4.確執と転機
4.Tractus
克つて、Asgardにおける『獣人』の社会的地位はそれ程低くなかったと言えよう。
人間には人間の役割があり、獣人には獣人の役割がある。
多種多様な種族が暮らす大陸Asgardでは、確かに種族関の確執は多少なりとも存在したが、其処にはそれぞれの生き方があり生活があった。
中でも獣人は主に専門職で生計を立てていた。
鍛治や裁縫、料理など獣人には手先の器用な者も多く、その技術力も認められ人間と共に共存していた。
獣人は人間に比べ寿命は長いが個体数が少ない。
そのような中で語りはせぬが人間と共に互い認め合い、切磋琢磨し国を繁栄させてきた労力は計り知れない。
言わば人間との関係は先人達が築き上げた遺産なのだ。
しかし、所詮それは約三百年も昔の話だった。
▼▼▼
――不愉快だ。
と、メタトロンは思った。
彼女はとある一つの集落に偵察に来ていた。
城が転移してきた場所より然程離れていない距離に集落はあった。
主に、犬の獣人だけで構成された小さな集落だったが、住人の顔に精気はなく目に映るのは明日への希望ではなく、諦めにも似た諦観だった。
――何故皆が揃いも揃ってこんな腐った目をしている?
メタトロンは疑問に思ったが、それは直ぐに解消される事になった。
二人組の人間の男が集落に近づいて来たのだ。
だがその姿を見た瞬間、村人の間に明らかな緊張が走った。
それとほぼ同時に年老いた獣人の男性が男達に近づいていった。
恐らく、彼がこの集落の村長か纏め役の老人だろう。
立派な白髭を蓄え、長としての風格もある獣人の老人は急いで人間の二人組へ向かって行った。
メタトロンは耳を済ませて二人の会話を聞く事にした。
「どうぞお受け取り下さい……これが今月の分になります」
獣人の老人が力無く、謙った。
手には僅かに膨らんだ小さな巾着袋を持っている。その手を恐る恐る、人間の男へと差し出した。
「寄越せ」
そう言って人間の男は獣人の老人から乱暴に袋を奪い取ると中身を一瞬だけ覗いた。
そして、あろう事かそのままひっくり返した。
「あっ」
誰が声を上げたのかは分からない。
逆さにされた小袋から日の光を反射して輝く何かが零れ落ちた。それは数枚の金貨と銀貨で、音を立てて地面に転がった。
「数えろ」
人間の男は目線を地面の貨幣に移して言い放った。
あくまで上から目線な物言い。
明らかに自分の方が格上だと言わんばかりの放漫さ。
――人間はこんなにも獣人相手に暴慢だったか?
と、そこでまたメタトロンは考える。
彼女自身少し違うが、言わば獣人の様なものだ。
獣ではなく、型は鳥類。
獣人より力も技術力も劣る、個体数が多いだけが取り柄の人間が、こんなにも増長するのは見ていて非常に不愉快だった。
種族人間に対して良い感情を持つ異種族は多くない。
生物的観点から観ても人間は脆弱で矮小な種族であり、その繁殖力でAsgardでの地位を築いてきた。
種族一丸となり強い絆を培ってきた鉱山の住人ドワーフ然り、知恵と知識、自然をこよなく愛し共存する杜の民エルフに然り、古代より海の覇者として海洋を統治してきたトリトン然り、『誇り』というものを持たない人間に良い感情を抱かないのは当然であった。
紛れもなくメタトロンも『人間に良い感情を抱かない』、内の一人であった。
数えろ、と人間の男に言われた老人は静かに頷き地面に両膝を着いた。
そして貨幣をかき集めながら数え出す。
その様子を人間の男は腕を組みニヤニヤしながら見ていた。
「金貨6枚と銀貨5枚、銅貨8枚丁度です」
数え終わった老人は男達に告げる。
それを聞いた人間の男は老人を睨みつけ、
「たりねぇぞジジイ!!」
「あがっ……」
貨幣の乗っていた老人の手を思い切り蹴り飛ばした。
再び、今度はもっと激しく地面に散らばる貨幣。老人はその蹴られた手を抑え悶絶している。
大の大人に遠慮なく蹴られた手は、いかに屈強な獣人の肉体と言えど無事で済むハズはない。
「貴様ぁ!!」
その瞬間文字通り空気が震えた。
堪らず見兼ねたのか建物の陰から獣人の青年が飛び出てきたのだ。
眼は血走り握りこまれた拳は震えている。
純粋な怒り。
殺意すら感じる青年の勢いは簡単に抑えきれるものでは無い。
――ああ、こいつ等は殺されるだろう。
メタトロンは確信した。
人間と獣人では地力が違いすぎる。
第一この人間二人がズブの素人に対して、獣人の青年の方は中々の手練れであった。
手練れと言えどメタトロンが知る一般的な獣人の中では、という注釈が付くが。
今にも爆発しそうな青年はその拳に力を更に込めた。
……ほら、あと二秒も持たずに青年は行く。
そして青年は吼える。
「貴様らこれ以上許し「やめんかバルサム!!!!!」
――だが、メタトロンの予想外の展開で事態は進行した。
老人の静止。
バルサム、と呼ばれた青年の慟哭を掻き消す程の大音量で老人は叫んだ。
人間の男二人はそのあまりの迫力に息を飲んで後ずさる。
眼は大きく見開かれ額に冷や汗をかき、明らかに狼狽していた。
絶対的強者だと驕っていた人間達は、今や部屋の片隅の埃と何ら代わりの無い矮小な存在になっていた。
その事実がメタトロンをまた不快にさせた。
老人は未だに手を抑え蹲っているのでその表情は見えないが、メタトロンには感じ取れた。
(これは、怯え……か?)
