信長が一番恐れていた男
信長が一番恐れていた男、その人物は個人的な僕の考えですが戦国随一の武力を持ち「軍神」「越後の龍」とも呼ばれた、戦国大名の中でも珍しく私心があまり見られず、旧秩序や義理を重んじるという一風変った存在であった影虎こと上杉謙信です。
上杉謙信は女性だったと言う噂もあるこの人物、どのような生い立ちでどのような考えを持っていたのか、何故信長は謙信を恐れたのか!
私心がない人間がこの世にいるのだろうか!
僕には信じられないこの人物、謙信はどのような人間だったのか!
豪傑な人
謙信は戦いの神様である毘沙門天を崇拝していたために「軍神」と異名を取りました。
特に戦場における戦術・采配は天才的と言われ、生涯において敗戦らしい敗戦は無く、1577年の手取川の合戦においては織田信長を撃退しています。
またその戦い方の特徴として、戦場では謙信自らが常に先頭に立って采配を振り、縦横無尽に軍団を動かして戦うというその姿こそが、”毘沙門天の化身”と言われる所以です。
中でも有名なのは、第四次川中島合戦における単騎特攻で、謙信は合戦の最中、謙信自ら単騎で信玄の本陣に突撃して信玄に刃傷を負わせると言う豪傑ぶりを発揮しました。
無欲の人
謙信を語る上で最も特徴的なことは、あの群雄割拠の時代にあって領土野心があまり見られなかったことです。
幾度の合戦を重ね、勝利を得ている割には、越後の領土よりの広がりはほとんど見せません。その理由として、謙信は、進攻してくる武田氏や織田氏の軍勢を退けるための合戦は行なったが、自ら領土拡張のための出兵は殆どしなかったのです。
義の人
謙信は自ら侵攻を行なうことは少なかった割には、頼られれば上杉憲政、高梨政頼、村上義清らに援軍を送り、武田信玄が今川・北条らに塩止めと言う経済封鎖を受けて困れば、謙信にとって信玄は今まさに戦っている敵であるにもかかわらず塩を送って助けるなど、義理に厚い人だったのです。
豪傑で無欲で義の人、上杉謙信はそんな人だったのです。
武田信玄はホモだったの確実ですが、上杉謙信は何故女性説が流れたのでしょうか!
僕は信じたくないのですが、コメントでは皆さん興味があるようですね!
下記のような事が言われています。
謙信の死因は脳卒中でなく大虫である。
大虫とは現在では死語だが、「明解古語辞典」では更年期障害からくる婦人病とある。小虫は「かんや、ひきつけ」、大虫は「婦人の血の道しゃくを起こすもの」としている。
よって、大虫は女性しかかからず、男性ではかからない
毎月10日前後に腹痛をおこし合戦を取りやめている。
当時の暦は毎月同じ日数(太陰暦)である。女性の場合は毎月同じ時期に生理現象が来る事になる。
謙信の武勇を称えた当時の唄に謙信を女性扱いしたものがある。
「白虫赤虫一二匹、まんじ巴とくるうなか、とらどしとらずきとらの日に、うまれたまいしまんとらさまは、城山さまのおんために赤やりたててご出陣。男もおよばぬ大力無双。」
スペイン国王フェリペ2世宛ての日本についての報告書に謙信は女性と書かれている。
スペイン国王フェリペ2世には「会津の上杉景勝が伯母の上杉謙信が開発した佐渡の黄金を運び隠し持っている。」と報告されたのである。
謙信のヒゲ面の肖像画はいずれも謙信の死後、想像して描かれたものである。
現在良く見られる上杉謙信のヒゲの生えた肖像画。 これはいずれも後世の画家が謙信を想像して描いた物、あるいは謙信の子孫が命じて描かせたものである。江戸時代上杉家を守るため謙信を男性化する必要があった。そのため、あえて無精髭の謙信を描かせたとするものである。
たかだか5尺2寸の身長なのに大柄と言われる。
当時は現在より平均身長は低かった。しかし、だからといってたかだか156センチ程度で大柄と言われることはない。
これは謙信が女性であった、とすれば156センチでも充分「大柄」という表現になると考えられている。
筆跡が女性的。
謙信の筆跡を写真か何かで見た方は、きっと驚かれる。特に武田信玄との筆跡と比べて見ると、謙信の筆跡は実に繊細で、信玄の力強い字と比べて、実にしなやかな感じを受ける。
遺品で残されている服装品が女性的。
一生涯妻を娶らなかった。
女性が必要なかった!
僕の結論としては、男性でも女性でもどちらでもいい!
人間性に優れていたのは間違いない。
本題に入りたいと思います。
信長が謙信を恐れたのは、謙信を理解できなかったのでしょう。
天下を取るために非道なこともやってのけた信長、無心の謙信の行動はどう考えても理解できなかった。
謙信が女性なら、信長が理解できなかったことが解ります。
必ず世継ぎ考えていたこの時代、謙信は女性を近づかせなかった事。
侵略より、自分の領土を守り、民の繁栄を一番に考えた事。
謙信が女性だと解っていたら、理解できたかもしれません。
信長に失脚された足利将軍の依頼を受け、謙信は能登へ侵攻、手取川の戦いでは初対戦の織田信長軍を木っ端微塵に打ち破っている。しかし天正六(1578)年、この年の三月九日、謙信が春日山城内の厠で突然倒れ、意識の回復を見ぬまま四日後に歿したのでした。
信長は運がいい男だ。
戦いになる寸前で、信玄もそうだが謙信とも戦わずして相手が没している。
信長の一番恐れた男は、女だった。
女性の謙信が馬に乗って信玄に向かって走っていく姿が目に浮かびます。
信じるかは信じないかは別として歴史はミステリーで面白い。
完