2.空白の三世紀
2.Kyrie
――痛い、と言うよりは冷たい、と感じるのが素直な感想だった。
恐ろしく綺麗に切断された無数の面が、痛みを感じるより先に空気に触れる冷たさを感じとっていたからだ。
「うっ――」
剣戟は疎か、目の前にいる怪物が自分に対して何をしているのかすら判らず、ただ一呻き、声を揚げた時には全てが終わっていた。
”冒険者たる者一番の敵は己だという事を深く理解し、自分を律し、状況判断を見誤ってはならない。”
これは古くから在る書物、冒険者なら誰もが一度は目を通す【冒険者の心得十箇条】の最初の項だ。
先人達の経験から紡ぎ出された冒険者の心得に間違いなどなく、決して失念してはいけない十箇条だった。
(ああ、最後にそれを思い返したのはいつ頃だったか。いや、今思い出すまで忘れたままだったな。最期にこれを思い出すとは……流石冒険者の心得、だ)
男が死ぬと理解した最期の瞬間、走馬灯が走り刹那を超えて思考が加速した結果、頭に浮かんだのは皮肉にも自らが失念していた冒険者の心得だった。
………
……
…
「あーあ。これまた派手に殺っちまってんなー。親父に怒られんぞ。勝手に人間殺したら」
一面緑で覆われた大草原は一カ所だけ、薔薇の花が群生しているかのように真紅に染まっていた。
その赤の中心には紅黒く柔らかそうな物と、5cm程度の輪切りの何かが無数に転がっている。
仮にそれを拾い集め合体させれば、少々歪ではあるがジグソーパズルのように完成するだろう。
一体の人間が。
「……おい。聞いてんのか。”狂骨”。殺していいって言われてたか?」
「ム……”ジル”か。問題なイ。コッチはイきてイル」
狂骨はそう言うと足下に転がっている男をつま先で小突いた。しかし反応はない。
片腕の無くなった男は意識を失い荒い呼吸を繰り返しているが、このまま放置して置けば一刻も経たずに死ぬだろう。出血が余りにも酷かった。
「いやいやそうゆー問題じゃないって。まあお前に任せたあたしも悪かったけど……でもやだなーあたしまで怒られんの」
ジル、と呼ばれた女は手を額にあて、やれやれと溜息を吐いた。
狂骨の型は言わずもがなスケルトン。
それに比べて彼女の見た目は僅かな差異を除いて、人間のそれと何ら変わり無い。
猫科の獣人であった。
口から時折除く八重歯と頭部に生えた猫耳が特徴で、その身に纏う機動性を重視した戦闘着と野性味溢れる独特な佇まいから活発な印象を与える。
肩口までの赤茶色の流れるような髪の毛は不揃いでいて所々ハネており、それが彼女のチャームポイントでもあった。
ジルは、型が野生動物であるが故の獰猛さと自由気ままな破天荒な性を一身に受け継いで、この世に生まれてきた。
――端的に言えば面倒くさがりだ。
今回、狂骨が派手に人間を殺った件も彼女は心底面倒くさいと思っていた。
確かにこの城に近づいて来る者がいたら捕らえろ、とは言われているが、片方ブッ殺して片方瀕死の状態では許される許されないかギリギリのラインである。
いや、高確率で何か言われるだろう。
(あーー…………面倒なことになった)
彼女は自ら親父と慕う主、カルシファーからの自分の心象が下がるのは何としても避けたかった。
しかしながら今回の件は、自分が少し面倒だと思った事と狂骨が行きたがった事もあったので、狂骨に一任させた自分にも少なからず責任はある。
そう考えると知らずの間に苦虫を噛み潰したような渋い顔になっていた。
「ドウしたのダね……そんナ顔ヲしテ」
ジルの心情など知って知らずか狂骨は、そう言いながらも右手に持った血糊がべっとりとついた刀を目にも留まらぬ速さで振るう。
――ピッ、と既に酸化をし始めくすんだ血糊が空気中に散らばった。
すると刀は最初から汚れていなかったかのように本来の白銀の輝きを取り戻した。
「……ウム。やはリ素晴らシイ。コの輝きハ」
その刀の全長は二尺半。
西洋で発達した直刀ではなく、反りと鍔を持つ日本刀の太刀に分類される代物である。
ユニーク級のアイテムでもあるこの太刀――「千人切」の最大の特徴はその鋭い切れ味ではない。
文字通り何人何物斬っても決して衰えることのない刀身の頑丈さにある。