今、老人を支配する感情は自分に対する不甲斐なさでも、屈辱でも、憤怒でもなくただ怯えだった。
一体何が原因なのかは分からないが怯えているのは確実だった。
青年は力無く脱力すると無言でその場に座り込んだ。
そして老人がゆっくり口を開いた。
「誠に申し訳ありませんでした。こちらの不手際で収める寄附金がうまく伝わっていなかったようです。何卒、何卒お許し下さい」
土下座。
土の上に平伏し、老人は何度も何度も額を地面に擦り付け土下座を繰り返した。
それに倣い青年も無言で座り込みまた土下座をする。
土下座とは極度に尊崇高貴な対象に恭儉の意を示したり、深い謝罪や請願の意を表す場合に行われる行為である。
誇り高き獣人が土下座をする。無論獣人に非はない。
これは最早、種族として最上級の屈辱であった。
それを見た人間は放心から我に返ったのかまた元の調子を取り戻す。
「ま、まあ、分かればいい。今月から寄附金が金貨一枚増えたからな。それと……コイツの躾はしっかりしておけ」
そう言いながら男は青年の頭をゴリゴリと靴の裏で踏みつける。
だが、それだけでは終わらない。
極め付けに丁寧に、頭に痰まで吐いて。
「じゃあな、ああ、『子供達』は全員元気に『孤児院』で暮らしてるよ。……来月もし払えなかったら可愛い子供達がどうなるか分かってるだろうな?じゃあな」
男は吐き捨てるように言って集落を後にした。
人間達が去って暫くして青年が顔を上げた。
奇妙な事に青年の下には血の池が出来ていた。
踏みつけられた時に怪我でもしたか?
いや違う。
あまりの屈辱と憤怒で脳の血管が切れ鼻から大量に出血していたのだ。
顔を上げた青年の表情は最早言い表せる代物ではなかった。
焦点の合っていない虚空を覗き込んだ眼。瞳孔は開き切り表情筋も崩壊していた。
――ああ、知っていたさ。この世に神なんか存在しない事くらい。
獣人の青年、バルサムは知っていた。
▼▼▼
「――以上が今回判った事の詳細と、顛末です」
アインザッツ城、城主の一室にメタトロンはいた。
椅子に腰掛けたカルシファーは暫く黙って彼女の報告に耳を傾けていた。
「それからアインザッツ城が今現在位置する場所は、魔獣の森に囲まれた大草原で丁度『ヴェルディ領』の南に属する土地です。周辺地図も入手出来ました」
「ご苦労様。この領土の特徴は?」
カルシファーは続きを促した。
メタトロンなら与えられた期日が短くとも必要な情報は持って帰ってきているだろう、と確信していたからだ。
メタトロンは闇夜に映える黒髪を揺らし、頷き答える。
「はい。我々がいた頃と比べ可笑しな事ながらこの一帯は人口も商業も廃れています。森のエルフ達も揃って新天地に移住し、今は獣人の集落が幾つかと発展している街が領土内に3つ程あります」
ふむ、とカルシファー顎に手を当てた。
「メタトロンの考えでいい。もし、このまま我等が日の下に現れたらどうなると思う?」
これからどうしたらいいか、我らはどう為るべきか。
正直決めあぐねていた。
ゲーム時代如く大陸に覇権を唱えるのもよし、一つの領土として人間との不可侵を取り付けるのもよし、配下達と好天雨読、日常を謳歌するのもまたいい。
それに差し当たる不安が、何れはこの城が人間達に認知されるという点であった。
「前述した通り獣人並びに異民族達は下に見られ、厳しい生活を余儀なくされています。街にもほとんど人間しか見られません。……となれば間違いなく我々と衝突するでしょう」
「それは……我等が『人間に降っても』か?」
カルシファーは暫く眼を瞑り、そして口角を僅かに吊り上げそう言った。
「…………」
メタトロンは沈黙する。
その言葉の意味を吟味しているのか或いは、実際そうなった時のシナリオを考えているのか。
そうして漸く口を開き、
「――失礼ながら、それだけは絶対に無い、かと」
少しの空白の後、メタトロンもまた僅かに口元を緩めて断言した。
それを聞いたカルシファーも再び笑った。
「そうだ。我らアインザッツが人間の軍門に降ることだけは断じてない。百歩譲って対等――いや、すまないそれもない」
対等、と言った所でカルシファーは慌てて訂正した。
メタトロンの漆黒の瞳が全く笑っていなかったからである。
元人間であるカルシファーにとっては軽い冗談の心算だったが、メタトロンにとってそれは笑えない類の冗談だったらしい。
