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ユキと、見えない境界線  作者: しんぜつ
1章 私はきっと
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17/24

名前のない時間

五月最後の日曜日は、

朝から抜けるような穏やかな五月晴れだった。


数日前まで街を重たく濡らし続けていたあの冷たい雨はすっかり姿を消し、

高く広がった青空の下には、刷毛で掃いたような白い雲がゆっくりと、気まぐれに流れている。


窓の外の街路樹の葉は、初夏の力強い太陽の光を全身に浴びながら、

まるで呼吸をするように鮮やかな深緑のきらめきを放っていた。


ユキがベッドの中でゆっくりと目を覚ましたのは、

正午を大きく過ぎた頃だった。


深夜労働の夜勤明けで泥のように眠っていたため、

時間的には当然の結末ではあるのだが、

遮光カーテンの僅かな隙間から差し込む容赦のない明るい日差しを視界に捉えると、


何となく世間の一日を自分だけ損してしまったような、

奇妙な罪悪感に駆られる。


もっとも、この「昼に起きて夜に活動する」という孤独な生活リズムにも、

今ではもうすっかり身体が馴染んでいた。


枕元の時計に目をやる。

午後一時十二分。


静まり返ったワンルームの部屋。

規則正しくハミングし続ける冷蔵庫の低い駆動音。

そして、遠くの幹線道路を滑っていく、

休日独特のどこかのんびりとした車のロードノイズ。


すべてが、いつも通りの静寂のグラデーション。


――そして。


「……にゃー」


ユキは遮光カーテンの向こうを見つめたまま、動きを止めた。

まだ半分ほど眠気に囚われていた脳髄が、

数秒のタイムラグを経て、その微かな高音の意味を理解する。


……そうだった。


子猫だ。


あの激しい雨の夜、アパートの暗い駐車場で震えていたところを保護した、

あの小さな命。


今は、急ごしらえの環境ということもあり、

隣の老人の部屋で一時的に預かってもらっているのだった。


ユキはのそりと身体を起こし、

大きな欠伸を一つ噛み殺した。


帽子のない頭の上で、

白い狐の耳が寝起きの心地よい硬さを伴ってぴくりと動く。


相変わらず、目覚めの夢見はあまり良くなかった。

決して、飛び起きるような悪夢というわけではない。


ただ、もう引き出しの奥にしまい込んだはずの、

昔の記憶の断片を執拗にループで見せられることが多いのだ。


獣人の子供だった頃の、張り詰めた空気。

人間の学校。

すれ違う人々が、自分の耳に向けてくる一瞬の、

けれど鋭利な視線の刃。


自分という存在が「普通」ではないのだという、

あの底冷えするような疎外感。


自分ではすっかり忘れたつもりでいても、魂の最も深い地層には、

その傷跡が消えることなく今も生々しく残っているらしい。


ユキは洗面台へ向かい、蛇口を強めにひねって冷たい水を両手ですくい上げた。

バシャバシャと顔を洗う。


氷のように冷徹な刺激が、肌を通して脳の芯を心地よく叩いた。


タオルで顔を拭い、ふと鏡を見つめる。

ピンと立った二つの白い耳。


銀色に近い、色素の薄い柔らかな髪。

そして、まだ眠気の残るいささか不機嫌そうな切れ長の瞳。

鏡に映る自分の造作は、子供の頃から何一つ変わっていない。


だが、その内側にある感情だけは、ほんの少しずつ変化していることに気付く。

以前ほど、鏡の中の「自分の耳」を嫌悪の目で見つめることがなくなっているのだ。


理由は、自分でもはっきりとは分からなかった。

けれどきっと、この慣れない街へ流れてきてから出会った、ほんの数人の人間たちのおかげなのだろう。

深夜のコンビニの、あの不器用で大らかな店長。

時折レジにやってくる、奇妙なほど自然体な常連客たち。


そして――何より、奥の部屋に住むあの偏屈な老人。


世界から完全に、熱烈に受け入れられているわけでは決してない。

それでも、この騒がしい世界の片隅に「自分がここにいても良いのだ」と思える、

ほんのささやかな免罪符のような瞬間が、確実に増えていた。


ユキはいつもの私服に着替え、自分の部屋のドアを開けた。

目的地は、考えるまでもなかった。

廊下を10歩ほど進んだ先にある、一番奥の部屋。老人の家だ。


鉄製の古びた扉を、軽く三回、ノックする。

数秒の静寂の後、ガチャリと鍵が開く音がして、扉が内側へと引かれた。


「……やっと起きたか」


出迎えた老人。

その声は相変わらずぶっきらぼうで、無愛想そのものだった。


だが、ユキの過敏な耳と瞳は、彼の表情が以前よりもほんの僅かに、

解けかけた氷のように柔らかくなっていることを見逃さなかった。


かつての警戒心かたまりだった自分なら、

この微細な変化には決して気付けなかったかもしれない。


「こんにちは」


「昼はとうに過ぎとるぞ」


