歯磨き後なのについ……
「はあ! さっぱりした! 風呂って良いね!」
「ね!」
この状態で僕が最も欲するのは、アイスである。
身体に良いかはともかく、風呂上がりに食べるアイスは、最高の食べ物のように思っている。
僕は冷凍庫からバニラのアイスを取り出して食べ、二口目を食べようとしたその時……。
「あ! 待って! C君風呂入る前に歯磨かなかった?」
「え? あ……あ! やっちゃったわ……もうまた磨かなきゃ……」
「何やってるのよ……」
「ごめんごめんついやっちゃった」
「兎に角このアイスは没収ね、私が食べる! 私は寝る直前に歯を磨く習慣なのでー」
「うう……」
この、歯を磨いた事を忘れてついジュースやお菓子等を口にしてしまう癖は、今に始まった事では無いのだが、流石に今の年でするのはあまりにも情けない。
なおさなければな……。
「また! またやった!」
「え? いや大丈……夫と言おうとしたけど思い出した磨いてた! ごめんなさいまたやりました」
「もう! 次やったら歯に悪い食べ物全部禁止にするよ!」
「すみませんもうやりませんから禁止はご勘弁」
またやってしまった、昨日やったばかりなのに、まだ物忘れが始まる年齢でも無いと思うのだが……。
今度は事前に確認をしよう、今回はまだ歯を磨いていないが、もし万が一これが記憶違いだったら、妻から禁止令が出てしまう、慎重にならねば。
「ねえ、今日はまだ僕歯磨いてないよね?」
「え? うん、磨いてないね、だから、大丈夫!」
「良かった禁止令回避」
これで大丈夫……。
「あ! ごめん! 思い出した! 今日風呂の前に歯磨いてたよC君!」
「……え? 嘘」
「嘘じゃない今思い出した! ごめーん! 本当に、本当にごめん! 今回は禁止令出さないからさ! 許して」
「禁止令出さないなら何だって良いや!」
「ありがとう!」
まさかのトラップだった、と言うかここんところ歯磨きの事に関してやたらと物忘れが酷い。
一体どう対処すれば……カメラ? カレンダー?
兎に角歯を磨いたとあからさまに分かる方法を一通り試してみた。
歯を磨いている所をスマートフォンで撮影してみたり、カレンダーに歯を磨いたと言うサインを付けてみたりしてみた。
しかし衝撃的な事に、全てが無意味だった。
まずスマートフォンでの撮影だが、撮影自体は成功していた。
しかしその撮影した映像を、自分で消去してしまっていたのである。
何故消したのか、それは僕でも分からない。
二口目のアイスを食べようとした瞬間、初めて自分で消去した事に気が付く。
カレンダーのサインに至っては、完全に忘れてしまう。
歯に悪いものを禁止しようとも思ったがそれも全く効かず、気が付いたら口にしている。
明らかに記憶力が低下している、しかしただの記憶力の低下ではない、でなければ、スマートフォンで撮影した映像を、自分の意思で消去したりなんかしない。
物忘れは日増しに酷くなり、寝不足、並びに虫歯を拗らせに拗らせ、日常生活に、多大なる影響を及ぼしてしまっている。
しかし何処の病院でも原因等は不明とされ、何も解決はしなかった。
今日、九本目の歯を失った。
やがてこのまま全ての歯を失う事になってしまうのであろうか。
確かに昔僕は歯磨きが大嫌いで、何時も母に叱られていた。
歯磨きをしないと、歯が痛くなって、それでも歯を磨かなければ、歯を失う……何度も聞かされて来て、今の僕がいると言うのに……。
インターホンが鳴り、画面を確認すると、黒い服をまとった男性が立っていた。
「誰です?」
「貴方にかかった……歯磨き嫌いの呪いを……解いて差し上げます」
歯磨き嫌いの呪い? まさか……。
「ちょっと待ってて下さい」
僕は直ぐにマンションを出て、外で男性と話をする事にした。
男性の正体こそ分からなかったが、間違いなく僕が歯磨きをした事を忘れてしまう事と、何か関係があるに違いない。
「歯磨き嫌いの呪いを解くって、一体どういう事です?」
「その言葉の通りです……私が……その呪いを解いて差し上げるのです」
「ってか……その歯磨き嫌いの呪いって一体何です?」
「それは……話すと長くなってしまいますので……解いた後にご説明致しましょう」
「待って下さい! 僕はまだ貴方を信用していません。解いた後に、高額の金銭か何かを要求したりするのではありませんか?」
「とんでもない……そんな事は致しません……ただ……」
「ただ?」
「呪いを解くには……一つ……約束をしていただきます」
「約束? 何です?」
「私がこの呪いを解いた後も……毎日……一日たりとも忘れる事無く歯を磨く事を……約束して下さい」
そう言うと、男性は胸ポケットから畳まれた紙を取り出し、それを広げて私に渡して来た。
その紙は、一日たりとも歯を磨く事を忘れないと言う約束を交わした証拠、言わば誓約書であった。
「何です……こんな事ですか? でしたら喜んで約束致しますよ」
「ありがとうございます……ではこの紙に……署名押印をお願い致します」
「分かりました、ちょっと待ってて下さい」
僕は一度部屋に戻り、ペンと印鑑を持って再び戻って来た。
「よろしければこちらの上で」
そう言うと男性は、手帳を取り出した。
この上で署名押印をしてくれと言う意味であろう。
「ありがとうございます」
僕は誓約書に署名押印をした。
「ではこれで……約束を交わしましたので……これより……歯磨き嫌いの呪いを解きます」
「お願いします」
「少々お待ち下さい、今から先生をお呼び致しますので」
「え……あ、貴方が呪いを解くわけではないのですか?」
「ええ……そうですよ? あ、もしもし」
「こちらです」
「え? は?」
暫くして、その先生が到着した。
その先生は、僕の妻だった。
「お待たせしました」
「Yちゃん! 何やってるのここで……ってか……え?」
何時も見慣れている妻とはまるで格好が違っていた。
まさか悪ふざけではなく、本当に妻が先生なのか?
「一体どう言う事……あ……あ! ああああ!」
全てを思い出した。
本当は僕には妻はいない。
母からも、歯医者からも叱られ、それでも歯を磨こうとはせず、歯を粗末にしていた。
その後僕は、この二人に拉致され、呪いをかけられ、あの生活が始まった。
不思議だ。
あれだけ僕は歯磨き嫌いだったのに、今はむしろ一日二回以上歯を磨かないと気が済まない。
歯を粗末にしていた自分が、恥ずかしい。
「それではこれより、呪いを解きま……」
「ちょっと待って下さい!」
「一体……どうしたのです? あ……歯の事でしたらね……呪いを解き終えた後……直ぐにまた生えて来るように致しますので……ご安心下さい」
「あ! そうなんですか! ありがとうございます! いやでも僕が言いたいのは……先生……あの……呪いを解き終えたら……結婚し……」
「お断りします」
「ですよね……すみません」