石川君宅
<ヤミコ>
放課後にいつものように他の生徒に掃除当番を頼まれ、一人で教室を片付けようと思ったら、昨日と同じように石川君とユリナちゃんが手伝ってくれた。
しかもそれだけではなく、当番でも友達でもない一組の生徒の何人かが、一緒に掃除をしてくれるとのことだ。二人の友達らしいが、そんなに掃除が好きなのだろうか。
でも、何だか心がほんの少しだけ温かくなった気がする。これが嬉しいという気持ちかもしれないと、私は一人で胸にそっと手を当てて思案する。相変わらず急な感情の変化に戸惑ってしまうものの、これはこれで悪くはないかもと感じたのだった。
掃除はあっと言う間に終わり、私は手伝ってくれた皆に何度も頭を下げてお礼を言うと、お礼なんて言わなくていいと、はっきりそう返された。
しかし私は両親や妹にそう教え込まれているため納得できずに、どうしたものかと思案していると、今まで安藤が掃除を変わってくれたお礼だと石川君が言ってくれたので、そういうものかと自分の心に一応の決着はついた。
夕暮れの校舎を後にした私たちは、迷うことなく徒歩で石川家へとやって来た。地名と番地を確認すると安藤家からは中学校よりも近く、歩いて行ける距離であることが判明する。
そして予想外だったのは、てっきり一戸建て住宅を妹さんと二人と借りていると想像していたのに、目の前にあるのは高層マンションだった。それも一ヶ月住むだけで家賃が数百万とは必要になる、超高級物件だ。
「ここが石川君の家?」
「ああ、そうだ。今は親元から離れて妹のホノカと二人で、最上階に住んでる。
警備員、管理人、お手伝いと、色んな人が定期的に見回ってくれてるから、子供だけでも危険はないからな」
億ションでしかも最上階とか、薄々そんな気がしていたものの、ユリナちゃんに引き続き石川君もとんでもない場所に住んでるようだ。何と言うか住む世界が違うという感じだ。
高校進学から先は零細企業のOLがせいぜいな私とは、本当に色んな意味で格が違いすぎる。それに真下から最上階を見上げていると首が痛くなりそうだ。
取りあえず、今は黙って彼の後について行くことにした。
「タツヤ様、隣の方はお友達ですか? 思えばユリナ様以外のお友達を自宅に連れて来るのは、初めてですね」
三人でマンション内の自動ドアを開けて一階フロアに入った時、横の管理人室の窓がガラガラと開き、知らないおばあさんが声をかけてきた。そしてさらにおじいさんも奥から顔を覗かせて、私の顔を見てびっくりしていた。
「本当じゃ! しかも女子生徒じゃないか! これはとんでもないぞ!」
「ただの友達だからな! いっ…今の所は! それはともかく、紹介するよ。
このマンションの管理人のおじさんとおばさん、時々差し入れを持ってきてくれるんだ」
私は慌てて姿勢を正して、お年寄りの管理人二人にペコリとお辞儀を返す。
「安藤ヤミコ、石川君のクラスメイト。よろしくお願いする」
「言葉遣いは少し変わっているけど、なかなか良さそうな子ね」
「そうじゃな。しかし、もしかしてあの安藤ヤミコちゃんかい?」
あの安藤ヤミコと言われても、私には何のことかさっぱりわからない。見当がつかずに小首を傾げていると、噂が気になったのか石川君がおじいさんに質問する。
「安藤のことを知っているのか?」
「そうじゃな。噂なら知っているよ。とある町内会の集まりに、欠かさず出席する少女がいるんじゃが、その子の名前がどうやら安藤ヤミコちゃんと言うらしい」
確かに忙しい両親の代わりに私に出席するように命令されているので、町内会の会議やイベント等には欠かさず出るようにしている。しかしそれの何処が噂になると言うのだろうか。
「最初は大人の集まりに子供を参加させるなんてふざけてるのかと、皆そう思っていたんじゃが。
しかし、嫌がらせとばかりに無理難題の仕事を振ってみると、これが大人顔負けの優秀さでな。
結果、今では町内会で欠かすことの出来ない一員になっているわけじゃ。もちろん、表の名簿には安藤ヤミコちゃんという少女は存在しないがな」
管理人さんの言葉で、町内会に出席するたびに色々な仕事を振られていることを思い出した。しかしそれは他の人も行っていることなので、私だけが特別ではないのだ。
「この噂は飲み友達の一人が、酒に酔って暴露した内容そのままじゃ。
そいつは光の聖女の居る家庭には手を出せないからと、自分の無力を嘆いていたぞ」