その刀身は巨岩をも砕き溶岩でも鎔けず、千人斬っても血油で錆びる事はない。
ゆえに「千人切」と呼ばれる。
だが決して万能ではなく、一つだけ欠点があるとすればその重さだろう。
その重量約200kg。
特殊な金属と魔力を込めて打たれた名刀は、成り形から想像できぬ尋常ではない重さをその身に宿していた。
人外たる狂骨だからこそ自由に使いこなせるだけであり、普通の人間では振ることは愚か持って上げることすら叶わないだろう。
それを目視出来ないほどの速さで振るう狂骨の実力は推して知るべしである。
「あーとりあえずソイツを城まで運ぶぞ。これで死なれたらますますヤバい。死体は屍人にでも処理させとけ。出せるだろ?」
「ワカった」
「後、荷物も回収するぞ」
――うわっ。荷物もバラバラじゃねえか、とジルはより一層顔を顰めた。
周囲には男の冒険者バックから飛び出たと思わしき物品が見事に散乱している。
回復薬の瓶か何かが潰れたのか緑色の甘ったるい液体も所々に散布されていた。
「――んん?」
嫌々ながらも散らばった物品集める中、ジルの目にある物が止まった。
狂骨に文字通り輪切りにされた男の近くに何か見覚えのある銀縁の一枚のカードが落ちていたのだ。
「ギルドカード?だったかな」
それは冒険者ギルドのギルドカードである。
国境を跨いでも身分証明の代わりにもなるギルド発行のカードは、冒険者なら誰しも持っているカードだった。
人間のギルドカードを一度だけ見た事のあるジルは何か手掛かりになるかも、と思いそれを拾い上げ何気無く目を通した。
そしてある一項目に目が留まる。
「え?まさかこれは……」
――まったく面倒なことになった、とジルは未だ気絶している男の足は引っ張りながら一人ごちた。
▼▼▼
アインザッツ城の一角にある図書室にカルシファーは居た。
図書室ならではの木と本の匂いに囲まれ紅茶片手に優雅に本を読む。
幸い、味覚や嗅覚などといった五感はこの肉体に成っても失われていなかったようで、少し安心したのが本音だった。
しかし空腹といった感情は希薄になっていて、この調子でいけば一週間程度なら飲まず食わずでも問題なさそうである。
「…………」
あくまで静かに頁を捲る。
この図書室は数百冊程度の本が格納された、アインザッツという巨大な城にしては小さな書庫ではあるものの、今は暇を潰すのには最適だった。
ここに置いてある書籍は殆どがモンスターの生態や分布図、調合合成等のレシピの図鑑である。
娯楽関連の本は一切存在しない。
カルシファーは、普段ゲームの中でも図書室に訪れることなど殆どなかったが、外の情報を収集してもらっている間は正直暇でモンスターの生態について目を通していたのだ。
カルシファー自ら外の偵察に行くという選択肢もあったが、それは今の指揮系統の長である自分に万が一の事があった場合を考えると厄介だし、部下達は自分達が信頼されていないんじゃないか、と危惧する原因にもなる。
(というか。あいつらのが強いしな)
何より自分が一番ビビっているのが問題だった。
城が飛ばされた世界はAsgardと似たような世界の可能性もあるし、全く異なった技術の進んだ未来の可能性もある。
それを考えると少し及び腰になってしまった所もある。
だが、今一番最良の選択が部下に情報を集めさせる事だというのは確かな事なので、大人しく図書室で本を読んでいるのだ。
「………つまらん」
とはいっても何時間もモンスターの生態など今更知り尽くしたことを眺めるのには限界があった。
流石に飽きてきた。
残存兵力の再編成はもう終わっているだろうイフリートにでもいって新しい分隊で訓練でもさせようか、そう考えていると図書室の扉が少し強めにノックされた。
「入っていいよ」
今手にとっていた[レッドドラゴンの生態]を元の場所に直し、扉の方に声を掛ける。
すると一人のリザードマンが急いで入ってきた。
顔を見れば何やら火急の事だというのが分かる。
直ぐにカルシファーの前で片膝を床に着き報告をする。
「失礼します!ジル様から"人間"を捕獲し、医務室に運んでいますとの伝言です!」
その言葉を聞いたとたんカルシファー複雑な表情をする。
