりにヴィンセントが帰ってくるということで、ルイーゼロッテがわがままを言って用意させたらしい。


「私思うんだけどさ」

「ん……何が?」


 唐突にルイーゼロッテが話しかけてきたので、ヴィンセントは咀嚼(そしゃく)を中断して、まだ少し大きいチキンを無理矢理飲み込み返事をする。


「私って味も匂いも分からないから、今食べてるこれが凄まじい異臭を発してる無害な物質でも、そうと知らずに食べてるんだよね。そんな私ってヴィンセントから見たらどう映ってるのかな。実は鼻つまんで笑いを必死に堪えてたりして」


 見えないくせに目の前にスプーンを持ってきて、なぜかドヤ顔を披露している。そのスプーンの中に入っているのは、盲目の少女が食べやすいようにペーストして大きめの一口サイズでカットされた何かで、同じようにセットされているスプーンが数十はあるので、ルイーゼロッテが何を食べているのかヴィンセントにも分からないのは確かだ。

 だがこの屋敷に暮らす使用人たちが少女を慕ってくれていることは知っているので、冗談とは分かっていても一応たしなめる。


「料理長がお前のために毎日手作りしてくれてるんだから。そんな失礼なこと言ってないでちゃんと感謝の言葉伝えろよ」

「分かってるって。毎日ごちそうさまって言ってるよ」

「よし、えらいえらい」


 こんな雑な褒め方でも、ルイーゼロッテはだらしない笑みを浮かべる。ただ『聖女』として表に出る時はきっちり外面を作っているので、二人だけの時くらい別に良いかと最近ではヴィンセントが注意することもなくなった。


「ねぇ、ヴィンセント……美味しい?」

「ああ、美味いぞ。こんなもの食べれて俺は幸せだ」

「ふふ……そっか、良かった」


 無味無臭のものを栄養のためだけに食べるとはどんな感覚なのか。ヴィンセントには想像もつかないが、それでも少女が自分と一緒に食べる時は楽しそうにしてくれることに心底安堵していた。




****




「『聖女』様、お願いします」

「分かりました」


 今日は商談が早めに終わったので、ルイーゼロッテの様子を見に協会に来ていた。相変わらず、良く言えば由緒正しく歴史のある、悪く言えば古臭い場所だ。所々ガタがきているので、ルイーゼロッテは「もっと綺麗な協会に移りたい」とよく文句を言っていたが、ヴィンセントはいつもなだめていた。

 ルイーゼロッテは昨晩のやんちゃな姿はすっかり影を潜め、正真正銘『聖女』に相応しい立ち居振る舞いをしている。修道服から流れるサラサラの金の髪も、まだ十四の幼い顔立ちを補って神秘的に見せていた。


「……終わりましたよ」


 慈愛の笑みで、(ひざまず)いていた青年に告げた。青年は両手を握って開いてを繰り返し、確かに『聖女』の()()の効果を感じられたのか、すごい勢いでルイーゼロッテの手を掴む。


「ぁあ、ありがとうございます。この御恩は一生忘れません。本当に、本当に……」


 まるで神を崇めているかのように何度も何度も、礼を繰り返した。最終的には周りの神官に引き剥がされたが、ルイーゼロッテは終始笑みを浮かべてその青年に応えていた。


「あの坊主の気持ち、よく分かるぜ。やっぱ『聖女』様はすげえよな……なあ、兄ちゃんもそう思うだろ?」


 唐突に、後ろに座るおじさんに話しかけられた。(いか)つい眼帯をしていたのであまり関わりたくなかったが、さすがに肩に手を置かれては無視するわけにもいかず、曖昧な笑みで答える。


「ええ、そうですね」


 それからルイーゼロッテはさらに五人に、自身が行使できるたった一つの魔法を施し、その度に眼帯おじさんは気分良さげに大きく頷いていた。

 ルイーゼロッテは、最初から最後まで『聖女』だった。




****




「いいなぁ。私も色んなとこ旅行したいなぁ。あと、ヴィンセントみたいに商談とかもしてみたいし」

「いつか、お前が自由になったら」


 ソファに腰を下ろすヴィンセントの足の間に座るルイーゼロッテは、体を完全に倒して全身をヴィンセントに預けていた。『聖女』として身なりには気を遣っているおかげか、薄暗い部屋でも存在感を放つサラサラの金髪。撫でてやるとまるで猫が喉を鳴らしているように「んんー」と嬉しそうに声を上げて身を少し捩らせる。

