29.対価
29.対価
奴隷商に捕まっていた長耳族の少女達二人の名は”アリサ”と”サリア”と言う。
どちらも同じ金髪だが、少し赤みがかったストロベリーの金髪がアリサ。暗めの茶色が混ざった金髪がサリア。
アリサが姉でサリアが妹。
二人は可憐な長耳族の姉妹である。
数多に存在する亜人種の中でも特に個体数の少ないのが長耳族という種族。彼らの特徴として先ず上げられるのが”長寿”だということ。
長耳族の起源には諸説がある。
人が元々は海の微生物や猿から進化した、或いは神が創造した原初の二人が地上に堕とされた、など様々な説があるのと同じように。
彼らは一般的に神の遣いとして天壌に居る神々から創造された種族、即ち現代神の一種であるということが幅広く認識されている一方、得体の知れない場所で得体の知れないものを食べた人間が長耳族に進化しその結果長寿になったという、眉唾ものの噂も確かに存在するのだ。
次に上げられるのは総じて”美形”であるということ。
長耳族は人間の美的感覚からすると、いつまでも若々しく非常に優れた容姿である場合が殆どである。
その例に漏れずアリサとサリア、二人姉妹は揃って大変美しく、そして長寿であった。
齢二百を超える彼女達が奴隷商に運悪く捕まったのは十年前の話である。
本来、人前には滅多に姿を現さない長耳族達だが、彼女たち姉妹は一族の中でも異端だった。
二人は神聖とは名ばかりの辛気臭い森の中より外の俗物的な活気のある世界の方が好きだったのだ。そのお陰で奴隷商に捕まり、無理矢理首輪を付けさせられて苦渋を舐める生活をしていたのだが。
「何をしている」
アリサは思い返す。
確かに奴隷生活は屈辱的だった。数多の理不尽な扱い、それに暴行も受けた。
だがそれも高々十年間の出来事。
今の状況に比べれば遥かにマシだと言える。何せ生命の保障はされていたのだから。
——もしも、自分たちが偽った情報を教えたのがバレたら殺されるだろう。
きっとそこには何の慈悲もない。息をするように、罪悪感を微塵も感じずに塵のように処分される。
この方々は最早、亜人獣人という垣根を超越した何かである。
語らずともアリサとサリアの心境は一致していた。
「そこで何をしている。蛇女」
”アスタロト”という恐ろしい男に代わり、”メタトロン”と名乗る美しい鳥類の獣人の女性に追従してどのくらい歩いたか覚えていない。
四人共ずっと無言のまま歩き続け、街を出てから何回か扉を潜った。恐らくあの扉は簡易の転移扉であろう。覚えていることはそれだけだ。目に入る周りの景色など少しばかりも覚えていない。
何故ならメタトロンという女性が怖いのだ。
先程のアスタロトという男以上に不気味で何を考えているのか全く分からない。
「まぁ、そう慌てるな。お前が本物かどうかまだ判らぬからなぁ。複体で化けているかも知れん。……警備は厳重に、私がこの門を護る限りカルシファーも安全ぞ」
「見れば判るだろう。遊んでる暇は無い。退け」
そして今、メタトロンと会話をしているもう一人の人物。
その娘の容貌たるや国一番と言われても可笑しくない美貌であるが、この妖艶な娘からも尋常ではない剣呑な雰囲気が感じられる。
堅牢な城門の上に腰を据え、ちろちろと長い舌を覗かせ赫奕の蛇目で舐めるように此方を観察している。
「私の顔に何か付いているか?娘よ」
「い、いえ。何もありません」
アリサはその娘の服飾に憶えがあった。
伊達に二百も歳を重ねた訳では無い。確か、極東にある島国における高貴な女性の召し物である『着物』という装束だ。
「まあ良い。そこな三人が招かれた客か。海鮫人の若造は兎も角、長耳族の方は見た所年増だし昨今の事情に詳しいかも知れんな」
「……報告では若い長耳族だった筈だが」
「ふっ。何を馬鹿な。私とまではいかんがそこの二人も恐らく百や二百じゃきかんぞ。まぁ良い、カルシファーも首を長くして待ってるだろう。通っていいぞ。良し。お前達、門を開けろ」
エキドナは上から門下にいるリザードマン達に偉そうに指示を出す。彼女が幾ら新参者とはいえ上司は上司。リザードマン達は二つ返事で了解を示すと巨大な閂を二人掛かりで鉄扉から取り外しに掛かった。しかし、それに待ったの声が直ぐ様掛かる。
「——待て。開けるな」
