24.黒長耳族の隠れ郷3
24.黒長耳族の隠れ郷3
ここ数日間島の気温は安定している。心無しか少し湿度が高いが概ね好天。島の周囲の海原も波は低く比較的穏やか。
「いっ、い、いまなんと?」
別に、冷たい雨に打たれた訳でも無く頭から水を被った訳でも無い。
なのに恰幅の良い男はまるで寒さに打ち震えるようにカタカタと、小刻みに身体を揺らしながら聞き返した。
「はぁ……ですからアガリアレプト殿は貴方達”人間”に生きる方法を与えて下さっているのです」
額に手を当てがいながらエリザ=ラルはやれやれと溜息を吐いた。
そして目の前で這い蹲り、青白い顔をして歯をガチガチと打ち鳴らす恰幅の良い男の背後に指を指す。
嫋やかに伸びた指の先には丁度、大きな船が五隻、港に停留していた。
無駄な装飾のない無骨な木工船だ。
「ほら、そこに有る大型船五隻、詰めればこの島全体の人間が乗り込む事ができるでしょう。それで大陸へ渡ればいい」
島で採掘される大量の銀塊を大陸へ送る為の輸送船が五隻。その用途故に客室など上等なものはないが集積力は非常に高い。
それこそ奴隷船が如し限界まで押し込めば三隻で事足りるかも知れない。
「わ、私たちを見逃、して、くれるのですか?」
絶望に彩られた男の目に少しの希望の色が宿った。
「……気が変わる前、日が落ちる迄が期限だ」
「ヒイッ!?」
エリザ=ラルの傍に座るアガリアレプトが睨みつけると、男は情けない声を上げ頭を覆い隠すように両手で抑えた。
大の大人がまるで叱られた子供のように地面に縮こまる。
その姿を横目にエリザ=ラルは益々腹が立つ。
(こんな豚共に私の同胞達は……)
今すぐにでも目の前の愚物を解体したい気分に囚われる。絶望と苦悶に満ちた表情を見ながら死すら生温く感じる程の苦痛を与える。それは、一体どれほど気分の良いことか。
想像しただけで下腹部に熱が籠る。
が、アガリアレプトの手前務めて感情を押し殺し冷静を取り繕う。
(まだこんなものじゃない……今は我慢。この先アガリアレプト殿に着いて行けばもっと愉しい事が……)
「ふう……ただしこれ以上うだうだと抵抗を続けるのであれば貴方もこれの一つになるのは――」
――必然ですねと、エリザ=ラルが横目を這わしたのはアガリアレプトが足組腰かけている小さな山のような何か。
そこを発生源に、鼻腔に直接響くような濃厚な鉄の匂いが辺り一面漂っていた。
平伏す男は先程から本能的に嗅覚を遮断し、意識して一切それを視界に入れようとしなかった。
認識してしまうと、冷静ではいられなくなるから。
「丁度50人分ぐらいでしょうか。この山は」
人間約50人分を凝縮した小さな肉塊の山は、恐ろしいほど綺麗な真紅に染まっていた。
所々表面に露出している毛髪と骨の欠片。
エリザ=ラルは無感情にそれを眺めながら肉の塊を人差し指で優しくつつき、跳ね返る指先の感触を楽しむ。
無理矢理凝縮され弾力に富んだ肉塊は、指が沈み込む度、熟れすぎた果実のように其処から浅黒い血を吐き出した。
肉塊の山を中心に夥しい量の赤黒い体液が四方に広がっている。
一体如何程の力を込めればこの規格に収まるか。
普段のアガリアレプトならこのような児戯は好まない。
しかし彼も、先日の一件で少なからずストレスが溜まっていたのかも知れない。
力任せに他者を屠る事自体久しい事であった。
「今、貴方がこの島で一番偉いのでしょう?港湾取締局長さん。お仲間さん達はこれに変わってしまいましたが。早くしないと貴方も……」
「は、はひィ、すっ、すぐに、準備しまっ、す!!!」
