7-1 レベル∞のオープニングループ
真っ白い世界だ。水平線も見えない。どこからが空で、そこまでが地面なのかもわからない。
ただ、昨日訪れたはずの今日を抜けた先で、それと対峙した。
彼は自らを神と名乗った。古びたぬいぐるみのような継ぎ接ぎだらけの体。
今にも取れてしまいそうな首を片手で支えて、彼は笑っていた。
「何のためにゲームを始めたの」
ただ一人、取り残された少女は尋ねた。
神はややあって答えた。
「僕には時間がない。もう彼の代わりは出来ないんだ」
肌色、とは程遠い土気色した痩せこけた頬をひしゃげて、彼は笑った。
「でも、彼はみつからない。だから、彼の代わりの僕の代わりを探していた」
腕が落ちた。神は緩慢な動作で、それを拾い上げ、ねじ込むように腕と腕を繋ぎ合わせる。
「君は神に選ばれた」
ぽつりとこぼれた言葉。ゆっくりと距離を詰める足。少女は身動き一つ取れずに、それを見ていた。
「どういうこと?それに私、神様になんてなれないよ」
怒りをぶつけるような気分にはなれなかった。神を名乗る少年に漂うのは悲壮感だ。
ひどく疲れ、助けを求めるような眼差しを見つめ返すことにも胸が痛んだ。
打ちのめされたような気分だ。少女の声にも悲しみが込められた。
神は悲しそうに笑った。
「ごめんね、ここにたどり着いた時点で、君は代行神となった。僕の魂は、やっと輪廻する」
神が言葉を漏らすとボロボロと体が砕けた。先ほどくっつけたはずの上でボトリと地面に落ちた。
その腕を拾い上げようとした腕もボトリと落ち、神はため息を吐いた。
「君、死んじゃうの?」
少女の問いかけに神は首を縦に振った。そして、ゆっくりと物語を紡ぎ始めた。
それは楽園の物語だった。神が生まれ、一組の男女を作った。
彼はその片割れだった。
そこにあるのは無限の幸福だった。だが、ある時、女が出て行った。残された彼は、別の女を作った。
彼は女にエバという名前を与えた。知識も知恵もない人形に知恵を与えるために、彼は神が許可しなかった知恵の実をエバに与えた。
神は激怒し、楽園を奪い去った。
そこから世界は息を始めた。一ページ、一ページと丹念に描かれた古い日記のような歴史だった。
彼が生まれて一〇〇〇年が経とうとした時、神は再び舞い降りた。
死に絶えようとする彼に手を差し伸べ、その玉座を譲り渡した。そして、彼は神となり、神は彼となり、彼は姿を消した。
長い年月だ。ありとあらゆる方法で、彼を探した。だが、どこにも、いつの時代にも、彼を見つけられなかった。
「僕の役目を押し付けているだけなのはわかってる。でも、この世界を終わらせるわけにはいかないんだ」
ぐしゃりと跪くように、神は倒れた。足が折れたのだ。
膝をつき、懇願するような体制で、彼は彼女を見上げた。
「君はこれから世界になる。それは誰よりも不自由で、誰よりも自由だ。君が望まずとも、君が望む世界を作れるだろう。いつか君が、彼と同じ過ちを、僕と同じ答えを導きだす日が来るだろう。その時、きっと君は後悔する。それは海よりも深く、宇宙よりも暗い時間の中を漂うことになるだろう。だけど、それは今じゃない。明日かもしれないし、昨日かもしれない。それを選ぶことが、君に最初に与えられた自由だ。そして、真実を知るといい。君がなぜ、ここに立っているのか」
なぞかけのような言葉を残し、神は塵と化した。
「どういうことなの?何をすればいいの?」
真っ白い世界に声は木霊した。輪唱する声に応える静寂が、キン、と響き渡った。
少女は神となった。そして、果てしない時間をたった一人で歩き出すことになった。
彼女は世界となり、世界を見続けた。
地球が壊れ、そこに集う命が潰えても、彼女だけは存在していた。
胸の中を侵食する絶望に、彼女はやがて祈るようになった。
あの日に帰りたいと願った。
それは一つの星の寿命が潰えるのと等しい時間。指を交差させるように胸の前で組み、真っ白い世界で祈り続ける毎日が続いた。
いつか彼女が自分自身を忘れてしまうまで、その祈りは続いていた。
やっと願いが通じた時、彼女はすべての時間をさかのぼっていた。
古い日記を一ページずつ破り捨てるのと同じだ。歴史を刻んだ時間をどこまでも駆け巡った。
「なんだ、お前。随分、その、空っぽだな」
大地には緑だけ。空には青だけが輝いている。自分がそこにいると気付いた時には、彼は彼女を見下ろして立っていた。
困ったような顔で彼女に笑いかけると、隣に腰を下ろした。
「俺と一緒だな。独りぼっちだ」
彼は笑った。その見覚えのあるような笑みが心地よかった。
