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捌:愛子

(捌)


 暗くなってから家に戻ると、こんな時間まで一体何をしていたのかと愛子に散々叱られた。事情を説明してもなお不服そうな顔をしていた彼女だったが、滝沢が「まぁまぁ、幸子ちゃんももう子供じゃないんだからよ」と言ってくれて、ようやくその場は収まった。


 それから軽い夕食を取って、私は現在風呂に入っている。風呂と言っても五右衛門風呂だ、足下は火傷しそうな程熱いが肩の辺りは風邪を引いてしまいそうな位ぬるい。火炊きをして貰っている幸子には悪いが、もう少し加減をして貰いたい所だ。しかしそんな湯でも疲れを取る効果はあるのか、次第に気分は楽になって来た。


 本当に今日は疲れた。朝から夕方までひたすら絵を描いていただけだが、それでもちょっとした肉体労働にはなる。特に両腕の疲労は相当なものだった。肩が凝って上がらない上に、食事の時も箸を持つ手が痙攣して震え出す始末だ。

 これはいかんと、先程から湯船の中でマッサージをしていたりするのだが。効果の程は今一つのようだ。後で幸子にもやって貰おうかな。肩とか揉んで貰うと気持ち良さそうだし。そんなことを考えながら私が湯に浸かっていると。


「お湯加減は如何ですか、芹沢さん」


 がらがらと戸を開けて、浴衣姿の愛子が顔を覗かせた。幸子じゃないのが少し残念だが、まぁ仕方ないだろう。大体彼女は外で火の番をしている筈だ。


「うふふ。幸子じゃなくてがっかりしましたか?」

「あ。い、いえ。別にそういう訳では」


 まるで私の心を読み取ったようにそう言って、愛子は風呂場に入って来た。しどろもどろな私の様子が可笑しいのか、くすくすと忍び笑いを漏らしている。裸を見られている此方としては、恥ずかしくて堪らないのだが。


「あらあら、隠さなくても宜しいですのよ。貴方と幸子の関係については、滝沢さんから聞かされておりますもの。まるで実の父と娘のように仲がお宜しいとか」


 しまった、滝沢の奴に告げ口されていたのか。

 しかし、私と幸子くらい年が離れていると、恋人ではなく親子のように見えてしまうものなんだな。せめて兄妹くらいに思ってくれないものかと、微妙にショックを受けていると。

 浴衣の袖を捲り上げ、タオルと石鹸を手にして愛子が湯船に近付いて来た。


「お背中お流ししますわ、芹沢さん。ふふ、本当は幸子の方が良いんでしょうけどね」

「あ、いやそんな、其処までして貰う訳には。ただでさえお世話になってるんですから」

「あら、そうですか? それじゃあ──」


 彼女の露になった白い手が、私の肩を掴んだ。白魚のように繊細な指先が、肩のラインをなぞり、固くなっている部分を優しくほぐしていく。幸子ではこうはいかないだろう。経験の差か年の功か、愛子は男の扱いに関しては手慣れているようだった。


「まぁ、大分凝っていますね。……どうですか? 気持ち良いですか?」


 湯に浸かりながら、間近にうら若き女性の吐息を感じつつ、両肩を揉まれているのだ。気持ち良くない筈がない。天にも昇る心地とはこういうのを指すのかも知れないな。

 頭がぼぅっとして来る。湯当たりの所為か、それともマッサージの効果かは分からないが。意識が遠退いていくのを感じる。それと共に、肩を掴んでいた愛子の手が、首筋へと移動していく。彼女が何をしようとしているのか、私にはもはや考える力は無くなっていた。


「ねぇ、芹沢さん。貴方今、幸子の絵を描いてやっているんですってね。そんなにあの子のことが気になりますか? そんなにあの子のことが大事なんですか?

 ──命の危険があるにも関わらず、再三の警告にも関わらず、逃げ出さずに今もなおこの三春に滞在しているのは、あの子が居るからなんですか? 妬けてしまいますね……」


 ぎしり。首筋を撫でていた手に力が込められる。絞められているのだと分かった、だが抵抗する気にはなれなかった。窒息し朦朧とする意識の中で、私は愛子の姿が変わっていくのを呆然と見守っていた。


 縮んでいく。ぶかぶかになった浴衣を脱ぎ捨て、裸になった彼女は十二、三歳位の少女にしか見えなかった。

 腰の辺りまで垂らした長い黒髪、清純そうなその瞳。丸みを帯びた、人懐っこい印象のある顔。嘗て愛子だったその少女に、私は見覚えがあった。幸子だ。この子は幸子によく似ている。いや、彼女よりも幼く、彼女よりも哀しげに。

 あどけない顔を精一杯歪めて、少女は私を睨み付けていた。今にも泣き出しそうな顔だった。だから私は、少女に手を伸ばした。首を絞められながらも、今にも気を失いそうになりながらも、私にはこの子を放っておくことはできなかったのだ。