足元で震えていた男は急に跳ね起きる。
覚束ない足取りながらも街の方へと向かっていった。
「エリザ殿」
「エリザ、でお願いします」
花のような笑みを浮かべながらエリザ=ラルはアガリアレプトに言う。
少し考えたアガリアレプトだったが分かりましたと頷いた。
「エリザ。私達も彼らと合流しましょう。これ以上無駄に戦う必要はありません」
「分かりました。仕込みは済んでいますが人間達が渋った所為か少し時間が掛かりましたね。しかし兄は大丈夫でしょうか」
「彼の実力があれば人間程度にはそう簡単に遅れは取らないでしょう」
「だといいのですが……」
純粋に、兄を心配するエリザを見ながらアガリアレプトは思う。
(本当に良い拾い物をしましたね。彼女の事前情報と案が無ければここまでスムーズに事を運べなかった)
態々島の人間全てを相手する必要はない。
誘導して、一箇所に纏めて潰した方が手っ取り早い。
幸い島の周りの海域には魔獣も住み着いている。
(それにしてもエリザなら、私がこの島に来なくとも、本当に手遅れになる前に行動に移していたでしょうね)
例えそれが孤立無縁の戦いであっても噛み付く筈だ。大人しくやられるような気性ではない。
彼女は美しく儚い黒長耳族の皮を被った、紛れもない獅子の仔である。
◆◆◆
「押され始めているな……」
著しく無い戦況に、カイル=ラルは唇を噛んだ。
確かに、奇襲の効果は有ったが人間側は既に立て直し有利を以って戦っていた。
戰は数である、そう何処かで聞いたような言葉を思い出す。
堅固な城塞での籠城戦ならまだしも、身を隠す場所の少ない市街地近くの単純戦闘では幾ら個々に優れた黒長耳族とて、数の暴力には敵わない。
思わず舌打ちをするカイル=ラルの直ぐ後ろの地面が盛り上がった。
開いた亀裂から土竜のように這い上がる少女。
「若。他の隊は森に撤退を始めた。人間達も森に踏み込んでまで追ってくる様子はない」
黒長耳族きっての秀れた土魔法の術師、ラファである。
水に濡れた犬のようにぶるぶると頭を振って土を落とす。
「私達も撤退を」
敵を射る矢は無限に有ろうが射手の疲労は溜まる。
更に、人間側も対策として盾で前面を固め凌ぎながら戦っていた。
魔法で応戦もしていたが、魔力は有限何れは尽きる。
戦いが長引く段階で黒長耳族達の敗色は濃厚であった。
しかしそれは想定内。
自分達は飽くまで引きつけ役であり、策を弄する妹エリザと吸血鬼アガリアレプトが合流するまで耐えれば良いだけなのだ。
「仕方ない。ラファ。下がるぞ」
彼らが予定よりも遅れているのは事実だったが失敗はしないだろうという確信がある。
誰よりも秀れた妹と、その彼女が認めた吸血鬼なのだから。
弓を引く手を止め仲間に撤退の合図を出す。
怪我人を護りながら速やかに引く事が、今出来る最善だった。
「――誰が逃げていいと言った?」
瞬間、この喧騒の中でもはっきりと、二人の耳元に囁くような声が聴こえた。
同時に振り返る。二人の背後、既に男は四尺は有る巨大な鉄棍棒を振りかぶっていた。
「ラファ!」
カイル=ラルは叫ぶ。
僧侶服に身を纏った坊主頭の巨漢は、三日月のように不気味に口角を吊り上げた。
ラファは咄嗟に詠唱破棄で唱える。
「『”蠢く――――」
「潰れろ」
形成される砂の楯の隙間からラファが見たのは、喜悦に歪んだ大男の表情だった。
――ぐしゃり
いとも簡単に堅牢な砂の楯は潰され、そのまま少女の華奢な躰ごと押し潰す。
「ラファ!!」
血飛沫を浴びた砂と供にゆっくりと崩れ落ちる。
大男の無慈悲な一撃は、容易く最強の楯を打ち砕いた。