「ああ分かった。すぐ行く。下がっていい」
「ハッ!失礼します」
そう言ってリザードマンの男はそそくさと立ち上がり退室していった。
どうやら退屈な本の閲覧も終わりそうだ。
………
……
…
(それにしても"医務室"とは。面倒な事になりそうだな)
(おそらく交戦でもしたんだろうか、或るいは元々怪我でもしていて迷い込んだのか。……どちらにせよ情報を聞き出せる状態ならいいが)
カルシファーは医務室へ向かう廊下を速足で歩いていた。
その身には自分の身体に比べて少し大きめのマントを羽織り、腰には短剣を提げている。
彼自身武術の心得は全く無かったがこの身体に転生したおかげか、彼の腹心である黒円卓に名を連ねる者までにはいかなくとも、それなりに動けるようになっていた。
この身体が動き方を知っているのだ。
「で……だ。いつまでついてくる気だ。ルシファー」
カルシファーは急に立ち止まって後ろを振りかえり、何も無い空間に向けて言った。
「…………」
だが、返事はない。
溜息を少し吐き、もう一度語りかける。
「別に怒ってないから出てこい。そこに居るのは分かってるぞ」
その時、何もないはずの空間が急にねじ曲がった。
螺旋状に吸い込まれるように景色が歪に圧縮されていく。
光すら捻じ曲げる程の空間の変化が終わり、ぽっかりと1m四方の穴が開いた。
不意に、穴の縁に手が掛った。
続いてまるで通気口から這い出る屍人のようにモゾモゾと手、頭、そして全身が出てくる。
全身が出終わって湾曲した空間が一瞬の内に元に戻ると、一人の青年がそこに立っていた。
そして優雅に一礼し手を胸に当てる。
その美しく煌びやかな一連の動作は、宛ら中世に謳われる救国の騎士。
「申し訳ありません。創造主様が心配で見守っていた次第であります。罰なら喜んで御受け致します。しかしながら、創造主様の御身体の安全を考えますと私が傍にいれば万が一もないかと」
その青年の名は”ルシファー”。
風に靡く金髪に硝子細工の様に透き通る碧眼の目を持ち、じっと此方を見据えている。
モデル顔負けのスタイルと、何処かあどけなさも残る整った顔立ち。
仮に現代日本で街頭アンケートでも取れば、100人中100人が彼をイケメンだと答えるだろう。
この青年、ルシファーはAsgardにおける【従者創造システム】でカルシファーが一番最初に創った男である。
性格は「絶対忠誠」。ただ、それのみ。
実装当初と言うこともあり、情報もあまり無かったお蔭でカルシファーはそれしか設定していなかった。
その所為か常に創造主であるカルシファーの為だけに行動し、命令をしても時々言うことを聞かない欠陥をかかえている。
――絶対忠誠が故の命令を聞かないという矛盾。
しかしそれがカルシファーにとってもルシファーにとっても殆ど最良の選択で在り続けた。
故にルシファーには今回の異例の異常事態でもあえて別命は下さず、最善の行動をしろ、と命令しておいたのだ。
その結果が今回の影でそっと見守る行動につながったていた。
今の状態においてこの行動こそがルシファーが判断する最善の行動だったのだ。
彼なりに気を利かせたつもりだろうが、見えない所から護衛もとい監視されるのは気付いていなければ別に良いが気付いていれば気になる。
流石にずっと自分の影に入り込まれれば幾らカルシファーでも気付く。
だから少々きつい言葉で出てきてもらったのである。
「別に護衛するのは構わないから普通に出てきて後ろ辺りで護衛しといてくれ。何もない空間から視線を感じるのは気になるから」
「仰せのままに」
一度深く瞼を瞑り、優雅に一礼をして返すルシファー。
それを満足気に確認するとカルシファーは医務室へと歩みを再開した。
「ところで運び込まれて来た人間の件について何か知ってるか?」
歩みを止めることなく背中にいるであろうルシファーに話しかける。
「はい。恐らくですが狂骨の力を若干感じたので少なくとも奴が関係しているかと」
「なるほどな」
これで確信に変わった。
恐らく城に近づいてきた何者かを狂骨が嬲った所が妥当だろう。
だが、狂骨自身から攻撃を仕掛ける事は幾らなんでもしないだろう。
大方相手がモンスターだと思って攻撃を仕掛けた、それに狂骨が反撃した、という筋書きか。