国内上位ランクの光の聖女がいるのだ。そのおかげで家族はとても裕福になっている。私も多分普通の家庭よりも幸せなのだろう。身近な人たちは口を揃えてそう言っているのだから。
しかし心の奥底には何かはわからないが、モヤモヤとした嫌悪を感じるので、三年後には一つぐらい我儘を通させてもらいたい。遠くの地方の高校を受験して、これを期に安藤家から離れるという、私の最初で最後の我儘だ。
「ありがとう。大体わかったよ。安藤は他でも色々やらかしてるんだな」
「申し訳ない」
「別に叱ってるわけじゃない。安藤のおかげで助かってる人が大勢いたことに、驚いているんだよ」
私は自分に与えられた役目を果たしているだけで、人を助けるなんて大げさなことをしていない。そのはずなのに、管理人さんや石川君とユリナちゃんは微笑ましいものを見るように、じっとこちらを見つめたまま動かない。
どうにも心が落ち着かずに居心地悪くなってきたので、話題を変えさせてもらうことにする。
「そんなことより、石川君の家に行く。最上階の何処?」
「おっとそうだったな。俺の家はマンション全部だが、実際に使ってるのは最上階の中央。そこの一部屋だな」
何か今とんでもない言葉が聞こえた。つまり石川君は億ションのオーナー的立場なので最上階の一部屋だけ使って、残りは全部空き部屋ということなのだろうか。もしかして予想を超えたとんでもないお金持ちなのではなかろうか。
「タツヤ様は、とある地方の豪族の家系なのよ」
「ただ広い土地を持っているだけの古い名家だ。大したことじゃない」
豪族とは簡単に言うと地方で絶大な権力を持つ一族だったはずだ。それがどのぐらいの規模かは不明だが、億ションをポンと子供に渡せるぐらいの力はあるようだ。本当に桁違いである。
「そうだった。俺と妹の部屋の鍵を安藤にも渡してやってくれ。それがないとマンションにも入れないからな」
「そんなの受け取れない」
「しかし、友達の家に遊びに行くとき不便だぞ?」
確かにもしホノカちゃんと言う妹さんが会いたがっていた場合、マンションの入り口で待っているのは不便である。そんな機会が来るかどうかは知らないが、持っていて損はないだろう。
私は覚悟を決め、渋々ながら管理人さんからマンションの合鍵を受け取って、両手でギュッと握る。
「ありがとう。大切にする」
「おっおう、何だか意味深に聞こえて、とても嬉しいぞ。でも、実際には違うんだよなぁ」
合鍵は借り物であり石川君の家に自由に入るために、絶対に無くすわけにはいかない。責任重大である。万一紛失した場合は、恥ずかしい魔法少女になってでも、探して見つけ出すことを心の中で誓う。
私を見る石川君の頬が赤くなっていたが、そんなことを気にしている余裕はなかった。
「とっ…ともかく、まずは部屋に行こう。いつまでも一階で立ち止まっているわけにも行かないだろう。奥にエレベーターがあるからな」
そう言って石川君は緊張しているのか、少しギクシャクとした動きで一階の奥へと歩いて行く。私とユリナちゃんは、管理人の二人にお礼を言って慌てて後を追うのだった。
エレベーターに乗ってあっと言う間に最上階に着いた私たちは、石川君に案内されるまま、石川と書かれたプレートがかけられた部屋の前で止まる。
「ここが俺とホノカの家…いや、部屋か? まあともかく入ってくれ」
石川君は慣れた動きで鍵を差し込み扉を開ける。中は一般的なマンションとは違い、とても広々としていた。それに内装も高級感に溢れたものばかりで、私の家にはないものだ。
「ただいま。そしていらっしゃい。安藤、ユリナ」
「お邪魔する」
「お邪魔します」
玄関で靴を揃えて室内用のスリッパに履き替える。何故置いてあるのかわからないが、黒猫をイメージしたモコモコスリッパを使わせてもらう。
これは私のためにわざわざ用意してくれたのだろうと、黒猫スリッパと私を交互に往復する石川君の視線で、何となく察することが出来た。
「黒猫スリッパ、使わせてもらう」
「あっああ、元々安藤が来るから買ったものだしな」
やはり私専用スリッパだったらしい。わざわざそこまでしてもらうのは、何だかとても嬉しく、そして恥ずかしかった。特にこのように直接の好意を向けられると心がざわついてしまい、表情も作れずに上手く喋れなくなるのだ。
「あっ…ありがとう」
「おっ、おう…こちらこそ」