 そのまましばらく可愛がっていると、


「……この魔法のせいで旅もできないのかぁ」

「お前は頑張ってるよ。えらいえらい」


 夜も深くなってきて、ルイーゼロッテからぽろっと弱音が(こぼ)れる。それを癒すのもヴィンセントの役目だ。

 少女はその言葉で満足したようで、自身の顔ほどあるヴィンセントの右手を両手で包んで握ったりつねったりしてきた。これは少女のお気に入りのスキンシップらしい。


「ヴィンセントの”代償”、私大好きだよ……ねぇ、ヴィンセントの好きなタイプは?」

「……お前だよ。ただしもっと年上だから……言っとくけど、俺は嘘をつけないだけで黙秘はできるんだからな」


 魔法を覚えるにはそれに見合った”代償”を支払わなければならない。ヴィンセントがある魔法を覚えるために支払った”代償”が『嘘』だ。つまり、ヴィンセントの口から嘘は生まれない。


「えへへ……それでもちゃんと言ってくれるんだから、大好きだよ」

「お前は二年間も言われて飽きないのかよ……あ、おい——」


 今は腕を上げてヴィンセントの顔をいじっていたルイーゼロッテが、不意に振り向いて顔を近づけてきた。気づいた時には目と鼻の先。不意打ちにヴィンセントは反応できるわけもなく、両頬に添えられる少女の小さな手から伝わる体温だけを感じながら、なされるがままとなり——


「?……ルイーゼロ——」

「あはは……”代償”だったみたい……」


 寸前のところで不自然に()()()()()ルイーゼロッテは、消えそうな声で呟くとなぜか笑う。明らかに泣きそうな声なのに、完璧な笑みを浮かべてみせた。

 そのチグハグさにヴィンセントが言葉を探していると、


「……もう寝るね。おやすみ」


 先にルイーゼロッテは立ち上がってベットへ入ってしまった。オーダーメイドの一級品なはずだが、いつだったか「ヴィンセントの胸の中の方がよく眠れる」と言われたことが頭をよぎる。


「……今日は俺も一緒にいてやろうか?」


 返答はなかったが様子を見に行くと、明らかにルイーゼロッテは端に寄ってベットの上にスペースを作っていた。「入るぞ」と許可を取ってから布団に潜り込む。


「……ん?」


 ルイーゼロッテの方を向いて横になると、すぐさまガサゴソと移動して少女は胸の中に入り込んできた。片方の手を背中に回して撫でてやる。


「……ごめんね、変なことしちゃって。私が”代償”を把握してないせいで……」


 密着していないと聞き取れないような声だった。うずくまっているので表情も確認できない。


「気にすんな。お前、教えられてないんだから仕方ないだろ」


 普通、”代償”は自分で決める。専用の紙に記して教会で特殊な儀式を行うことで、魔法を覚えることができるのだ。ただルイーゼロッテの場合はちょっと特殊で、他人が”代償”を決めたというだけだ。


「……何で私ばっかり」


 トン、と。胸に小さな拳が叩きつけられる。


「……私、ちゃんとやってるよね」

「ああ」


 夕方に見た少女の姿は、絵に描いたような『聖女』だった。


「ヴィンセントの顔が見れなくても、ヴィンセントと同じ食事をできなくても、泣きたい時に涙が出なくても……ちゃんとやってるよね」

「ああ。お前は頑張ってるよ。えらいえらい」


 ヴィンセントの寝巻きの胸元辺りがギュッと掴まれていた。

 震える少女の頭を優しく撫でる。


「なら! 何で私はこんな目に合わないといけないの! いいじゃん! 好きな人とキスくらい……何でそんなことも許してくれないの!」


 普段抑えていた気持ちが(あふ)れ出るように、涙が出ない代わりに拳が飛んでくる。それを受け止めてやることくらいしかヴィンセントにはできなかった。


「えらいえらい」

「ルイーゼロッテは頑張ってる」

「一番頑張ってる」


 赤子をあやすように。暴れる少女を抱きしめて、言葉をかけ続ける。

 やがて疲れたのかスヤスヤと寝息を立て始めたのを確認して、ヴィンセントは小さくため息を吐く。胸の中で眠る少女の表情はあどけなく、さっきあれだけ暴れていたのに涙の跡一つない。


「……ごめんな」


 魔法を覚えるには見合った”代償”が必要だ。ならば、不釣り合いな”代償”を支払った場合どうなるのか? 答えは簡単だ。


 ——魔法は覚えられず”代償”だけ支払われる。


 だというのに、覚えたい魔法に見合う”代償”というものは、人によって違うし正確には誰にも分からない。

 例えば料理長は火を出す魔法を覚えるために、『一年間の成長』を”代償”にしたらしい。だが”代償”は不釣り合いだと判断され、魔法は覚えられなかったが、向こう一年間髪も爪も伸びなかったと言う。そう、”代償”だけは必ず失われるのだ。