「貴様ァ!」
その時には既にカイル=ラルは矢を放っていた。
大男との距離は極僅か。
弓の扱いに長ける黒長耳族の中でも最高峰の、青年が放った魔力矢を避けきれる距離ではない。
にも関わらず大男は未だ見ようとすらしなかった。
魔力矢は、見る見るうちに大男へと収束されていく。
殺った。確信したカイル=ラルだったが念には念を、腰の短刀に直ぐさま手をかける。
確実に止めを刺す為に。
だが、
「な、に?」
大男は有ろう事か素手で魔力矢を掴み止めていた。
慣性の法則を完全に無視して一瞬で静止した矢が鈍い悲鳴を上げていく。
「……曾て、神は仰された」
掴んだ矢をそのまま二つ折に握り潰す。
鉄と殆ど同等の硬度を持つ魔力矢は、大男の手から地面へと滑るように落ちた。
「人々に脅威を齎す害獣は等しく滅されよと。……故に、『潰す』」
大男は地に転がるラファへと再び鉄棍棒を振り上げた。
「止めろォ!」
三連撃の矢を放つ。
「無駄な事を」
大男は今度は振り上げた鉄棍棒で矢を弾く。鋭い金属音が辺りに木霊した。
追撃するように周囲の黒長耳族達も矢を放つ。
大男は焦ることなく再び鉄棍棒で全て捌いた。
そして、鬱陶しそうに眉を寄せるとカイル=ラルに向けて言い放った。
「大聖教団の時代より我らの使命はただ一つ。……ならば貴様から潰してやろう。人に仇を為す害獣め」
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■Name―《怪僧》ヴォイロージャー
■Level―70
■所属―神聖ミズガルズ帝国(旧大聖教団)
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「ッ!?」
恐ろしい程の殺気がカイル=ラルを襲い、怖気で肌が泡栗立つ。反射的に上半身が仰け反る。
ヴォイロージャーはそんな彼を半眼で睨み、興味を一切なくしたように、
「やれ一睨みしただけでそれ、か。頭でこれだと下も知れるな。お前達、周りの雑魚の相手をしろ。これは儂が潰す」
人間の兵士達も次第に集まりだし黒長耳族達と接近戦を開始した。
響き渡る怒号と剣戟。
カイル=ラルは目の前の大男の動向に注視しつつも、横たわるラファへと視線を動かした。
咄嗟に防御した両の腕は明後日の方向に曲がっている。出血も酷い。しかしゆっくりだが胸は上下し、苦しそうに呼吸していた。
そんな彼女の小さな唇が、微かに開かれた。
「……若。私は、いい……逃げて……」
勝てない、と彼女にも分かっていたのだろう。
此処で戦うより逃げた方がまだ可能性はある。時間が掛かれば掛かる程、人間達の増援部隊も集まってくる。
勿論自分は殺されるが、他の仲間達は助かる可能性が上がる。
中途半端に生きている自分が足枷になっている事くらい分かっていた。
カイル=ラルという男は目の前の仲間を見捨てたり出来ないのだから。
「ほう。ではお前達、その雑魚共を処理したらこの死に損ないの害獣は好きにして良いぞ。見てくれだけは良いようだからな」
そこに何の感情も込めずにヴォイロージャーは言った。
聞いた人間の兵士達はニヤニヤと下卑た笑みを浮かべる。
「……そんな事させるとでも思っているのか」
カイル=ラルは今度こそ短刀を抜いた。
その眼に先程の怖れは最早ない。
「……眼が変わったな。だが所詮は害獣。捻り潰してくれ「『”火矢”』」
言い切る前に先ずは牽制、と火矢を放つ。
「小賢しい。魔法など効かぬは」
「『”砂丘の掌”』」
「むっ?」
鉄棍棒で振り払おうとした右腕は、突如纏わり付いた砂の腕に絡み取られる。
