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帰ろう、口を開きかけたその時だった。
「どこへ帰るんですの?」
カツンと床を打つ靴音。そして……聞き覚えのある声。
油断した。懐中時計に気を取られて、人の気配に気づかなかった。
僕はゆっくりと背後に視線を移す。それは黒猫も同じだったみたいだ。その姿を認めた黒猫の表情は一瞬にして凍りついた。
「西園寺……ありす……」
そこにあったのは、合宿でここにはいるはずのない西園寺ありすの姿だった。
「あら、わたくしの名前をご存知ですの? それは光栄ですわ。よろしければあなた方のお名前も教えていただけると嬉しいのですけれど」
白いサマーセーターに、深いスリットの入った黒いロングスカートというシンプルな装い。西園寺の後ろにはもちろん、例のごとく高遠さんが控えている。僕の背中に嫌な汗が伝った。
急なことで動揺したものの、黒猫はいつもの落ち着きを取りもどしていた。スッと背筋をのばし、一歩前に進みでると毅然とした態度で言いはなつ。
「私は……《黒猫》」
西園寺は桃色の唇を薄く開くと、優雅に微笑んだ。
「そう、黒猫さんとおっしゃるのですね。それで、そちらの方のお名前は?」
西園寺は僕を見つめる。
僕の名前は瀬野優人です……じゃなくて僕⁉ そういえば名前なんて考えてなかった……まさか名前を聞かれるなんて。
黒猫がコソコソっと小声で僕に囁いた。西園寺に見つかった時以上にうろたえているのは気のせい?
「な……名前、どうするんだよ!」
「知らないよ! 本名名乗るわけにいかないし……」
「当たり前だ! 適当に考えろ! 一秒で!」
適当にって言われても!
「お名前、ございませんの? 私、礼儀として、手合わせする相手には必ず名前を聞くのですけれど。困りましたわね」
その言葉とは裏腹に、西園寺はすでに臨戦態勢に入っている。全然待ってくれそうにもないよ!
「僕は、僕は……」
ふと僕の中に嫌な考えがよぎった。もし、逃げきれなかったら?
僕がこの話を持ちださなかったら、黒猫はここに来ることはなかったのに。窮地に立たされることなんてなかったんだ。
僕に付き合ったせいで、黒猫は捕まるかもしれない。今まで隠していた秘密を暴かれるかもしれないんだ。
おとなしく、何も知らなかった頃に戻してもらえばよかったんだ。確かに記憶がなくなるのは悲しい。でも、二人を危険にさらすことはなかった……。
いや、違う。二人を忘れてしまうなんて冗談じゃない。理不尽だけど、二人を受け入れるって決めたんだ。黒猫の後ろで怯えている場合じゃない。今、黒猫を守れるのは僕しかいない。