そして私だけではなく石川君も、何故かしどろもどろになってしまっている。口を開いたり閉じたりする彼が次の行動を起こすよりも先に、知らない女性が私たちに向かって、廊下の奥からこちらに小走りに駆け寄りながら声をかけてきた。
「兄さんおかえり! それとユリナちゃんもね! それでそっちが噂のヤミコちゃん? 私が妹のホノカだよ! よろしくね!」
赤い髪のショートカットで表情もコロコロ変わる元気そうな女の子だ。今は小学校の体操服の上下を着て、私達を出迎えてくれている。
「ホノカ、お前また体操服で家の中を…」
「だってこのほうが動きやすいんだもん! 家の中にいる限り、どうせ兄さんしか見ないんだし、このままでいいじゃん! ねえ? ヤミコちゃんもそう思うよね?」
突然振られても困る。予想していなかった質問に私は必死に考えを巡らせて、ホノカちゃんに答えを返す。
「外に出ないならいい。私も制服と体操服の二つしか持ってないから」
「えっ? ヤミコちゃん、私…そんなつもりじゃ! と言うか何なの兄さん! この子ヤバイってレベルじゃないんだけど!」
ホノカちゃんのような可愛い子は外に行く時に、ちょっとオシャレするだけで十分魅力的になれるので、家ぐらいは自分の好きなような格好をすればいい。
安藤家は妹や両親はオシャレしているが、私にはそんな機会はないし、散々言われているように、自分が可愛い服でオシャレをしても似合うわけがないので、中学の制服と体操服だけで十分なのだ。
そんな感じで返答したつもりなのだが、何か間違えたのだろうか。
「安藤はそういう女の子だって、ちゃんと伝えただろう?」
「そりゃそうだけど、あまりにも予想の斜め下すぎでしょう! 物には限度ってのがあるわよ!」
石川君は達観したような表情でホノカちゃんを説得するが、彼女は納得出来ないのか、彼に食ってかかっている。
「それよりもだ。家に安藤の物置として使える部屋があっただろう?」
「えっ? そんなの隣室の鍵を使えばいくらでも…ああ、そういうことね!
確かに石川家には空き部屋がたくさんあるわ!
何しろ兄さんと私の二人しか住んでないからね!」
なるほど、確かにこの一室だけでもマンションとは思えないぐらい広々としている。普通の住宅の一階と二階を合わせたぐらいの部屋数がありそうだ。明らかに子供二人が住むには過剰すぎる。
「ヤミコちゃん、付いて来てよ! 空き部屋に案内してあげるから! ついでに可愛い服もいくつかあげるよ!」
私はホノカちゃんが会いたいと言うので来たのであって、オシャレには全く興味がないので困ってしまう。
さらにもし倉庫として使えるのなら、高校受験に万全の状態で挑むために、お財布のお金で参考書等を購入した後に勉強部屋として使うつもりだったなんて、今さら言い出せない。
どう説明したものかとウンウンと頭を抱えて考えていると、不審に思ったのかユリナちゃんが声をかけてきた。
「ヤミコちゃん、どうかしましたか?」
「やっぱり私は帰ったほうがいい。可愛い服を着ても似合わないし、物置は衣装部屋ではなく勉強部屋として使うつもりだった」
どうせ私が嘘をついてもすぐにバレそうな予感がしたので、正直に話すことにした。一応ホノカちゃんに会うという目的は達成したので、ここで私だけ抜けても問題ないはずだ。
それに、せっかく皆が気を使ってくれたのに、それを騙して利用するのは何となく嫌だった。
「すごーい! ヤミコちゃんは真面目だね! 私とは大違いだよ! 勉強したいなら空き部屋を自由に使ってもいいよ!」
「いいの?」
「うん! でも一応毎日の掃除はお手伝いさんがやってるけど、勉強に使えそうな机や椅子はないんだ! まずは色々と調達しないとね!」
しかしこのホノカちゃん常に元気いっぱいでグイグイ来る子だ。一人で悩んでいる私にジリジリと距離を詰めてくるので、今はお互いくっつきそうなぐらい近い。
それに何だか尊敬するようなキラキラとした視線を送ってくる。別に褒められるようなことはしてないんだけど、勉学に励むのは学生として当たり前のことだ。
そう考えて、表情をコロコロ変える彼女に手を引かれながら歩いて行くと、やがてある扉の前で歩みが止まった。
「ここが空き部屋だよ! それ以外にも使ってない部屋はたくさんあるけどね!」
「ここでいい」
「そう? 中を見てから決めても遅くないと思うけど、まあいいや! じゃあヤミコちゃん、入ろっか!」