 幸子に対するものとは微妙に異なる感情が、私の心を満たしていた。触りたいと思った、撫でてやりたいと思った、だから私は、少女の頭を撫でていた。少女の頬に触れていた。

 驚いたような表情が、やがて泣き顔へと変わる様を、私は無言で見つめていた。


「なんで……どうして、あなたは……」


 目に涙を溜めて呟くその声は、年相応の子供らしい声だった。大人びた愛子の声ではない。

 恐らく彼女は、この子なのだろう。この子が出て来たということは、彼女はもう居ないのだ。嘗て幸子の姉だった人はもはや、この世には存在していない。いやもしかしたら、最初から存在していなかったのかも知れない。

 そして私は、この声に聞き覚えがある。


 「三春四文詞」を唄い、何度か私を迷わせた声だ。この子だったのだ、私に警告を与えて来たのは。果たしてこの子は何者なのか、そして何の目的があって私に手を出して来たのか。おぼろげながらも、私は悟っていた。薄れ掛けていた意識が、はっきりとしたものへと変わる。


 少女の私の首を絞める力が緩まっているのだ。彼女は、泣いていた。多分この子は今まで一度も、人前では涙を流したことは無いのだろう。幼いながらに自分の身の上を理解し、気丈に振舞って来たのだ。泣きたい時に泣くことができない辛さ。それは私の想像を絶するものだったろう。その彼女が今、泣いている。


「今まで散々苦労を掛けさせてしまったね。辛かっただろうね……目子めごや」


 彼女の幼名を呼んでやる。私にできる精一杯の慰めのつもりだった。いや、それにはひょっとしたら、罪滅ぼしの意味もあったのかも知れない。

 私の中の、私ではない私が、彼女に語りかけていた。

 愛すべき、たった一人の娘に。


「お……とう……さまぁ……」


 すがり付いて来る彼女の小さな身体を、そっと抱いてやる。やはりこの子は愛姫なのだ。そして、私のことを亡き父、田村清顕と思っている。私は思い出していた。


「父は亡くなりました。母は私達をこの家に置いて出て行きました。此処は、両親が寝起きしていた部屋ですわ。尤も私には、そうであったらしい、という記憶しかございませんけどね。幸子に至っては、親の温もりすら覚えてはいないでしょう。

 芹沢さん。幸子の懐いた貴方になら、安心してお貸しできます。是非この部屋を使ってやって下さい。お願いします」


 私を部屋に案内した時の愛子の言葉。今にも泣き出しそうで、しかし決して涙を見せなかった彼女の顔。あの時の彼女の胸中は如何様なものだったのだろうか。

 彼女の言う「幸子」とは、実は彼女自身のことを意味していたのだ。私に自らの正体を悟らせまいとして、あんなことを言ったのだろう。必死だった、健気だった。


 だがとうとう耐え切れず、彼女は私に逢いに来た。それがあの金縛りだ。姿を見せることなく、彼女は声だけを残して去った。元より危害を加えるつもりなど無かったに違いない。

 だが私は必要以上に怯えていた。純粋だったから。あまりに純粋だったからだ、彼女の想いが。私には、痛かったのだ。


「済まなかった。もっと早く気付いてやれば良かったな」

「う……ううん。いいの。お……おとうさまにあえただけで、わ、わたしは……」


 ぐすぐすと泣きじゃくりながらも、彼女は微笑んでいた。嬉しいのか。そんなに嬉しいのか。しかし私は、そんな彼女の想いに気付くこと無く、幸子とばかり接して来たのだ。


 酷い仕打ちをしたと思う。父親が自分の目の前で他の娘に惹かれていく様を見て、見せ付けられて。信じていたものにまで裏切られて、愛姫の心はどれ程深く傷付いたことだろう。


 今日の暴挙は、鬱屈していた想いが堪え切れずに爆発した結果だ。私が自分ではなく、幸子を選んだということ。その事実に、愛姫は絶望を感じたのだろう。

 だから、私を殺そうとした。殺して、自分だけのものにしようとしたのだ。幼稚な発想と笑うなかれ。彼女は幼いが故に純粋なのだ。そして、純粋だからこそ私を殺せなかったのだ。

 私にはこの子を責めることはできない。罪を償うべきはむしろ私の方なのだ。


「ち……がう。おとう、さまは、わるくなんかない。だれも、わるくなんか、ない、よ」

「私を、許してくれるのか?」

「ゆるすも、ゆるさないも、ないよ」


 私の心を読んだかのように、彼女はぶんぶんと首を振って言って来る。いや、恐らく読んでいるのだろう。心の中まで見透し、幸子への気持ちにも気付いていたに違いない。全てを知った上で、それでも愛姫は私を愛するというのか。愛してくれると言うのか。

