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ユキと、見えない境界線  作者: しんぜつ
1章 私はきっと
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15/24

迷い猫の夜

五月の終わりが、すぐそこまで近付いていた。


昼間の街は少しずつ夏特有の、あのじっとりとした熱気を孕み始めているというのに、

深夜になるとまだ、どこか冷ややかで清烈な春の名残が色濃く残っている。


コンビニの自動ドアが開くたび、夜の静寂と共に滑り込ん でくる風は僅かに冷たく、

その心地よい皮膚への刺激が、夜勤中の澱んだ眠気を少しだけ遠ざけてくれるのだった。


午前二時四十分。

広い店内には、客の姿が一人もなかった。


規則正しくハミングし続ける冷蔵棚のモーター音。

天井のスピーカーから静かに流れる、深夜用の控えめなBGM。

電子レンジの低く短い待機音。

そして、レジのすぐ奥にあるバックヤードから漏れ聞こえてくる換気扇の回る音。


普通の人間なら気にも留めずに聞き流してしまうような微細な生活の雑音たちが、

過敏な聴覚を持つユキの耳には、驚くほど生々しくはっきりと届いていた。


耳が痛くなるほどの、静かな夜。

だからこそ、いつもより少しだけ気が緩んでいたのかもしれない。


ユキは奥の飲料棚の補充作業を綺麗に終えると、

誰もいないフロアの真ん中で小さく背伸びをした。


帽子の下で、白い狐の耳が寝返りを打つように僅かに動く。

一日中立ちっぱなしだったせいか、肩がひどく凝っていた。


(今日は本当に客が少ないな……平和な夜だ)

