桃の香りの洗顔フォーム
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帰宅したら、すぐにバスルームへと入り、入浴する。桃のいい香りのするメイク落とし用の洗顔フォームを使い、顔を洗っていた。肌に皮脂が浮いた状態だと、気持ち悪いからである。日中はずっとパソコンのキーを叩き続けていた。さすがに疲れる。休む間がほとんどないからだ。
いつも午前七時過ぎに目を覚ます。そしてキッチンで気付けのコーヒーを一杯淹れて飲んでいた。春夏はアイスコーヒーで、秋冬はホットである。何せ朝はいつも辛いのだ。ベッドの上にいても、仕事があると思えば、奮起して起き出す。そして身支度を整え、カバンに必要な物を入れてから、職場に通い詰めていた。
「琉生、眠そう」
「うん。……分かる?」
「ええ。いつも同じオフィスにいるから全部把握できてるわよ」
会社に行けば、同僚の晏奈が声を掛けてくる。頷き返したものの、まだ眠気を振るい落とせずにいた。
「こんな時はコーヒーよ、コーヒー。目が覚めるから」
「うん。寝不足なんだけど、やっぱし過労とストレスで熟睡できてないのかな?」
「あたしも今の琉生見てると、そう思う。かなり疲れてるでしょ?」
「そうよ。夜も遅いし」
正直に言ってしまう。確かにあたしも午後十一時過ぎとか午前零時前ぐらいまでテレビドラマなどを見ているのだ。寝不足状態の原因を作っているのは、まさに自分自身なのである。
「早寝がいいのに」
晏奈があたしの心を察したのか、そう言ってくる。軽く頷き、フロア隅にあるコーヒーメーカーでコーヒーをカップに一杯注いだ。飲むと覚醒する。社にいる時はコーヒーを相当飲んでいた。コーヒー代として一ヶ月に千円支払っておけば、飲み放題なのだ。その日も眠気が収まり、パソコンのキーを叩き始める。
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いつもずっと業務が続いていた。残業などいくらでもする。夜、電車とバスを乗り継ぎ自宅に帰り着く前、心が騒いでいた。また夜がやってくると。特にこの秋という季節、文化的なことをしたくなり、帰宅したらまず食事と入浴を済ませる。そしてテレビを付け、友人から借りていたDVDを見るのだ。
眠前にルイボスティーを飲みながら、心を落ち着けた。午後十一時を過ぎると、眠気が差し始め、午前零時には眠ってしまっている。ベッドに入ると、すぐに寝入った。テレビはタイマーがセットしてあるので、時間が経てば自動で消える。
眠る前に必ず顔を洗う。すっぴんをブログなどで公開する女性芸能人もいるぐらいだから、よほどそういったことがポピュラーな時代なのだ。ブログやツイッターなどもやっていて、定期的に更新や投稿などをしている。特にツイッターは四千人以上フォロワーがいて、アクセス数も多い。
パソコンは社でずっと使っているのだけれど、稀にネットサーフィンなどをすることがあった。あたしも一九七〇年代後半生まれで、三十代半ばだ。トレンドに付いていく力は昔より着実に落ちている。だけどいいのだ。別に気にしてない。トレンドを掴む力が落ちていくのは仕方ないことだろう。そう思っていた。現にテレビを付けていて、ドラマや映画などの俳優や女優の名前はある程度知っている。でも新しく出てきたお笑い芸人の名前は頭に残ってない。バラエティー番組などを、ほとんど見なくなったからだろう。
九月初旬から中旬に掛けて、夏の終わりで残暑が厳しかったのだけれど、夜はすぐに眠ってしまっていた。いろいろ気に掛かることはあっても平気だ。会社員生活は続く。お酒はアルコールフリーの缶ビールなどを一日に一缶きっちり飲み、後は一滴も飲まない。アルコールフリーだから酔わない。もちろん休肝日もちゃんと作っていたのだけれど……。
