カレー
管理人の二人が届いた荷物を自宅に運んでおいてくれたので、後は部屋に広げるだけだった。なので実際には十分もかからず、あっという間に机とクッションを広げ終わってしまう。ヤミコちゃんのマイルームで私たち四人は、それぞれが気に入ったクッションに座りながら、今後の予定を決める。
「夕飯はどうする? 出前を取ろうか? それとも外食にするか?」
外はすっかり暗くなっていた。そしてヤミコちゃんはこの間のファミレスをとても楽しんだとのことだ。邪魔さえ入らなければ四人で食べに行くのも悪くないだろう。
ちなみにお手伝いの人が毎日作り置きしてくれているのだが、それは私と兄さんの二人分だけだ。残念ながらヤミコちゃんとユリナちゃんの分はない。
「どうする安藤?」
「ヤミコちゃん、どうしましょうか?」
「何で私に聞く? でも、んー…お金が勿体ない。自炊する」
どうやらヤミコちゃんは料理が作れる系の女子中学生らしい。そう言えば兄さんが彼女のお手製弁当を食べて、絶賛していたことを思い出した。たまたま好意で評価が上乗せされたのか、それとも本当に美味しかったのかは私にはわからない。
「冷蔵庫は?」
「こっちだ。中に手伝いの人が購入した食品があるから自由に使ってくれ」
普段よりも遥かに素早くヤミコちゃんに前に兄さんが飛び出してくる。彼女は一瞬ビクッとしたが、やがて気を取り直して兄さんの後ろをついて行き、キッチンへと向かう。そして私とユリナちゃんもゾロゾロとその後に続く。
あまりグイグイ来る男は嫌われることは、心ではわかってはいるだろうが、それでも彼女の手料理が食べられる機会を逃したくはなかったのだろう。
「作り置きがある」
「ああ、それは俺とホノカの晩御飯だな」
「んー…私とユリナちゃんの二人分作れば十分?」
ヤミコちゃんが冷蔵庫の中に入った、ラップに包まれた二人分の食事を確認した瞬間、兄さんの表情が明らかに曇る。私も友達の手料理を楽しみにしていただけに、これにはショックを受ける。しかしユリナちゃんは一人だけ安全圏にいるためか、ニコニコと嬉しそうにしている。
「あっ…安藤、俺とホノカの分も作ってくれないかな?」
「でも、作り置きが無駄になる」
「明日に回すから! だからヤミコちゃん! お願い!」
しばらく考えるように冷蔵庫の中やキッチンを軽く見回り、石川家にある食材と調理器具を確認するヤミコちゃんを、私と兄さんは裁きを待つ罪人のように、ただただじっと黙って見守り続ける。
「カレーを作る。食べきれなくても冷凍すれば安心」
「安藤、出来るだけ多めに頼む!」
「別に四人分以上に作る必要は…」
ちゃっかり朝カレー分を催促する兄さんだが、ヤミコちゃんの手作りカレーを食べたい気持ちはわかるので私も援護射撃を行う。もし美味しくなかったらどうしようなどとは、全く心配していない。私も兄さんと同じように、万が一不味くても好意でブーストすればいいのだ。
「ヤミコちゃん! 朝カレーが食べたいのよ! それにカレーは何日食べても美味しいのよ!」
「理解した」
どうやらカレーにかける情熱を理解してくれたのか。お手伝いの人が着用している壁にかけられたエプロンを、中学の制服の上から身につける。サイズが大きめにも関わらず、毎日の家事で着慣れているのか、帯紐をシュルシュルと結ぶ手際がとてもいい。まるでベテランの主婦のようだ。そのまま冷蔵庫から食材を次々と取り出しては、机の上に順番に並べていく。
「少し時間がかかる。適当に座っていて」
「あっ…ああ、よろしく頼む」
兄さんはキッチンから離れたソファーに座ってテレビをつけるものの、ヤミコちゃんを完全にロックオンしており、後ろ姿に見惚れているのは明らかだ。気づいてないのは見られている本人だけだろう。
そんな手際よく料理を行う彼女の姿を見て、兄さんだけでなくユリナちゃんも思わず声を漏らす。
「…ママ」