「夜勤明けなので、私にとってはこれが朝なんです」


「……フン、それもそうか」


そんな短い、けれどどこか息の合ったやり取り。

すると、老人の背後、薄暗い部屋の奥から、それを遮るようにして鋭い声が響いた。


「にゃーお!」


お腹の底から絞り出したような、驚くほど元気な高音。

ユキは、その声の張りに、思わずマスクの裏側で小さく吹き出してしまった。


部屋の中へ一歩足を踏み入れると、その瞬間に、

灰色の小さな影が猛烈な勢いで畳の上を滑ってきた。

いや、滑ってきたというよりは、あまりの推進力に身体が追いつかず、

文字通り転がるようにして走ってきたのだ。


まだ片手に乗るほど身体は小さいくせに、

その突進の勢いだけは一人前の猛獣さながらだった。


子猫はユキの足元へ見事に衝突すると、

そのままユキの後ろで揺れる白い尻尾の毛先へ飛び付こうと、小さな前足を必死に伸ばした。


だが当然のように目測を誤り、畳の上をごろりと無様に一回転する。

それでも全くへっちゃらという顔で、すぐに四本足で立ち上がると、

再びフリフリと揺れるユキの尻尾に向かって再挑戦の体制を整えていた。


「こら、危ないって」


ユキは苦笑しながら屈み込み、その小さな胴体を両手でそっと抱え上げた。

子猫は腕の中で「みゃー」と不満そうに声を漏らす。


どうやら、もっとその面白い玩具(尻尾)で遊ばせろ、と抗議しているらしい。


本当に元気になった。

あの雨の夜、泥と水に塗れて、今にも消え入りそうに弱り果てていた姿が、

まるで遠い幻だったかのように別猫のようだ。


あの時は黄色い瞳にも全く光がなく、

ただ世界に怯えて小さく震えるだけだった。


だが、今は違う。


老人が丁寧に拭いてくれたのだろう、

灰色と白の斑の毛並みはふんわりと柔らかく輝きを取り戻し、

瞳には爛々とした強い光が宿っている。


たくさん食べて、たくさん動いて、この世界を全力で「生きよう」としている。

そんな無垢で、圧倒的な力強さが、その小さな掌の温もりからダイレクトに伝わってきた。


老人は、いつものパイプ椅子へと深く腰掛けた。


「……ずいぶんと、あんたに慣れたもんだな」


「ですね。私が保護したってことを、どこかで覚えているんでしょうか」


「さあな。だが、最初は酷いもんだったぞ。私が近づくだけでシャーシャーと威嚇して、

半日以上、押し入れの奥の暗がりに引きこもって出てこなかった」


ユキは少しだけ驚いて、腕の中の子猫を見つめた。

あの弱々しかった子が、この偏屈な老人に牙を向けていたのかと思うと、どこか可笑しい。


老人は引き出しから煙草を取り出そうとして思い留まり、

代わりに小さく溜息を吐きながら続けた。


「それが、昨日あたりから急に、タガが外れたように部屋中を暴れ回り始めてな」


「暴れ始めた?」


「ああ。夜中の三時に、あそこの本棚のてっぺんまで登ろうと無茶をして、

案の定、途中で足を踏み外してゴミ箱の上に真っ逆さまだ。

ガシャーンと大きな音がして、心臓が止まるかと思ったぞ」


ユキは今度こそ、声を立てて爆笑してしまった。


あまりにも鮮明にその光景が脳裏に浮かんだからだ。

当の子猫はといえば、ユキの腕の中で「何か面白い話でもしてるの?」とでも言いたげな、

完璧に無罪放免な顔をしてのんきに鳴いている。


本人は大真面目に、この古い四畳半の世界を大冒険しているつもりなのだろう。


老人は「やれやれ」と肩をすくめてみせる。

だが、彼の身体から漂ってくる空気の匂いは、驚くほど優しく、穏やかだった。

言葉とは裏腹に、子猫の破天荒な振る舞いを、怒るどころかむしろ心の底から楽しんでいる


――そんな温かい気配が、部屋の隅々にまで満ちていた。


心なしか、この部屋の空気そのものが、

以前アルバムを見せてもらった時よりも一段と明るく変化している気がした。


かつては、時計の秒針の音しか聞こえなかった静寂の檻。

そこに、小さな足音がトトトと畳を叩く音、生意気な鳴き声、物が不意に落ちる騒がしい音


――そうした、生々しい「生活の雑音」が確実に増えている。


それは、一人で静かに余生を過ごしたい人間にとっては、

確かに「面倒」で「厄介」なノイズかもしれない。


だが同時に、どうしようもないほど、

冷え切った心を温めてくれる劇薬でもあった。


老人自身も、言葉には出さずとも気付いているはずだ。

自分一人きりだった、時間が停止していたはずのこの部屋が、

この小さな侵入者によって、再びゆっくりと鼓動を始め、変わり始めていることを。


ユキは畳の上に腰を下ろし、子猫を自分の膝の上へとそっと乗せてやった。

すると子猫は、まるでそこが最初から自分の定位置であったかのように自然に身体を丸め、

ほんの数秒後には、喉の奥を「るるるる……」と心地よさそうに鳴らし始めた。


(あんなに警戒心の強い子だったのに、どこへ行っちゃったんだろうな……)


