婚約者として
王宮での生活は、想像以上に静かで、そして冷たかった。
長い回廊。磨き上げられた大理石の床。
壁に埋め込まれた魔力灯が、青白い光を放っている。
その光は、強い魔力を持つ者の前ではわずかに輝きを増す。
私の前では、何も変わらない。
「ごきげんよう、エリシア様」
淑女らしい礼。
けれど視線は、私の手元へ落ちる。
魔力測定用の小さな指輪。
本来ならば淡い光を宿すそれは、今日も透明のままだ。
「王太子妃殿下ともあろうお方が……」
「お可哀想に」
同情めいた囁き。
悪意よりも、厄介だ。
私は微笑む。
「お気遣い、ありがとうございます」
それ以上、何も言わない。
言い返せば“魔力もないのに生意気”と言われるだけ。
王宮は、魔力がすべてだ。
王太子妃は本来、王の隣で結界を支える存在。
けれど私は、その役目を果たせない。
だからこそ、側妃の話が水面下で囁かれているのも知っている。
それでも。
「エリシア」
穏やかな声が、背後から響いた。
振り向けば、アルベルト殿下が立っている。
翡翠の瞳が、わずかに周囲を見渡す。
それだけで、先ほどまでの令嬢たちは口を閉ざした。
「疲れていないかい」
「いいえ、殿下」
「嘘だ」
優しく、けれどはっきりと。
「君は、無理をするときほど綺麗に笑う」
不意を突かれ、言葉を失う。
殿下は、そっと私の頬に触れた。
人前だというのに、その仕草は自然だった。
「私は、君を選んだ」
静かな宣言。
「君が私の婚約者だ。それ以外の声は、私が退ける」
胸の奥が、温かくなる。
愛ではないと思っていた。
けれど。
この人は、私を守ろうとしている。
そのときだった。
「王太子殿下」
低く澄んだ声が、空気を切る。
振り向けば、近衛騎士の正装に身を包んだ青年が跪いていた。
濃紺の外套。胸元の紋章。帯びた剣。
レオン・クラウゼル。
「本日付で、正式に近衛騎士団へ配属となりました。今後、殿下の警護を務めます」
凛とした声。
感情を削ぎ落とした、完璧な騎士の姿。
アルベルト殿下は微笑む。
「期待しているよ、レオン」
「光栄に存じます」
そのやり取りを、私は静かに見つめる。
幼い頃、庭園で剣を振っていた少年。
“守る”と誓った彼は。
今、王太子を守る立場にいる。
視線が、絡む。
一瞬だけ。
蒼灰色の瞳が、私を捉える。
そこには。
懐かしい熱と、押し殺した何かが揺れていた。
けれど次の瞬間には、消えている。
騎士としての無表情。
「では、参りましょうか」
殿下が私の手を取る。
歩き出す。
その後ろに、一定の距離を保ってレオンが続く。
規則正しい足音。
けれど。
その存在が、妙に近い。
廊下の角を曲がったとき、不意に殿下が立ち止まった。
「エリシア、少しだけ」
そう言って、私を窓辺へ導く。
外には、王都の景色が広がっていた。
「君は、ここにいるべき人だ」
「……魔力がなくても、ですか」
思わず漏れた本音。
殿下は微笑む。
「魔力は国を支える力だ。だが人を支えるのは、心だ」
その言葉に、目の奥が熱くなる。
私は、初めて思った。
この人の隣にいることは、苦痛だけではないのかもしれない、と。
その様子を、背後から見ている者がいる。
レオン。
拳を握りしめ、視線を伏せている。
忠誠を誓った主君と。
愛する人。
並んで立つ二人。
彼の胸の内を、私は知らない。
けれど。
すれ違いざま、小さく囁かれた。
「……お幸せそうで、何よりです」
形式ばった言葉。
けれど、その声音は。
ひどく、硬かった。
私は振り向く。
だが彼はもう、騎士の顔をしている。
完璧な近衛。
距離は、確かにできている。
それなのに。
胸の奥が、妙にざわついた。
王宮の魔力灯が、静かに揺れる。