思えばユリナちゃんの両親も石川家の父母と同じように忙しい身だ。昨日は仕事という名目で会えたようだが、普段は食事も別々とのことだ。
ふと見ると先程まで横に座っていた青髪の癒やしの聖女が、料理に取りかかるヤミコちゃんに向かってフラフラと歩いて行く。
「ユリナちゃん、動けない」
「すみません。でも、少しだけこのまま」
包丁で野菜を切っているエプロン姿のヤミコちゃんに、背後からギュッと抱きつくユリナちゃんに、兄さんと私は思わず羨ましいと思ってしまった。
何が起きているのかわからず困惑する彼女は、そのまま数分程じっとされるがままになり、やがてユリナちゃんの気が済んだのか、そっと離れる。
「カレーの続きをする」
「ありがとうございました。あの、またギュッとしてもいいですか?」
「…邪魔をしなければいい」
ヤミコちゃんはかなり迷ったようだが、結局どうやって断ればいいのか思い浮かばなかったようで、渋々ながら許可することになった。逆にユリナちゃんは少し目元が涙で濡れているが、とても嬉しそうだ。
そのまましばらくテレビをそっちのけで、三人はヤミコちゃんの調理風景をじっと眺めていた。途中から見られていることに気づいたのか、ソワソワして落ち着かなそうだったが、それでも安藤家の家事全般を任されている彼女は、ユリナちゃんの抱きつき以降は一度も止まることなく、流れるような動きで食材を炒め、煮込み、市販のルーを入れて、安藤家カレーを完成させたのだった。
当然食器の用意は私たちが行った。ヤミコちゃんはそれも自分がやると言い張ったが、そのぐらいは食べさせてもらう私たちがやらないと、家主として恥ずかしすぎる。
「味は安藤家のカレーだと思う。石川家のカレーとは違うから、不味かったらごめん」
台所の机の上並べられたヤミコちゃんの手作りカレーは、確かに香りはカレーであるが、いつもお手伝いの人が作っている物とは、見た目も香りも全然違った。別に特別な調理法や本格的な素材を使っているわけではなく、石川家にある中でも有り合わせの食材を使って作り上げた。まさにヤミコちゃん印のカレーライスであった。
「んっ…いただきます」
ヤミコちゃんのいただきますに合わせて私たちも手を合わせる。思えばこの四人で食卓を囲むのは初めてである。何か新鮮で、そしてワクワクする。目の前の彼女は、カレーをかけた白いライスをスプーンですくって、小さな口の中に入れる。
「よかった。少し素材や調理器具が違っても、いつものカレー」
続いて私たちも目の前のいつもと違ったカレーライスを口に運ぶ。すると、一口食べただけで三人は何故か目から涙が止まらなくなってしまった。
「辛かった?」
「ちっ…違うよ! カレーが…美味しくて!」
ずっと昔に今の家に兄と引っ越す前に、母さん忙しい中でも何度か作ってくれたカレーと何処となく似ていた。もちろん味も見た目も全然違うが、とにかくとても懐かしい味がして、スプーンを口に運ぶのが止められないのだ。
そして今自分が何で泣いてるのかわからないが、悲しいわけではない。きっと嬉しいのだろう。忘れていた大切な記憶をもう一度思い出すことが出来て。
きっとこのヤミコちゃんカレーを両親が食べれば、私たちと同じように昔を思い出して、絶対に嬉し泣きするだろう。そんなことを考えていると、若干涙目でスプーンを置いたユリナちゃんに先手を打たれた。
「ヤミコちゃん、このカレーをパパとママに食べさせてもいい?」
「約束通り多めに作ったから問題ない。でも、タッパーは石川君たちに借りて」
「ありがとう! ではパパとママの分と、私の分と。次も私の分と、今度も私の分…」
これは不味い。このままだと明日以降に私と兄さんが食べるだけの、ヤミコちゃんカレーがなくなってしまう。両親に食べさせるのは棚上げするとしても、それだけは阻止しなければ。
そう思ったら矢先に、兄さんが口を挟んでくれた。
「ユリナ、試食なら父母の一食分で十分だろう? 俺とホノカは明日の朝カレーを楽しみにしているんだ」