「それにしても……」
カルシファーは椅子に腰掛け直し、大きくため息を吐いた。
人間の増長。一言で言い表せばこうだろう。
三百年の間に何があったか知らないが、それ程にまで人間が幅を効かせているとは思いもしなかった。
メタトロンから報告を受け聞いた話も気分の良い話じゃない。
寧ろ最悪だ。
聞けばなんでもここの領主が絡んでいて、獣人達の子供達を無償の教育機関で教育が受けれると騙し拉致し、大人達から寄付金という名の身代金を搾りとっているって話しだ。
統治者としてある筈の人間が悪行の一旦を担ぎ、周りの人間もそれに加担する。
極めて下劣な許すまじき行いだ。
森のエルフ達も人里離れ移住したという事は人間はもう見限られたのだろう。
彼らの技術と知恵を借りられないとなると人間の破滅も案外近いかもしれない。
カルシファーとしては、獣人達は解放して上げたいと思っていた。
だが幾ら人間と言えど数は多い。
仮に獣人と手を組み、人間と敵対する事になれば勝てる保証は何処にも無い。
例え無類の強さを誇るアインザッツ城並びに黒円卓議会だとしても、国対城では物量で敗北しかねない。
異種族を味方にできるというメリットもあるがリスクも大きい。何より仮想敵の戦力が未だに未知数。
しかし、どの道領土を切り取る形になるので少なからず敵対するのは遅いか速いかの違いでしかなかった。
元よりこの城は譲るつもりはない。
人間との闘争は必至であった。
カルシファーは何度も唸り、
「……よし。分かった。獣人を手伝う形で動こうか。なるべく穏便にな。あとはアガリアレプト待ちだな……帰ってきたら会議を開くから暇な奴皆に通達しておいてくれ」
結果的に獣人達を助ける形で動こうと決めた。
「了解致しました」
「通達したら少し休んでくれ。疲れているだろう。ご苦労だった」
言葉ではそう言ってもメタトロンは全く疲れている様子は無かった。
仮に彼女達なら三日三晩休まず働いても問題はないだろう。
尤もカルシファーの知る所ではないが、彼女達黒円卓議会に名を連ねる者達は例え疲れて憔悴しきっていたとしても、城主であるカルシファーの前ではそういう顔は一切出さない。
身を粉にして自らの親の為に働く、それが彼女らの誇示であり誇りであるからだ。
「お気遣い感謝致します」
メタトロンは恭しく一礼すると、そそくさと退室して行った。
「さて……と」
カルシファーは一人になった私室で考える。
これからのアインザッツの在り方を。
昔とは比べ物にならないぐらい増えた人間の勢力と対抗するのには、少なからず他の、人間外の勢力を仲間に付ける事は必須であるだろう。
先程聞いた話によれば幅を効かせた人間によって迫害若しくは、苦しい生活を余儀なくされている同志も少なくない。
先の件の獣人に然り、森から出て行ったエルフ達に然り、暴慢な人間達に愛想をつかせた種族達と手を組むのは易いだろう。
手始めにこの領土を頂き、いっその事一国を築くのも悪く無いなとカルシファーは考えて始めていた。
だが、同時に他のプレイヤーがいる場合の事を考えると目立った行動も得策ではない気がしない訳でもない。
可能性の話だがゼロでは無いのだ。
仮に上位プレイヤーが此方にきていた場合、手を取り合えるか敵対するかはそのプレイヤーの性格次第だろう。
平和を望むのであれば此方も干渉をしないし、あわよくば同盟を組めるかもしれない。
逆に闘争心が強く、この世界でのし上がろうと考えているプレイヤーの場合、間違いなく先に他のプレイヤーを排除するだろう。
不安要素を無くす為に。
どの道を行こうとも今のアインザッツには、この世界で力を付け土台を得るのが第一優先事項だった。
「ふー……」
カルシファーは短い溜息と共に何杯目か分からない紅茶を入れ替えた。
ゲームではこのような行為にMP回復、疲労度回復など付加効果が付いていたが今はそんな効果は殆ど無い。
唯の元人間としての生理的欲求であり、唯口が淋しかったからである。
「遅くなりました。只今戻りました」
丁度カルシファーが淹れ直した紅茶に口を付けた時、扉越しに聞き慣れた声が耳に入った。
アガリアレプトが帰ってきたのである。
絶妙なタイミングであった。
「入っていいぞ」
カルシファーが声を掛けると、失礼しますと一言告げてアガリアレプトは入室した。
「ご苦労だった。早速報告を聞こうか。ああ、座っていいぞ」