全く面倒事だな、とカルシファーは本日何度目か分からない溜息を吐いた。
ジルも居た筈だが何をやっていたのか。
今後について思案しながら先を歩くカルシファーの約六歩後方の距離を、開かず縮めずルシファーは無言で追随していた。
「…………」
――ルシファーは知っている。
創造主カルシファーが生命ともいえる自らの力を削り、失い、代償にして自分を創った事を。
黒円卓議会第12席の面々を創った事を。
ルシファーが知ったのも偶然、自らに創造主カルシファー・アインザッツの根元を感じたからだ。
他の同士達を創る時に、カルシファーの力の些細な変化に気付いたからだ。ルシファー以外は知らない。
別に他の誰かに教えようとも思わなかった。知るのは自分だけでいい。
自分が創造主様の盾となり矛となればいい。他の仲間にも責任を背負わせなくていいのだ。
知ってしまった自分の責任であり、それがその時から自分の存在意義となった。
――【従者創造システム】とはAsgardの高Level者向けに運営に用意された企画である。
自らの様々なステータスと引き換えに強力なユニーク従者を作成できるシステムだ。
性別、性格、人種、特殊技能、型、その他様々な事を詳細まで設定できるそのシステムは一時期Asgard中を沸かせたが、その半面自分のステータスが大幅に下がるといった点もあって一部のやり込んでいる人向けの趣味コンテンツになってしまった。
下がるだけなら未だしも、下がったLevelは元に戻らないのだから当然だ。
カルシファーは間違いなくやり込んでいる人の部類だった。
彼も大幅にステータスは下がってしまったが、広大な領土と強力な仲間は手に入っていたので後は内政なりして悠々自適に遊ぼうと思っていた。
別にLevelが下がったから攻城戦に負ける、という訳でもない。
そう悲観的になる事はなかった。
しかし、今の状況では仮に上位プレイヤークラスが同じように此処に飛ばされていた場合、攻撃を仕掛けられたら彼単体では敗北は必至だろう。
敗北=死の世界。
これは最早ゲームではなく現実だ。
やり直しはきかない。
仲間には負担を掛ける事になるが頑張ってもらう他無いのだ。
「あれは……ジルですね」
カルシファーがまた思考の海に沈んでいる最中、ルシファーが言った。
まだ小さくしか見えないが、医務室の扉の前にジルが壁に背を預けて腕組みしているのが見える。
強化された身体能力で視力も上がっているから有難い。
「あ、親父!!」
こちらに気付いたのか嬉しそうに微笑みながら駆けよってきた。
彼女がこちらに気付いたのはカルシファーを発見したからではない。
"匂い"、であった。
一般的に猫の嗅覚は人間の約数万倍とも言われている。
その特性ゆ受け継いだ猫の獣人ジルにとって、主人が数十メートル離れていても何ら問題なくその位置まで詳細に特定出来るのだ。
勿論目視で確認出来なかったのは、壁に寄りかかりながら少しうたた寝していたからだということは言わずとも分かる。
何故なら、今も欠伸を噛み殺した猫が目の前にいるから。
「人間を捕まえたと聞いたけど中にいるのか?」
そう言って医務室に視線をやる。
「うん。今は意識はないけど生きてるよ!……多分。……片腕も無いけど」
最後の方は自信なさげにボソッと言ったジルだが、まあ生きてるなら良しとしよう。
「それより面白い事があるんだ」
そう言いながらジルは懐から一枚のカードを取り出した。
この銀縁のカードには見覚えがある。
「ギルドカードか」
「うん」
少々デザインは変わっているものの、このカードは間違いなくオンラインゲームAsgardにおける、冒険者ギルドに所属している証だった。
ジルからそれを受け取るとカードに目を通した。
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【Affiliation】ウェストゲート
【Rank】C
【Name】キッド・ジョンズ
【Age】23
【Sex】人間(男)
【Issue Date】781/08/19