「……ほんと、お前はすごいよ」


 だが、ルイーゼロッテが覚えた魔法はそんな世界の法則をねじ曲げるものだ。一般に『聖女』様の奇跡と呼ばれる魔法とは……


 ——触れた相手の魔法を全て忘れさせ、あらゆる”代償”をリセットする魔法。


 強力な魔法を覚えようとそれなりに重い”代償”を支払って失敗した場合、これほどありがたい魔法はない。忘れた魔法は一生覚えられなくなるが、重い”代償”に縛られて一生を過ごすよりずっとマシだ。実際、毎日のように国中からルイーゼロッテを頼って多くの人々が訪れている。

 ……こんな小さな少女がどれだけの”代償”に縛られているか知りもせずに。


 目が見えないのも。

 味と匂いを感じられないのも。

 キスをできないのも。

 涙を流せないのも。


 全部、少女が支払わされた”代償”のせいだ。他にも大きなものから小さなものまで数え切れないほどある。

 だが、何より一番少女を苦しめているのはこの魔法が無差別な点だ。今の時代に魔法を使わず生活している人なんていない。だから、触れば無条件で相手の魔法を忘れされられる少女は、接触を避けられてきた。結果、ルイーゼロッテは孤独を感じて生きてきたのだ。





「ん……あっ!」


 翌朝、ルイーゼロッテは目を(こす)りながら昨日の晩を思い出したのか、ベットの上で素早く正座になる。だが正面にヴィンセントがいるか分からないと気付いたらしく、キョロキョロと首を動かす。


「こっちだ、こっち」


 ヴィンセントは声を上げながら後ろからルイーゼロッテの肩を叩く。少女はぴょんと飛び跳ねて半回転し、綺麗にヴィンセントの方に向き直った。


「えっと……昨晩は大変ご迷惑をおかけしました」


 深く頭を下げ、ベットに擦り付ける。


「いいから顔上げろ。気にすんなって」


 無理やり上体を起こさせ、ついでに抱き寄せる。「あっ」と小さく声を上げながらも、少女は抵抗することなくヴィンセントの腕に収まった。


「お前は頑張ってるからな。辛くなったら我慢するなよ」

「うん……ありがと」


 ヴィンセントが覚えた魔法は『()()()()()()()()()()()()』。

 様々な”代償”に縛りつけられ、魔法のせいで人から温もりを与えられなかった少女。

 ——この少女を救うために、彼はここにいる。




****




「どうか、息子をお願いします」


 世間は休日。だが、『聖女』たるルイーゼロッテには休みはない。神に祈りを捧げて、訪れる人々の魔法を忘れさせて”代償”をリセットし、慈愛の笑みを絶やさずに一日を終える。毎日毎日その繰り返し。


「あの坊やは”代償”に声を選んだのか……一体どんな魔法を覚えようとしたんだか。兄ちゃんはどう思う?」


 眼帯おじさんにまた話しかけられた。

 今、ルイーゼロッテの前にいるのは親子。普通は本人が『聖女』に話しかけるのが決まりだが、この親子はずっと父親が話していることから、”代償”の内容を推測したのだろう。


「……大体ああいうのは、飼ってたペットを生き返らせようとか。そういうのですかね」

「へぇ、やっぱ兄ちゃん詳しいな」


 どうも『聖女』の話を共有できるのが嬉しいようで、ヴィンセントが結構な頻度で協会に通っていることと”代償”や魔法に詳しいと知られてから、よくこの眼帯おじさんに絡まれるようになった。