心の中でそう呟き、レジカウンターへと戻ろうとした、


その時だった。


自動ドアの向こう、夜の街の底から、

極めて微かな音が鼓膜を叩いた。


「……?」


ユキの耳が、反射的にぴくりと鋭く跳ね上がる。


小さい。


あまりにも、小さくて頼りない音。

普通の人間なら絶対に聞き取れないであろう、

風のざわめきにも簡単に紛れてしまいそうなほど、細く、弱い音。


だが、獣人の鋭敏な聴覚は、それを確かに捉えていた。


――何かの、生き物の鳴き声だ。


ユキは動きを止め、入口のガラス扉の向こうを見つめた。

街灯の冷たい光に照らされた、夜明け前の歩道。


そこには誰もいない。


しかし数秒後、再びその声が聞こえた。

か細く、今にも消え入りそうな、切迫した声。


猫だ。

それも、かなり小さな。


ユキの胸に、小さな迷いが生じる。

今はまだ、勤務中の身だ。

いくら客がいないからといって、勝手に持ち場を離れて外へ出るわけにはいかない。


だが、どうしても気になった。


妙なほどに、その声が胸の奥をざわつかせるのだ。

その微かな響きの中には、純粋な空腹と、世界に対する底知れない恐怖が、

濁流のように混ざり合っているのが痛いほど伝わってきたから。


ユキは素早くレジ周辺とバックヤードを確認した。

客の気配はない。

店長もいない。


この時間の深夜勤務は、完全に自分一人のワンマン体制だった。


ほんの数十秒、外の様子を見るだけなら、大きな問題にはならないはずだ。

そう自分に言い訳をするように判断すると、ユキは自動ドアを押し開けて、夜の帳へと足を踏み出した。


生ぬるい夜風が、前髪を優しく撫でていく。

五月の終わりの空気は、驚くほど湿気を帯びていた。


ふと見上げた夜空には、月を覆い隠すようにして重たい黒雲が低く広がっている。

今にも、ひと雨来そうな気配だった。


再び、短い鳴き声。


今度は、さっきよりもずっと近くから聞こえた。

コンビニの真横にある、暗いアスファルトの駐車場だ。

ユキは足音を殺しながら、ゆっくりと歩みを進めた。


耳が、音の発生源を正確にトレースしていく。


一番奥に停められている、古い軽自動車の影。

――そこに、いた。


小さな猫だった。

灰色と白の斑模様の毛並み。


まだ子猫と言ってもいいくらいに、身体の線が細く、痩せ細っている。

近づいてきたユキの気配を察知した瞬間、その猫は全身の毛を逆立て、

黄色い瞳に強烈な警戒心と敵意を漲らせてユキを睨みつけてきた。


だが、何よりユキの鼻腔を突いたのは、その子が放つ生々しい「匂い」だった。

極限の空腹。

すり減った疲労。

逃げ場のない恐怖。


そして――どうしようもないほどの、孤独の匂い。


ユキはその場にゆっくりとしゃがみ込み、視線を低くした。


「……大丈夫?」


声をかけた瞬間、子猫はビクッと身体を震わせ、すぐにでも奥へと逃げようとした。

だが、もうまともに走る体力すら残っていないらしい。


ほんの数歩、弱々しく後ずさりしただけで、

荒い息を吐きながら立ち止まってしまう。


ユキはそれ以上、無理に距離を詰めようとはしなかった。

同じ獣のルーツを持つ身だからこそ、痛いほどよく分かる。


心に深い傷を負い、怯えきっている生き物に対して、

不用意に近づくことはただの暴力でしかないのだと。


子猫は車の下の暗がりから、じっとユキを見つめ返していた。


細く震える小さな四肢。

その哀れな姿を見つめているうちに、ユキの胸の奥が、

締め付けられるようにズキリと痛んだ。


……まるで、昔の自分みたいだった。


この世界に自分の居場所なんてどこにもなくて、すれ違うすべての人間に牙を剥き、

ただ周囲を病的に警戒することしかできなかった、あの頃の、孤独だった自分。


その時だった。


ゴロゴロと、遠くの空で低い雷鳴が響いた。

人間なら聞き逃すほどの遠雷。


しかし、ユキの白い耳は、その不穏な大気の震えをはっきりとキャッチしていた。

見上げる空の雲は、いよいよ黒さを増している。


確実に、大雨が来る。


子猫もその不穏な空気に気付いたのだろう、

小さな耳をペタッと後ろに伏せ、さらに身体を縮こまらせた。


ユキは激しく葛藤した。

自分は今、仕事中だ。

このままこの子を店内に連れて行くわけにはいかないし、

ましてや自宅はペット不可のアパートだ。


だが、このまま見捨てることなんて、到底できそうになかった。


結局、ユキは一度急ぎ足で店内に戻り、

バックヤードから小さな試食用のお皿を取ってきた。


そして、猫用フードの代わりにはならないかもしれないが、

廃棄予定のおにぎりから、ツナの具の部分だけを少しだけ丁寧に取り分けて皿に乗せ、

車の下へとそっと滑り込ませた。


本当は、店のルールとしても、野生動物への対応としても良くないことくらい分かっている。

けれど、何もしないでいるよりは、遥かにマシだった。


子猫は最初、差し出された皿を激しく警戒していたが、

やがて漂ってきた匂いに抗えなくなったらしい。

ごくりと喉を鳴らすと、泥に汚れた足で慎重に近付き、

狂ったように夢中でツナを食べ始めのだった。


その必死に食べる姿を見て、

ユキがほんの少しだけ胸を撫で下ろした、まさにその瞬間。

ポツリ、とユキの頬に冷たいものが当たった。


一滴、二滴。

そして息つく暇もなく、その数は爆発的に増えていく。


「……あ」


最悪のタイミングで、雨が本格的に降り始めてしまった。

子猫がびくりと短い身体を硬直させる。