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「成る程……そういうことか」
ギルドカードの【Affiliation】は所属を示す。
Asgardには同じ冒険者ギルドでもそれぞれの地域に支部が幾つかある。
カルシファーにとって、ウェストゲートなど聞いたこともない支部であった。
流石に全てを網羅してなどはいないが、一度も耳に聞こえた覚えのない街や地名、物の名前などはあり得ない。
流石にその程度にはAsgardに精通している。
このギルドカードはもしや造り物かという疑いも出たが、【Issue Date】を見て答えが分かった。
発行年月日を示しているが、仮にこのギルドカードが本物ならばAsgard歴781年は———―
「私達は300年後の世界へ飛ばされたというわけですか……?」
何時の間にか後ろから一緒にギルドカードを覗き込んでいたルシファーが懐疑的に呟いた。
その言葉に乗せられた感情は、彼には珍しく困惑。
それも当たり前だった。
カルシファーにとってはゲームの世界に来た今更そんなに驚かないが、つい先日まで彼等は普通にAsgardの土地で暮らしていたのだ。
「確定、とは言えないがその可能性は高いだろうな」
Asgard歴で475年。
この年がカルシファーが最後に人間としてプレイしていた年である。
それから約300年。
技術はどう進歩しているのか、モンスター達は?各国の勢力図は?人間達は?
様々な懸念事項が次々に浮かび上がってくる。
「真偽は兎も角そこで寝ている人間に聞けばはっきりするだろう。300年経っても流石に大陸の名前まで変わりはしないさ」
「それもそうですね。コレを起こしましょうか?」
語尾に物理的に、と付きそうなほど物騒にルシファーが言った。
「いや、待とう」
ルシファー並びに黒円卓に揃える彼等の人間に対する感情は、人間が動物や虫に抱く感情に近い。
彼等は人間と虫との明確な違い、と言えば喋る事と考える事ぐらいと思っているのだ。
元人間であるカルシファーは、少々複雑な気分になりながら男が目を覚ますのを待った。
▼▼▼
――アインザッツ城東より約30km地点の森林。
(ふむ……不覚をとりましたか)
森の中を凄まじい速さで駆け抜ける二つの影が遂に止まった。
片方は背中に大剣を差した若い男。
もう一人は燕尾服を華麗に着こなした老紳士。
両者とも決して短くない距離を走ってきたのにも関わらず、息切れすらせず自然体で向き合っていた。
「ようようよう!爺さん追いかけっこはやっと終わりかい!?」
若い男が肩を竦めて囃し立てる。少し戯けて見せたのはその男の性故か。
「ええ、少々疲れたので追いかけっこは終わりにしましょう。こんな老体を追い回して楽しいですか?若人よ」
「ああ楽しいぜ!なんせお前……人間じゃねぇだろ?」
――この男。
タダの雑兵ではないな、とアガリアレプトは心の内に感心した。
主人であるカルシファーの命を受け、近くにあった街で情報収集をしていたまではよかった。
だが、その途中一人の男に尾行されている事に気付き、直ぐに離脱し巻こうと思ったが予想以上にしつこく、今に至る。
(これ程にまで人間という生き物は敏感だったろうか)
アガリアレプトも唯の人間に偽装を見破られる程堕ちてはいない。
実力者か、或いは何か別の方法で気付いたのか。
どちらにせよ彼にとっては街を出る事に意味があった。
人目につくところで騒ぎを起こせば本末転倒である。
「この辺りで終わった方がお互いの為にもなると思いますが」
アガリアレプトは続ける。それは緩やかな警告。
「何とか見逃して貰えないですかな」
だが、男は嬉しそうに言う。
「いーや駄目だ。久しぶりの手応えのありそうな奴だからな」
――殺すか。
闘争をあまり好まないアガリアレプトだったが、避けられないなら話しは別だ。始末するか。
そう決めたが否や、一瞬で男との距離を縮めた。
人外故の爆発的加速力で瞬きよりも速く距離を詰める。
踏み込んだ地面が靴の痕に凹む程の推進力。
「シッ!!」
と、同時に恐ろしく速く正確な手刀で男の頸を刈り取った。
――否、アガリアレプトの一撃は防がれた。
男の大剣によって。
「……!?」
(何!?)