そのまま力尽くで振り抜くヴォイロージャー。だが、一瞬であるが確実に拍子が狂った。
「チッ……」
弾き損ねて肩に被弾する。
しかし渾身の火矢はヴォイロージャーの身体を貫くことも、燃えることもせずその場に落ちた。
(魔法が効かない……いや奴の防御力が高すぎるのは事実か。武器はあの鉄棍棒、重量の割に動きは疾い。隙がない)
カイル=ラルは最大限の速度で勝つ算段を思考する。
遠距離攻撃が主の自分との相性は非常に悪かった。
まず、下手に距離が取れなかった。
(今のようにラファを狙われては不味い。仲間と離れるのも愚策だ)
かと言って近距離戦闘に持ち込めば、ただでさえ劣る自力を益々広げるだけである。
(現状、奴の攻撃を捌きつつ隙を見つけるしかない)
それも出来る限り速やかに。
――逃げる、という選択肢は最早彼の中には無い。
もしも自分だけなら逃げ切れるかも知れないが、仲間と手負いのラファはあの大男から逃げ切る事は出来ない。
実力差が如実に物語っていた。
「――くッ!」
思考の海に沈むカイル=ラルの鼻先を、豪風と共に鉄棍棒が翳めた。
鼻先数ミリの肉が風圧と共に削ぎ落ちる。
後数巡、避けるのが遅れていれば頭ごと消し飛んでいた。
「考え事とは余裕だな。身の程も弁えぬ、やはり所詮は獣だった……かァ!!!」
ズドン、とヴォイロージャーが叩き潰した地面が大きく凹んだ。辛うじて回避したカイル=ラルは息吐く暇もなく無様に転がり追撃を避ける。
ズドン、ズドンと畑のように地面が耕されていく。
その振動の度に地面がぐらついた。
(一撃一撃が重過ぎるッ……!)
攻勢に転じる隙すらない。
一撃貰えば終わる、その極度の緊張感と絶え間なく動く身体にカイル=ラルの心拍数は尋常でないほど上がっていた。
徐々に、ヴォイロージャーの速度が増していく。
いや、単にカイル=ラルの機敏さが落ちていっているだけであった。
「しまっ――」
「……神技『心臓破り』」
時既に遅し、背後をとったヴォイロージャーはにやりと嗤った。
やはり勝てる訳が無かったのだ。
速度、攻撃、防御、経験、総てにおいて勝る相手に勝つ道理などない。
奇跡でも、起きない限りは。
ヴォイロージャーの衝掌は、カイル=ラルを確実に吹き飛ばした。
◆◆◆
街での仕込みが終わり、二人が奇襲部隊へと合流すべく森の入り口に向かう最中、
「何か考え事でも?」
アガリアレプトは横を駆けるエリザ=ラルに問い掛けた。
「あ、すみません。顔に出ていましたか?」
「ええ。些細な変化ですが」
細かい事まで良く気の回る執事は、人の些細な顔色の変化さえ気付く。
「この後、この島の皆はどうするのかと思いまして」
エリザ=ラルの言う後とは全てが片付いた後である。
兄率いる黒長耳族達は再び人間の居なくなった島で暮らし、大陸から人間達の侵入を阻止すべく弓を取るだろう。
「ふふっ。どうするのか、では無かったですね。また戦うでしょう。ですが今度はかなり楽な戦いになる筈です」
孤島と言えど街一つの規模が落とされれば人間側とて無視できない被害になる。
しかし報復戦争を仕掛けようにもある程度の時間は掛かるし他国との緊張の中、南の孤島に大軍を割く余裕があるとは考え辛い。
が、島に埋蔵された豊富な銀資源の関係からいつかは必ず取り戻しにくる。
幸い島の周囲の海流や条件により上陸可能箇所は限られる為、防衛はし易い筈だ。
前回のように簡単に上陸を許し、愚かな人間達と話し合いで解決しようなど馬鹿をやらない限りは。
「いえ、恐らく人間はもう二度とこの島の土を踏む事は無いでしょう」