「仕方ありませんね。では、帰り際にタッパーを貸してください」
「ああ、一番小さいのを貸してやろう」
どれだけヤミコちゃんカレーに執着しているのか。兄さんとユリナちゃんの間に不穏な空気が流れるが、それを作り出した本人は涼しい顔で、自分のお皿に乗っているカレーを小さな口へと運び、周囲の状況をまるで気にすることなくモグモグと咀嚼し続けている。
「ごちそうさま」
そのまま食べ終わった自分の食器を持って、流し台へと運ぶ。最新式の食器洗い乾燥機は使わずに、何故か洗剤とスポンジで丁寧に洗い布巾で水気を拭き取り、食器棚へと戻す。
「今日はもう遅いから帰る。明日の朝食の仕込みがある」
あまりにも急な展開に私たち三人は呆然となり、ヤミコちゃんの行動を見送る。そのまま自室へと向かい、今度は学生鞄を持って元の居間へと戻って来る。
「今日は楽しかった。誘ってくれてありがとう。お休みなさい」
そう言って不毛なカレー戦争をしている私たちに頭を下げて、玄関にトテトテと歩いて行く。このままでは不味い。急いで兄さんをけしかける。
「ちょっと兄さん! ヤミコちゃんを送っていってよ!」
「しかし、ユリナの件は大丈夫か?」
「何とか押さえてみるわ! 私だけだと正直不安だけど!」
ヤミコちゃんカレーに魅了されたユリナちゃんを止められるとは思えないが、最悪鍋が空っぽになる前に、何とか持ち帰りを妥協させないと。朝カレーを食べることが不可能になってしまう。
その間にもどんどん玄関に近づいている彼女が、やがて扉が中から開けられる音により、外に出たことを知ってしまう。
「兄さん! 早く!」
「ああっ、わかった。ホノカ…死ぬなよ」
「正直死にたくないけど、骨は拾ってよね!」
どう応戦してもユリナちゃんには勝てる気がしないので、私の討ち死には確実だろう。しかし無事にヤミコちゃんを送らせることには成功したのだ。後は野となれ山となれだ。
いや、正直朝カレーは死守したいところだが、どれだけユリナちゃんの領空侵犯を阻止できるか。正直不安しかない。
「では、私もそろそろ帰りますね。大丈夫です。タッパーのある場所は把握しています。ホノカちゃんはテレビでも見て…」
「いえ、ユリナちゃんはお客さんです! なので、席に座って待っていてください!」
「いえいえ、家主さんに何から何までお世話になるわけには…」
こちらを向いてニコニコと微笑んでいるが、ユリナちゃんは目が笑っていない。本気で鍋の底までかっさらいに来るつもりのようだ。私は兄の無事を祈りながら、この勝ち目のない絶望的な戦いに挑むのだった。
<タツヤ>
マンションを出る前に何とか追いつき、暗いので家まで送っていく約束を取り付けたものの、何を話していいのか正直思い浮かばなかった。
男友達なら途切れることなく話題を振れるし、女友達でも当たり障りのない話で、適当にお茶を濁すことぐらい余裕なのだが。
流石に好きな女の子にそんな適当な対応が不味いことは俺でもわかる。もちろん、相槌を打つぐらいしてくれるだろうが、それでは何も変わらない。俺からの彼女への好感度は止まることなく上がり続けるが、彼女から俺へは全くの変化なしとなってしまう。
「石川君? 大丈夫?」
安藤の家に向かって夜道を歩きながら、俺はどうやら百面相のような神妙な顔をしていたらしい。彼女が心配そうにこちらを見上げてくる。普段はボサ髪やメガネに隠された素顔を知っているので、ただそれだけの仕草でも思わず顔を真っ赤にしてドギマギしてしまう。
今が夜で幸いだった。朝なら絶対に恥ずかしい姿がバレてしまっていただろう。
「あっ安藤、携帯の…」
「携帯?」
「携帯の番号とラインを教えてくれないか?」
言ってやった。たったこれだけのことを聞くのにも、緊張のために手が汗ばんで胸がドキドキと高鳴ってしまう。男子生徒や女子生徒と番号の交換をするぐらい、俺にとっては簡単なことなのにだ。