「勿体無き御言葉。御気遣い感謝致します」
頭を垂れるアガリアレプトにカルシファーは促し椅子をすすめる。
だが、当然彼は座らない。
自分の親であり主人であるカルシファーと個室で対等な位置で話すなど、アガリアレプトにとってはあり得ない話だった。
特に今回偵察に行かせた二人、メタトロンとアガリアレプトの両者は黒円卓議会の中でも真面目中の真面目だ。
任務を確実に遂行し、階級序列というものを充分に理解し師を尊ぶ。
カルシファーの性格と比べ少し真面目過ぎる二人かも知れないが、カルシファーは彼らのそういう所も気に入っていた。
勿論、当人であるカルシファーにとっては気軽に座ってくれた方が何の気負いもなく有難いのだが、それはアガリアレプトの知る所ではないし本人も無理強いはしない。
カルシファー自身も城主の位とはそういうものだろうと理解はしているし、アガリアレプトもどちらも気分を害する筈はなく、これからもこの様なやり取りは有るだろう。
尤も、カルシファーが椅子をすすめた所で気軽に座ってくれるのは黒円卓議会でもメフィストフェレスとジルくらいだろう。
(あの二人なら椅子を揺らして遊びだしそうだな)
「では、早速報告致します」
カルシファーが自分の目の前で退屈そうに椅子で遊ぶ二人を想像して苦笑していると、アガリアレプトから声が掛かった。
(いかんいかん集中しないと)
「ああ頼む」
何時もと変わらぬ調子で言うアガリアレプトだが、何時もと変わっている所もあった。
それはその燕尾服。
何時もきっちり決めている燕尾服は今は所々破れ、血も少し付着している。
それを見れば何からの事があったのは容易に予想出来た。
「まず、出来るだけ交戦を避けろと申し受けていたにも関わらず守れなかった事を深くお詫び申し上げます」
そういうとアガリアレプトは深く頭を下げた。
「いや、それはいい。無事で何よりだ」
まさかとは思うが案外敵が強くて苦戦したのかも知れない。
とはいえアガリアレプトが無事で本当に良かった。
勿体無き御言葉、とアガリアレプトはまたも深く頭を下げ向き直る。
そして続ける。
「街で情報収集をしていた折、一人の人間に目を付けられました。撒こうと思ったのですが、これがなかなかしつこくて交戦に至り、始末しました」
やはり一悶着あったかと唸るカルシファー。
それにしてもアガリアレプトに撒かれず着いてくる人間なんて滅多にいない。
アガリアレプトは隠遁のプロだ。
吸血鬼故昼にその能力が殆ど失われているとはいえ、ただの人間ごときに彼の偽装が見破られる訳がない。
何か特殊技能を持った人間か、それとも――
「高Levelだったのか?」
三百年前のAsgardでの、種族人間の平均Levelは20だったが、現在大きく変わった可能性がある。
例え変わらなくともあくまで平均Levelなので高Levelの人間が居てもおかしくない。
「はい。人間にしては高い方で確か90を越えていたと思います」
「ほう。高いな」
アガリアレプトら上位種族は闘えば大体相手のLevelは判断できる。
人間の限界Levelが100とされている中で、Level90と言えば充分に猛者の範囲だ。
そこらの魔獣程度じゃ蹴散らされるだろう。
「しかし」
アガリアレプトは続ける。
「――はっきり言って取るに足らない雑魚でした。身体能力だけでも十分過ぎました」
彼、アガリアレプトは謙遜はすれど誇張や法螺は吹かない。
故に事実だろう。
衣類の乱れも相手の情報を引き出す為の犠牲かもしれない。
「私の隠遁を感づいた以上何か秀でた能力でも持っているかと思い、態々小芝居を打って探りを入れましたが、その警戒すら杞憂でした。蓋を開けて見れば魔剣の能力に振り回されるただの小僧。やはり人間など、恐るに足らずかと」
そこで一度言葉を切って、アガリアレプトは更に続ける。
「しかしながら気になる点も有りまして……」
「なんだ?」
「人間の男が戦闘中、限界を越えれるだのなんだの譫言を吐いておりまして、言葉から察するに事実ならば現在人間の限界Levelは100を超えているかと思われます。あくまで予想の範疇ですが。それと『ヴァルハラ』に行くなどとも口走っていました」
「ヴァルハラ……」
(ヴァルハラ…ヴァルハラ……なんか聞き覚えがあるな。何だったか……うーん……あっ!!)