「え?」
予想外なアガリアレプトの断定にエリザ=ラルは思わず顔を見返した。
「この国は、こんな些細な事に構っていられなくなります。だからもう無理に戦う必要は無いでしょう。もし、彼らが望むなら大陸に来てもらっても構いませんよ。寧ろ大歓迎すると思います。私の御主人様は」
「アガリアレプト殿。それは一体……」
何を言っているのか?と珍しく困った顔をしたエリザ=ラルは聞き返した。
アガリアレプトは小さく笑い、
「私の部下になるエリザには話しておかないといけないですね。終わったら話しますよ」
「……そうですか」
エリザ=ラルは少し不満気に唇を尖らせた。
気付けば街の入り口を過ぎていた。
会話をしてる最中にも人間達が慌ただしく港に向かい走って行くのが目に映っていた。
どうやら拡声器のようなもので、街民や作業員に呼び掛けていたらしい。
兵士達もざわめき立ちながらも撤退を始めていた。
「もう直ぐです――」
――ね、とアガリアレプトの言葉は続かなかった。
「アガリアレプト殿?」
エリザ=ラルが振り向いた先には、先程のアガリアレプトの顔はない。
ただただ無表情に、眼前だけを見つめていた。
◆◆◆
「若……」
ずるずると、殆ど両腕だけの力を使い芋虫のように地を這いずる。
脚は潰された。内蔵も然り。身体の内部は大男の一撃で攪拌されている。
それでも、カイル=ラルは地に伏せる少女を護るように覆い被さった。
「無様な。予想以上に粘ったが、やはり害獣には地がお似合いだ」
とんとん、と自分の肩を鉄棍棒で叩くヴォイロージャーは周りを見回した。
黒長耳族も人間も、目に映る者は全て地に伏している。この場に立つの自分のみ。
この男に時間が掛かった所為で兵士達は負けてしまった。
まあ自分の部下でもないからいいか、と楽観的に再びまだ息のある二人に目を向ける。
「では二人仲良く逝かせてやろう」
両の手に鉄棍棒を持ち変え大きく振り上げる。
カイル=ラルは両腕でラファを抱きしめ、静かに目を瞑った。
「お兄様?」
「――む?」
唐突な背後からの声に、鉄棍棒を振り上げた状態でヴォイロージャーは止まった。
「まだ害獣が残っていたか。しかもこれよりも強そ――」
ヴォイロージャーは息を飲んだ。
その目は大きく見開かれる。
視線は若い女の黒長耳族、ではなくその先、燕尾服に身を纏う壮年の男。一見貴族に仕える執事の印象を覚えるが決して違う。
その無機質な瞳に映されるのは深淵。漂うは濃厚な死臭。幻視されるは死神の背。
桁が、違う。
「お兄様、ラファ、……みんな」
ヴォイロージャーを気にも止めること無く二人に駆寄り膝を折るエリザ=ラル。
それに小さな手が力無く伸びる。
枯枝のように折れたラファの小さな手である。
「……エリザ様。若を、助け、て」
カイル=ラルは既に意識を失っていた。
一目見てその失血量は緊急を要するものであった。
エリザ=ラルは改めて二人の状態を目視する。そして俯きながら静かに口を開いた。
「…………アガリアレプト殿」
「はい」
アガリアレプトに特段変わった様子はない。
彼はエリザの言葉を待っていた。
「私に譲って貰っても「構いません」……有難う御座います」
そう言うや否や二人を丁寧に担いだアガリアレプトは、
「では、私はこの二人を郷に連れ帰ります。早く治療しなければならない」
後ろ背に言った。
エリザ=ラルは無言で彼の背中に一礼をする。
彼女の中で答えは出ていた。
最適解は、アガリアレプトが二人を速やかに郷へと運び治療を施して貰うこと。
そこに自分は必要無い。