「でも俺は死者を蘇らせるみたいに、自然の摂理を覆す大魔法なんて見たことねぇんだよな。そんな魔法本当に覚えられるもんなのかね?」

「できますよ。まあ、そういう魔法は求められる”代償”が厳しすぎるせいで、不幸な結末にしかならないらしいですけど」


 眼帯おじさんは「ほぉー」と興味深そうに頷いて、『聖女』に頭を触られている子供を指差す。


「じゃあ、あの子は何を”代償”にしたら魔法を覚えられたんだ?」

「……蘇らせたい相手とそれなりの関係だったなら、命でなんとか……でしょうか」

「はぁ、そりゃ確かに不幸な結末だな」


 眼帯おじさんは納得した様子で『聖女』を眺めていた。




****




「ヴィンセント〜、どうどう? 香水だよ」

「……『聖女』が付けるのはどうかと思うぞ」


 いつものように一緒に食事を済ませて部屋に戻ろうとするとなぜか入るのを止められ、しばらくして勢い良く開かれた扉からルイーゼロッテが飛び出してきた。


「ヴィンセントと一緒の時にしか付けないよ。で、どう? 結構良い匂いな気がするんだけど、これ好き?」

「……ああ、お前に似合ってるよ」


 少し戸惑いながら頭を撫でてやると、ルイーゼロッテは気持ち良さそうに抱きついてきた。胸元に顔を埋める少女をそのまま抱えてソファに運ぶ。

 いつものように膝の間に少女を座らせると、


「……やっぱりヴィンセントは香水なんて付けない方が良いって思ってる?」


 不安そうに、ぺたぺたとやたらに顔を触って尋ねられた。どうやら声とか態度で何か気付かれてしまったらしい。この辺の感覚はやたらと鋭いのだ。


「似合ってると思ったのは本当だよ。俺は嘘を付けないからな。でも急にどうしたのか心配になったんだ。なんか嫌なことでもあったのか?」


 するとルイーゼロッテは俯いてしばらく黙り込み、それでも躊躇(ためら)いがちに口を開いた。


「……私、ヴィンセントの迷惑になってない?」


 いつの間にかヴィンセントを触るのもやめ、自分の膝に手を置いて小さく縮こまっているルイーゼロッテ。声も体も若干震えていた。


「……はぁ」


 ため息を一つ吐いて、少女の頭頂部に軽く手刀を入れる。


「あたっ!……何す——うぇ!?」


 頭を両手で抑えながら首を後ろに倒して抗議をしようとしたルイーゼロッテ。その少女の額に口付けを落とすと、さらに変な声を上げた。


「ちょ! え? なんっ……」

「お前が馬鹿なことを言ったからだ」


 戸惑っている少女を背中から優しく抱きしめる。


「これでも俺はお前との時間を幸せに思ってるんだ。お前には俺が嫌々お世話してるように思えるのか?」

「思わないけど……ヴィンセントって何もわがまま言わないから不安になるの。ねぇ、私もヴィンセントのために何かしたい。わがまま言ってよ。私にできることなら叶えたいの」


 (すが)るような表情で見つめてくるルイーゼロッテ。この少女は目が見えないはずなのに、そこに込められる想いは力強いのだ。ヴィンセントは昔からこの瞳に逆らえない。

 少女の背中の温もりを感じながら、願いを口にする。


「……そうだなぁ。じゃあ、ルイーゼロッテが幸せになってくれ。それが俺のわがま——痛ててて! おい!」

「そーいうことじゃないのぉー……いたいいたい! ごめんなさい、ごめんなさいってば!」


 気付いたらムスッとした顔のルイーゼロッテに頬をつねられていた。しかも両方。

 お返しにこめかみをグーで挟み込むと、ルイーゼロッテは悲鳴を上げながらヴィンセントの拳をどかそうと抵抗してきた。

 程々のところでルイーゼロッテを解放すると、少女は自分のこめかみを撫でながら、


「……じゃあ、私の幸せはヴィンセントが幸せになることにする。だから、ヴィンセントは自分を幸せにすること」


 ちゃっかり後ろ向きに頭突きをかましてきた。そのまま胸元に後頭部を押し当てて、ヴィンセントを見上げている。


「……分かったよ……何?」

「もう一回。さっきの……」


 前髪を自分で上げて目をつぶる少女。頬をうっすらと赤く染めて、露わになった額を指差している。


「また今度な」

「けち」


 口付けの代わりに額をぺちっと叩く。

 ルイーゼロッテは口ではそう言いながらも、頬を緩ませて額を両手で包み込んだ。


「……ねぇ、ヴィンセントの好きなタイプは?」

「お前だよ。ただしもっと年上な」


 いつものやり取り。だが、続く言葉は少し違った。


「じゃあ……あと何年したら私と結婚してくれる?」


 くるりと振り向いて、今度は正面から胸元に顔を埋めながら尋ねる。顔を合わせないのは恥ずかしいからのようで、耳まで真っ赤になっていた。

 いつかは来るような気がしていた問い。自分とは六つも歳の離れた十四歳の少女を抱きしめて、ヴィンセントは()()を決める。


「……二年だ」


 言葉を発した瞬間、腕の中の少女の体が強張ったが、全部聞き終えるとガバッと勢いよく顔を上げた。


「約束! 絶対だからね。私と結婚だよ」

「ああ、俺は嘘をつけないんだ。もしその時にお前の気が変わってなかったら、な」


 余程嬉しいらしく、満面の笑みで胸元に頬擦りまでしてきた。もちろんヴィンセントも嫌な気はしないので、なされるがままにする。


「にしても『聖女』が結婚とか言って大丈夫なのか」

「大丈夫っ! 私神様とか信じてないから」


 なかなか危ない発言が飛び出してきた。思わずヴィンセントは苦笑いを浮かべる。


「でも、ヴィンセントに会わせてくれたことだけは感謝してるかな」


 二年前、協会で『聖女』として勤めを果たしていたルイーゼロッテは孤独だった。それを救ってくれたのがヴィンセントだと、そう少女は言う。

 だが逆だ。救われたのはヴィンセントの方。ヴィンセントは彼女に救われたから、その恩返しをしているに過ぎないのだ。


 ——それでも、この約束だけは果たせそうになかった。




****




 そうして翌日、ヴィンセントが最も恐れていた事態が起きた。


「……?」


 協会で、日課となっている祈りを捧げている最中。ルイーゼロッテは急に足元に視線を落とし、不思議そうに首を傾げていた。嫌な予感がしてヴィンセントが立ち上がった時にはすでに遅く、


