6-3 レベル5の昨日訪れたはずの今日
九八という数字を目にしていた。
舘林清二は言葉を失っていた。
彼の人生は順調だった。中学高校と生徒会長を務め、クラスのイジメ問題を撲滅した。
大学は地元を離れた少し有名な大学。成績は上々、遊びもそこそこに生真面目にキャンパスライフを送ることが出来た。そして、勉強バカと称された彼は警察学校に入学。
警察官となり、勤勉な姿勢を認められ、彼はあっという間に昇進した。
刑事という仕事は彼の天職だった。その肩書を持っているということだけで、舘林は生きている喜びを感じられていた。
妻も子供もいない彼にとって、仕事だけがすべてだった。だが、ある日、目の前で怪物たちと戦う少年少女を見てしまった。
拳銃では到底立ち向かうことの出来ない非現実が襲い掛かったのだ。
その日から、同じ一日を繰り返している。
巨大な真っ黒い蜥蜴が襲い掛かってくるのだ。何度死んでも、覚めない悪夢のように今日を繰り返す。
最初は石動玄太警部に事情を説明し、応援を要請した。だが、彼らが所持する銃器では傷一つつけることは出来なかった。
すでに九八回、死を体験した。残り二回。
ナビゲーターに表示できる数字は二桁だけ。次の数字を刻むと、その次はない。
舘林は直感していた。
どうしてこんな目に遭うのか。舘林には理解できない。
勝ち目などないのだ。すでに舘林は四〇日間、部屋から出ていない。
時計が刻む時間は一日だけ。誰も舘林の身を案じるようなことはなかった。
何も食べていないのに、空腹を覚えることもなかった。ただ、精神だけがすり減っていくのを感じていた。
まもなく時計の針が一二時を回る。シンデレラの魔法が解ける時間だ。
舘林は深く息を吸い、目を閉じた。
ハッとして目を開けると、部屋の天井が飛び込んでくる。一二時を回るとその日の目の覚めた時間に戻るのだ。
時計は朝の六時を指している。これから一八時間後には、この悪夢が終わるのだ。
爽やかな朝の空気と違い、吐き出されたため息はずっしりと重い。
舘林は動かなかった。ただ一人、ぼんやりと窓の外を眺め、太陽が見えなくなるのを待った。
何の変哲もない日々だ。眠りもしないのに疲れもしない、一食も口にしていないのに、大して腹も減らない。
舘林は拳銃を手のひらで遊ばせていた。撃鉄を引き、また戻し、撃鉄を引く。
一度は銃口を口に突っ込むこともした。だが、引き金を引くことは出来なかった。
生きることは諦めていた。なのに、死ぬことに恐怖していた。
一種の鬱病のような状態だった。やる気も起きない。気力も沸いてこない。
生きる気力も死ぬ気力もないのだ。ただ、怠惰に生を貪ることだけをしていた。
まさか自分がそのような状態に陥るとは思わなかった。そんな自分を情けないと恥じた。だが、どうしようもなかった。
六つの赤い目玉が恐怖をそそるのだ。生きることからも死ぬことからも追い立てるのだ。
暗闇に燃える炎のような双眸が、舘林からすべてを奪ったのだ。
夜が訪れる。虫の声だけが鳴くうるさい静寂が、鼓膜をキンと震わせた。
まもなく一二時だ。彼は覚悟して、目を閉じた。
自分で引き金を引くよりは、随分と気が楽だった。一秒が一分にも一時間にも感じられた。
絶望とも呼ぶべき時間が間もなく終わる。秒針の足音に耳を澄ませた。
瞼の裏の中の闇。舘林は今か今かと呼吸を荒くして時を待った。だが、時計の針は止まらなかった。
いつまでも頭の中で鳴り響く秒針。時計を見ると一二時を過ぎている。
昨日訪れたはずの今日が終わった。
なぜ終わった。
この数字がただ意味もなくカウントしていたとは思えない。確認しなければならない。