「大型アップデート」
「はい?」
聞き慣れない言葉を受けてアガリアレプトは不思議そうにカルシファーを確認した。
いや、なんでもないとカルシファーは仕切り直し続けてくれと先を促した。
「はい。後は……」
ヴァルハラ。
カルシファーが何処かで聞き覚えがあったそのフレーズは、Asgardにおける次回大型アップデートの新大陸の名前だった。
全国のAsgardプレーヤーが心待ちにしていた約一年振りの超大型アップデート。
内容は新大陸の実装、とのみ知らされその他の情報は秘匿されていた。
カルシファーも心待ちにしていた筈だがどうやら頭の片隅に追いやられていたらしい。
(此方に来てからどうも日に日に以前の記憶が薄くなってきてるな……)
カルシファーはふと思う。
何れは元の世界の現実の記憶もなくなり、完全に此方のカルシファー自身に成るかも知れない。
又は目が覚めたら急に元の世界に戻っているかも知れない。
こうなってしまってはどちらが現実でどちらが夢か全く区別がつかないが、少なくとも今、彼にとっては此方の方が楽しい事は事実だった。
「そして此処が約300年後の世界というのはほぼ間違いないです。しかしその割には技術や魔術も進歩しておらず、停滞しといると言ってもいいぐらいです」
「そうなのか」
「はい。田舎街なので総てを測りきるのには少々尺度が足りませんが、やはり人間と他種族の決別が原因として挙げられるかと」
カルシファーは内心少し安堵した。
時代が遥かに進んで、戦車や大砲はたまた戦闘機など出てきていたらどうしようかと思っていたぐらいだ。
どうやらゲームの世界同様科学より魔術よりに進展していたようだ。
流石にこの世界観で鉄道や自動車などビュンビュン走り回っていても怖い気がするが。
「ああそうだアガリアレプト」
「はい。なんでしょうか?」
「この辺りの集落の獣人達が迫害されているのは知ってるか?」
「いえ、集落については存じません。しかし街で人間に連れられた獣人の子供の奴隷を見かけましたが、生憎奴隷に関してはあまり詳しくないので報告は致しませんでした。申し訳有りません」
「いや、それならいい」
Asgard自体、奴隷というものはあまり存在しない。
例え居たとしても、街など人目につく場所で見かける事はまず無いだろう。
しかも大体の場合は人間の奴隷である。
つまり人間が獣人の奴隷を飼うなんて昔のAsgardでは有り得ないのだ。
「……明日から獣人に少し手を貸そうと思う」
カルシファーはティーカップを机に置き、言った。
「つまりそれは……」
「ああ、明日から動くぞ。我がアインザッツは」
カルシファーがそう言った時、アガリアレプトの中は一つの感情に染まった。
――歓喜。
嘗ての栄光の軌跡を今再び味わえのだ。
無数の苦難に打ち勝ち、来る敵を蹂躙し、アインザッツを世界に知らしめる勝利への道を。
敬愛する自らの主人と一緒に歩めるのだ。
その駒となる事こそ、アガリアレプトにとっての使命であり至上の喜び。
「はっ!このアガリアレプト、全身全霊かけて、アインザッツの礎となりましょう」
恭しく頭を垂れたアガリアレプトの表情には確かに喜色が浮かんでいた。