リザードマン達は只ならぬ圧を感じ瞬時に動きを止めた。ゴクリ、と誰かが生唾を飲み込む音が聴こえた。
肝を冷やしたのは彼らだけではない。連れてこられた三人、特に渦中の二人に関しては背筋に冷たいものが走ったどころの騒ぎではなく、完全に蝋人形のように固まっていた。
「おいおい、歳を偽ったぐらいでそう怒るでない。小皺が増えるぞ。女子なら誰だっていつまでも若く美しくありたい訳だ。確かカルシファーも若くて乳のデカイ女が良いと言っていたぞ。私みたいにな。貴様もそう思うだろう。なぁメタト——」
————エキドナは、茶化すのを止め口を噤む。
そして可哀想な長耳族二人の命運をあっさりと放棄した。
(こやつ……何て眼をしている)
恐らく、次のメタトロンの質問に満足いく解答をしなければ二人は不要と見做される。その結果どうなるのかまでは判らないが、決して良いことは起きないだろう。
軽く嘘を吐くまではまだ良かった。だがその嘘が彼らの忠義と親愛、そして創造主であるカルシファー・アインザッツの生命に絡む情報で、それを偽っていたとしたら。
(この二人もつくづく運がない。そして私も薮蛇だったか)
十中八九、長耳族の国関連の話である。
長耳族なら、誰しも秘境に存在する国の事は他者に隠し立てするのが当たり前だ。特に、下賤な人間には知られてはならない。
(だが、例えそんな事情を知っていたとしてもこいつらに関係ない。当然、配慮もな)
そんな種族の事情など関係ないのが彼ら黒円卓議会の十二席である。
彼らにとって他者の評価方法とは極めて単純だ。
敬愛せし創造主、”カルシファー・アインザッツ”の敵か味方か。
ただ、それだけだ。
「何故、騙った。貴様ら知っているな。長耳族の国の場所を」
「っ!!」
メタトロンに詰問された姉妹の、今にも卒倒しそうなほど具合の悪い顔色を横目にエキドナは思考する。
(さあて、ここからどうしたものか)
自分が長耳族の国の情報を、カルシファー達に教えたということについては謝罪はしないし後悔もない。古い友人には謝っても構わないが、もう既に天寿を全うしているだろう。
そして仮に、何の罪も無いこの二人を庇い立てするとしよう。
強いて理由を上げるのなら同情。
そうすれば間違いなく蛇喰鷲と一戦交える事になるだろう。無論、戯れ合いではなく本気の死合いになる。
相性は良くないが胸勘定して五分五分。条件次第では不利にもなり得る。何方にせよ互いに五体満足では済まされない。
それは赤楝蛇も望むべきものではなかった。
「今だ。其処へ今直ぐ私を連れて行け。でなければ貴様らを「待て。それ以上は言わせんぞ」」
——が、ここで止めに入らねば惚れた男の理想から大きく道を踏み外してしまう。
種族人間以外の、亜人達の理想郷を作ることから。
「邪魔をするな」
メタトロンは鷹のような鋭い眼で睨む。既に懐の鉄扇に手を掛け重心を後方へ移動させていた。
臨戦態勢である。
エキドナはそれを半眼で注意深く観察しながら言った。
「メタトロンよ。お前は本当にそれがカルシファーの為になると思っているのか?部外者と仲良くしろとは言わん。だが、お前が先程言いかけた言葉。それはカルシファーの理想から最も遠いものではないか。違うか?」
メタトロンは諭すようなエキドナの尤もな言い分に歯軋りをした。
——分かっている。
判っているのだ。そんなことは。
対峙する両者が共通して理解している事がある。
カルシファーは長耳族の国の情報を無理強いして二人聞くことはないという事。たとえそれが自分の生命に大きく関わる事であってもだ。
一度そうと決まれば覆す事は出来ない。カルシファーは別の方法を探すだろう。
それを充分に理解していたからこそメタトロンは長耳族の姉妹を創造主に謁見させる前に脅してでも情報を得ようとし、対称にエキドナは城門前の騒ぎを聞きつけたカルシファーが来るまで時間稼ぎをしようとした。
方向性は違うにせよ、何方ともカルシファーの為に動いていると言える。
だが、両者に於いて決定的に違う点があった。
「少し冷静になれ。お前らしくもない」
「……さ…い」
カルシファーの”血”によって生まれたか、そうでないか。
エキドナは朧げにしかカルシファーの弱まりを感じていなかったが、メタトロンの体内の血は、日に日に死期に迫るカルシファーを確実に感じ取っていた。
それ故の焦り。