二人を運ぶ速度が上がる訳でも、二人が助かる可能性が上がる訳でもない。
目の前でアガリアレプト見て狼狽える大男に関しては何方でも良い。
遅かれ早かれどの道、死ぬのだ。
アガリアレプトが去った事によりヴォイロージャーの顔に精気が戻った。
「……貴様が儂の相手か。先程潰した害虫よりは出来るようだが所詮はただのけもノホォ!!!?」
突如、右頬を襲った謎の衝撃にヴォイロージャーは大きくたたらを踏んだ。
口内に一気に広がる血の味。
「――『”大渦巻”』」
「疾ッ!?」
ヴォイロージャーが体勢を立て直した時には詠唱は完成していた。
何処からともなく現れた龍を形取った水流はヴォイロージャーの巨体を容赦無く押し潰す。
数十トンに及ぶ水圧は一直線に木々を薙ぎ倒し大地を飲み込んでいった。
その光景を無表情に眺めるエリザ=ラルの背後から、
「この虫ケラがァ!!!!」
鉄棍棒を振りかぶる。
カイル=ラルとの戦いの時の比ではない速度と破壊力。
最早相手を舐めてはいない。甚振ろうとする心算は毛頭なく、ただ愚直に目の前の敵を潰す事しか考えてなかった。
怒りで茹で蛸のように真っ赤な顔は歪んでおり、渾身の力を持ってエリザ=ラルに襲い掛かる。
彼女はそれを全く意に介する事なく、艶やかな唇で静かに言葉を紡いだ。
「『”雷の鉾”』」
次の瞬間には凄まじい閃光が辺り一面に奔った。
天から降りた雷の鉾はヴォイロージャーに突き刺さり、爆発音と共に肉の焦げる匂いが辺り一面に漂う。
プスプスと煙を上げ、その場に膝を着いた。
「…………」
――一般的に、人間の総体重の約60%は水分だと言われている。
その為人体は電気抵抗が非常に低く電流を流し易い。更にヴォイロージャーの身体全身は先の激流によって水浸しになっており、皮膚の接触抵抗は乾燥時の数十倍から数百倍まで低下していた。
それは、より大きな衝撃を全身に与え、尋常では無い痛みと筋痙攣、節々炭化するほどの火傷を引き起こしていた。
一目見て戦闘不能、それどころか生存すら絶望的であった。
「馬鹿……な」
否、ヴォイロージャーは辛うじて生きていた。
水分を奪われパリパリに張り付いた唇を無理矢理抉じ開け言葉を発する。
「貴様……の、膂力、速さ、そして古代……魔法、ありえ、ぬ」
誰に習った誰から技を盗んだ、などそう言う次元の話ではない。
島から一歩も出た事のない言わば温室育ちの黒長耳族の雌一匹如きが、このような強大な暴力を持つ筈が無かった。
現に、当人エリザ=ラル自身さえ身体が覚えていただけであった。
自覚はない。しかし聡明な彼女には検討がついていた。
(薄々気づいていたけど私の能力は……遺伝。でも私のお母様は確かに強い黒長耳族だったって聞くけど、異常ではない筈。まさか……先祖返り?)
先祖返り。又の名を隔世遺伝と呼ぶ。
世代を隔てて発現するその現象自体珍しい。その中でも比較的獣人種によく見られる。
時には種族の壁を逸脱した強力な力を得たり、時には稀有な特殊能力を得たり。
大抵プラスの方向に働く力を得るが、時には足枷にしかならない負の遺伝子を受け継ぐこともある。
彼女、エリザ=ラルは未だ知らないが、受け継いだのは曾祖母の能力。
嘗て、大陸中に悪意を撒き散らした三世紀前の負の遺産。
当然それをヴォイロージャーは知る由もない。自分の手には負えない怪物の卵と、愚かにも戦っていた事を。
「神、は……貴様ら、を――」
スコン、と間抜けな音を立ててヴォイロージャーの眉間に短刀が突き刺さった。
投擲した本人は、それに目もくれずに郷へ向かって走り出した。