しかしよく考えたら、自分から教えてくれと頼んだことは一度もなく、いつも向こうから教えてくださいと言われていたことを思い出す。
「何で?」
「えっ…そっ、それは」
しかし今は俺が、小首を傾げている安藤の下手に出ている状態である。だが彼女は自分が俺よりも優位に立っているということには、気づきもしないだろう。
そしてもし気づいたら、そんな上の立場は相応しくないからと、自らの地位を譲り渡そうとするのだ。そのように関係は困る。あくまでも親しい友人関係がもっとも好ましいのだ。
「妹のホノカが、安藤の連絡先を知りたいからって…ほら、それにユリナも、もちろん俺もだが」
「んー…理解した。赤外線で送るから、後で伝えておいて」
「ああ、わかった。教えてくれてありがとう」
あくまでも俺はついでであり、この場にいない妹やユリナが知りたいからと言っておく。彼女たちが知りたがっているのは確かなので、別に嘘はついていない。
歩みを止めて学生鞄から携帯を取り出して、いくつか操作する安藤を横目に、俺も自分の携帯電話を手に取る。帰ったら二人に連絡先と一緒に、今回の話を合わせるように伝えておかないといけない。
この俺が安藤の連絡先をどうしても知りたがっていたと、本人にバレるわけにはいかないのだ。今の彼女から俺への好感度が上がることはほぼないので、恐らくは無反応か距離を取られるかの二択だろう。そうなれば俺のガラスのハートが粉々に砕け散ることは確実だからだ。
「んっ…送った」
「確かに届いているな。後で妹とユリナにも送っておくよ」
かつて女子生徒の連絡先を教えてもらい、ここまで心が高ぶったことはなかった。今すぐ踊り出したいぐらいだ。そのまま要件は済んだとばかりに、再び歩き始めた安藤に付き添い、やがて彼女の家の前までたどり着いた。
「ここまででいい。送ってくれてありがとう」
「ああ、お休み。また明日な」
「石川君も、また明日」
そう言って安藤は門をくぐり、玄関の扉を静かに開けて家の中に入っていった。彼女と出会って三日目の夜で連絡先の交換ならば早いほうだろうが、俺にとっては今回物凄く時間がかかった。
大抵は出会ってすぐに向こうから懇願されて交換するのものあるが、こちらからどう切り出したものかと、始終モヤモヤとしていたからだ。ともあれ、ようやく念願の連絡先を手に入れたのだ。
後はラインなり電話なりを送るだけなのだが、先に妹とユリナと口裏合わせをしなくてはいけない。それとあくまでも俺はついでの序列三位であり、一位と二位は連絡先を欲しがっている同じ女性の二人なのだ。
なので三位の俺ばかりが頻繁に連絡するわけにはいかない。本当は今すぐにでも電話をかけて安藤の声を聞きたいのだが、それはまだ叶わぬ望みである。今は少しずつでも足場を固める時なのだ。
やがて彼女の中で俺の存在がある程度大きくなったら、勝負をかけるつもりだ。お互いを下の名前を呼び合う関係にステップアップさせる。男子なら普通に呼び捨てを行い、女子でも向こうから呼び捨てにさせて欲しいと、うんざりする程要求されるが、安藤の場合はやはり絶対に断られるので、呼び合うのが自然な関係になるまで、慎重に足場を固めなければいけない。
勉強や運動よりも安藤を攻略ほうが余程難しいが、一歩ずつでもこちらの存在を意識させるたびに、言いようのない高揚感に全身が打ち震える。このまま自分に心を開いてもらい、最終的には両思いになって恋人関係を築ければいいのだが、残念ながらそこに至るまでの道のりは、まだまだ遠かったのだ。
何はともあれまずは連絡先の送信と口裏合わせが先だと、携帯を取り出して妹とユリナに報告しようとすると、ちょうどラインが届いたことを知らせるブルブルという振動が伝わる。
送り主は妹のホノカからであった。内容は、討ち死に! …と、一言だけだった。どうやら明日の朝カレーをユリナから守りきれなかったようである。
俺は行きとは違い大きく肩を落として、溜息を吐きながら安藤家を後にするのだった。