喉から手が出るほど欲しい情報を前に、より一層濃いものへと成っていた。
「……五月蝿い」
そして彼女の実直な性格も相俟って、それは最悪の方向へ進化を遂げた。
「時間がない……」
「!?貴様っ!」
奇襲。
ふらりとメタトロンの肢体が揺れたと同時にエキドナを背後から襲ったのは鎌鼬。真空を切り裂く視えない刄を間一髪躱したエキドナはそのまま横に飛び退いた。
その背後、堅牢な城門が豆腐のように縦一文に割れた。
無差別に放たれる斬撃は尚も続く。
鉄の塊を易く斬る不可視の攻撃に、リザードマン達も巻き込まれまいと慌てて盾を構え防御の体勢に移行する。
「馬鹿者!そんな鈍で防げまい!」
アインザッツの一般兵に貸し与えられる武具防具が質の悪い物という訳ではなく、寧ろこの世界に於いては非常に良質な物である。
それこそ一流に超がつく程の冒険者や王直属の近衛兵が使用するものと遜色ないどころか、それすら超えているだろう。
しかしそんな防具でも本気になったメタトロンの攻撃の前では紙屑に等しいのだ。
「お前ら城に入って上司を呼んで来い!!早くせんか!!」
エキドナはそう叫びながら振り返る。その時メタトロンは繊細な人差し指をゆっくりと、城へと駆け込むリザードマン達の背に動かしていた。
(こいつ!?味方を)
「よせ!!」
「『密室』」
エキドナの制止も虚しくメタトロンは詠唱する。
リザードマン達は踠き苦しんだかと思えば蹌踉めき、そしてその場に倒れ動かなくなった。
それに合わせるかのように先程斬られた城門がズズンと鈍い音を立てて崩れ落ちた。
「……お前たち、伏せておれ」
エキドナは心の底から苛立ちを募らせた。
カルシファーの子を、ここまで暴走させ壊した原因に。
エキドナは面を下げ、瞼を閉じて黙想し、一度深く息を吐いた。
「時間の許す限りお前を止めよう」
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■Name―《女王蛇》エキドナ
■型―赤楝蛇
■Level―170
■黒円卓議会席次―第3位
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——後に、彼女が真に仲間になった瞬間と言われる。
「吹き荒べ、『驟雨』」
「『毒沼』」
金切音を上げながら風の弾丸がエキドナを襲う寸前、彼女はトプンと地面に沈んだ。
その場所を中心に赤紫の液体が、大地を侵食するように拡がっていく。禍々しい瘴気を発生させながらメタトロンの場所へ液体は素早く伸び行く。
メタトロンもそれをただ指を咥えて見ている訳ではない。
何度も何度も鉄扇を振るい大地ごと抉りとっていく。
それを回避しながら毒々しい液体は凄まじい速さで進む。
(生身を持ちながらにして”液化”出来るとは……化け物が)
メタトロンは思わず悪態を吐く。
人、という固体を持ちながら液体に変化できるという矛盾。
本来”液化”とは生身の固体、肉体を持たない生物が使用できる変態である。
例を挙げれば粘性軟体動物、精霊類、特殊な例として金属傀儡の液化。
吸血鬼などの小型の蝙蝠を媒体として擬似的に分裂できるスキルは存在するが、完全な液体と化すスキルなどメタトロンは見たことも聞いたことも無かった。
(………………)
しかしメタトロンの胸中、未知のスキルか未だ知らぬ古代魔法を披露したエキドナに覚えたのは感嘆ではなく正反対の落胆。
全ては時間稼ぎに過ぎぬ手品のような無意味な行動である。
何故ならエキドナにはメタトロンに対して本気の殺意が無い。
ただ時間を稼いでこの場に留めるだけの約束稽古のような攻撃。
「む!?これを躱すか」
このように、殺す気がなければ不意を打った背後からの攻撃も意味を持たない。
背後からの貫手を木の葉のようにひらりと身を捻り躱したメタトロンは今迄になく冴えていた。
液化したエキドナはメタトロンの手前で素早く二つに分裂し、一方を後ろに回り込ませて居たのだ。
赤紫の水溜りから上半身だけ出したエキドナとメタトロンの視線が交差する。
「見えているぞ全て……」
メタトロンはそのまま右手でエキドナの左手首を摑んだ。ジュッと掌が焼け、突き刺すような鋭い痛みが走る。しかし構わず力任せに引っ張った。
「あッ——ぐっぅ!!?」