「――っらあああッ!!!」
御返しに、とばかりに男はアガリアレプトの腹に渾身の一撃を入れた。
男の踏み込んだ軸足に接地する地面はその衝撃で大きく爆ぜた。
純粋な、特に何の捻りも無い前蹴り。
だが人体の構造上脚力は腕力の約七倍もの力を持っている。筋肉の量、関節の働き、力の伝導全てが腕力を上回る。
その威力は図らずとも分かった。
「ガッ……!?」
蹴りの衝撃でアガリアレプトは森の木々を薙ぎ倒しながら何十メートルも吹き飛ばされた。
木々がへし折れ砂塵が辺り一面に濛々と舞う。
数秒経てど、アガリアレプトが立ち上がる気配は一向に無い。
男は今し方自分が吹き飛ばした壮年の方向を一瞥すると一言、
「なんだ。また雑魚だったか。ったく……つまんねぇなぁ」
心底落胆したかのように呟き、地面に唾を吐いた。
その男の手には身の丈に余る赫の大剣、腕には銀のガントレット。
背に靡くマントには金の蠍の紋章。
――その蠍の紋章は選ばれし者のみが王より下賜される強者の印。
ギルドランクS、【紅剣のアレックス】此処に有り。
男、”アレックス”は自分の体躯程もある大剣を、背中に音もなく納めた。
「あーあ……つまんねぇ」
アレックスがこんな田舎街に来ていたのは偶々だった。
都のギルド長直々に与えられた任務を終え、王都へ帰る途中に偶然立ち寄った街だったのだ。つまらない任務だった。
だが、思わぬ収穫があった。
何の変哲もない街には一人だけ雰囲気の違う奴がいた。
ほんの些細な違いだったがアレックスの感が告げていた。
濃厚な血の匂い。
その穏和な顔の下に隠された暴虐の味。
この男、人間ではない、と。
しかも此方の尾行に気付く気配察知能力。
弱者との戦いに飽き、強者との戦いを望んでいたアレックスは久しぶりの大物かと期待せざるを得なかった。
しかし、蓋を開けてみれば何て事ない何時も同じ弱者だった。
最早興味を無くしたアレックスは期待はずれだったな、と踵を返し歩き出す。
――だがその瞬間森の木々がざわめきだした。
「誰が雑魚だと」
刹那、後ろを振り向くと今まさに蹴散らしたはずの男が全くの無傷で立っていた。
(何時の間に?いや、それより)
手応えはあった。
仕留めたという確信があった。
万物の急所である正中線の通る鳩尾に、手加減なしの一撃が入ったのだ。
「ご主人様に創られた私が雑魚だと」
今まで感じた事のない圧倒的圧力がアレックスを襲う。
知らぬ間に一歩後退り、その額には今迄かいたことのない質の脂汗が滲む。全身の毛が泡栗立った。
(気押されている……だと?この俺が?馬鹿な!?)
「舐めるな小僧。増長するな劣等。……その身を持って愚かさを痴れ」
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■Name―《恐怖公》アガリアレプト
■型―吸血鬼
■Level―130
■黒円卓議会席次―第7位
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