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だけど、もう小細工をしている余裕はなかった。
黒猫は僕を見て、向かいの家を指さした。口をパクパクさせながら、僕に何か伝えたいようだ。僕は目を細めて、黒猫の口の動きを読みとった。
『と べ』
戸部……戸部さん? いや、違う。飛べ?
黒猫さんったら……強引なんだから。そりゃ飛んで飛べない距離じゃないけど、そんなことしたって姿を見られちゃうだけだよ……って!
黒猫はまたしてもグズグズする僕をほっぽって、ベランダからダイブした。余裕のハイジャンプで隣の家の屋根に手をかけ、ぶら下がっている。黒猫は両腕に力を込め、勢いよく自分の体を屋根の上に持ち上げる。そんな超人技、見せつけられても僕に出来っこない!
でもここでもたついているわけにもいかない。うまくいくかわからないけど、やってみるしかない! ここは二階だし……落ちてもちょっと足を痛めるくらいですむはず。なんてポジティブなんだ、僕!
僕は思い切ってベランダから宙へと舞った。だけど、もちろん黒猫のようには飛べない。
「ぅあ……!」
僕の体に重力がかかる。地球がグイグイと僕を引っ張っている。隣の家の庭が迫ってくる。
地面が近づいてきて……もう目の前だ!
僕は覚悟を決め、やがてくる衝撃に身構えた。
「……っ!」
……痛い、痛……くない?
目を細く開けると、僕の目の前にはよく手入れされ、長さが揃えられた青い芝。スパイ映画さながらに、僕の体は地面スレスレのところで止まっていた。
シュルルルと魚を釣り上げるリールのような音とともに、僕は宙に浮きあがる。さっきまで近くにあった地面がどんどん遠ざかっていった。
僕の腰元にあるボディバッグに絡みつく、一筋の蜘蛛の糸。それをたどり、その先に視線を移す。
空には少し欠けた月。そして……屋根にたたずむ一匹の美しい黒猫。
ワイヤーは黒猫の手に握られていた。その力で僕はあっという間に黒猫に引き寄せられていった。
「危なかったな。意外と度胸あるじゃないか」
黒猫は不敵に笑う。黒猫は僕の手をつかみ、屋根の上に引きあげてくれた。
後ろを振り返ると、そこに佐々木邸のベランダから、さなちゃんが身を乗りだしているのが見えた。
「お兄ちゃん、おっきい猫! ……となんか黒いやつ!」
さなちゃんが僕たちの方を指さしている。すごいものを目撃した、といった感じで興奮気味。
……って見つかってるじゃないか! ガッツリさなちゃんに見られてますよ? あと僕の扱い、雑じゃない?
「ねぇ、見られちゃったよ! さなちゃんの記憶も消すのか? それとも……」
「いいから落ち着け、黙ってろ。大丈夫だから」
黒猫はジト目で僕を見た。いやいや、こんな状況、落ち着けませんって!
「あ~、そうかそうか、よかったな。それより早く風呂入れ、さな」
「も~……お兄ちゃん、ほんとだってば!」
さなちゃんが吉行を連れてくる!
……と思ったのに、いつまでたっても吉行は窓際に現れない。
「あれ?」
それどころか、さなちゃんは部屋の中へ戻ってしまい、明かりは消えてしまった。ドキドキしていたのに、なんだか拍子抜けだ。
「大丈夫って言っただろ。あれくらいの小さい子の言ったこと、信じる大人は少ない。子供だからって嘘をついているわけじゃないのにな」
そっか。子供がすごいものを見た、って言ったところで、僕だって軽く受け流しちゃうかもしれない。非現実的なものを言うならなおさらだ。
そうかそうか、さなちゃんすごいの見ちゃったんだね~、それよりお兄ちゃんとお風呂行こっか? くらいのノリで。え、下心なんてありませんよ?
「……さなちゃん、何もされないんだよね。よかった、安心した」
僕はホッとした。もし指輪の記憶も消される、なんてことになったら……いくらなんでもかわいそうだもんね。
「行こうか。今日の仕事はここまでだ」
黒猫はそう言って、佐々木邸に背を向けた。