枯木でも踏むような軽い音がエキドナの肩から鳴った。彼女は勢い良く水溜りから完全に引き出される。衝撃で腐蝕性の体液が跳ね飛び、メタトロンの服を焦がす。それを気にも留めず力強く左拳を握り締め、反動を利用して鳩尾を撃った。
(……硬い)
鈍く、まるで古びたベッドが軋むような音が響いた。
メタトロンの左指骨は全て砕けていた。
——鱗か。
肌蹴た着物の隙間から見えたエキドナの肌は蛇の、独特な体鱗に覆われていた。
獣化する事による皮膚の硬質化が始まっていた。
「ッ!?」
「『血の代償』」
メタトロンは摑んでいた右手を直ぐ離す。掌の皮膚が剥がれようが関係ない。エキドナの右腕は一瞬にして真っ黒に変色していた。
一旦距離を取ったメタトロンは右肩をプラプラとぶら下げたエキドナと再び向かい合った。
その間にもエキドナを覆う体鱗の面積は侵食するかの様に徐々に拡がっていく。
エキドナは右肩に左手を添え、脱臼した肩を無理矢理入れた。
「痛ッ。やってくれたな」
獣化すれば人間形態より各種能力は格段に上がり、その種に応じた潜在能力をも発揮出来るのだ。
メタトロンはエキドナを観察する。表立って向上した能力は耐久性。
(……少しは本気を出し始めたか)
当然、獣化をするにあたり、より本能的に思考言動が働く為悪い方向に作用する場合もある。その生物によって個体差はあるが集中力や持続性の低下が主たる例だ。
「メタトロンよ。諦めて大人しくしろ。まだ間に合う」
あと少し。
騒ぎを聞きつけ直ぐに城から誰か出てくるだろう。其れまでメタトロンを引き留めれば勝利。
易い。
簡単な勝利条件だ。邪魔をするだけで良い。
エキドナは集中し魔法を詠唱しようとする。
それを見てメタトロンは鼻で嗤った。
「まだ蹴っていないぞ」
「は?————」
エキドナの鳩尾を再び、強烈な何かが襲った。
衝撃で吹き飛ぶ辛うじて捉えたのは翼を完全に広げたメタトロンの姿。疾い。そして美しい。
初めて見る獣化であった。
見惚れていられたのは一瞬で、遅れて身体が悲鳴を上げる。内臓破裂、肋骨開放骨折、靭帯損傷。呼吸がままならないのは肺が破れているからか。
エキドナは崩れた城門に激しく突っ込み漸く止まった。ぱらぱらと顔に瓦礫の粉が降り掛かる。鬱陶しいと思ったが払う気力もなく、ただ仰向けに空を見上げていた。
(ああ——唯の、前蹴り、か)
猛禽類の女王、蛇喰鷲の最大火力の攻撃は、不可視の鎌鼬でも古代魔法でも鋭い趾でも強靭な咬合力でも異常握力でも無い。
発達した筋繊維から繰り出されるただの”蹴り”だ。
(見誤った、か。ここまで違うのか。覚悟という物、は)
メタトロンは蹴り飛ばしたエキドナから興味を失い、長耳族の姉妹の元へ向かった。
「最後だ。 長耳族の国の場所と入る方法を教えろ。さもなくば殺す」
射殺すような視線を向けられた姉妹は震えた。仲間を平気で殺す、怪物が目の前に来たのだ。もう二人を阻む壁は無い。
姉のアリサは勇気を奮い起こし、妹を庇うように前に出た。
「お、お願いです!待って下さい!嘘を吐いたことは謝ります。ですがそれを教えれば私達も永久追放されます。そ、それに、国のみんなを危険に晒す訳にはいかない」
「悪い様にはしない。此処で一生不自由無く暮らせる様に取り図ろう。望みがあれば叶えてやる。私は其処にある総ての情報が欲しいだけだ」
「で、出来ません。部外者に話すわけにはいきません。それに、無理やり場所を知ったとして悪意有る者は結界に阻まれるのです」
アリサは妹のサリアを後ろ背に隠しながら震える声で、しかしはっきりと告げた。
自ら国を出て放浪したと言えど長耳族の横の繋がりは強い。それは人間のように数多くの個体がいない、長命少数人種であるからと言えよう。
だが——彼女は内情など知る由は無いが、それは今の精神状態のメタトロンにとって悪手であった。
「悪意……?」
思い掛けない拒絶と言葉にメタトロンは呆気に取られた顔で言葉を反芻した。
「……悪意?私が?御主人様に?」
様子が可笑しいことにアリサも気付くが既に遅い。
彼女も極度の緊張状態に置かれ、思った事をそのまま口に出してしまっていた。
「いますぐ取り消せ……長耳の娘よ」
確かな焦燥を含んだエキドナの弱々しい声が瓦礫の山から聞こえる。小刻みに、何かに堪えるようにメタトロンの身体が震え出す。
「何故?ワタシが?」
——御主人様を想う私が悪?
