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玖:幸子

(玖)


 日が昇るのを待って、私は主の居ない家を出発した。

 目指すはあの丘。滝桜の自生しているあの小高い丘だ。

 目的は唯一つ、あの子の絵を描くことだ。


「おいおいあんた、わざわざ死にに行くつもりなのかよ?」


 とは、話を聞いた滝沢の弁だ。彼は朝一番の電車でこの町を去るそうだ。賢明な判断だと思う。決着を付けるのは、滝桜の生贄になるのは、私だけで充分だ。


 行く途中で、幸子が通っているという学校を見かけた。どう見ても廃校だった。

 あの話は嘘だったのだろうか。私の絵に感動して、恋焦がれていたという話は。失っていた自信を取り戻させてくれたあの言葉は、全て偽りだったとでも言うのか。


「こもれびのこえ。先生の処女作でしたよね」


 信じたくなかった。何を馬鹿なことをと、笑い飛ばしたかった。全てが私をこの地に繋ぎ止める為の策略だったなどと。滝桜が満開になるまでの間、私を縛っておく為にあんなことをしたなどと……そんなこと、信じたくはなかった。


 だが、私の手に握られている桜の花びらが、それが真実であることを告げている。愛姫の形見の花だ。結局私は、彼女に何もしてやれなかったが。


「分かりました。私で良ければ、お引き受けします」


 絵のモデルを引き受けてくれた時の幸子の顔。嬉しそうなあの笑顔を私は忘れることができない。

 信じてはいけなかったのか? 愚かだったのか、私は?


「先生となら大丈夫かな、って。先生はお父さんみたいに優しいから、私のことも大切にしてくれるかな、って。えへへ、変ですよね、私。今日逢ったばかりの先生のこと、お父さんみたいに思ってしまうだなんて。ホント、馬鹿みたいですよね」


 全て。本当に全部が全部、滝桜が用意したシナリオに過ぎなかったのか? 私には分からなくなっていた。何が真実で、何が偽りなのか。何が正しくて、何が間違っているのか。


「大丈夫です。何があっても、私が先生をお護りしますから。私が貴方と一緒に居ますから。ずっと一緒ですから。決して独りにはさせませんから。だから、何も怖れないで下さい。三春を嫌いにならないで下さい。

 ……約束、ですよっ」


 約束。そうだ、私はあの子と約束した。ずっと一緒だと。たとえ何があったとしても、ずっと一緒に居ると。そう、約束したんだ。

 だから私は行かなければならない。あの子が待つ、丘の上に。たとえ滝桜に魂を食われようとも、私は約束を果たさなければいけないんだ。逃げる訳にはいかない。もし逃げれば、私の方が彼女を裏切ったことになる。


「一つ、三春に花が咲き」


 聞こえて来たのは、彼女の歌声だった。私を待つ声。私を呼び寄せる声。寂しげに、切なげに。淡々と、彼女は唄う。三春に伝わる四文詞を。


「二つ、桜の滝の音響き」


 この歌を聴くのは、これで何度目になるだろう。彼女が唄うのを聴くのは三度目だった。一度目は彼女の家で、二度目は滝桜をバックにして。

 思えば私は、あの歌を聴く度、少しずつ滝桜に近付いていたんだ。悲しいことだが、どうしようもない。美しいものには惹かれてしまうのだ、どうしても。それが人間の性質さがというものだ。


「三つ、泡沫の春のご到来でございます」


 だんだんと大きくなっていく、彼女の歌声。近付いている証拠だ。だが、私達の間の距離は広がっているような気がする。泡沫の春と同じように、彼女に届くことなく、儚く消える運命なのだろうか、この想いは。そんな悲しい宿命を、あの子は自ら受け入れようとしているのか。

 思うと、私の中の彼女を憎む気持ちは露と消えていた。


「四つ、三春に四度の春鳴かず。来ず方哀しき御座候。嗚呼、南無南無」


 四度目の春は来ない。厳しい冬を乗り切るには、滝桜はあまりに年を取り過ぎていた。

 だから彼女を創り出したのだ。愛姫を原型とする、己が意のままに動く操り人形を。人を惑わし、その魂を糧とする為に。ただそれだけの為に彼女は生まれて来た。ただそれだけの存在の筈だった。


 だが。私にとっての彼女は操り人形などではなかった。自分自身の意志を持ち行動することのできる、絵に対しての情熱は誰にも負けない、ちょっとドジな所のある──そんな彼女だからこそ、私は好きになったのだ。


「幸子!」


 私は叫んでいた。あらん限りの声を張り上げて、彼女の名を呼んだ。もしかしたらその名前すらも偽りなのかも知れない。だがそんなことはどうでも良かった。

 私にとっての彼女は幸子だ。それ以外の何者でもないし、他の何者をも認めない。


「……せんせい」


 彼女は座っていた。丘の上に、たった一人で、滝桜を背景に。昨日と同じ白のワンピースを着て、昨日までと変わらぬ笑顔で、私を待っていた。


 だが、彼女は泣いていた。微笑みながら、泣いていた。


「来て下さったんですね。約束、守って下さったんですね……私は貴方を騙したのに」

「仕方ないさ。今更何を言っても仕方がない。そうだろ? 私は絵を描くだけさ。私は君を止めることもできない、何の力も無い、ただのしがない絵描きに過ぎないんだから」

「嬉しい、です」

「こもれびのこえ。あれを超える作品にしてみせような。私達二人でさ」

「はいっ」


 溢れ出る涙を拭って、彼女は応えてみせた。全ての不安と怖れを払拭してくれるような、優しくも力強い笑顔。

 そうだ、この笑顔があるからこそ、私は今なお平静を保って居られるんだ。


 後何時間かで滝桜は満開になり、その時私は死ぬ。

 それが何だと言うんだ。私にとって、そんなことはどうでも良い。描きかけのカンバスを広げ、色を調整しながら、私は覚悟を決めていた。


 まだ時間はある。何としても今日中に描き上げてみせる、この絵だけは。私と幸子とを繋ぐ、想いの全てを込めたこの絵だけは。


「いくぞ」


 絵筆を持つ手に力を込め、私は独り気合を入れた。

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