そしてホノカちゃんは空き部屋の扉を開ける。鍵はかかっていなかった。中はガランとしており本当に何もなかった。高級感溢れるマンションの壁と床、天井に設置された室内照明だけだ。奥の窓は一面ガラス張りで引き戸になっており、ベランダに自由に出られるようだ。
「今日からこの部屋がヤミコちゃんの部屋だよ! 自由に使ってよ!」
「私の部屋?」
安藤家にも自室はあるものの、妹が頻繁に自室に入ってきては勝手に物を持ち出し、そして二度と戻ってこなかった。そのどれもが両親に頼んで買ってもらった思い出の品だったのだが、結局は父母公認で妹の所有物になってしまうのだ。
だがこの部屋なら、私物を持ち込んでも取られることはない。そう思うと何だかとても嬉しく感じる。
「私の物、取られたりしない?」
「しないよ! ヤミコちゃんの物は、ずっとヤミコちゃんの物だよ!」
妹に取られることが当たり前だと思い諦めていたが、この部屋では私の物は取られないらしい。それでも今は、教材を購入して受験に備える以上の使い道が思い浮かばないので、ミツコに取られる物を揃えるつもりはないのだが、出処を知られるわけにはいかないので都合がいい。
しかし安藤家から離れる前に念願の自分の部屋を貸してもらえたことで、自然と口元がほころんでしまう。
「かっ可愛い! ヤバイよ! ヤミコちゃんの笑顔超可愛い!」
「私は別に可愛くない」
「ああっ! もっ戻っちゃった! もっと見たかったのに!」
何やらホノカちゃんが冗談で私を褒めてくれたが、本当に地味子の私が可愛いなどということは絶対にない。その言葉で慌てて冷静になり、自分の目的を思い出す。まずは石川家にある自室を勉強部屋に変えるために、どうするべきかと考える。
「教材は後で買えばいい。まずは勉強机と椅子…は高い。簡易机とクッションで十分」
「それなら俺の家の余りを使えばいい。わざわざ買う必要はないぞ」
「そこまで好意に甘えられない」
自室を借りられただけでも十分過ぎるのだ。しかも一ヶ月の家賃数百万もする場所の一室をだ。これ以上借りを作るわけにはいかない。
今でさえ私の一生涯の時間を使っても返しきれない恩を受けているのだ。どうすれば返せるのかは思いつかないが、現状ではある時払いで許してもらうしかない。
「じゃあ安藤、勉強道具は俺たちが全て揃えるということでどうだ?」
「どういうこと?」
「勉強道具を揃える代わりに、安藤は俺たちに勉強を教えて欲しい」
つまり家庭教師のアルバイトということだろう。確かに中学生がお金を得る手段は限られているし、安藤家の事情もあり、バイトの許可が下りることはまずないだろう。
それに直接金銭のやり取りをするわけではない。ある意味この提案は渡りに船なのだではないだろうか。もっとも、彼らの好意に甘えることになるが。
「私は構わない。石川君たちはそれでいい?」
「ああ、大丈夫だ」
「私もいいよ」
「はいはーい! 私も賛成だよ!」
私は家庭教師をしたことはない。なので上手く教えられるかわからないので、少し不安だが。議論の余地もなく全員賛成となったので、後はこの路線で進めるしかないようだ。
そもそも、石川君たちは普通に勉強が出来た気がするのだが、妹の成績ライン以下を強制的に維持しており、全力を出しても多分平均点がせいぜいの私が、果たして教えられる箇所が残っているのかどうか。しかし今は決まった条件に沿って行動を起こす時だ。
「んー…勉強道具はどうやって揃える?」
「普通ならネットだが、それでは届くまで時間がかかるな」
「はいっ! 近くに大型の量販店があるので、取りあえずはそこで揃えるのがいいと思います!」
「ですね。後は足りない物を、ネットで補充していけばいいでしょう」
何と言うか決断が早い。反対意見もないようなので、近くの大型量販店に皆で向かうことに決定した。
石川君の妹のホノカちゃんは活発な性格で、何と言うか行動まで男の子に近い。ワクワクしながら嬉しそうに発言する様子から、そんな雰囲気を感じ取れてしまう。
「何だかこういうのって、皆で秘密基地を作ってるみたいで楽しいね!」
その秘密基地がどういうものかは知らないが、確かにこのメンバーで集まっていると、ワクワクしてくるのはわかる。普段なら何とも思わないのだが、今はもっと皆と一緒にいたいと、自分でも気づかない間に、そんな気持ちが心の奥から少しずつ漏れ出てくる。
いつもの私なら何とか押さえようとするが、今はこの心地よい感情に身を任せるのもいいかと、そんなことを考えながら地元の大型量販店へと向かうのだった。