「誰か……います?」


 トントンと、足元の床を叩いて調べ始めた。


「あの、『聖女』様。どうされたのですか?」

「……何か、声がした気がしたのです。この下から……」

「気のせいでしょう。その下には何もないですから」


 周りの神官たちがあくまでやんわりと止めようとする。だがルイーゼロッテはどうしても気になるらしく、床を手のひらで触ったり、溝に爪を入れたりとやめる様子はない。


「あの、『聖女』様。お祈りを……」

「すいません。でも確かに音が……」


 神官たちはチラチラと目配せをしてどうにかルイーゼロッテを止めようとしていたが、少女に触れると魔法を忘れさせられるせいで強引にはなれず、戸惑った様子でヴィンセントに助けを求める視線を送ってきた。


「『聖女』様、お祈りを終わらせないと。今日の仕事が終わらなくなりますよ」


 もちろんヴィンセントもそのつもりで、仕事モードな口調で話しかけながら、ゆっくりとルイーゼロッテのいる祭壇の下へ近づく。まだ幼い少女がわがままを言って周りを困らせている、そういう設定にして駆け付けたい気持ちを押さえ込む。


「ですが……」


 しかしヴィンセントの声にも従わず、ルイーゼロッテは膝をついてずっと床を探っていた。

 そして少女の横顔に驚きの色が広がった瞬間、


「ルイーゼロッテ!」


 ヴィンセントは身体強化の魔法を使い床を蹴った。ルイーゼロッテには見せるわけにはいかない()()がそこにはある。

 ルイーゼロッテは祭壇の下で屈んで床の板をずらし——


「危ない!」


 ヴィンセントが少女の元に辿り着いた時、床の隙間から出てきた()に襲われそうになっていた。ヴィンセントは少女を頭ごと抱え込んで距離を取り、周りの神官に叫ぶ。


「頼みます!」


 神官たちも分かっていたのかすぐさま魔法で攻撃を繰り出し、断末魔を上げながら床から現れた乱入者は跡形もなく消え去った……最後に、恨みの視線をルイーゼロッテへと向けながら。

 その後、祭壇から離れたところまでルイーゼロッテを運び、長椅子の上にそっと座らせる。恐る恐る顔を覗き込むと、


「ヴィンセント……」


 『聖女』の立ち振る舞いも完全に抜けて、ただ呆然とヴィンセントに手を伸ばす。


「……聞こえた、か?」

「……うん」


 ゆっくりと、状況を飲み込んでいってしまう。乱入者の叫び声一つで、この少女は背負っていた()を理解してしまう。


「……私は……人を殺してたの?」




****




 この世界には”代償”を必要としない魔法も存在する。

 特に死後に発動する魔法はその傾向が強いのだ。その最たる例が、自分が死んだ時に殺した相手を道連れにする、という魔法。己の死後、獣になり己を殺した者に襲いかかる。まさに今日床の下から現れた乱入者のように。


「お前の”代償”の中に『不殺』がある。つまりお前は、必ず殺しをしなければならない」

「……そっか」


 今日の『聖女』としての仕事は中止となった。神官たちも、もちろん納得してくれた。

 取り乱したルイーゼロッテが落ち着いたので、ヴィンセントはいつもの部屋で真実を告げる。


「……それって毎日?」

「……そうだ」


 今日はベタベタと触ってくることもなく、膝の間で少女は静かに俯いている。


「でもな、あれは俺らが勝手にやったことだ。お前に罪はない。お前はただ立っていただけなんだから」

「でも、私があそこに立ったから仕掛けが発動したんでしょ。それで人が一人死んだ。だから”代償”も満たしてたし、獣も私を襲ってきた」


 ルイーゼロッテが祈りを捧げる祭壇の床には仕掛けが施してあった。床の下に魔法を使って人間を拘束し、上に人が乗ると作動して人間を殺す、というシンプルなものだ。もちろん犠牲となる人間は、基本的には犯罪者を使っていたのだが、人をその手で殺していた事実は覆らない。


「……明日からも、だよね」

「忘れろ。お前は何も知らない。明日からもいつも通りにしてくれればいい……とはいかないよな」 

「……ごめん」


 この子は、ただ『聖女』になれただけの優しい女の子だ。

 ”代償”は絶対で、人によってその()()()()()。この少女にとって殺人は人一倍重い、とてつもなく重い行為だった。だからこそ、この奇跡と言われる『聖女』の魔法を覚えることができたのだ。