 私が胸中で問い掛けると、彼女は黙って頷いた。


「成る程、そういうことだったのか」


 その時だった。浴室の戸が開いて、見知った顔が姿を見せたのは。


「悪い。盗み聞きするつもりは無かったんだが……愛子さん絡みだとどうにも気になってしまってね、ついつい聞いちまったよ。それにしても驚いたぜ。あの愛子さんがまさか、愛姫だったとはな」


 痩せこけたその男は、私の腕の中に縮こまる少女へと視線を向けた。蛇のような鋭い視線に、彼女はびくっと身体を震わせる。彼女が怯えるのも無理は無いだろう。滝沢のこんな真剣な表情を見るのは、私も初めてだ。


「お嬢ちゃん、まさかあんた、神隠しの犯人だったりしねぇだろうな?」

「ひっ……!」


 声を掛けられ、彼女はますます怯えて私にしがみ付いて来た。

 やれやれ、こういうのは得意な方じゃないんだが。溜息をつき、私は湯船から身体を出す。その私の様子を見て、滝沢は警戒するように一歩後退した。その手に握られているのは一本のナイフ。彼女とのやり取りを聞き、私まで要注意人物に認定されてしまったようだ。


「滝沢さん、貴方はこの子を疑っているようですが、この子はそんなことをするような子じゃないですよ。確かにこの子は人ではないかも知れない。でもだからと言って犯人だと決め付けてしまうのは早急過ぎますよ。

 この子は私に『三春四文詞』を引用して警告したんです。四度目の春は巡って来ない、滝桜が満開を迎える前にこの町から立ち去れ、とね。そんな彼女が犯人である筈がないでしょう? 私は、この子を信じます」


 そう言って私は愛姫を庇うように、滝沢の前に立ち塞がった。


「ほう。なら誰の仕業だって言うんだ? あんたか? 善良な画家のふりして、田村清顕だって言うんだもんな。この上あんたが犯人だったとしても、俺は決して驚かないぜ」

「それも違います。この中に犯人は居ません。冷静になって考えてみて下さい、滝沢さん。私は昨日この町に来たばかりですし、愛姫は清顕以外を恨んだりはしませんよ」

「俺はいつだって冷静だぜ。俺はただ、あらゆる可能性ってもんを考慮に入れているだけだ。……だが、まぁ、惚れた女を泣かせるような真似だけはしたくなかったんだけどな」


 肩を竦めて、滝沢はナイフをしまいこんだ。それからバスタオルを二枚寄越し「それでも巻いてやりな」と少女の方を指差した。何処か諦めたような、投げ遣りな言い方だった。


「しかし、参ったな。これでいよいよ種が分からなくなった。てっきり清顕か愛姫絡みだと思い込んでいたんだが。……残るは、滝桜か……」

「おかあさまは、ひとのたましいをほっしています」


 滝沢が発した言葉に反応したのは、それまで彼を怖れていた愛姫だった。

 私達が唖然と見つめる中、彼女ははっきりとした言葉を紡ぐ。愛姫はもう、泣いては居なかった。


「みはるによんどめのはるがこなくて、おかあさまはおなげきです。さむいふゆをのりこえるだけのちからが、おかあさまにはありませんでした。だからおかあさまは、ひとのたましいをたべて、なんとかちからをつけようとしたのです。

 そのためにおかあさまは、さまよっていたわたしのたましいをりようしようとしました。わたしにめいれいして、ひとのたましいをあつめさせようとおもったのです。でもわたしは、おかあさまをとめようとおもいました。しかし、わたしのちからだけではおかあさまをとめることはできませんでした。

 わたしがいうことをきかないことがわかると、おかあさまはわたしのかわりにあのこをつくりだしてしまったのです。わたしをもとにして、あのこを」

「……あの子って……まさか……」


 恐る恐る、私が尋ねると。愛姫はこくりと頷いてみせた。


 まさか、とは思っていた。ありえないことではない、と。だが、信じたくはなかった。あの子がそんなことをするだなんて。衝撃を受けているのは私だけではなかった。滝沢もまた、驚きを隠し切れない様子で私と愛姫とを交互に見比べている。


「きをつけてください。あのこはわたしよりも、おかあさまにちかいところにいます」

「つまり、お嬢ちゃんよりも強い、ってことか?」


 今度は滝沢が訊くと、愛姫はやはり頷いてみせた。

 と、その彼女の身体に異変が起こり始める。白く輝き出し、透き通っていく。咄嗟に彼女の腕を掴もうとするも、すり抜けてしまった。空振りした手に残ったのは、数枚の桜の花びらのみ。


「いけない……あのこが、わたしをあなたたちからひきはなそうと……」


 だんだんと彼女の身体が薄くなっていく。それにつれて、声も小さくなっていった。消えようとしている。消されようとしている。

 止めようと思った、止めたかった。だが私にはどうすることもできなかった。


「……にげて……おとうさま……」


 やがて。

 白い光の珠となって、彼女は空へと昇っていった。


 幸子が居なくなっていることに気付いたのは、風呂場を出て直ぐのことだった。

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