ユキは苦笑しながら、その背中を指先で優しく撫でさする。

絹のように柔らかい毛並み。確かな熱量を持った温かい身体。

ドクドクと健気に脈打つ、小さな小さな生きている証。


そんな、この世界においては至極当たり前のはずのことが、

今のユキにとっては、奇跡のようになぜか酷く不思議なことに感じられた。


部屋を、穏やかな昼下がりの静寂が満たしていく。

その時、老人が引き出しの整理をしていた手をふと止め、ぽつりと呟いた。


「……名前」


ユキは、撫でていた手を止めて顔を上げた。


「あ」


そうだ。

まだ、決まっていなかった。


あの雨の夜に保護してから数日が経過しているというのに、

二人はこの小さな命のことを、ずっと便宜上「子猫」としか呼んでいなかった。


だが、これから本格的にこの街で生きていく以上、

いつまでもそんな一般名詞で呼び続けるわけにはいかない。


この子だけの、特別な「名前」が必要だ。


老人も腕を組み、深く同意するように頷いた。

「さすがに、いつまでも『お前』や『猫』では締まらんからな。何か、良い呼び名が必要だ」


ユキは改めて、自分の膝の上で無防備に丸くなっている子猫を観察した。

灰色と白のぶち。

無鉄砲で、元気。

好奇心が旺盛すぎて、ちょっとだけ間抜け。

そして、驚くほどの人懐っこさ。


脳内で、色々な単語や響きを思い浮かべてみる。

けれど、どれもしっくりとこない。

名前というものは、本当に難しい。

適当な記号や、その場限りの思いつきで付けたくはなかった。


それは、その存在がこれからこの世界で生きていくための、

たった一つの大切な衣服のようなものだからだ。


老人も、彼なりに真剣に考えているらしく、

眉間に深い皺を刻んで腕を組んだまま黙り込んでしまった。


数分の、静かな沈黙。

やがて、老人がふと思いついたように、ポンと手を叩いた。


「……『シロ』というのはどうだ。シンプルで呼びやすい」


ユキは即座に、冷ややかな視線と共に首を横に振った。


「じいさん、この子の身体、半分以上が灰色です」


「……そうだったな」


「それに、いくら何でも安直すぎます。ひねりがなさすぎる」


老人は「フン、手厳しいな」と、少しだけ不満そうに口を尖らせた。

今度は、ユキが少しだけ視線を泳がせ、真面目な顔をして口を開く。


「じゃあ……『グレー』とかは?」


今度は老人が、即座に呆れたように首を横へと振ってみせた。


「あんた、人のことを安直と言っておきながら、それはそのまますぎるだろう」


「……そうですね。英語にしただけでした」


どちらからともなく、小さく吹き出すような笑いが漏れた。

二人の大人がそんな風に頭を悩ませていることなど、当の子猫は一顧だにせず、

ユキの膝の上でこれ以上ないほど大きな欠伸を一つして、再び眠りの体勢に入っている。


名前は、まだ決まらない。


けれど、ユキの心の中には、不思議と焦りのような感情は一切なかった。

むしろ、こうして名前が決まらないままの、曖昧な時間というのも悪くないな、とさえ思い始めていた。


それは、今この瞬間にしか存在しない、

特別な猶予期間のようだったからだ。


まだ、何者でもない時間。


誰の所有物でもなく、どんな役割も与えられていない、

ただの「小さな命」そのものでしかない時間。


人間社会のあらゆるレッテルや枠組みに当てはめられる前の、

その無垢な空白の時間が、今のユキにはたまらなく愛おしく、

そして大切に守るべきもののように思えたのだ。


四角い窓の外では、五月最後の風が優しく吹き抜け、

街路樹の葉をサラサラと心地よい音を立てて揺らしている。


初夏の気配を孕んだ、穏やかで、静かな昼下がり。

陽だまりの残る老人の部屋。

ユキの膝の上で、静かに寝息を立てる小さな命。


――そして、この時のユキは、まだ知る由もなかった。


この何気ない、世界の片隅に取り残されたような平穏な時間が。

これから先の長い人生の中で、自分が壁にぶつかり、孤独に凍えそうになるたびに、

何度も、何度も心の奥底で思い返しては自らを救うことになる、


生涯で最も大切な「思い出の原風景」になっていくのだということを。


五月最後の風は、彼らの不器用な境界線をそっと溶かすように、

開け放たれた窓から、どこか遠い夏の匂いを運んできていた。

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