ハゲ
源治は寡黙な男だった。その一流の腕で家々を建て、人々の暮らしを支えてきた。時には土埃にまみれ、雨に濡れ、己の手で作り上げた家々が、町に根を下ろしていくのを見届けてきた。
そんな彼は齢七十を迎えたとき、引退を決めた。
「源治さん、これからは何を?」
「まぁ暇つぶしに、困ってる奴らを助けるさ」
町の者に訊ねられた際、気まぐれに出た言葉だった。
だが、その言葉が契機となったかのように源治の元には依頼が殺到した。雨樋の修理、瓦の調整、軒先の補強。町の隅々まで知り尽くした男にとって、その作業は日課のように自然なものだった。
「来月まで予約で埋まってるんですね」
「ああ、困ってる人が多くてな。最初は気まぐれで始めただけだったんだけど、いつの間にかこうなっちまったよ」
汗にまみれた背中が語るのは、ただの作業の疲労ではなかった。一見いつも通りに見える彼の奥底に、埋めようのない空洞が見え隠れしていたのだ。
源治には家族がいなかった。三年前に妻を亡くし、子どももいない。
老いの足音が背後から忍び寄る中、彼は埋め合わせるように働き続けた。
それから数ヶ月後のこと。
「今日もありがとう源治さん。次にお願いしたいのが⋯⋯」
「わりぃ⋯⋯俺ァもう引退だ」
源治の腰は、とうとう悲鳴を上げた。医者に椎間板ヘルニアと診断されたのだ。手術を受ければ動けるかもしれないが、年齢的なリスクは大きいと言われた。
源治はひたすら頭を下げた。
「悪ぃみんな、俺ァもう動けねえんだ」
しかし、この町は冷たかった。
「うちの雨樋、まだ直ってないぞ」
「前に門の建て付けが悪いって言ってたろ、アレ頼んだまんまだぞ」
「予約してたのに」
「債務不履行だ」
「ハゲ」
「はげ」
町を歩く。
かつて自分が修繕した家の屋根を見上げるたび、胸の奥で何かが軋む。
風が吹き抜け、乾いた葉が転がる音だけが耳に残る。
彼らの感謝は、いつしか要求に変わっていた。
町の人々にとって源治の労働は、もはや当たり前のものになっていたのだ。
ある夕暮れ時、源治は古びた写真を手に取った。若かりし頃の自分と、亡き妻が並んで笑っている。
二人で建てた家の前で、手を繋いで。
「お前がいなくなってから、俺ァ何してたんだろうなぁ」
源治の小さな呟きが、壁のひび割れに吸い込まれるように消えていく。
重い腰を引きずりながら、自らの手を見つめた。
硬くなった掌の皺は、彼が捧げた無数の日々の刻印。だが、それらが何のためだったのか、今となってはもうわからなかった。
薄暗い町へ散歩に出る。
ふと、一羽のカラスが目に入った。
何かを数回つつくと、飛んだ。
源治はなんとなく目を離さずにいた。
やがて舞い降りたのは、源治が最後に修繕を依頼され、結局直せなかった門の上だった。
カラスは不吉な声で鳴き、黒い瞳で源治を見下ろした。
まるで、無償の奉仕に費やした日々の果てを見届ける者のように。
風が止み、日が暮れていく。
源治の手の中の写真だけが、かすかな光を放ち続けていた。