4.喪失
どう切り抜けたのかは覚えていない。がむしゃらだった。生きろと主命をいただいた以上は意地でも、這いつくばってでも、手足がもげようとも生きて殿下の元へ戻らねばならない。ただその一心で、オスヴァルトは剣を振るった。
たぶん、オスヴァルトは幸運だった。オスヴァルトの方へ来た奴らはオスヴァルトたちを殺したくない者たちが多かったのだろう。だから適当に怪我をしたり剣を落としたりして離脱してくれた者も少なくなかった。そのお陰でオスヴァルトは、ぼろぼろでも血まみれでも生き残ったのだと思う。
血まみれで、痛みもよく分からなくなって、それでも森を必死で歩いた。黒狼の騎士や蛮族どころかそれこそ森の獣に出会っただけでも息絶えそうだったが、オスヴァルトは何とか森を抜けきった。
そこで見た旗の色は……白だった。
「………っ!!オスヴァルト!!!!」
地面にうずくまっていた白い影が森から出てきた気配に気づいて顔をこちらに向けた。驚いたように目を見開いて駆けつけてきた、美しい、けれど血の気の無い真白の顔。
「アナスタシア殿下………」
ふらりと、オスヴァルトの体が傾いだのをアナスタシアは華奢な体で受け止めた。
「いけません、殿下。汚れます……」
血まみれの自分に触れば真っ白なアナスタシアの戦装束が汚れてしまう。そう、思ってオスヴァルトが何とか体を起こそうとすれば、アナスタシアの鎧がすでに赤を帯びていることに気づいた。
「殿下…お怪我を……?」
霞む目でアナスタシアの顔を覗き込めば、誰よりも美しいとオスヴァルトが思うその薔薇色の頬が今は青ざめ、血と涙に濡れていた。
「いや…違う……違うんだオスヴァルト………」
ぽろりと、またアナスタシアの美しい空色の瞳から涙がこぼれた。
「違うんだ、オスヴァルト……お前が……お前は生きていてくれて…良かった………っ」
ほろり、ほろりと涙が幾筋も零れ落ちていく。なぜこれほどまでにいつも気丈なアナスタシアは泣くのだろう。そういえば、なぜアナスタシアは地面にうずくまっていたのだろう。
オスヴァルトの背中を嫌な汗が流れていく。無数の傷を負ったはずの体の痛みはすでに感じないが、早鐘を打ち始めた心の蔵が酷く痛む。
「お前、は………?」
血まみれのオスヴァルトの胸に顔を埋めて泣き崩れたアナスタシアを抱き留め、オスヴァルトはその向こうをゆっくりと見た。いくつもの蛮族の鎧を着た体が周囲に転がっている。ここでも激しい戦闘があったのだろう。
けれどふたつ。蛮族でも黒狼騎士団の黒の鎧でもない影がふたつ、アナスタシアがうずくまっていた辺りに並んで横たわっている。服の裾も鎧も綺麗に整えられているのに、ひとつには、なぜか首が無い。
否。首が繋がっていたはずの場所に、切り離された首が置かれていた。
「あ……まさ、か…………」
「すまな、い……っ!私、はっ、間に合わなかっ、た……っ!」
「あ…………ハインツ…?殿、下…………?」
泣きじゃくるアナスタシアを胸に抱えたままオスヴァルトは膝から崩れ落ちた。アナスタシアも共に膝をつき、そのままオスヴァルトにしがみついた。
「ごめん、オスヴァルト。ごめん、フリッツ……ハインリヒ……!」
天高く、忌々しいほどに明るく輝く月の光に白く照らされる小さな遺体は綺麗なままだ。ただ、左胸に大きな血のしみがある。首の落ちた全身血まみれの体はオスヴァルトよりも大きくて厚みのある、つい数刻前はオスヴァルトの背中をばしばしと叩いて笑っていた親友、その人だった。
「殿下……アナスタシア殿下……違う、あなたのせいじゃない………あなたの、せいじゃ………」
「オ、オスヴァルト?おい!しっかりしろ!オスヴァルト!!」
意識が遠のいていく。『生きろ』と言った主君の声が頭の中でこだまする。そこでオスヴァルトは初めて気がついた。自分は主君と親友に、『生きてくれ』と言わなかったことを。