「ご、ごめんなさい!違うんです!」
「あ、あっ、『悪意』だと!?き、き貴様、このッ、私が、……私がっ!。ご、御主人にッ!!御主人様の為のっ……為を思ってッ……そ、それを、『悪意』だとっ、言うのか!!!?」
激昂。悲哀。困惑。
そして普段の彼女からは想像出来ぬ怒声で叫いたかと思えば次には瞬時に表情が抜け落ちた。
そして誰にも聞き取れぬような小声で何か呟く。
「……が……だ」
前方に騒ぎを察知したオルトロスらが見えてきていたが、メタトロンの視界には一切入らない。
「何方側だ……」
唐突にポツリと声を漏らしたメタトロンにアリサは更なる恐怖を重ねた。まるで狂人。壊れた人形。そんな印象を憶えた。
「何方側なんだ」
皮肉にも、メタトロンは自分がリリスに言った言葉を思い返していた。
対価を得るには何らかの形で必ず犠牲を払わねばならない。それは此の世の理で自然の摂理。
遅かれ早かれ決断する時は必ず訪れる。
メタトロンにはそれが偶々早く訪れただけであった。
「よ、せ……」
エキドナが瓦礫の中から必死の形相で這い出てくる。メタトロンは静かに眼を瞑っている。答えは既に分かっていた。
——”父の為”に全てを犠牲にするか。
——”自分の為”に全てを犠牲にするか。
二者択一。
何方か片方にしか選択肢はない。
「私は、」
妄信的にまで、創造主『カルシファー=アインザッツ』というプレイヤーに、総てを捧げた彼女に初めて自我が芽生えた瞬間であった。
「私は、『自分の為に全てを犠牲にする』
「やめろ……」
その刹那エキドナは、泣いているような将又笑っているような歪んだ顔を彼女に見た気がした。
遠くで、獣化した蝦夷狼が駆けてくる。それを背景にメタトロンは鉄扇を軽く弾いた。
ピュィ、と空を斬る鎌鼬が一度だけ短く嘶いた。
「あっ」
眼を見開き驚愕の表情を浮かべたアリサの頸から上が分断される。
メタトロンにとって、愕くほど手応えはなく、不思議と罪悪感は微塵も感じなかった。
「お姉ちゃん!?いやああああああああ!!!!」
靭く、気高く。
そして誰よりも親を想った怪鳥は。
想うが故に、今、修羅と化した。
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■Name―《怪鳥》メタトロン
■型―蛇喰鷲
■Level―195(+15)
■黒円卓議会席次―離反(元-第3位)
■所属―未所属
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メタトロンは次なる標的へと素早く動いた。
放心状態の姉妹の片割れを宙で掻っ攫う。エキドナが血を吹き溢しながら何か叫んでいる。異変を察知したオルトロスが更に速度を上げた。だがもう遅い。
速さに於いて自分に勝るものは今この場には居ない。
メタトロンは行き先を森の深部へ選定すると、妹のサリアを抱え一直線に森へと飛翔し、そして音も無く消えた。
——だが、その時エキドナは近くの何も無い空間が歪に捻じ曲がり裂けていくのを見た。
それと同時に今迄、彼女をもってして感じた事のない類の悍ましい空気が辺り一体を満たしていった。