「ねぇ……ヴィンセントは私の”代償”を全部知ってたの?」

「……」


 黙って頭を撫でると、優しい手つきで振り払われた。そうして少女は首を後ろに倒してヴィンセントを見上げる。


「知ってたんだ……じゃあさ、私の”代償”に『自殺』ってある?」


 ヴィンセントは嘘をつけない。だから、無言は肯定となると少女は判断したのだろう。


「……ある」


 全てはこの奇跡の魔法を絶やさないために。事故が起こらないよう厳重に管理され、この家と協会以外にはどこにも行けない少女。


「そっかぁ。やっぱり、そうだったんだ……なら、後継者を見つけるしかないかなぁ」

「ッ!……分かってるのか」


 ルイーゼロッテは立ち上がり、ヴィンセントの顔を見ることもなくベットに倒れ込む。布団を被って、何かに怯えるように、小さな子供のように、世界を拒絶する。


「……もし、お前が次の『聖女』を見つけたら——」


 ヴィンセントは追いかけてそんな少女に寄り添い、布団の上から抱きしめる。


「——お前は死ぬんだぞ」


 代々受け継がれてきた奇跡の魔法。その”代償”のせいで、ルイーゼロッテは絶対に後継者を見つけなければならず、見つけた場合その命は()()()()()()。『聖女』は同時に二人存在してはならない。万が一互いに触れ合ってしまったら、互いが覚えた魔法を忘れてしまうから。

 全ては……この奇跡の魔法を絶やさないために。『聖女』とは古代の人々が残した呪いの称号だ。


「俺は、お前に死んで欲しくない」

「私は……誰かを殺してまで生きてたくない。私が死ねばさ、ヴィンセントも私から解放されるし。それでいいじゃん」


 全てを諦めたように心底悲しそうな瞳をして、ヴィンセントの胸元に潜り込んでくる。だがいつもみたいに暴れるわけでもなく、回した腕に力を込めてヴィンセントに抱きついていた。


「……結婚の約束。あれはどうするんだ」

「ああ……それは……ごめん。守れないや」


 きっと、その未来を諦めることと人を殺し続けることを天秤にかけたのだろう。そしてわずかに間があって前者を選んだ。優しい優しい少女の選択だ。


「そうか……ごめんな」


 だから、ヴィンセントは決心した。この結末を覆す。


 ——彼がここにいるのは、この少女を救うためなのだから。




****




 浮浪児だったヴィンセントは十六の時に、同い年の女の子と出会った。殺される運命にあったはずの命を救われた。だから、その恩を返そうと思った。ヴィンセントが覚えた魔法は二つ。

 一つは身体強化。これはほぼ全ての人間が覚える一般的な魔法で、彼女を守るのに必要だと思った。”代償”は一日分の寿命。

 二つ目が『彼女の魔法を打ち消す魔法』。”代償”は……()()()()。恩を返す上で不要な感情だと判断した。


 こうしてヴィンセントは彼女の世話をするようになった。だが、彼女は毎日人を殺し続けることにストレスを溜め続け、擦り切れていった。二年も経つ頃にはヴィンセントにほぼ毎日当たり、誰の目にも限界だった。

 そして、運命の日。


「ねぇ、私は君のこと好きだったはずなのに……日に日に嫌いになっていくの」


 秘密裏に行われた魔法を覚える特別な儀式。その最中に彼女は泣きそうな声で語り出す。

 ヴィンセントが支払った”代償”——恋の成就。”代償”は絶対だ。これによってヴィンセントは想いを告げられないし、決して両想いになることはない。

 そしておそらく、その”代償”は彼女にも適用されたのだろう。”代償”は、ヴィンセントが誰かに愛されることすらも許さなかった。彼女は世界のルールによって、抱いた愛を削られていったのだ。


「こんなのってないよ……だからさ、この想いが消えないうちにこの魔法を覚えることにしたの」


 魔法陣の中心で、彼女は祈りを捧げる。涙は流れない。


「”代償”は三つ。私の命と恋心、それから()()()()()()()()()()()()()()()。これは”代償”だから、私の魔法を打ち消すことのできる君にも効果がある。私は死に、君は私に関する記憶を全て失う。つまり、君は私から解放されるんだよ」


 儀式は中断できない。


「魔法の効果は時間の巻き戻し。この”代償”で何年戻せるか分からないけど、私の魔法だから君には効果がない。君だけが未来の知識を持てるんだよ。やろうと思えばなんでもできるから……」


 そうして最後に笑って、


「君は……幸せになってね」


 もう、その彼女の名前も顔も覚えていない。




****




「……これでよし」


 みな寝静まった夜。一人で協会に忍び込んだヴィンセントは(つぶや)く。


 巻き戻された世界において、十八歳のヴィンセントは彼女に関する記憶だけぽっかりと抜けて放り出された。戻された時間は六年。あてどなく彷徨って気がついたらこの協会に来ていた。そしてルイーゼロッテを目にして、


