月無き夜に咲く白薔薇
ルクセリア王国に、静かな春が訪れていた。
王都アステリアの空は澄み渡り、白亜の王城を囲む庭園では薔薇が一斉に蕾をつけ始めている。
月の加護を持たぬ白薔薇――かつてそう呼ばれた少女の名に重なる花が、いまは祝福の象徴として城を彩っていた。
エリシア・ルクセリアは、王妃ではない。
それでも、王城の回廊を歩く彼女に向けられる視線は、敬意と温かさに満ちていた。
彼女は今――
王宮直属騎士団長、レオン・ヴァルディエの妻である。
「……お疲れのようですね」
王城の一角、陽光の差し込む回廊で、レオンが足を止めた。
いつもの無表情の仮面はもうない。彼の視線は、ただ一人の女性だけを柔らかく映している。
「少しだけ。今日は地方貴族との会談が長引いてしまって」
エリシアは微笑んだ。
彼女は王妃ではない。
だが、王太子アルベルトの退位後、ルクセリアは大きく改革が進み、魔力至上主義の制度は緩やかに見直されつつあった。
その中心にいたのが――エリシアだった。
魔力を持たぬからこそ見える視点。
魔力を持たぬからこそ寄り添える人々。
彼女は宮廷内の福祉制度の整備、地方孤児院の支援、非魔力保持者の教育制度の確立に尽力している。
「無理はしないでくださいと何度も言っています」
レオンが低く言う。
「あなたが倒れたら、俺は――」
言葉を飲み込む彼の手を、エリシアはそっと握った。
「あなたが支えてくれるでしょう?」
一瞬の沈黙。
そして、レオンは小さく息を吐いた。
「……当然です」
それは誓いではない。
もう既に、何度も誓ったのだから。
アルベルトは現在、辺境地の統治を任されている。
王位継承権は弟に譲られたが、彼は誇り高くその任を受け入れた。
ルクセリアの未来を守るために。
かつてエリシアを愛し、手放した男。
だが彼とレオンの間には、もはや剣も敵意もない。
あるのは――それぞれの選択を尊重する静かな理解だけだ。
王城の庭園。
白薔薇が満開を迎えるその場所で、エリシアは立ち止まった。
「ねえ、レオン」
「なんだ」
「もし、あのとき婚約がなかったら……どうしていたと思う?」
少し意地悪な問い。
レオンは即答した。
「連れ出していました」
エリシアは目を瞬かせる。
「冗談よ」?」
「いえ」
真顔だった。
「あなたが誰のものになろうと関係ない。俺は最初から決めていました」
「……独占欲が強いのね」
「今さら?」
そう言って、彼はエリシアの腰を引き寄せる。
王城の庭園である。
侍女も庭師もいる。
それでも、彼は気にしない。
「レオン、ここは王城よ」
「だから何ですか」
低く囁く。
「もう二度と、あなたを手放すつもりはない」
その声は、騎士団長としてではない。
幼い頃から彼女だけを想い続けた、一人の男の声だった。
エリシアは小さく笑い、彼の胸に額を預ける。
「……私もよ」
月を持たぬ白薔薇と呼ばれた少女は、
今や誰よりも強く、誰よりも愛されている。
ルクセリアの空に月は昇らない夜がある。
けれど。
月がなくとも、
白薔薇は咲く。
愛する人の腕の中で。