彼はヤハウェと名乗った。そして名前のない彼女にリリスという名前を与えた。
二人きりの時間はとても甘く、とても優しかった。ただ、寂しさは消えなかった。
忘れてはいけないことを忘れているような、思い出してはいけないことを思い出そうとしているような、そんな似ても似つかない罪悪感が、胸の中を支配していた。
リリスの様子を気に掛けたヤハウェは、その寂しさを紛らわすために、もう一人の人間を作り上げた。
人間の名前はアダム。
「・・・あ」
その顔を見て、リリスはすべてを思い出してしまった。
アダムがリリスに神をなすりつけたこと。
自分自身が星宮灯里という名前を持っていたこと。
明日訪れるはずの昨日へと帰りたいという願いを。
リリスはヤハウェにすべてを話した。だが、ヤハウェは忘れなさいと諭すだけ。
その声にリリスは従うことが出来なかった。自分が見てきた世界を、自分が生きていた歴史を見失わないために、リリスは楽園を去ることにした。
そして、昨日訪れたはずの今日をさせまいと、リリスはアダムの死に際に彼の元を訪れた。
土気色の肌をしたアダムは落ち着いた様子で椅子に腰を掛けていた。
木製の椅子はキシキシと嘲笑うように鳴っていた。彼の目に光はない。時折、疲れたようにため息を吐き出すだけで、目を放すと生きていることを疑ってしまうほどだった。
リリスは彼に寄り添い、じっとヤハウェとの再会を待った。
「よぉ、先に来てたのか」
まるで、待ち合わせでもしていたかのような口ぶりで、ヤハウェは現れた。
一千年ぶりの再会にも拘わらず、彼の雰囲気は変わっていない。垢ぬけたような、飄々としたような雰囲気を醸し出している。
「えぇ、待っていたわ」
それに比べてリリスは随分とねじ曲がった。見た目は秀麗になったが、わずかに見えかくれする歪みが、彼女の顔の半分を時折ピクピクと痙攣させた。
「空っぽだったお前が、そこまで歪むか」
リリスはこの瞬間を待っていた。いつからこのときを待ち望んでいたかもすら思い出せないほど、長い時間だった。
「歪むほどに待っていたわ、私の騎士様」
リリスは変幻した。柔らかな肌は内側からはじけるように破れ、その下から土色の硬い肌が現れる。
妖艶な瞳は真っ赤に染まり、整った歯の並びは刺々しい牙へと変わる。
華奢な腕はまるで大木のように姿を変えた。
リリスは唸り声を上げて、ヤハウェに襲い掛かる。
ヤハウェは物怖じしなかった。まるで、最初からそうなることを知っていたかのように、黒い刀身の剣を抜いた。
その剣は閃光のように煌めいた。鞘から抜かれると同時に横一線に空間が引き裂かれる。
リリスもまた物怖じしなかった。右腕を一本犠牲にして、それでも、ずぃと前進する。
黒い血しぶきを振り払うようにヤハウェはまた剣を薙ぎ払う。今度は左腕を吹き飛ばした。だが、リリスの方が一枚上手だった。
両腕を失ったリリスはヤハウェの喉元に牙を突き立てた。じゅるりと音を立てて、ヤハウェの血を啜った。
血液と共にヤハウェの力が吸い取られていく。化け物と化したリリスの体は、ヤハウェの腕の中でゆっくりと人の姿を取り戻す。
リリスは唯一の神へと昇華する。虚ろなアダムの瞳に一度微笑みを投げかけ、足元に倒れた、かつて神だった少年神を置き去りに小さな小屋を出ていった。
そして、彼女はすべてを否定する。この世界が間違っているということ。
元の形に戻すために果てしない時間の中で、思考を巡らせ続けた。
二〇〇〇余年が過ぎた頃、彼女はかつての神たちが導き出した答えにたどり着く。
後悔などするものか。
リリスは一人、足元に転がった世界を見下ろした。
長い長い悪夢だった。ようやっと夢から覚める時が来たのだと彼女は確信していた。
そして、最初に神を名乗った少年と同じ過ちを犯すことになった。
ゲームの名前はワールドオブナイトメア。
それは世界《彼女》が見た悪夢。
それは明日を取り戻すための独りぼっちの世界が生きた現実
昨日訪れたはずの今日へと明日訪れるはずの昨日へと収束する。
そして、彼女はすべてを後悔する。
神は誰よりも不自由で、誰よりも自由だ。
君が望まずとも、君が望む世界を作れるだろう。
いつか神が、彼と同じ過ちを、僕と同じ答えを導きだす日が来るだろう。
その時、きっと君は後悔する。
それは海よりも深く、宇宙よりも暗い時間の中を漂うことになるだろう。だけど、それは今じゃない。明日かもしれないし、昨日かもしれない。それを選ぶことが、君に最初に与えられた自由だ。
そして、真実を知るといい。君がなぜ、ここに立っているのか。