 ——この子だ。


 直感でそう思った。『聖女』の仕事に割り込んでルイーゼロッテに触れ、自分の魔法が忘れさせられないことで確信した。かつて彼女の記憶も彼女に抱いた恋心も全くないが、それでもルイーゼロッテの世話を買って出た。


 瞬く間に二年が過ぎた。

 幼い少女はやはり孤独を感じていたようですぐに懐かれたが、ヴィンセントは歳を言い訳に誤魔化し続けた。それでも、いずれその誤魔化しが効かない歳になると”代償”は発動してしまうことは分かっていた。


「やっぱり結婚の約束はまずかったのかもな」


 本来なら、少女が殺人に気づくのは十六の時のはずだった。ヴィンセントはその時の生贄だったのだ。

 しかし今回は違う。まだ十四なのに気付いてしまった。もしかしたら、ヴィンセントの”代償”として支払った恋の成就……これの影響を受けたせいなのかもしれない。


「……まあ、遅かれ早かれこうなってただろうし、踏ん切りが付いたと思えばいいか」


 魔法陣は描き終えた。あとは魔法を覚えるだけ。今から覚える魔法は彼女と同じで即発動する(たぐい)のもの。”代償”は任意発動の魔法より少なくて済むはずだ。

 魔法陣の中心に立ち、儀式を始める。


「……絶対に救うから」


 彼女の時間の巻き戻しが、()()()()六年だったのはなぜか。もしかしたら自分を救って欲しかったのではないか。同じ境遇の孤独な自分を幸せにして欲しかったのではないか。どこかにそんな願いがあったのではないか。ルイーゼロッテに出会った瞬間にそんな考えが頭をよぎった。

 まあもし仮に違ったのだとしても、単純にヴィンセントが彼女を——ルイーゼロッテを救いたいのだ。


 儀式が始まった。




****




「——ヴィンセント!」


 眠っていたはずの少女が、寝巻き姿のまま協会に現れた。


「……ルイーゼロッテか」


 だがヴィンセントは穏やかに、トントンと床を叩いて場所を教える。少女は(つまず)きながらも音を頼りに床に座るヴィンセントの元に辿り着いた。


「……何、してるの?」


 少女の声が震えている。だからヴィンセントは優しく抱きしめて答えた。


「魔法を覚えてるんだ……これで、お前を魔法と”代償”から解放してやる」


 それを聞いた少女の顔が強張る。一度俯いてから、それでも意を決したように口を開いた。


「……”代償”は?」


 古代から数多の『聖女』を縛り付けてきた呪い。どれほどの対価がそれに釣り合うのかと、少女は問う。


 魔法陣が回り始めた。より一層その輝きを増す。

 その神秘的な光景の中で、ただ一人怯えた顔をしている少女の頭を撫でる。どうか安心してほしいと願って、幸せになって欲しいと祈って。


「俺の命と恋心、それから()()()()()()()()()()()()()()()


 その意味を少女は噛み砕く。その”代償”がもたらす結果を、その未来を。そうして結末に思い至った瞬間、少女はヴィンセントに掴みかかった。顔を歪めて涙を流さずに泣き叫ぶ。


「それだとッ、ヴィンセントは死んじゃう!! それに、それに……私はヴィンセントのことを——」

「ああ、忘れる。俺がもし魔法を覚えられなくても、この協会に誰も知らない男の死体が残るだけだ」


 あくまで冷静な返答に、少女はヴィンセントの胸元に頭を埋めて幼子(おさなご)のように首を振る。ヴィンセントの襟元を小さな両手で掴んだまま、崩れ落ちるように否定し続ける。


「いやだ! いやだ! 私が自由になっても……ヴィンセントがいないのはやだよぉぉ!! 忘れたくないのぉ! 全部、全部私の幸せな思い出なの。好きなの、大好きなの。絶対に忘れたくない……お願いだからっ、この儀式をやめてよ! 私を一人にしないでよぉ!」


 ”代償”には重さがある。()()()()()()()()()()()()()()()()が、なぜ”代償”たり得るのか。その答えがこれだ。

 ヴィンセントだって、自分のことを忘れて欲しいわけがない。こんなに想ってくれる少女の記憶から自分が永遠に消え去るのだ。一緒に過ごした時間が全て無に帰す。そんなのあまりにも残酷すぎる、重すぎる。

 ——だからこそ、”代償”として価値がある。


「ルイーゼロ——」

「もう、わがまま言わないから。辛くなってもヴィンセントを叩かないし、お風呂も一人で入る。ヴィンセントと一緒でも言葉遣いとかちゃんとする。ヴィンセントを困らせたりしないし……人だってちゃんと殺す。もう生きてたくないとか言わないから、だから……ヴィンセントを奪わないでよぉ!!!」