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一夜明けると、幾分眠たい朝がやってきた。遅刻するわけにはいかないので、仕方なく起き出す。キッチンへと入っていき、コーヒーを一杯ホットで淹れた。眠気はなかなか取れない。だけど夜が遅いので、朝も自然と遅くなるのである。
晏奈が以前言っていた。「あたし、午後十時には寝ちゃって、朝は六時前に起きるわよ」と。道理で仕事の能率が違うわけだ。彼女は朝早くから夕方、それ以降の残業時まで途切れることなく、パソコンのキーを叩き続けている。日中に脳が活発に働いている証拠だ。
朝、仕事に行く準備をし、スマホやタブレット端末などをカバンに入れて部屋を出る。髪はストレートで流しっぱなしにしていて、特に気に掛からない。街を歩き、自宅最寄りのバス停に行って、そこからローカルバスに乗るのだ。席に座ってもウトウトしていた。疲れてしまっていて、眠たいからである。
バスを降りて電車の駅まで歩く。その間、スマホを見ながら情報収集していた。さすがに流行遅れとは言っても、トレンドに全く付いていけてないわけじゃないから、ネットなどで情報を掻き集めていた。電車に乗り込み、社最寄りの駅で降りて歩く。
「……おはよう」
スマホをスーツのポケットに仕舞い込み、社のフロアへと入っていって晏奈に声を掛けると、彼女が、
「琉生、眠いんだったらコーヒー飲んだ方がいいわよ。眠気取れるし」
と言った。
「うん、そのつもり」
そう返し、パソコンの電源ボタンを押してフロア隅のコーヒーメーカーへと歩き出す。そして他の社員が予めセットしていたコーヒーをカップに一杯注いだ。カフェインが神経を覚醒させる。
マシーンが立ち上がったところで、着ていたメールなどをチェックし、企画書を打ち始めた。暇はないのである。丸一日仕事だ。いくら単なる一会社員であっても、欠けてしまったら、代わりを探すことは困難なのである。しっかり仕事していた。
コーヒーを飲んでしまってから、完全に意識が覚醒され、キーを叩く。企画書なども書式があり、必要事項などを打ち込んでいくだけだ。出来上がった文書をいったん上の人間のパソコンにメールで送り、採用されれば返事が届く。その繰り返しだった。
合間にお昼の食事休憩や午後三時からの休憩などがある。その間スマホを見ながら、変わったことがないかどうか、チェックしていた。パソコンはデスクにあって、スマホなどIT機器は手放せない。それに半分依存症になっているのだった。
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その日の昼も、晏奈が同じフロアで働いている女性社員数名と一緒にあたしを食事に誘ってきた。近くのランチ店に行き、ピザを頼む。大人数だとこういった料理がいいのだ。飲み物にホットコーヒーを注文し、ブレイクする。昼になるとすっかり眠気が取れ、同時に朝使っていた洗顔フォームの香りも消えてしまっていた。桃の香りが仄かに香る洗顔料なのだけれど、愛用している。朝晩一日二回、きっちり使っていた。
午後からも変わらずに仕事が続く。まだ暑さが若干あり、汗を掻いたことで皮脂が浮いてしまっているのだけれど、自宅マンションに帰れば、すぐに洗い流すつもりでいた。メイクは最低限しかしていなくて、ファンデーションもリップも載せる程度である。厚化粧はしない。
今の季節はまだ若干蒸し暑いのだけれど、何とかやっていた。昼間ずっとパソコンのキーを叩く。いろいろあるのだけれど、言い出せばキリがない。半ば割り切った形で、パソコンを使い、文書等を作る。今日も終業時刻以降、残業があり、遅くまで会社に居残る必要性が出てくるのだけれど……。
それが終われば、自宅に帰り着き、大抵真っ先に入浴しているのだった。そして眠前に顔を洗う際、意識して洗顔フォームを使いたくなっている自分がいたのである。無性なまでに、だ。
(了)