舘林は久しぶりに部屋の外へと飛び出した。
その手には拳銃が握りしめられている。
車に乗り込み、森へと向かった。道端に車を止め、足早に外へと駆けだした。
その暗闇の向こうで、二つの人影を見た。
一人は大きな剣を肩に乗せた男だ。その横顔に見覚えがある。
舘林はじっと息を潜めた。
「なんでここからなんだ」
藤堂大悟だ。中学校教諭とは思えない物騒な剣を持っている。
「俺が知るか」
その隣に立つ小さな影は子供のようだ。一六〇センチ前後の少年だ。わずかに幼さの残る声色は、変声期を終えたばかりの声。
中学生だろう、と舘林は踏んだ。
「よく覚えておけ!お前は俺の生徒であり、今は俺の下僕だ。俺の言葉に従え。そして、コイツを倒したのも俺だ!お前は見ていただけ!俺に逆らえば次はお前がこうなるんだ!わかったか!」
藤堂は乱暴に言葉を突きつけた。少年は諦めたように首を縦に振った。
「そもそも、お前はなんでここにいる」
舘林は忍び足で距離を詰める。二人の会話に耳をそばだてた。
「死んだみたいだ」
自分でもよくわからないとでも言うように少年は言った。藤堂が問い詰めるが、少年はわからない、の一手張りだった。
「先生こそなんで、ですか」
藤堂に気圧されたのか、少年はぎこちなく敬語を付け足した。
「わからん。だが、俺はお前と違ってドジを踏んだわけじゃない。誰かに殺されたんだ」
「どういうことだ」
「ドラゴンを倒した後のことだ。残党狩りが始まった」
藤堂はとつとつと言葉を紡いだ。
暗闇に燃える竜を倒した後、会長の指示に従い戦いを始めた。
無数の土色の巨腕の戦いだ。疲弊した体でも藤堂にとっては余裕だった。それ故に前衛に出た。
先頭に立って、自分が一番強いことを証明するかのように剣を振るった。
後に続く戦士たち。勝利は目前だった。だが、土色の巨腕たちも必死だった。
緩慢な動作で反撃を試みる。俊敏とは程遠い藤堂ですら避けられる攻撃だった。だが、誰かに背中を押されたのだ。
バランスを崩した藤堂の首元に鋭い牙が突き刺さった。痛みを感じている暇もなかった。
肉を引きちぎられ、あっという間に脳みそを循環していた血液は行き場を失い、藤堂の意識はテレビの電源を切ったかのようにフッと消えた。そして、過ごしたことのない昨日訪れたはずの今日へと舞い戻ってきた。
少年は、そうか、とだけ呟いて、探偵さながらに顎に手を添えた。
「心当たりでもあるのか」
藤堂が鋭い視線を向けると、少年はややあって笑った。
「まさか」
嘘をついています、とばかりの声色だった。藤堂は怪訝な表情を浮かべる。
藤堂が人の名前を囁く。言及しているようだ。その声を聞き取ろうと舘林が一歩前に出る。
さながら刑事もののドラマに出てくるドジな警官だ。わずかに響いた枝の折れる音が、藤堂の口を閉ざした。
「誰だ!」
張り上げた声に舘林は諦めて立ち上がる。
「警察だ。でも、君たちと同じ立場にある」
拳銃を足元に置き、ゆっくりとした動作で胸元から警察手帳を取り出す。
「私は舘林。何が起きているのか私にはわからない。だから、教えてほしいんだ」
「プレイヤーか?」
舘林に向けて藤堂は間髪入れずに声を張り上げる。その言葉の意味が舘林にはわからない。
「待って、先生」
今にも斬りかかりそうな藤堂をなだめたのは少年だ。少年は舘林の正面に立って、こういった。
「俺は高杉陽太。これは神を名乗る少女が作り出した現実だ」
少年は青い籠手が嵌められた右手に黒い刀身の剣を手にしている。
その黒い剣が、暗闇の中で白い月の光を反射する。
「俺が神を名乗る少女から聞いた話を教えてあげる。だから、黙って聞いてほしい」