 ヴィンセントから離れて自分を抱きしめ、床にうずくまる少女。少女の語る未来では絶対に幸せになれないだろう。きっとそんなこと少女本人も分かっている。だけど、そうと分かっていてもヴィンセントと一緒にいることを望んでくれたのだ。

 そんな少女の想いを前にして、ヴィンセントは改めて自分の想いを認識する。


 ——ルイーゼロッテを愛している。


 だからこそ、恋心は”代償”としてこの上なく重い。命なんかよりもずっと。


「——心配するな」


 うずくまるルイーゼロッテを抱きしめる。別れを前にその感触を刻み付けるようにしっかりと。次の世界でも絶対に思い出せるように。


「お前、勘違いしてるぞ。この魔法はお前の魔法と”代償”を消すだけじゃない」

「……え?」


 ルイーゼロッテは顔を上げる。ヴィンセントは、少女の顔についている土埃を払って鼻水を拭い、乱れた髪を整えながら続きを紡いだ。


「これはな。世界から全ての魔法と”代償”をなかったことにする魔法だ。要は、この世界は最初から魔法も”代償”もない歴史を歩むことになる」

「魔法も”代償”も、ない……」


 魔法陣の発する光が徐々に弱くなる。もうそろそろ魔法を覚えることができるはずだ。

 こんな矛盾に満ちた魔法を覚えられるのか、そんな不安はすっかり消し飛んだ。


「あ、それから。俺は嘘がつけないってのは嘘だ。でも、それが俺のついた唯一の嘘だからな」


 少女から信頼されるためについた嘘だった。思いの(ほか)喜んでくれたので訂正できなかったのだ。

 これを告げられたので、あと心残りは一つだけ。最後にヴィンセントが見たいのはこんな少女のこんな顔じゃない。


 戸惑った表情を浮かべる少女の額に口付けを落とし、精一杯笑いかける。

 

「一緒に旅行に行く約束とか、結婚する約束も俺の中では有効だ。絶対に破ったりしない。知ってるだろ……俺は嘘をつけないんだ」


 彼女についての記憶を全て失った状態でもルイーゼロッテに出会えた。また恋をした。

 だから、全てが違う世界でも。ルイーゼロッテと出会って恋をすると、確信できる。


「だから、今は笑った顔を見せてくれ。俺らはまた出会って恋をして……次こそは幸せになる」


 頭を撫でられた少女は絞り出すように声を出し。

 金色の髪を揺らして幸せを噛みしめるように笑う。


「うん……また、幸せになろうね」


 これでヴィンセントの心残りは全てなくなった。


「愛してるよ、ヴィンセント」


 ……が、新しく一つできてしまった。”代償”のせいで伝えられなかった言葉。


 ——俺も……




****




「んっ……ヴィンセント?」

「どうした?」


 隣で気持ちよさそうに寝ていたルイーゼロッテが、目を(こす)りながら名前を呼ぶ。


「何か……夢を見てた」

「へぇ、どんな?」


 尋ねてはみるが、ルイーゼロッテは「うーん」と(うな)ってから、


「幸せな夢だったよ」


 言葉通りに幸せそうな笑みを浮かべるルイーゼロッテ。それを見たら無性に頭を撫でたくなって、寝起きにも関わらずサラサラの金髪の上から優しくさする。「んんー」と嬉しそうに声を上げるルイーゼロッテに満足して、ヴィンセントは起き上がった。


「さて、今日はご両親に挨拶か」

「そんな緊張しなくても大丈夫だよ」


 ルイーゼロッテもベットの誘惑から抜け出し、朝食の準備に取り掛かっていた。それを見てヴィンセントが声をかける。


「それは俺がやるから。旅行中じゃないのにお祈りサボるなよ。祭壇はあるんだから」

「はぁい……まあでも、今日くらいはちゃんとやろうかな。ヴィンセントに会わせてくれたことだけは感謝してるし」


 祈りは宣言通りいつもより時間がかかり、結局ヴィンセントが朝食を全て作った。ルイーゼロッテは出来上がったものを見て感嘆の声を上げ、口にして絶賛する。


「うん、美味しい。ほんと、ヴィンセントの料理は最高だよ」

「そんだけ嬉しそうに食べてくれると作り甲斐があるよ」


 二人で朝食を済ませると、急いで片付けてから出かける準備をした。ルイーゼロッテの身支度を待って玄関に座り込む。


「ねぇ」

「ん、どう——」


 すぐ後ろから声がしたので振り返ると、不意に唇を奪われた。両の頬には小さな手を添えられて、満足そうなルイーゼロッテの瞳が映る。


「愛してるよ、ヴィンセント」

「ああ、俺も……愛してる」

ありがとうございました。

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