ユキが空を見上げると、夜空の黒雲が一気にその決壊を証明するように、

大粒の雨を地上へと落とし始めていた。


この勢いなら、数分と経たずに激しい本降りになる。

そうなれば、この吹きさらしの車の下など何の役にも立たない。

この小さな身体は、一瞬で冷たい雨に濡れそぞり、体力を奪い尽くされてしまうだろう。


ユキの頭の中で、様々な現実的な問題が目まぐるしく過った。

勤務中の責任。

アパートの厳しい規則。

自分の生活の手一杯さ。


それでも。


足元の子猫を見る。

あまりにも小さく、ただ凍えて震えている。


そして何より――その黄色い瞳は、まるで世界中の冷たさに抗うように、

必死でユキに助けを求めるような、強烈な光を放っていた。


その眼差しが、どうしてもユキの網膜から離れなかったのだ。

ユキは小さく、諦めたような息を吐き出した。


「……本当に、困ったな」


雨は容赦なくその勢いを増していく。

街灯の鈍い光が、無数に降り注ぐ雨粒を白く、残酷に照らし出していた。

夜の街は急速にその体温を奪われ、濡れそぞっていく。


子猫はさらに車の奥深くへと潜り込もうとしたが、あいにく風向きが悪く、

横殴りの雨が容赦なくその小さな背中を濡らし始めていた。

毛並みが水分を吸って、どんどん惨めに萎んでいく。


ユキの後ろで、細い尾が不安げに大きく揺れた。

どうしても、見捨てることができなかった。


昔から自分は、こういう妙なところで不器用なのだ。

自分の人生を維持するだけで精一杯のはずなのに、誰かが目の前で傷ついていると、

どうしても他人事とは思えなくなってしまう。


その時だった。

激しい雨音を突き破って、背後から聞き馴染みのある、ぶっきらぼうな声が届いた。


「……おい。そんなところで、一体何をやっている」


ユキが驚いて振り返ると、

そこには見慣れたアパートの老人が立っていた。


いつもの灰色のカーディガンを羽織り、片手には大きなビニール傘。

相変わらずの、感情の読めない不機嫌そうな無表情。


ユキは思わず目を丸くした。


「じいさん……こんな時間に、どうして」


「散歩だ」


老人は、平然と言い放った。

午前三時前、しかも今まさに土砂降りになろうかというこの

悪天候の中での「散歩」など、常軌を逸している。


だが、この偏屈な老人ならやりかねない、とも妙に納得してしまった。


老人は、ユキの足元で濡れている車の下の子猫を見やり、

それから激しく地面を叩く雨に視線を移した。


それだけで、状況のすべてを察したらしい。


「……捨て猫か」


「たぶん。さっきから、ここでずっと震えていて」


老人は数秒間、黙って雨の音を聞いていた。

それから、ふいにつまらなそうに鼻を鳴らすと、信じられない言葉を口にした。


「……その不届き者を、連れて来い」


「え?」


ユキは我が耳を疑った。


「えって何だ。うちの部屋なら、大家も滅多に文句は言ってこん。私が長年住んどるからな」


雨音が、さらに激しさを増して世界を白く塗り潰していく。

老人は淡々と続けた。


「昔は、犬も飼っていた。道具なら探せばいくらでもある」


「でも、じいさんの部屋に迷惑が……」


「なら、このままこの雨の中に放っておくのか。あんたのその白い耳は、ただの飾りか」


その真っ直ぐな言葉の刃に、ユキはそれ以上、

何も言い返せなくなってしまった。


再び、子猫に視線を落とす。


冷たい雨に打たれ、今にも消え入りそうな小さな命。

激しく震えながらも、まだ生きようと必死にこちらを見つめている。


老人は、小さく深く溜息を吐き出した。


「……全く、優しい奴というのは、いつの時代も損をするようにできているな」


そう毒づきながらも、老人は自分が差していた傘の傾きを、

さりげなく子猫がいる車の下の側へと大きく傾けてやった。


その言葉とは裏腹な、あまりにも不器用で温かい仕草に、

ユキはマスクの裏側で、不覚にも少しだけ笑ってしまった。

優しいのは、損な性分なのは――きっと、目の前の老人も全く同じだった。


雨はさらに暴虐に強まり、夜の街を激しく叩きつける。

水溜まりに反射する街灯の光が、滲んで大きな光の輪を作っていた。


ユキは、深く腹を括った。

ゆっくりと、刺激しないように車の下へと手を伸ばす。


「……大丈夫だよ」


もちろん、人間の、ましてや獣人の言葉なんて通じるはずはなかった。

それでも、どうしても言葉にして伝えたかった。


子猫は一瞬、ウウと喉を鳴らして身構えた。

だが、もう逃げるための力は一滴も残っていなかったのだろう。


限界だった。


ユキは、その濡れた小さな身体を、

壊れ物を扱うようにそっと両手で抱え上げた。


腕の中に収まった命は、驚くほどに軽かった。

悲しいくらいに骨ばっていて、まるで一掴みの綿毛のようだった。

子猫はユキの胸の中で、微かに「みゃあ……」と抗議の声を漏らしながらも、

その確かな体温を求めるように、小さく震え続けている。


ユキはその愛おしい温もりを胸にしっかりと抱きかかえながら、

激しく降りしきる五月の雨の夜空を見上げた。


――この時のユキは、まだ知る由もなかった。

この激しい雨の夜の、あまりにも小さくて不器用な出会いが。


これから先、自分と老人の、そして何よりこの名もなき子猫の日常を、

どれほど温かく、鮮やかに変えていくことになるのかを。


土砂降りの雨の中、三人の新しい時間は、確かにその産声を上げようとしていた。



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